先月の28日、鎌倉能舞台主催の「能を知る会」(横浜能楽堂)に行って参りました。狂言が「福の神」で野村萬斎師、能が「大社」で中森貫太師でした。お二人は芸大の後輩先輩にあたるようです。しかも、今回は式年遷宮を迎えた出雲大社へのお祝いということで、「大社」は萬斎師もお勤めになられました。「大社」はそもそも希曲だそうですが、その上、中森師と萬斎師のご共演ということで、私にとりましては、とても贅沢な思いで鑑賞をさせていただいたことです。
お能に触れるたびに思うのですが、お能は本当に宗教性豊かな芸術です。神仏を間近に見ることができるわけですから、これはもう異世界なわけです。しばしば「幽玄」という言葉で表現されますが、これは私どもが通常に感ずる「五感の世界」とは異なり、意識やさらにその奥深い心を垣間見るということです。五感にばかり頼っていますと、実は真実は遠ざかってしまう。中世人はそのことを知っていたのでしょう。現代人にとっては、忘れてしまった意識であると言ってもいいかもしれませんね。
鎌倉能舞台
http://www.nohbutai.com/perform/yokohama.htm
2014年12月01日
能を知る会(鎌倉能舞台)
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2014年11月30日
意外と分からない?自分の思い
実は本ブログ以外にも、別のジャンルで匿名のブログを開設しておりました。数年続きまして、それなりに読んで下さる方も増えてきたのですが、それが少々負担になりました。本ブログとは異なり、コメントは投稿可能な状態にしておりまして、私も返答を欠かさずしておりました。内容は教育についてのことだったのですが、本当に色々なご意見を賜りまして、私自身、とても勉強させていただきました。
ただ、コメントも匿名ですので、返答に困ってしまうような内容のご意見もあり、「匿名」ということから、人間のあり様を垣間見ることもありました。匿名ということなので、あまり投稿に責任を持っている方はいないのかもしれません。本当に思ったことを、相手構わず書き込んでしまうのでしょう。これは一般の匿名掲示板でも同じことで、こうしたものを読む場合、まともに読むと大変疲れます。人間の心のなかというのは、こうした匿名投稿のような状態なのかもしれません。
上記は匿名ブログでしたので、私も本名を明かさず記事を書いていたわけですが、いい加減な文章になってしまいがちでした。匿名なのでそれでも良いとする意見もあるかと思いますが、ブログの主宰者ですので、一応、読みやすい文章になるよう心掛けたつもりです。しかし、その匿名性が難しく、最終的にはいきなり閉鎖ということになってしまいました。私には実名のほうが性に合っていたようです。また、一般の匿名掲示板で私のブログや、私自身のことを詰る方もあり、あまり気分の良いものではありませんでした。
日本は遠慮がちな社会ですので、匿名であるということも、時には社会にとって大切かもしれません。体面だけ気にしていますと、本質を見失うことも多いでしょう。SNSには実名で参加することが原則的には条件となっているものも出てきました。今後、インターネットでの交流というものは、どのようなものになっていくのでしょう。自分で匿名ブログを主宰することは、私にとってはしんどいものだったのですが、意見表明の場としては、匿名であるということも、ある程度価値あることだと感じます。
人と対している時の言葉、インターネットで匿名状態である時の言葉。これら両方がまったく同じという方は少ないでしょう。匿名掲示板に意見表明することで、ああ、実は自分はこう思っていたんだなあと、その時になって初めて気がつくこともあるかもしれません。自分の思いというものは、自分であっても、意外と分かりにくいところがあるかもしれませんね。
ただ、コメントも匿名ですので、返答に困ってしまうような内容のご意見もあり、「匿名」ということから、人間のあり様を垣間見ることもありました。匿名ということなので、あまり投稿に責任を持っている方はいないのかもしれません。本当に思ったことを、相手構わず書き込んでしまうのでしょう。これは一般の匿名掲示板でも同じことで、こうしたものを読む場合、まともに読むと大変疲れます。人間の心のなかというのは、こうした匿名投稿のような状態なのかもしれません。
上記は匿名ブログでしたので、私も本名を明かさず記事を書いていたわけですが、いい加減な文章になってしまいがちでした。匿名なのでそれでも良いとする意見もあるかと思いますが、ブログの主宰者ですので、一応、読みやすい文章になるよう心掛けたつもりです。しかし、その匿名性が難しく、最終的にはいきなり閉鎖ということになってしまいました。私には実名のほうが性に合っていたようです。また、一般の匿名掲示板で私のブログや、私自身のことを詰る方もあり、あまり気分の良いものではありませんでした。
