2014-10-25
過敏さと自分勝手さ
日常 | |
解決しないもやもやにたいしてどう対処するか、というのは存外難しい問題である。
正面からがっぷり向かいあってやるのもよし、避けるのもよし。その場合によると思う。
滅私の考え
しかし、説明する言葉をもたないもやもやにがっぷり向かい合っても疲れるだけなのではないかと思う。だから私は背を向けるしかない。
相手のすることに不満があるならば、一度は説得を試みるが、それで不満が残る対応をされてしまったのなら、私がいなければいい話なのである。ずっとそう思って生きてきた。
客観的に見ても、人に言わせても、この対応は逃げているとしか受け取られない。
しかし、私は自分が主張する権利のある人間だと思っていない。だから、その場から立ち去るかその場に居合わせない努力をするほかないのである。
不愉快なシチュエーションは見なければこっちが不愉快になることはない。ましてや相手がこちらへの悪意や敵意なしにそれを行っているのであるならばなおさらであろう。
過敏すぎる精神
私は人の悪意や敵意に対して過敏にすぎると思っている。しかし、これは社会の中である程度存在を認知された状態で生きていくために必要な機敏だった。それを察知しなくてはあっと言う間に枠の外にはじき出されていくという恐怖感がその背景にあった。
人は人を受け入れる器というのは小さいし、その中からはじき出されてしまえば、生きているのか否かわからない存在になる。手先が得意だとか技能がある人間ならそういう器からはじき出されても、ほかの人に掬われるかもしれないが、そうでない私のような人間は簡単に意識の埒外へ放り出されてしまうのだ。
私のような人間は他人の機敏に敏感であることにより他者に価値を見いだしてもらうしかないし、そのことでようやく社会性をつなぎ止めることができるのである。
こうした考えが先に書いたように私がいなくなればそこに不愉快なシチューエーションは存在しないと言う考えに至らしめる。
しかし、この考えで10年以上やってきた「ツケ」が私を苦しめている。自業自得であることは有る程度承知はしているが、それでも苦しいことは苦しい。
とみに最近はそうだ。きっかけはパートナーとの対立であるが、そのあととるべき私の考え、行動、スタンスが定まりきらない。今までの考えと、もう少し自立した考えの間で揺れ動く自分。
自分勝手は自分勝手なのだけど、止まらない。今日も多めに薬を飲みながら仕事へ向かっている。