残骸か、遺産か 武雄市北方町、西杵炭鉱の大型遺物
2015年02月25日 10時15分
■「収容する場所ない」市は記録残し処分へ
■「近代化の生き証人」研究者は保存求める
昭和47(1972)年に閉山した武雄市北方町の西杵炭鉱で使われていた坑内機関車など大型機械の遺物が、近く処分される見通しとなった。管理する武雄市が佐賀県から譲り受け、写真などで記録し、撤去する。野ざらし状態が長く続いて保存価値が低く、8メートル大の機械を収容する場所を確保するのも困難と判断した。ただ、研究者からは「佐賀の近代化の生き証人。物がないと検証できない」と保存を望む声が上がっている。
2006年に武雄市と合併した旧北方町は杵島炭鉱の本坑、二坑もあった所で、町と炭鉱の歴史は切り離せない。西杵炭鉱が閉山すると、炭鉱遺産を残したい町民有志が、炭鉱で使われていた機械や器具類、文献類の資料約800点を会社側から譲り受けた。資料は県に寄贈され、1975年に県が所有、町が保管する契約を結んだ。
県によると、78年から79年にかけ、炭鉱のあった県内自治体や研究者らでつくる「石炭資料検討協議会」が設置され、資料の散逸防止のため石炭資料館を県立で建設し、場所は国道34号沿いの旧産炭地が望ましいとする意見書を県に提出した。しかし、場所の選定で折り合いがつかず、資料館の話は立ち消えになった。
西杵炭鉱の資料は小さい工具類などは96年、きたがた四季の丘公園資料館に収められ、文献類は県が保管している。しかし坑内機関車や石炭貨車、電動巻き上げ機など10点弱は北方西体育館裏の市有地に40年以上置かれたままで、約20年前からは野ざらしになっており、腐食も進んでいる。
武雄市は、できるだけ費用がかからない手段としてサイズを測り、データや写真パネルで保存し、現物は処分する方向で地元区長や歴史研究団体などと折り合った。近く県から無償譲渡される予定。町区長会長は「大きすぎて収容する場所がない。費用もかかるし、傷みがひどく、一般の人が見ても分からない」と語る。
所管の県河川砂防課は「貴重ではあるが、市の意向と処分はやむを得ない」とし、県文化財課は「いずれも昭和30年代と比較的新しい工業製品で、もっと状態の良いものは筑豊や大牟田にもある。県の文化財指定にはなじまない」と話す。市は「県の意見を受けての判断。炭鉱のことを町民の記憶にとどめてほしいという要望にできるだけ応えていきたい」としている。
これに対し、石炭資料検討協議会長を務めた長野暹・佐賀大名誉教授(日本経済史)は「県には、この資料が佐賀県が石炭産業で栄えた唯一の物的証拠という視点がない。大型で残るのはこれだけ。貴重な1次資料を残してほしい」と再考を求めている。