日本は遠慮がちな社会ですので、匿名であるということも、時には社会にとって大切かもしれません。体面だけ気にしていますと、本質を見失うことも多いでしょう。SNSには実名で参加することが原則的には条件となっているものも出てきました。今後、インターネットでの交流というものは、どのようなものになっていくのでしょう。自分で匿名ブログを主宰することは、私にとってはしんどいものだったのですが、意見表明の場としては、匿名であるということも、ある程度価値あることだと感じます。
人と対している時の言葉、インターネットで匿名状態である時の言葉。これら両方がまったく同じという方は少ないでしょう。匿名掲示板に意見表明することで、ああ、実は自分はこう思っていたんだなあと、その時になって初めて気がつくこともあるかもしれません。自分の思いというものは、自分であっても、意外と分かりにくいところがあるかもしれませんね。
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2014年11月17日
大学は学問を通じての人間形成の場
私は東京都文京区にあります獨協中学高校、そして埼玉県草加市にあります獨協大学で学びました。獨協学園は明治時代創立の獨逸学協会学校を前進としており、当時、ドイツ語やドイツ文化を学ぶ学校であったようです。私も中学高校時代、英語を専攻しながらもドイツ語を教養として学びましたが、ドイツ語を専攻する仲間もいました。大学では第二外国語としてドイツ語を履修しましたが、今では挨拶以外、すっかり忘れてしまいました。とても残念なことです。
さて、獨協大学においては、建学の精神として、天野貞祐先生の「大学は学問を通じての人間形成の場」という言葉が残されています。大学は学問をするところですが、その目的たるものは、学問のための学問ではなく、あくまでも人間として何を考え、どう行動していくかということを学ぶことにあると言うのです。これは恐らく、すべての大学に言えることなのではないかと思えます。大学が就職をするためのステップになっている現状を否定するわけではありませんが、職を選ぶということにおいても、自分がどう生きたいのかということが問題になるはずです。
翻りまして、わが浄土真宗本願寺派におきましては、宗派の学校、つまり宗門校というものが全国には存在します。京都の龍谷大学をはじめ、関東にも武蔵野大学、武蔵野女子学院、千代田女学園、国府台女子学院とあります。関西には仏教系の学校が多く、関東にはキリスト教系の学校が多い印象ですが、意外と関東にも仏教系の学校があるのです。宗派は異なりますが、駒澤大学、大正大学、淑徳大学、立正大学、そして、中学高校では進学校として有名な芝、世田谷学園、鎌倉学園も宗門校です。
関東において、キリスト教系の学校は本当に多いですね。上智大学、立教大学、青山学院大学はすぐに頭に浮かびますし、中学高校においても、栄光学園、聖光学院、女子学院、雙葉、フェリス、白百合・・・、というように、枚挙に暇がありません。小学校を併設している学校も多いようです。
こうして見ますと、意外にも宗教系学校というものは存在しているもので、学校教育という側面において、日本は宗教が身近な国であると言えそうです。ただし、多くの学校では信仰を強制することはなく、あくまでも人間としての歩みを、それぞれの信ずる教えにそって教えることを目的にしているようです。キリスト教系の学校が多い関東においては、年々、キリスト教の信者数が増加しても良さそうなものですが、そうではなく一定化していることからも、これは頷けることではないでしょうか。あくまでも人間形成が主眼に置かれていると見て良いでしょう。
私は学校というものについては、人間を育成していく、大きく余裕のある存在であってほしいと思っています。ある私立の中高一貫校では、中学1年生から全員に東大模試を受験させる学校もあると聞きます。とても大変そうです。しかし、せっかくの6年間が東大受験だけで消えると思いますと、とても勿体ない気がいたします。東大を目指すことは立派なことですが、それはあくまでも生徒個人が決めることであり、学校が誘導するものではないと思うからです。学問を究めたいなら東大を目指すもいいでしょう。
学生時代は人間形成において重要な期間ですが、社会人になってからのほうが、期間としてはより長いことは言うまでもありません。社会人というものは、人間としての力量が問われる場でもありますし、学生時代は成績も大事ですが、あまり点数に拘るような狭い考えは捨てたほうがいいんじゃないでしょうか。人間や人生は点数なんかで決まるものではないですしね。
さて、獨協大学においては、建学の精神として、天野貞祐先生の「大学は学問を通じての人間形成の場」という言葉が残されています。大学は学問をするところですが、その目的たるものは、学問のための学問ではなく、あくまでも人間として何を考え、どう行動していくかということを学ぶことにあると言うのです。これは恐らく、すべての大学に言えることなのではないかと思えます。大学が就職をするためのステップになっている現状を否定するわけではありませんが、職を選ぶということにおいても、自分がどう生きたいのかということが問題になるはずです。
