元・阿澄佳奈さんファンの残滓ブログ
2015-03-01
声優論☆めった斬り! -阿澄佳奈篇-
『声優論』買いました。
ふぅん。
絶賛・批判 読んでからにしてもらおう
http://www.youtube.com/watch?v=OqnE82JCIpk
へぇ。
(本を読んでいる音)
じゃあ読んだから批判するね。
『声優論』18章のまとめ
- 阿澄佳奈の本領は、ニャル子に代表される<うざかわいい>芝居にある
- その<うざかわいさ>は、阿澄に内在する「ヌミノーゼ」を想起させる(「聖」に対する)「魔」の要素から来るものである
- <うざかわいい>もの以外でも、その「魔」を感じさせる好演がニャル子以後見られる
ふーむ。なるほどねぇ。
また俗流阿澄佳奈批評がでてきたぞ。
なんか耳慣れない言葉も混じってるし順番にやっつけていくとするか。
『声優論』18章に内在する論理的不備
「ヌミノーゼ」および「聖魔」のメタファの誤用
まずそもそも「ヌミノーゼ」ってなんやねんってなるよね。
学がないので初めて聞いたんだけど、本文中に簡単な解説があるし世の中にはインターネットというものもある。
ちょっとWikipediaを引いてみよう。
ヌミノース
(ヌミノーゼから転送)
ヌミノース(Numinous)とはドイツの神学者ルドルフ・オットーが定義した概念である。オットーは「聖なるもの」のうち合理的な理解にかなう部分を除けた概念をヌミノースと呼んだ。
オットーは『聖なるもの』(1917年、邦訳 岩波文庫)の中で、真・善・美の理想を求めるカント的理性宗教に対して、非合理的かつ直接的な経験こそが「聖なるもの」であると述べた。これを、ラテン語で「神威」を意味する"numen"から取った"das Numinose"という造語で規定した。神への信仰心、超自然現象、聖なるもの、宗教上神聖なものおよび、先験的なものに触れることで沸き起こる感情のことを指す。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8C%E3%83%9F%E3%83%8E%E3%83%BC%E3%82%B9
ふむふむ。
一方、18章の方から小森によるヌミノーゼに関係ある部分を写経してみよう。
この相反する要素は、宗教的な畏怖の感情と相通じる面がある。
聖と魔の領域は、人を魅惑しひきつけるものであると同時に、人を畏怖させ忌避させるものである。
(中略)
ラヴクラフトのクトゥルー神話を通じて、出会われる邪神に対して、人が喚起される感情は、この「ヌミノーゼ」に近いものがある。
(中略)
しかし逢空万太の描くニャル子は、それほど重々しく荘厳な感情を引き起こすものではない。忌避したい魔の要素は内在しつつも大幅に薄められ弱められ、また人をひきつける魅惑の要素も、萌えてかわいいというレベルにまで引き下げられ解毒させられている。
それに対応して、ラヴクラフトのオリジナルのクトゥルー神話で喚起される感情を「ヌミノーゼ」とするなら、逢空万太のニャル子シリーズで喚起される感情は<うざかわいい>と位置づけることができるだろう。
はて。
所詮Wikipedia、これの言う事を鵜呑みにするのはどうかとも思うが、明らかに言ってることが違うと思う。
Wikipediaが解説する「ヌミノース」は合理的に解釈できない超自然的なもののことを指している。
それを「薄める」とか「弱める」とかいうのはどういう意味なんだろうか?
なんらかの解釈可能性が混入した時点ではそれは「ヌミノース」性が失われてるってことなんじゃないか?
