ヤクザが台湾人襲撃から警察署守り山口組組長が一日消防署長に
NEWS ポストセブン 3月1日(日)16時6分配信
警察とヤクザ。世間的には対立するはずの両者はその実、戦後の長い期間ある程度の「共存関係」にあった。警察は自らの権力拡大のためにヤクザを利用してきたという裏面史を評論家の宮崎学氏が語る。
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戦後、ヤクザは警察権力と密接につながり、持ちつ持たれつの関係を築いてきた。
とりわけGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)占領下の日本では、警察よりもヤクザの力が強かった。GHQにより武装が制限された警察は、戦後の混乱期に台頭した朝鮮人や台湾人などの武装勢力を抑えきれず、治安維持もヤクザに頼らざるを得なかったのだ。
典型的なのが「渋谷署事件」であろう。1946年、闇市の取り締まりに不満を抱いた在日台湾人を中心とするグループが渋谷署の襲撃を計画。
情報を察知した警察は「愚連隊の神様」と呼ばれた万年東一(まんねんとういち)氏率いる武装部隊に応援を要請し、これを迎え撃った。警察をヤクザが守るという、今日では到底信じられない事件は東京だけでなく、山口組の本拠・神戸でも見られた。
その後、朝鮮戦争を機に軍需物資の輸送に伴う港湾労働の重要性が増し、港湾を支配してきた山口組をはじめとするヤクザの勢力が拡大した。
山口組組長・田岡一雄氏は公的機関である「神戸港船内荷役調整協議会」の委員に選ばれ、1959年には神戸水上消防署の一日署長を務めたほどだ。
また、60年安保を巡って警察では手に負えないほど左翼勢力が勢いを増す中、当時の自民党政権は、ヤクザが左翼を封じ込める「反共抜刀隊」構想まで密かに練っていた。結果的には表面化しなかったが、それほど当時のヤクザは重用されていたのである。
この当時は警察官のヤクザへのタカリも常態化していた。
ヤクザの組長だった私の父のもとには、小遣いをタカリにくる警察官が後を絶たず、私の家にタダで寝泊まりする輩もいた。ヤクザが経営する飲み屋に頻繁に顔を出し、タダ酒をごちそうになる警察官もごまんといた。
1964年以降、組のトップを重点的に検挙する「頂上作戦」が3度にわたって仕掛けられたが、それでも根本的な掃討作戦にはつながらなかった。いくら山口組撲滅を掲げても、肝心の神戸では山口組が毎年の方針を打ち出す「事始め」に所轄の警察署長が列席していたのだから、それも当然の話である。そんな“なあなあの関係”が続いていたのだ。
※SAPIO2015年3月号
最終更新:3月1日(日)17時41分
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