翻りまして、わが浄土真宗本願寺派におきましては、宗派の学校、つまり宗門校というものが全国には存在します。京都の龍谷大学をはじめ、関東にも武蔵野大学、武蔵野女子学院、千代田女学園、国府台女子学院とあります。関西には仏教系の学校が多く、関東にはキリスト教系の学校が多い印象ですが、意外と関東にも仏教系の学校があるのです。宗派は異なりますが、駒澤大学、大正大学、淑徳大学、立正大学、そして、中学高校では進学校として有名な芝、世田谷学園、鎌倉学園も宗門校です。
関東において、キリスト教系の学校は本当に多いですね。上智大学、立教大学、青山学院大学はすぐに頭に浮かびますし、中学高校においても、栄光学園、聖光学院、女子学院、雙葉、フェリス、白百合・・・、というように、枚挙に暇がありません。小学校を併設している学校も多いようです。
こうして見ますと、意外にも宗教系学校というものは存在しているもので、学校教育という側面において、日本は宗教が身近な国であると言えそうです。ただし、多くの学校では信仰を強制することはなく、あくまでも人間としての歩みを、それぞれの信ずる教えにそって教えることを目的にしているようです。キリスト教系の学校が多い関東においては、年々、キリスト教の信者数が増加しても良さそうなものですが、そうではなく一定化していることからも、これは頷けることではないでしょうか。あくまでも人間形成が主眼に置かれていると見て良いでしょう。
私は学校というものについては、人間を育成していく、大きく余裕のある存在であってほしいと思っています。ある私立の中高一貫校では、中学1年生から全員に東大模試を受験させる学校もあると聞きます。とても大変そうです。しかし、せっかくの6年間が東大受験だけで消えると思いますと、とても勿体ない気がいたします。東大を目指すことは立派なことですが、それはあくまでも生徒個人が決めることであり、学校が誘導するものではないと思うからです。学問を究めたいなら東大を目指すもいいでしょう。
学生時代は人間形成において重要な期間ですが、社会人になってからのほうが、期間としてはより長いことは言うまでもありません。社会人というものは、人間としての力量が問われる場でもありますし、学生時代は成績も大事ですが、あまり点数に拘るような狭い考えは捨てたほうがいいんじゃないでしょうか。人間や人生は点数なんかで決まるものではないですしね。
posted by 伊東昌彦 at 14:49
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2014年11月13日
男女の制服交換
山梨県の県立高校で男女の制服交換が行われたようですね。いくつかの新聞社で報道されておりました。生徒さんが自主的に企画したそうで、その発想と実行力には敬意を表します。ただ、何を学ぶことを目的としているのか、やや私には分かりにくいことでした。おそらく、性に対して固定概念があることを学ぶということなのかなあ。もしそうであれば、制服の交換とどのように関係するのか、もう少し情報が欲しいと思いました。話題性は感じましたが、学校としての意図も知りたいところです。
服装はそもそも個人の趣味なので、自分が良いと思えば、誰からも意見されるようなことではありません。男性でもスカート履きたければ、勝手に履けばいいのです。そういう習慣の民族ありますよね。よく考えれば、袴だってスカートみたいなもんです。また、女性がズボンを履くことは普通ですし、女子が男子の制服を着ても違和感はないでしょう。時代によってスタイルは変わりますし、たまたま現代日本においては、スカートとズボンの役割がこうなっているというだけの話でしょう。そう考えますと、服装は個人の趣味でありながら、同時に極めて社会性の高いものだということに気づかされます。場をわきまえた服装なんて言いますが、それこそ社会的な問題です。
ところで、実は私、仏教を勉強するために、ある時期、かつての武蔵野女子大学(浄土真宗の宗門校)における講義に出たことがあります。今は武蔵野大学として共学化しておりますが、当時は女子大でした。つまり、女性ばかりのクラスで講義を受けたわけです。正直言いまして、あまり居心地の良いものではありませんでした。少数派の男性として見られるので、とても浮いた感じがするわけです。積極的に講義参加というわけにはいきませんでした。この時、初めて男性社会のなかで頑張る女性の感覚が、体験として理解できたような気がしました。女性の社会進出の促進を考えたとき、いかに男性社会というものが障害になっているのかということが、この時の体験によって如実に理解できるようになったわけです。