それに「ヌミノーゼ」は聖魔が「相反するもの」である、と述べているが、「ヌミノース」はその両者をまとめて「聖なるもの」と呼んで区別していない。
というか、そもそも小森のいう「聖なる」ものと「魔なる」ものは、人間(受け手)にとって快か不快か程度の差異しかない。
「ヌミノーゼ/ヌミノース」という概念を持ち出してきた時点で聖と魔の区別は用を為さず後退し、対立軸に置かれるべきは「聖」に対して人間的合理性、漢字一字で言うなら「俗」なのだ。
学も教養も時間も無いので原典に当たって確認する気力もないが、私の直感と高校生の頃に触れた類似の宗教哲学的議論から推察するに、普通に考えればWikipediaの「ヌミノース」の定義の方が正しいように思われる。
本稿では以後それを前提とする。
そもそもニャル子読解がおかしい
屋台骨にワンパン入れたのでもうこれではい論破、おわりだよ〜でも良かったのだが。
俗流阿澄批評を斬る為に抜いた刀が血を求めているので続行する。
そもそものまっとうなニャル子読解とその批判については3年前に書いたこの記事が詳しい。
これで終わりでもいいが議論を洗練させUp-To-Dateにするためにいくつか補足をしておこう。
一読すれば分かるように、そもそもニャル子の<うざかわいい>感は「魔」に属するのではなく、完全に「俗」のそれ(=素直になれない一途な恋心)である。
彼女の感情の流れは完璧に理解可能というかダダ漏れであり、ニャル子がうざいのは単に彼女が自由気ままで身勝手だからであり、意図を読み取れないタイプの聖魔とは趣が異なる。
ただ、彼女がラヴクラフトの神格であるという「設定」が彼女の身勝手さと聖魔性との境界を曖昧にする、という作用が存在しないとは言い難く、それは原作およびドラマCD1巻分のプロットにおいては効果的に機能している。
ただまぁドラマCD2巻以降とアニメ(特にTVアニメ)においてはそのような機微は特に重視されてないしただの発情異星人と解釈するのが相当だろう。
阿澄佳奈の本領が「ニャル子」である根拠がない
唯一外部にその根拠をもとめてるっぽい文章が「そんな評価をネットで見た」というノリなのがひどい。
サーベイせよ、そうすればそもそも"阿澄佳奈の本領が「ニャル子」である"という主張自体を糾弾する文章が存在することを容易に確かめることができたであろう。
後半でそれ以外の出演作について検討している箇所があるにはあるが、(小森の言うところの)「魔」の要素があるかどうか、という分類に終始している。
魔の要素が無いけれどよい芝居、というものが存在しない、ということが示せれば*1論理的にはニャル子的うざかわが本領であるということをサポートする論拠とはなろう。
しかしそのことを前提として、それを補強するために適当に他の出演作を引いてきて吟味するのは詭弁のテンプレート的語法である。
ところで、阿澄佳奈の「本領」なるものをもし指し示すとして、それを「聖」と「俗」の間に見出すという試みは、あながち誤りとはいえない。
と言う話を後述する。
『声優論』18章外部から指摘できる不備
引いてる作品の並びが恣意的で不完全
この章は雑にまとめればニャル子を出発点に阿澄を読解してみようという試みである。
しかしそれを行うにしては引くべき作品が完全に不足している。
まず「ニャル子的発声」をキーにして真っ先に参照されるべきは『えびてん』をおいて他にない。
阿澄佳奈の「当時」を切り取った自画自賛傑作えびてんレビューを一読されたい。
あるいは、かわいらしさと小憎らしさが同居しているがまた違ったキャラ造形という意味で『龍ヶ嬢七々々の埋蔵金』の壱級天災を引くという手もある。
また、最後の方で「ヤマノススメ」のひなたが引かれているが、彼女をうざいと言い切らないのもよくわからない。ある意味ニャル子よりうざいだろひなた。
さて、このように広義「うざい」阿澄キャラを並べて行けば自然と、その「うざさ」にもいろんな意味があることが浮かび上がってくる。
ニャル子は「照れ隠しと愛情表現」。
戸田山響子は「道化とはぐらかし」。
壱級天災は「自信と背伸び」。
倉上ひなたは「想像力の欠如」。
まぁひなたは親愛の情からパーソナルスペースを見誤ってる感があるからニャル子と通じるところはあるし、ニセコイのマリーもまぁ同類ではある。あれをうざいと思った事は無いが(ギャグが滑ってると思ってる)。
恣意的か偶然かは知らないが、偏った作品・キャラクターだけを選択することで間違った結論を導く、あるいは補完する結果になっているのが分かる。
つまるところ、適切に参照すべき作品群を選択すれば<うざかわいい>が魔の要素などという誤謬をおかすことなく、これが「回りくどいキャラクターや感情の表現」の一形態にすぎないということが正しく理解されるのだ。
また、敢えて「聖と魔」という切り口にこだわるならば『うみものがたり』マリンと「プリティーリズム」春音あいらを避けては通れない。
マリンはまさに理解を許さない聖性の塊として出発し、魔に浸食され、俗の力で均衡を得る。
春音あいらはかなりトリッキーだが、本来は才能と聖性の人としてデザインされたキャラクターである。
ただ普段はそのことに自覚的でなく、他人に動機を求めるひどく俗っぽいキャラクターでもある。しかしDMF後半においてはその才能が暴走し高みを求める魔に魅入られる。
