ロラン・バルトは「芸術作品は歴史がみずからの満たすべき時間をすごしている様式である」と言った。ウンベルト・エーコは「芸術作品は歴史と心理が異なる情報を受信した者が描いたテクストである」と『記号論』に書いた。
どちらも当たっている。どちらも当たっているが、この二つの定義にともに適う作品を描き、かつそのことを自身で言葉によって論証し、さらにそのことを後世の青年青女たちに「方法」として送信したアーティストはというと、そんなにいない。ぼくは、パウル・クレーがその稀な一人だったと思っている。それなのに、クレーについてはろくな見方しかされていない。みんなから愛されてはいるが、そのラディカルな瞠目すべき方法の提示が受けとめられていない。
何かを気づいてもらうために、ごくごく基本的なことから先に言っておくが、クレーはル・コルビュジエと同じくスイス人である。時代もまったく同時代で、クレーのほうが8歳ほど年上だった。しかし、この二人のことはめったにくらべられてこなかった。
コルビュジエが最初にベルリンの建築家ペーター・ベーレンスのところで学んだことに比していえば、クレーはミュンヘンの画家フランツ・フォン・シュトゥックのアトリエで絵を学んだ。二人ともスイスからドイツに赴いて理性と方法を磨いたのだ。シュトゥックはベーレンス同様の斯界の大立者だが、その画風は神話的であり官能に富み、装飾性が溢れるものだった。コルビュジエが装飾を学ぶためにベーレンスのところに来て、装飾からの自立を意図できたように、クレーもまた師の装飾からの自立をはたした。
ついでに言っておけば、ベーレンスのところには若きワルター・グロピウスとミース・ファンデル・ローエがいたように、シュトゥックのところには若きワシリー・カンディンスキーがいた。カンディンスキーとクレーがのちに有名な「ブラウエ・ライター」(青騎士)に集う絆は最初から決まっていたようなものだったのだ。
もうひとつ付け加えると、パリに移ったコルビュジエがアメデオ・オザンファンの「ピュリスム」(純粋主義)に共鳴したように、クレーもまたパリに入ってすぐにロベール・ドローネを訪れて「オルフィスム」に共感した。オルフィスムはアポリネールがオルフェウスに因んで名付けた感覚的な表現動向のことだが、いわば「絵画的テクストは歌えるものだ」ということを告げていた。クレーとともに、レジェ、ピカビア、デュシャンがこの歌を奏でた。
こうしたことを偶然の暗合と片付けるのは、よくない。もしこれが偶然ならグロピウスがのちにクレーをバウハウスに招き、グロピウス没後はミース・ファンデル・ローエが所長に就任した出来事の説明が、つかない。
と、まあ、ここまでは枕の話だが、枕が枕でなくなるのはクレーが1914年にチュニジアに旅行して、とくにカイワランに滞在しているときに色彩本質の躍動に直面してからのこと、とりわけ1920年にワイマールのバウハウスに招かれ、そこでいっさいの「方法の提示」に向かう覚悟をしたときの、その内実をどう見るかというところからである。
このプロセスで何が起動したかは、『クレーの日記』を読むとわかる。この日記は1989年から第一次世界大戦をはさんだ1918年までのもので、驚くほど克明な思索のあとが綴られている。ぼくがそれを読んだのは24、5歳のころだったけれど、ゴッホの日記にいささか失望していたことを補ってあまりあった。
余談になるけれど、小林秀雄がゴッホの日記を書いてクレーの日記を書かなかったのがあきらかにミスであったことも、そのとき直観した。
一言でいうのなら、クレーには「スペーシャル・オーガニズム」があったのである。日記にはそのことをクレーが十全に検討していたことが綴られている。空間的有機体への確信だ。それとともに、クレーは、「インディビデュアル」ということを突きとめていた。これも日記を読んでいて、得心がいった。
少しだけ、説明しておく。いま、英語でインディビュアリティ(individuality)といえば、誰もがみんな「個性」をさしているような気になっているようだが、"individual"とは、もともとは"vidual"(分割できるもの)に対する「非分割的なもの」を意味している。すなわち「分割できない有機性」がインディビデュアリティなのである。日記にはこう書いてあった、「無理にでも分割しようとすると、その引き離された部分は死滅してしまうのだ。分割できなくて融合していることが、本来のインディビデュアリティなのだ」。
クレーは分割できるものと分割できないものの、その両方をバウハウスの授業で「構成」および「動向」の分節思考法として提供したのである。スペーシャル・オーガニズムとはそのことだ。そのスペーシャル・オーガニズムの方法についての講義ノートとなったのが『造形思考』である。
方法の核はただひとつ、分節とは何か――。
バウハウスについてはいくらでも書きたいことがあるが、禁欲しておく。クレーがモホリ・ナギやオスカー・シュレンマーやオットー・ファイニンガーやヨハネス・イッテンと教員室で数年間にわたって一緒になって青年青女のために努力と勢力を傾注していたことは、その現代デザイン史上の僥倖をいくら強調しても、強調しきれない。これも日記に書いてあるのだが、クレーはもともと「形態の学校」を熱く想像していたのだった!