男女の制服交換も、こうした性による差別を学ぶ機会であったのかもしれませんが、制服を交換しても、実際には差別を感じることは出来ないでしょう。なぜならば、スカートは差別ではありませんし、何よりズボンは男女共通で使用します。交換によって被差別の状況を体験できるわけではありません。なので、こうした社会問題を学ぶという意義ではなく、服飾史を学ぶということであったのかもしれません。なぜ、男性と女性で服装の大枠が認められてしまうのか。もっと自由に自己表現しても良いのではないか。こうした学びであれば、とても意義深いことかと思えます。
たしかに不思議ですよね。個人的な感覚ですが、なぜスカートは可愛く見えるのでしょう。可愛いと感じる根拠はどこにあるのでしょうか。経験上、勝手に思い込んでいるだけかもしれません。
服装はそもそも個人の趣味なので、自分が良いと思えば、誰からも意見されるようなことではありません。男性でもスカート履きたければ、勝手に履けばいいのです。そういう習慣の民族ありますよね。よく考えれば、袴だってスカートみたいなもんです。また、女性がズボンを履くことは普通ですし、女子が男子の制服を着ても違和感はないでしょう。時代によってスタイルは変わりますし、たまたま現代日本においては、スカートとズボンの役割がこうなっているというだけの話でしょう。そう考えますと、服装は個人の趣味でありながら、同時に極めて社会性の高いものだということに気づかされます。場をわきまえた服装なんて言いますが、それこそ社会的な問題です。
ところで、実は私、仏教を勉強するために、ある時期、かつての武蔵野女子大学(浄土真宗の宗門校)における講義に出たことがあります。今は武蔵野大学として共学化しておりますが、当時は女子大でした。つまり、女性ばかりのクラスで講義を受けたわけです。正直言いまして、あまり居心地の良いものではありませんでした。少数派の男性として見られるので、とても浮いた感じがするわけです。積極的に講義参加というわけにはいきませんでした。この時、初めて男性社会のなかで頑張る女性の感覚が、体験として理解できたような気がしました。女性の社会進出の促進を考えたとき、いかに男性社会というものが障害になっているのかということが、この時の体験によって如実に理解できるようになったわけです。
男女の制服交換も、こうした性による差別を学ぶ機会であったのかもしれませんが、制服を交換しても、実際には差別を感じることは出来ないでしょう。なぜならば、スカートは差別ではありませんし、何よりズボンは男女共通で使用します。交換によって被差別の状況を体験できるわけではありません。なので、こうした社会問題を学ぶという意義ではなく、服飾史を学ぶということであったのかもしれません。なぜ、男性と女性で服装の大枠が認められてしまうのか。もっと自由に自己表現しても良いのではないか。こうした学びであれば、とても意義深いことかと思えます。
たしかに不思議ですよね。個人的な感覚ですが、なぜスカートは可愛く見えるのでしょう。可愛いと感じる根拠はどこにあるのでしょうか。経験上、勝手に思い込んでいるだけかもしれません。
posted by 伊東昌彦 at 12:10
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2014年10月31日
教育には色々なパターンがあっていい
クリニックの仕事を兼務しており、週に一度は東京まで出向いています。東京駅付近なので新幹線を使っていますが、新幹線通勤ならぬ、新幹線通学の方が意外と多いことに気づかされます。小田原まで来る函嶺白百合の生徒さんはもちろん、小田原から東京方面、おそらく西日暮里まで行くのであろう生徒さんにも出会います。たしかに、新幹線ですと品川まで30分弱、東京まででも40分弱で到着してしまいます。費用を抜きにすれば、十分に通学可能ではあります。
私は東京文京区の獨協中学高校に通っていました。当時は中野区に住んでおりましたので、45分程度で通うことができました。しかし、高校途中で小田原まで引っ越した級友がいまして、彼は新幹線で文京区まで毎日通学していました。もちろん楽ではなかったと思いますが、頑張っていたのが印象的です。定期券も見せてもらい、すごい金額であったのも衝撃でした。ご両親はご苦労をされたんじゃないかと、自分が今、親という立場になって改めて感じます。
最近、公立小中の一貫教育というものが、行政主導で始まっているようです。昔に比べれば子どもの成長は心身ともに早くなってきており、とくに女子の場合、小学5年生にもなれば、かつての中学生と同じような体格の子もいます。小学校6年間と中学校3年間という区切り方について、再考すべき時期に来ているのかもしれません。また、これは昔から変わらぬことでしょうが、中学校に入りますと、いきなり勉強のペースが上がります。のんびりしていますと、高校受験まで間に合わなくなってしまう可能性もあり、勉強面でも小中の連携は重要なことでしょう。