あと適当に三節で挙げられているキャラクターの評をざっくり斬っておこう。
ゆのは、周りが読めないわけではなく単に自分の事でいっぱいいっぱいの余裕がないキャラクターだ。
余裕のなさを強調するために周りとズレるエピソードが挿入されることはあるが、それは悪意のある読みであって、周りを慮るエピソードも無数にある。
「WORKING!!」のぽぷらはマスコットだ。
周りが読めないのではなく周りとの相互作用が元々意図されていない。
ある意味でぽぷらは「聖性」に近いものがあるが、制作サイドとかたなし君の視線が俗っぽすぎること、そのことについて当の阿澄が自覚的すぎるためただのマスコットに落ち着いている。
ささみさん@ささみさん。
ささみさんこそ非常に人間的なキャラクターだろう。聖と魔の戦いを拒絶し人間的な営みを望む。
戦いを避けるために戦う、そういう尊さがある。あくまで人間的で、魔とは無縁だ。
ただまぁささみさんの阿澄に関してはそこまで理路が通ってなかったように思う。
私が読み切れなかったかもしれないが、これについてはこの程度の指摘に留める。
沼地@花物語。
沼地は確かに設定上は魔的な存在であるが、その実非常に人間的だ。彼女の本当の願いは俗の極みだ。
彼女が自らを魔的なものと任じることが呪いとなって彼女自身を魔としたわけだが、それ自体ある種の中二病みたいなもんでやはり俗っぽいと解釈することもできる。
多少多層的で複雑な表現ではあるが、最終的に彼女は悪魔憑きではなく人間として葬られるのだ、ということを指摘すれば十分であろう。
沼地を高く評価するのであれば、その悪魔的な芝居ではなく、思わせぶりな悪魔的表現のなかに人間的哀愁を失わせなかったところこそである。
「俗」の阿澄佳奈
さて、かなり駆け足で阿澄佳奈の主要なキャリアを見て来たわけだが、これらを総合すると彼女は人間の力で事を為したり救われたりする、えらく「俗」な声優であることが見て取れる。
そんなわけで阿澄佳奈の本領を敢えて表現するなら「俗」である。
まぁあまりにも見た目の印象がよくないので、私は普段「聖」を「天使」とか「翼」とか「空駈ける」とか呼び、「俗」を「人間」とか「脚」とか「地を駆ける」とか呼んだりする。
経験的に、阿澄は平凡な理屈を超越した才能や救済を表現することに対しておそろしく感度が低い、と言わざるを得ない。
それは裏を返せば理屈にこだわっているタイプであるとも言える。
阿澄はキャラクターが考えていることを正しく理解出来た時にもっとも高いパフォーマンスを発揮する。
考えてることが単純なコメディリリーフであれば十全に機能的であるし、十分に手がかりを与えられていればより複雑な感情表現を最高のレベルで表現するタイプの役者であると理解している。
そのアプローチ故に、天才や天使を演じさせるとペラい印象を拭えなくなる。
阿澄佳奈を聴く、読解する、という行為は実際のところかなり合理的な思考が要求される作業である。
そういう巧みな理路の内側に、(天使的な意味ではなくて、高潔な人間、というような意味での)ちいさな聖性が秘められているのが阿澄佳奈という役者の魅力だ。
それは上質なミステリを読み解くような行為に似ている。
声優論序論批判
本章を執筆した小森は『声優論』において序論も担当している。
この序盤において、本書のきっかけとして夏葉の桑島論を評価しつつこう批判している。
それは、考察において、書き手が現象学的な態度には徹しきれず--つまり現象学的還元の態度を保つのに徹しきれず--ところどころに書き手が読み込んだ物語やストーリーを、上乗せして読み込んでいる観があるところだった。
この観点から見てこの18章はどうだろうか。
確かに筆者の思い入れのようなものは感じない。しかし上述したように、この論考は極めて限られた観測範囲から得られた情報を寄せ集めて作られた誤った結論であり、結局のところ「書き手が読み込んだストーリー」にすぎない。
これは私感だが、意識的に、また読者に分かるように挿入された書き手のストーリーより、書き手がその存在を知覚できていないストーリーが織り込まれている、それでいて客観的事実を述べているような語り口の方が害が大きいと思う。
偽史に加担している、という誹りを免れない。
逆に、自分が見てきた作品だけで声優を語りたい、という欲求そのものは否定しきれないしする気もない。
そういう態度であるならばそれはそれで、あなたがみた「阿澄佳奈」としてそれは尊重しましょうということになる。
ニャル子で初めて阿澄をいいと思ったから考察してみた、という文章としてならば別に読めなくはない。
ただ単に、私はもっと広い視野で彼女を見て聴いていますけどねフフン、というだけの話だ。
それでもなお現象学的な態度で声優を論じたいというのならば、声優の出演作を漏れなく、リリースされた瞬間に*2鑑賞しつくす、その時の記録をきちんと残す、という態度をもってほかない。
現実的でない?
それをかつてやっていたオタクの記録、生き様そのものが、このブログだ。
まとめ
声ヲタを、嘗めんなよ!
えっ?そこまで誠実になれないけどそれでも現象学的な声優論考の誘惑を捨てられない?
そんなあなたのために、データから声優を騙ろうという声優の神をも恐れぬ所業を行う悪魔的集団がいるらしいですよ?
続きはコミケで。