シーナ&ロケッツ・鮎川誠が語った「シーナと俺」の物語 旅立ち~シーナさんが下した「決断」

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シーナさんが病を患ってから、214日に旅立ってしまうまで、何があったのか。鮎川誠がシーナさんとの思い出を振り返る。

ロック一筋の幸せ

「好きなことを腹いっぱいやってきた」(鮎川)

「好きなことを腹いっぱいやってきた」(鮎川)

シーナと出会ってから44年、「シーナ&ロケッツ」を結成してからは37年。常に一緒にいたし、そのほとんどはロックに関わることばかりだった。シーナと僕の音楽性は一致していたし、だからロック一筋の幸せな時間を、これまで堪能することができた。

随分と長いあいだ活動してきたから、思い出に残ることはあり過ぎるくらいある。1988年にニューヨークでレコーディングし、伝統あるライブハウス「CBGB」でライブデビューした。ウィルコ・ジョンソンとはセッションしたほか、一緒に2枚のアルバムを作ったのも印象深い。どの出来事も、シーナという素晴らしいボーカルがいてくれたからこそ、である。

最後の最後まで知らせなかった

シーナが体調を崩したのは、昨年7月初めのことだった。

普段は決して弱音を吐かんのですが、珍しく「背中が痛いっちゃ」と言ったので心配しとったんだ。詳しく検査すると、がんが進行し末期だと宣告を受けた。シーナは「何で私が…」と絶句していましたが、気丈にもすぐこう言った。

「がんの告知を受けたことは、みんなに黙っといて。せっかくコンサートに来てくれるファンが、楽しめんようになるから。それに、心配されながら歌いたいとも思わんし」

だから、最後の最後まで、家族とバンドメンバー以外はシーナの病気のことを誰も知らなかった。

主治医は抗がん剤や放射線治療を強く勧めたけど、本人は決してそれを受け入れようとはしなかった。ロックは生きとる喜びを歌うものじゃけん、シーナは治療よりもロックを迷わず選んだんです。いくつかのライブは休んだけど、シーナの復帰への執念は凄まじく、2週間で退院してまたステージに立った。

イギリスのロッカーで、何度もセッションをした盟友に、ウィルコ・ジョンソンがいる。僕たちの人生の師でもあるウィルコは、がんで余命1年と言われたんですが、ロックをしながら1年以上生きていた。そして、手術できるまでに復活することができた。このことも支えの一つとなり、シーナはがんと共存していくことを選んだ。僕もそれがいいと思い、またシーナなら必ず治ると信じていた。

ロックは世界に1人しかいない人間の集合体

ロックちゅう音楽は、世界に1人しかいない人間の集合体で盛り上がるもの。寝転んだり酒飲んだり、あるいはタバコを吸いながら、1人で、みんなで、自由な方法で楽しむ。みんな人はそれぞれ違う。シーナも僕もそういうロックンロールに夢中になっていたから、病気との闘い方もこれでいいと思いました。人はみんなそれぞれ違うからこそ、みんないいんだ。それがロックのメッセージ。歌いたい限りは歌う。ロックを何より愛していたシーナの選択を、僕は尊重した。

最後のアルバムとなった『ROKKET RIDE』

最後のアルバムとなった『ROKKET RIDE』

昨年7月には、18枚目のアルバム『ROKKET RIDE』をリリースした。8年間かけ満を持して作った、自分の子どものような、魂の12曲が入っている。シーナが非常に気に入っていたことが、何よりも嬉しかった。

9月13日には病を押して、日比谷野外大音楽堂で僕たちの35周年コンサートを行い、シーナはいつも以上のパワフルさで歌ったんです。

ですが、病はシーナのパワーを上回る勢いで襲ってきた。昨年11月頃にシーナは足の感覚がなくなり車椅子を使うようになった。最後のステージは11月23日、痛さでもう立てなくて、でも座りながらでも歌っていた。

「私は逃げも隠れもせん」

シーナ&ロケッツTwitterアカウントのツイートは6,000以上のリツイートがなされている

シーナ&ロケッツTwitterアカウントのツイートは6,000以上のリツイートがなされている

転移が見つかり、手術もした。12月からは、仕方なく放射線治療も始めた。正月は自宅で過ごし、また入院。2月初旬のある日だった。

「シーナ、きれいかねえ?」

「ああ、色艶もよくてきれいだなあ」

「北九州の若松に帰りたい…。病院で死にたくない」

きっと、死期を悟っていたのだろう。亡くなる2日前、2月12日のこと。それまで病気のことを誰にも知らせないよう希望していたシーナが、こう言った。

「私に会いたい人がいたら連れてきて。私は逃げも隠れもせんけん。自分のありのままで会えるけ」

ところが、背中への転移や放射線治療で腸が凄く腫れたりするなど、とても面会できるような状態ではなくなった。14日になると血圧がどんどん下がり、明け方4時47分、静かに息を引き取った。シーナだから「47分」だったのかな。

最後は家族が手を握り、35年分の音楽を聴かせていた。そして抱きしめ顔をすり寄せながら僕は、「『ROKKET RIDE』はシーナと俺の歌だ。最高の歌を歌ってくれてありがとう。2人の愛は永遠だぜ」と叫んでいた。

彼の腕の中で、抱かれながら死にたい

シーナさん通夜のときの鮎川(左)と内田裕也(右)

シーナさん通夜のときの鮎川(左)と内田裕也(右)

亡くなった後、あるファンの人が教えてくれたことがある。1982年に、「死ぬときはどうしたいか」というインタビューに、シーナは自分の希望をこう答えていた。

「彼の腕の中で、抱かれながら死にたい」

そのインタビューを僕は覚えていなかったが、まさに一寸の狂いもなく、シーナの希望通りの最期になったことは、奇跡のように思えた。

通夜は2月18日に「ロック葬」として行った。内田裕也さんや崔洋一さん、武田鉄矢さん、石橋凌さん、ブラザーコーンさん、Charさんなどなど、たくさんの仲間が駆けつけてくれた。一般のファンの方も、寒い中で長時間並んで焼香をしてくれた。本当に、ありがとう。

「シモキタ」のシーナ

翌日、2月19日は葬儀、シーナと最後の別れとなった。シーナを乗せた車は、世田谷の茶沢通りから代沢十字路を通り、シーナと僕の自宅近くで数分止まった。そして、「パーン」とクラクションを鳴らし火葬場へ向かった。1978年に上京し、以来ずっと暮してきた下北沢の町。きっとシーナも、喜んでくれたと思う。

歌いたい、病気になんか負けない、その思いだけで、命の灯火を燃やしていたシーナだった。シーナの歌は彼女にしか歌えないけど、シーナと一緒に作った音楽を、残った3人でまたぶっ飛ばしてやっていく。そうしたらそこに、シーナが帰って来てくれるような気がする。

朝から晩まで好きなロックをやり続け、ロックの魂を体現した44年間。筋金入りのロックフリークだったシーナと俺だった。ファンがそれを支えてくれた。感謝してもしきれない。

これだけは言いたい。ファンと仲間、みんな本当にありがとう。

シーナ、ありがとう。

(文:青柳雄介)

シーナ、ありがとう

シーナ、ありがとう

シーナ&ロケッツ・鮎川誠が葬儀直後に語った「シーナと俺」の物語 音楽――そして愛

ROKKET RIDE

ROKKET RIDE

演奏者 シーナ&ザ・ロケッツ 
歌と演奏 シーナ&ロケッツ 
作詞 柴山俊之  クリス モスデル 
作曲 シーナ  鮎川誠 
編曲 シーナ&ザ・ロケッツ 

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