私もこうした一貫教育には賛成ですが、区切り方で言うならば、中高一貫のほうが子どものためになるかと思っています。小中一貫と言いますと聞こえは良いのですが、単純に所轄の問題であり、市区町村管轄の小中をまとめてしまったという気もします。自分自身が中高の一貫校で育ったということもあるのですが、一貫教育の中高は基本的に自由に色々なことにチャレンジできます。私のなかにおいて、自分で考えてやってみるという精神は、この時期に培われたものだということになっています。つまり、とても楽しく学ぶことが出来たわけです。現在、多くの中高一貫校は入試を設けており、小学生のうちから何らかの受験勉強をしないといけません。これは苦しい側面もあるのですが、私は高校受験をするよりも、中高が連続していて自由闊達であるほうが、成長期を迎える子どもたちには有益かと思えます。もちろん、現在のような過剰な受験戦争を肯定しているわけではなく、中高一貫校はもう少し子どものことを考えて入試問題を作成すべきかと思うのですが、それ以上に中高の6年間は貴重なものだと考えています。
ただし、中高一貫校の多くは私立ですので、費用が結構かかります。しかも私立の入試は特殊な問題が多く、私立中学受験の専門塾に通わないと突破するのが難しい。余計に費用がかかるわけです。これでは困るわけですが、今、公立の中高一貫校というものが注目されています。東京にはかなり多く、神奈川県でも設置され始めました。小田原から近いところでは、県立平塚中等教育学校があります。倍率はかなり高いようですが、入試は私立のような特殊なものではなく、高校受験と同じような感覚なのかと思います。そうであれば、高校受験をするのか、それとも中学受験をするのか、これは時期だけの問題ですので、かなり一般的になります。実際、公立中高一貫校の入試には、高校受験専門の塾が強さを発揮しているようです。
個人的には、この県西部にも公立中高一貫校を設置して欲しいと思っています。とくに県立小田原高校。全校生徒の3分の1ぐらいは別枠で一貫化して、中学から入れても良いかと。東京では小石川や両国が一貫化していますし、県立トップとは言わなくても、小田原高校レベルの学校に一貫校を設置することは、勉強したい、勉強させたい層の受け皿になると思います。小田原はターミナル駅ですし、この地域に限らず、湘南や県央からも生徒さんは来るでしょう。県西は過疎化が進んでいますので、地域活性化にもつながると感じます。地域活性化には人材が必要であることは言うまでもありません。
都会でなくても優秀な子は多いですし、どんな環境であっても、自分から勉強して難関大学に進学する子はたくさんいます。しかし、そうではない層もいるものなので、環境依存型と言いましょうか、周囲が勉強する雰囲気だから勉強をすることが出来たという子もいるでしょう。実は多くはこのタイプであり、放っておいたら遊びに夢中になってしまう。私なんかもそうでした。教育には環境を整えてやることも大事でしょう。天才肌の子には必要ないかもしれませんが、天才はそうそう出るもんじゃありません。
最近、新幹線通学の生徒さんを見まして、こんなことを考えています。
私は東京文京区の獨協中学高校に通っていました。当時は中野区に住んでおりましたので、45分程度で通うことができました。しかし、高校途中で小田原まで引っ越した級友がいまして、彼は新幹線で文京区まで毎日通学していました。もちろん楽ではなかったと思いますが、頑張っていたのが印象的です。定期券も見せてもらい、すごい金額であったのも衝撃でした。ご両親はご苦労をされたんじゃないかと、自分が今、親という立場になって改めて感じます。
最近、公立小中の一貫教育というものが、行政主導で始まっているようです。昔に比べれば子どもの成長は心身ともに早くなってきており、とくに女子の場合、小学5年生にもなれば、かつての中学生と同じような体格の子もいます。小学校6年間と中学校3年間という区切り方について、再考すべき時期に来ているのかもしれません。また、これは昔から変わらぬことでしょうが、中学校に入りますと、いきなり勉強のペースが上がります。のんびりしていますと、高校受験まで間に合わなくなってしまう可能性もあり、勉強面でも小中の連携は重要なことでしょう。
私もこうした一貫教育には賛成ですが、区切り方で言うならば、中高一貫のほうが子どものためになるかと思っています。小中一貫と言いますと聞こえは良いのですが、単純に所轄の問題であり、市区町村管轄の小中をまとめてしまったという気もします。自分自身が中高の一貫校で育ったということもあるのですが、一貫教育の中高は基本的に自由に色々なことにチャレンジできます。私のなかにおいて、自分で考えてやってみるという精神は、この時期に培われたものだということになっています。つまり、とても楽しく学ぶことが出来たわけです。現在、多くの中高一貫校は入試を設けており、小学生のうちから何らかの受験勉強をしないといけません。これは苦しい側面もあるのですが、私は高校受験をするよりも、中高が連続していて自由闊達であるほうが、成長期を迎える子どもたちには有益かと思えます。もちろん、現在のような過剰な受験戦争を肯定しているわけではなく、中高一貫校はもう少し子どものことを考えて入試問題を作成すべきかと思うのですが、それ以上に中高の6年間は貴重なものだと考えています。
