録画した土9「学校のカイダン」を先ほどまで見ていまして(日曜25時現在)、「広瀬すずが可愛かった」「神木隆之介が面白かった」という小学生もびっくりな小並感が飛び出してしまうドラマなんですが、このドラマの中に登場する「教師」もしくは「大人」の描き方に思うところがあったので、少しだけ。
生徒に「夢を諦めて現実見ろ」と教える金時教頭(学校のカイダン 第8話)
生徒に「夢を見ることの難しさや空しさ」を教えて現実を直視させるというのが、「学校のカイダン」第8話に出てくる「教師」あるいは「大人」の基本的なスタンス。代表的なのが生瀬勝久さんが演じる金時教頭だ。昔は「夢を見ることの大切さ」を教える熱血教師だったんだけどある事件をきっかけにして……って、まぁいいかその辺は。
で、広瀬すずさんを始めとする生徒たちの熱い思いによって、もう一度金時先生に「夢を追いかけることの大切さ」を教える熱意を思い出させる、というのが大まかなあらすじだった。
ぼくはこのドラマを奥さんと一緒に見てるんだけど、見終わって開口一番言ったのは「こんな先生いないよねー」ということ。ドラマ用にデフォルメされてるから、ここまであからさまに「現実を見るんだぁぁ!!」と熱いパッションを滾らせる先生はおらん、というのも確かにそうなんだけど、そもそも「夢は諦めて、現実を見るべき!」という無気力主義が基本スタンスの先生なんてそうそういないのではないか、というのが真山家の共通見解だった。
まぁぼくらが出会った(印象に残った)先生の中にたまたまそういう人がいなかったというだけの話かもしれないよね、ということでその日は終わったんだけど、実際どうなんだろう。このドラマのように「夢を見るな、現実を見ろ」というのが基本スタンスの先生ってどのくらいいるんだろうか。
個人的には、このドラマの「大人」の描き方はステレオタイプ――しかも「子供は大人のことをこう思ってるだろう」的なステレオタイプそのままという気がして、少し芸がないなぁとは思った。第8話の決着のつけ方は、ティーン向けドラマの落としどころとしては良いと思うんだけど、金時教頭を始めとする「大人」の描き方にはちょっと物足りなさがある。
娘に傷ついてほしくないから無難な道を歩んでほしいと願う母(残念な夫)
フジ水10の「残念な夫」では、ピアニストになりたい娘(生田絵梨花)と、地に足のついた道を進んでほしい母(大塚寧々)という構図があって、こちらはどちらかというと「大人」側に焦点が当たってて面白い。
これまでは本当に仲が良くまるで姉妹のような関係の母娘だったのに、娘が「ピアニストになる夢」を持った途端、猛反対を始める母。母は娘のことを「自分の分身」のように感じていて、「あの子には失敗して傷ついてほしくないのよ」と酒を飲んで泣いたりもする*1。どれだけ仲が良くても母と娘は別の人間なのだから、「娘に傷ついてほしくない」なんていう理由で母が娘の挑戦をやめさせるのは母親の身勝手だ。
大人は子供の夢をどう扱えばいいのだろう
ついこの間まで「おとなこども」を生業としていて、つい最近大人見習いにジョブチェンジしたようなぼくには難しい課題ではあるんだけど、こんなことを思う。
夢への挑戦は失敗や挫折までがワンセットだ。どんな天才だろうと挫折しない奴なんてこの世にいない。いないはずだとぼくは強く信じている。
「残念な夫」の大塚寧々の「子供に失敗して泣いてほしくない」という願いは切実だけど、失敗や挫折の無い人生があり得ない以上、大人が先回りして「子どもの失敗や挫折を回避させる」やり方は、子どもの挫折や失敗から自力で立ち上がる方法を学ぶ機会を奪っている、という言い方も出来る。「学校のカイダン」の「夢を諦めて現実を見ろ」という言葉で挑戦の芽を摘んでおく指導もこれとほぼ同じだ。
挫折した時に大事なのは「どうやって再起するか」。そして、挫折からの復帰を早めるのに一番役に立つのは、「過去に転んで起き上がったことがある」という経験だ。
だから、教師や大人がフォローできるうちにどんどん挑戦させ、どんどん挫折や失敗を経験してもらう、というのが本当はいいんじゃないかな、と思う*2。
もしも目の前に壁があるなら、本気でぶつからないと壁の大きさや自分の実力なんてわからない。夢も持たず、挑戦することも負けた悔しさも知らずに大人になった子供は、挫折した時どうやって立ち上がるのだろう。壁へのぶつかり方や越え方、逃げ方なんてやってみないとわからないのに。
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まぁ、実際どういう先生が多いのかはわからないけど、少なくともぼく(や奥さん)の周りには「学校のカイダン」式の先生はあまり見かけなかった。でも、こうしてドラマになるくらいだから、実はこういう「現実を見ろ」派の先生も多いんだろうか。