私は信仰の世界に入り、徐々に役職もいただき、人のため・組織のために四六時中奔走していた。
そして、やがては自分の時間が、本当に全くなくなっていった。
自分の時間がなくなると、精神的にも体力的にも本当に辛くなり、限界との戦いとなった。
私はその都度、極限状態による自分の悲哀(センチメンタルさ)から、恐ろしいほどの鬱(うつ)になり、死ぬほどに落ち込むことになった。
そして、そのブルーな落ち込みは、私には大層心地よくない世界だった。
だから、その心地よくない世界を制覇するためには、私はその自分の「悲哀」というものを制覇することが、どうしても必要となっていった。
また、その反面、徐々に様々な力(人間力)をつけていくにつれて、その誇らしげな自分に酔いしれて、その都度おだち、舞い上がり、有頂天になることもあった。
地に足がつかない、糸が切れた凧のような浮ついた気持ちになり、それがまた全く心地よくなかった。
だから、それも私には、どうしても制覇しなくてはならない世界となった。
つまり、それからの成長(前進)過程における私の戦いのターゲットは、自分自身の「落ち込み」と「有頂天」というものになった。
何物にも揺らがない独立人格を築くためには、一流の人間を目指すためには、制覇すべき相手は、世界は、常に自分自身の内側にあった。
敵は、確かに自分自身の中にあったのです。
でも、それらに焦点を定めていくと、見つめていくと、それらは「偽物の自分」だということがわかった。
にらみつけると、それらははかなく消えていくズルい奴ら(存在)なのだ。
それから私は、落ち込みや有頂天を自分のアイデンティティ(自己同一性・自分自身)とすることはなくなった。
落ち込みと有頂天に振り回されることはなくなったのです。
それらが、自分自身だとは、全く思わなくなったからです。
それらは、「偽物の自分」であり、「信じるには値しないもの」だということがわかりました。
それらは、単に自分の影であり、幻想であり、エゴであり、思考であって、本当の自分とは何ら関係のないものだということがわかりました。
それらを自分だと信じてしまうと、エゴの、影の、思考の、幻想の虜(とりこ)にさせられてしまい、「いまに生きる」ことができなくなってしまう。
一人よがりのネガティブ性やポジティブ性は、実はエゴの戦略なのだ。
エゴが生き延びようとする戦略…?(笑)
だから、それを信じてしまってはいけない。
エゴにとっては、ネガティブだろうがポジティブだろうが、実は全く関係ないのだ。
エゴにとっては、本当は全くどうだっていいのです。
とにかく私たちの本当の「パワー」を、迷わし、たぶらかすことによって、それを「破壊する」ことがエゴの目的だからだ。
仏法(仏教)では、そんなエゴの働きを「魔」(奪命者・だつみょうしゃ=命を奪う者)と呼びます。
劣等感・後悔・反省等による自己嫌悪や自己否定、そして優越感や慢心等による有頂天に、決して命を奪われてはならない。
少なくとも、それらに長く集中し、尾を引いてはならないのだ。
それでは、全く魔の、エゴの、偽物の自分の思うつぼだ。
だから、それらには日頃から、本当に心して用心していなくてはならない。
「本当の自分」と「偽物の自分」は、訓練次第では、その都度、その各レベルに於いて、簡単に見破れるようになるものなのです。
ああ、遠い昔の話をしてしまいました。
思考を用いて、エゴの力を借りて話をしています…。
物語に酔いしれてしまいましたね。
さて、「いま」に戻ります。
「本当の私のいま」に在るとします。
では!
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