ただし、中高一貫校の多くは私立ですので、費用が結構かかります。しかも私立の入試は特殊な問題が多く、私立中学受験の専門塾に通わないと突破するのが難しい。余計に費用がかかるわけです。これでは困るわけですが、今、公立の中高一貫校というものが注目されています。東京にはかなり多く、神奈川県でも設置され始めました。小田原から近いところでは、県立平塚中等教育学校があります。倍率はかなり高いようですが、入試は私立のような特殊なものではなく、高校受験と同じような感覚なのかと思います。そうであれば、高校受験をするのか、それとも中学受験をするのか、これは時期だけの問題ですので、かなり一般的になります。実際、公立中高一貫校の入試には、高校受験専門の塾が強さを発揮しているようです。
個人的には、この県西部にも公立中高一貫校を設置して欲しいと思っています。とくに県立小田原高校。全校生徒の3分の1ぐらいは別枠で一貫化して、中学から入れても良いかと。東京では小石川や両国が一貫化していますし、県立トップとは言わなくても、小田原高校レベルの学校に一貫校を設置することは、勉強したい、勉強させたい層の受け皿になると思います。小田原はターミナル駅ですし、この地域に限らず、湘南や県央からも生徒さんは来るでしょう。県西は過疎化が進んでいますので、地域活性化にもつながると感じます。地域活性化には人材が必要であることは言うまでもありません。
都会でなくても優秀な子は多いですし、どんな環境であっても、自分から勉強して難関大学に進学する子はたくさんいます。しかし、そうではない層もいるものなので、環境依存型と言いましょうか、周囲が勉強する雰囲気だから勉強をすることが出来たという子もいるでしょう。実は多くはこのタイプであり、放っておいたら遊びに夢中になってしまう。私なんかもそうでした。教育には環境を整えてやることも大事でしょう。天才肌の子には必要ないかもしれませんが、天才はそうそう出るもんじゃありません。
最近、新幹線通学の生徒さんを見まして、こんなことを考えています。
posted by 伊東昌彦 at 09:58
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2014年10月23日
なんで信号無視するかな
私、やたらと公共ルール遵守なところがありまして、場合によっては融通がきかない性格です。当たり前なことかもしれませんが、横断歩道の信号も、車両も人も誰もいない状態においてさえ、しっかり守ってしまいます。ほんの数メートルの信号つき横断歩道であれば、車が来なければ赤でも渡ってしまうことってありますよね。それが出来ないのです。渡ってしまう知人と一緒ですと、とても困ります。やたら頭が固いところがあるわけです。
公共ルールは皆が守らねば意味がありませんが、厳格すぎるのもどうかと思う場面はあるでしょう。しかし、信号につきましては、私は厳格で良いと思っています。車が信号無視してきましたら、危ないどころの騒ぎではありません。歩道と車道の違いはありましても、信号を守るという行為自体は同じことだと思うからです。
都会ですと、あまり車両の信号無視というのはないかもしれません。車両も人も多いですし、無視すると本気で危険です。逆に人の信号無視は多いことでしょう。集団心理というのもあります。「赤信号、みんなで渡れば・・・」の世界ですよ。繁華街なんて車が通るほうが大変です。一方、田舎ですと、人はあまりいませんので、今度は車両の信号無視が多い。これは危険です。人がまったくいないわけではないですし、とりわけ、児童や生徒は歩いて学校に行くので、登下校時間帯の信号無視は極めて危険です。
お寺の下は交差点ですが、とにかく信号無視が多くて危ないったらありゃしません。公共ルールに厳格な私でなくとも、こりゃ危険だねと思うことでしょう。しかも、小学校と中学校の通学路です。交差点を通過してしまいたいので、かなり遠くから黄色信号になっているにも関わらず、加速して突っ込んでくる大馬鹿者が後を絶ちません。もちろん、ギリギリではなく、かなりの信号無視となります。会社に遅刻したくないのであれば、あと5分早く出ればいいのものを。
ちなみに、信号無視をする輩は、老若男女とくに区別はありません。車が自転車みたいな感覚の方もいるようです。信号ぐらい守ってほしいなあと思います。モラルの意識が低いのか、何だかか良く分かりませんが、とにかくどうしようもない輩です。