ということでバウハウスについては省くことにして、それでは核心のところに入っていくが、クレーがそのバウハウスで方法の魂を傾けたこととは、造形(フォルム)にとって最も重要なこととは、「分節」ということなのである。アーティキュレーションだ。
第1032夜にのべておいたように、アーティキュレーションとはバロック期までの声楽および器楽のための音楽用語でもある。むろん言語学用語でもあって、かつて言葉と音楽が蜜月的照応関係をもっていたころ、アーティキュレーションはすべての表現の鍵を担っていた。クレーはそれを持ち出した。
クレーが「分節」に照準をあわせたことの背景に、クレーの父親が音楽の教師で、母親がオペラ歌手であったことを言っておく必要があるだろうか。むろん、あるに決まっている。クレーは「色の画家」であって、生涯を通しての「音の画家」でもあった。もうひとつ念のために言っておくが、クレーがチュニジアに旅行してカイワランで色彩に目覚めたと書いておいたが、
このカイワランとはイスラムの町なのである。クレーはそこでイスラムの色彩と、カリグラフィックな分節の綾なる世界と、そしてイスラムのボーカリゼーションが連動していることを体験して、目覚めた。その最初の感動は1914年の『モスクのあるハマメット風景』という絵に、ボーカリゼーションへの感動そのものは1922年の『ローザ・ジルバーあるいは声の織物』にあらわれている。
こうしてクレーは音楽と言語にも関心を寄せながら「分節」を凝視するのだが、それを造形思考に持ちこむにあたっては、実に多くの例示と闘った。例示というのは、人類が積み重ねてきたあらゆる「線」を片っ端からトレースしてみるということだ。
詳しいことはクレー自身の厖大な「線」のスケッチを見るのが一番早いけれど、ここでは言葉しか使えないので、次の例示にとどめて説明をする。
クレーの言葉として有名なものに、「芸術とは目に見えるものを再現することではない」がある。この言葉が入っている「創造についての信条告白」というエッセイのタイトルからして、クレーの大きなメッセージとしてしばしば引用される。『造形思考』にも収録された。ぼくは、この言葉がクレーの「分節」の本質と「線」のスケッチの集積を一言であらわしているのではないかと思う。
どのようにあらわしているのか。これだけでは、「だから自由に描きなさい」と言われているようにも思うだろうが、クレーはそんな指示をしたのではなかった。これは、「芸術の本質は、見えるものをそのまま再現するのではなく、見えるようにすることである」というメッセージなのである。
見ているだけでは何も生まれない、それを見えるものにする、そのために芸術や表現がある、そう言ったのだ。が、そう言われたとしても、まだ何も重大なことを告げられている気がしないのではないだろうか。見えるようにするためには、技術を磨きなさいといわれているようにも思われよう。むろんクレーはそんなことを言っているのではない。
では、このメッセージの意味はどういうものなのか。「目に見えるもの」と「目に見えるようにする」とのあいだには何があるのか。
バウハウスの初日の授業のとき、クレーは何も言わずに木炭を手にすると、画架にかけた油紙に全神経をこめた2本の線をゆっくり引いたという。電気のようだったという記録がのこっている。
そして、これを学生に画用紙に描かせ、おもむろにその木炭の持ち方、姿勢、つづいて一人一人の線の描き方に注文をつけていった。それからしばらくしてある線をスライドで見せ、さらにこれをスケッチさせてから、その線が含まれるマチスの絵のスライドを見せた。よくよくマチスの絵を見せておいて、そこでクレーはカーテンを引き、電気を消したのだ。そのうえであらためて、マチスを描かせたのだ。学生たちは愕然とした。
これが、「見えるもの」と「見えるようにすること」のあいだにある出来事なのである。この見えたマチスと、暗闇になったあとのアタマの中のマチスとのあいだに、クレーの分節論がすべて凝結していたのである。
イメージはもちろんアタマの中に浮かぶものである。そんなことは誰もがわかっている。けれども、いつまでもそのままアタマの中に浮かんではいない。どこでそれは消えたのだろうか。
では、まだアタマの中にそのイメージがあるとして、それを取り出そうとしたら、どうなるか。おそらくはそれを取り出そうとしたとたん、そのイメージに何かがおこるはずである。何がおこったのか。クレーはそれを「分節の開始」とみなしたのである。イメージの造形的分節の開始であり、もしそれが言葉も含んでいるのなら(たいていは含んでいるのだが)、それは編集的分節の開始でもあった。
