戦後70年の「安倍談話」について意見を交わす有識者懇談会がきのう、初めての会合を開いた。懇談会として草案を書くわけではないというが、国内外から評価される談話づくりに向け、バランスのとれた議論を期待したい。

 戦後70年だからといって、必ずしも首相談話を出さねばならないわけではない。それでも安倍氏は2012年に首相に再登板してから、「安倍政権として未来志向の談話を出したい」と繰り返してきた。

 首相はかねて村山談話への違和感を漏らしてきた。06年に初めて首相に就任したころから「その精神を引き継いでいく」としながらも、「国策を誤り」「植民地支配や侵略」といった村山談話の根幹部分への評価は明確にしてこなかった。

 村山談話を「全体として引き継ぐ」と言い始めた最近も、その違和感の根本は変わっていないようだ。

 いったい何のために新しい談話を出すのか。有識者の議論が始まるにあたり、この原点に立ち返ってみたい。

 首相は「先の大戦への反省、戦後の平和国家としての歩み、今後、アジア太平洋地域や世界のためにどのような貢献を果たしていくのか」を書き込み、世界に発信したいという。

 日本のさらなる貢献をうたうことに異論はない。だが、その基礎となるのは、戦前の日本の行為についての明確な認識と反省である。それをあいまいにしたまま未来を語っても、説得力は生まれない。

 全体として引き継ぐと掲げながら、植民地支配や侵略といったキーワードを村山談話もろとも棚上げにしてしまうのが新談話の目的ならば、出すべきではない。そうした意図があればすぐに見透かされ、「過去に目を閉ざす者」と世界に受けとられるのが落ちであろう。

 先の国連安保理の討論会で、中国の王毅外相が「真実を認めることをためらい、過去の侵略の犯罪をごまかそうと試みる者がいる」と演説した。

 王毅氏は演説後、「だれかに照準を合わせることはない」と述べたが、植民地支配や侵略を否定するかのような日本政界の一部の発言を牽制(けんせい)する意図があったのは明らかだ。

 首相はきのう、懇談会の委員に「未来への土台は、過去と断絶したものではあり得ない」と語った。その通りである。

 談話を出すならば、国連での王毅発言が的外れであることを首相自身の言葉ではっきりとさせるべきである。