人は身勝手な存在です。だからこそルールがあります。仏教にも五戒というものがあります。ルールにしなければ、しっかりと自分を律していくことすら、ままならない存在だからです。
公共ルールは皆が守らねば意味がありませんが、厳格すぎるのもどうかと思う場面はあるでしょう。しかし、信号につきましては、私は厳格で良いと思っています。車が信号無視してきましたら、危ないどころの騒ぎではありません。歩道と車道の違いはありましても、信号を守るという行為自体は同じことだと思うからです。
都会ですと、あまり車両の信号無視というのはないかもしれません。車両も人も多いですし、無視すると本気で危険です。逆に人の信号無視は多いことでしょう。集団心理というのもあります。「赤信号、みんなで渡れば・・・」の世界ですよ。繁華街なんて車が通るほうが大変です。一方、田舎ですと、人はあまりいませんので、今度は車両の信号無視が多い。これは危険です。人がまったくいないわけではないですし、とりわけ、児童や生徒は歩いて学校に行くので、登下校時間帯の信号無視は極めて危険です。
お寺の下は交差点ですが、とにかく信号無視が多くて危ないったらありゃしません。公共ルールに厳格な私でなくとも、こりゃ危険だねと思うことでしょう。しかも、小学校と中学校の通学路です。交差点を通過してしまいたいので、かなり遠くから黄色信号になっているにも関わらず、加速して突っ込んでくる大馬鹿者が後を絶ちません。もちろん、ギリギリではなく、かなりの信号無視となります。会社に遅刻したくないのであれば、あと5分早く出ればいいのものを。
ちなみに、信号無視をする輩は、老若男女とくに区別はありません。車が自転車みたいな感覚の方もいるようです。信号ぐらい守ってほしいなあと思います。モラルの意識が低いのか、何だかか良く分かりませんが、とにかくどうしようもない輩です。
人は身勝手な存在です。だからこそルールがあります。仏教にも五戒というものがあります。ルールにしなければ、しっかりと自分を律していくことすら、ままならない存在だからです。
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2014年10月19日
坊さんのあるべき姿
坊さんのあるべき姿ってのは、いったいどんなものなのでしょう。お釈迦さまの時代や、親鸞聖人の時代から学ぶことも可能ですが、敢えて現代的にはどうなのか、とても気になるところです。枠にはまれということではなく、自由でありながらも、利他(→他者に利益を与えること)に生きる坊さんとして、社会からどう求められているのかということは、「あるべき姿」として重要だと思います。
中高時代からの友人とメールをしていましたら、こんなことを伝えてくれました。以下に引用します。「慈愛に満ちたやすらぎ、安心感、あとは学識でしょうか。地域のお寺さんって、言ったらかかりつけ医みたいなところがあるじゃないですか。毎週日曜に通う教会もそうだと思います。そこで求めるものは、第一にやすらぎ、安心感といったものなんじゃないかなぁ、と思います。そして、これはあくまでプラスアルファとしてですが、やはりしきたりに精通していて、学識もあり、何か質問するとスッと明快に教えてくださる、といった存在で居てほしいな」、ということです。
坊さんも色々と迷っている時代です。何をすれば良いのか分からないという方も多いでしょう。目立つことをするのもインパクトあって効果的かもしれませんが、基本は「かかりつけ医」だと思います。そもそも、本山以外の一般寺院というものは、地域のお寺として成立しています。地域活動こそ坊さんに求められてきた社会的役割なわけで、それは今も変わらないでしょう。
地域活動を通じて、どこかで仏教を伝えられれば、それこそ利他に生きることにつながると思います。坊さんにとりまして、勤行、修行(勉学)、掃除は基本ですが、そこに地域活動を入れるならば、自からお寺も活気づいてくるはずです。実際、私も地域活動を通じて知り合った方に頼まれまして、ご供養のお経をあげたこともございます。坊さんも地域に出て、顔を見せないといけません。
かつてのインドにおきましても、僧院での修行中心時代がありました。修行は大切なことですが、社会と接点のない修行というのは、単なる自己満足に陥りがちです。そうではない、仏教の本来の生き方は市井にこそあるはずだ、ということで出てきたのが大乗仏教です。お釈迦さまは修行と説法の繰り返しのご生涯でした。原点に立ち返るという意味でも、大乗仏教の出現は意義深いことだと思います。
私も大乗仏教の坊さんです。友人の言葉を忘れず、利他に生きる坊さんでありたいと思っています。
中高時代からの友人とメールをしていましたら、こんなことを伝えてくれました。以下に引用します。「慈愛に満ちたやすらぎ、安心感、あとは学識でしょうか。地域のお寺さんって、言ったらかかりつけ医みたいなところがあるじゃないですか。毎週日曜に通う教会もそうだと思います。そこで求めるものは、第一にやすらぎ、安心感といったものなんじゃないかなぁ、と思います。そして、これはあくまでプラスアルファとしてですが、やはりしきたりに精通していて、学識もあり、何か質問するとスッと明快に教えてくださる、といった存在で居てほしいな」、ということです。
