2014-10-21
自分の意思がわからず他人に価値を仮託する自分勝手さについて。
日常 | |
「考えずにやってみなさい」
1ヶ月ぶりのカウンセリングでカウンセラーに言われたことだ。
私にはリラックスというものがよくわからない。
よく、「1日なにもしないで過ごす」ということが挙げられるが、1日なにもしないというのはありえないし、家に引きこもっていることすら苦痛だ。
いや、家にこもっているのが苦痛なのはパートナーのせいなのかもしれない。心の傷を癒してもらっている気がしているのだけれど、それは一時的な状況に満足しているだけなのかもしれない。なぜかって一人暮らしをしていた数ヶ月間は家にいたのだから(出かけるのにやたらと体力やお金を使う地域にいたことも大きい)。
とはいえ、専門家の意見は重要なので、考えずにやってみることにしてみた。
考えずに感覚で動くというのは想像以上に難しい。それは私にとって他人の意思を無視しかねないことであり、同時に自分のさらなる疎外を生むと考えてしまう。
今*1だって夕方からカフェに出てものを書いているけれど、夕食の買い物やっらなんやらを押しつけてきてしまってよかったのだろうか、彼女もやりたいことがあったのではないだろうかと思ってしまう。
パートナーと意見の一致をみた昨日のカラオケだって、深夜2時までやっていたけれど、結局やりたいことをやっただけにすぎなくて、自分の気持ちに正直だったかととれるとはなはだ疑問に思ってしまう。
こうなってしまったのは、昔から自分の中の声を押し殺すことばかりしてきたことにつきる。家でも、学校でも親や教師のいうことが正しく、それに異を唱えたい自分はおかしいのだと思ってきた。だからしたいことは彼らに勧められたことや彼らが嫌な顔をしない範囲で自分の納得できるもの。そこに自分の自由意思は存在しない。
そして部活動や学校空間では皆の要望を満たすことでしか自分の存在してよいと思える場所を担保できなくなった。
そのことはいつしか自分の「好き」という感情や自由意思を本格的に浸食し始め、プライベートな時間であるべき時間すらも義務や他者から与えられたタスクが介在するようになった*2。
その思考は今も変わらず、他人に自分の居場所や価値を仮託し続けている。
要はどうしようもなく他人任せな奴でなおかつ自分勝手なのである。
某所で新しく見つけたジャズカフェにて。チーズケーキはもう少し甘い方が好みだけれど、ほっとできた。今後作業場所にできそうな、そんな気配。