分節はデッサンやデザインなら、鉛筆をとったのちの、まず紙の上に始まっていく。そうだとすれば、イメージはなんらかの造形思考を開始することによってしか取り出せないということなのだ。それが音であるのなら、ピアノに向かうか、ハミングするか、あるいは楽譜に落とすかとしないかぎりは取り出せない。
いま、諸君が目の前の何かを見ているときも、以上のことと同じことがおこっているはずである。アタマの中から何かを別のメディアに取り出さないかぎり、その目の前の見ていることは、何も進まない。見ているだけでは、何もおこらない。それを見えるようにするにはイメージそのものを分節していかなければならない。
ここまでが前提である。とくに難題だというわけではないだろう。しかしさらに考えてみると、これは、イメージそのものに実はなんらかの分節が内在していたとは言えないだろうか。分節とは、イメージがその内側に潜在させていた何かの動向だとはいえまいか。イメージの本質が分節なのである。クレーはそう考えたのだ。
クレーが人類の原始時代からの線描に関心をもったのはそこからである。エジプトに旅行をしてプリミティブな線描画に出会い、衝撃をうけたのは、この「イメージに内在する分節性」に直面したからだ。クレーは驚くほど多くの歴史上の線描に注目し、これをひとつずつスケッチし、さらに自分の内面(アタマの中)に入れては、しばらくしてこれを取り出していった。その作業に集中した。
こんなエクササイズを繰り返した画家が、かつていたのだろうか。それはアンリ・ミショーがメスカリンを飲んで衝動をもってドローイングした線ではなかったのである。ウィリアム・ブレイクが霊感から導き出した線でもなかった。ハンス・ベルメールが少女の体に見出した線でもない。クレーの線は、人類の原型的な分節思考がとどめた記憶を引きずり出したのである。
その作業には、つねにクレー自身の身体と脳と手とがかかわっていた。すなわち、線を描くこととその線を描く自身とは分離されないままに、分節的造形思考は持続されたのである。これはまさにスペーシャル・オーガニズムとしての線であり、分節である。有機的に部分と全体を分離しないで、なおそこに分節が生まれる瞬間だけを引きずり出した試みだった。
こうしてクレーは、分節の方法こそが造形思考の根本において発芽しているものだと結論づけた。『造形思考』にはその有機的な試行錯誤のプロセスがあますところなく記録されている。
クレーの造形思考の骨格を見ていると、これらはいまでいうなら情報理論の根本にかかわる思想の出立だったということに気がつかされる。
また、クレーの造形思考は、歴史や心理を眺めようとした者がその根底に発見する原初の事情を言い当てているものだということもわかってくる。きっとインタラクティビティとは何かということも、クレーはとっくに喝破していたにちがいない。
今夜の冒頭に、ぼくはロラン・バルトとウンベルト・エーコを引いたけれど、まさにパウル・クレーこそは、この二人の指摘に耐えうる稀なアーティストだったのである。
いや、もっと褒めたい気分もある。クレーは認知科学にひそむ「分節の法則」にさえ気がつきかかっていたのではあるまいか。そんな気もする。
さてさて、もし諸君のアタマの中でデザインや編集が進まないというのなら、一度、パウル・クレーに立ち戻ってみるとよい。目からウロコがはがれ、脳のスダレがあがるだろう。それがどうしても面倒だというなら、パソコンを切り、部屋の電気を消して、アタマの中に30分前に浮かんだことをトレースしてみることである。
もうひとつ、これは少しでも芸術家のジェノタイプとフェノタイプの関係に関心があればの話だが、『クレーの日記』(美術出版社)を読むべきだ。目からウロコが100枚くらい落ちる(それでは見えなくなるか)。さらにクレーの直筆のノートを見たかったら、『造形理論ノート』(美術公論社)というレア本がある。青い罫線のノートにクレーがびっしり言葉やスケッチを書きこんでいる。クレーをソシュール言語学やラカンの鏡像過程理論やクリステヴァの間テクスト性で読みとろうとした、ごく最近の論考もある。その一部がライナー・クローンとジョセフ・ケーナーの『パウル・クレー/記号をめぐる仮説』(岩波同時代ライブラリー)になっている。ともかくもクレーをめぐる議論はこれからだ。