坊さんも色々と迷っている時代です。何をすれば良いのか分からないという方も多いでしょう。目立つことをするのもインパクトあって効果的かもしれませんが、基本は「かかりつけ医」だと思います。そもそも、本山以外の一般寺院というものは、地域のお寺として成立しています。地域活動こそ坊さんに求められてきた社会的役割なわけで、それは今も変わらないでしょう。
地域活動を通じて、どこかで仏教を伝えられれば、それこそ利他に生きることにつながると思います。坊さんにとりまして、勤行、修行(勉学)、掃除は基本ですが、そこに地域活動を入れるならば、自からお寺も活気づいてくるはずです。実際、私も地域活動を通じて知り合った方に頼まれまして、ご供養のお経をあげたこともございます。坊さんも地域に出て、顔を見せないといけません。
かつてのインドにおきましても、僧院での修行中心時代がありました。修行は大切なことですが、社会と接点のない修行というのは、単なる自己満足に陥りがちです。そうではない、仏教の本来の生き方は市井にこそあるはずだ、ということで出てきたのが大乗仏教です。お釈迦さまは修行と説法の繰り返しのご生涯でした。原点に立ち返るという意味でも、大乗仏教の出現は意義深いことだと思います。
私も大乗仏教の坊さんです。友人の言葉を忘れず、利他に生きる坊さんでありたいと思っています。
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2014年10月14日
お墓を作りましょう
今夏、わが家ではカブトムシの飼育にチャレンジしました。庭でひっくり返っていたオスを捕獲したところ、翌日、なぜかメスが窓越しに出現。ガンガンとガラス窓に激突するので、一緒に飼うことにしました。飼育担当は次男坊です。オスは弱っていましたが、元気になりました。メスは元気まんまんで、放したら家のなかを飛び回りまして、一家は騒然。セミの侵入と同じぐらいの衝撃でした。
次男坊ははじめて生き物を飼う経験です。捕獲するのは申し訳ないと思いつつ、カブト2匹に協力してもらうことにしました。最近はエサもちゃんと市販のものがあり、お世話は比較的簡単です。なんと土も売っていたので、庭のものでも良かったのですが、こちらを使用しました。9月いっぱいは元気に暮らしましたが、役目を終えたのでしょう、10月には息を引き取りました。
庭に穴を掘りまして、ちょっとしたお墓を作りました。私もかつて、お墓を作った経験があります。これって結構大事なことだと思います。命が終えるということを、お墓を作るという作業、そこに遺骸を入れる作業、この作業から学ぶわけです。理屈ではなく、体で感じるところと言いましょうか。お子さま方には、是非、お墓を作ることをお勧めいたします。カブトの命から、自分の命を感じてもらえればと思います。
マンションですと、なかなか難しいこともあるかもしれません。私もマンション住まいの経験がありますので、よく分かります。でも、どこでも良いと思うのです。先生の許可をいただければ、学校だって良いと思います。ポイと捨ててしまうのは、あまり良いことではないでしょう。何のために飼っていたのか、もう一度考えてみることは価値あることだと思います。カブトだって捕獲されるのは嬉しいわけないですしね。
わが家のカブト、ちゃんと生命のバトンを受け渡していました。飼育用のケースから土をあけましたら、大きな幼虫が出てきました。これは嬉しい。次男坊は驚愕していました。今は幼虫のお世話をしています。霧吹きをかけるだけですけどね。
次男坊ははじめて生き物を飼う経験です。捕獲するのは申し訳ないと思いつつ、カブト2匹に協力してもらうことにしました。最近はエサもちゃんと市販のものがあり、お世話は比較的簡単です。なんと土も売っていたので、庭のものでも良かったのですが、こちらを使用しました。9月いっぱいは元気に暮らしましたが、役目を終えたのでしょう、10月には息を引き取りました。
庭に穴を掘りまして、ちょっとしたお墓を作りました。私もかつて、お墓を作った経験があります。これって結構大事なことだと思います。命が終えるということを、お墓を作るという作業、そこに遺骸を入れる作業、この作業から学ぶわけです。理屈ではなく、体で感じるところと言いましょうか。お子さま方には、是非、お墓を作ることをお勧めいたします。カブトの命から、自分の命を感じてもらえればと思います。
マンションですと、なかなか難しいこともあるかもしれません。私もマンション住まいの経験がありますので、よく分かります。でも、どこでも良いと思うのです。先生の許可をいただければ、学校だって良いと思います。ポイと捨ててしまうのは、あまり良いことではないでしょう。何のために飼っていたのか、もう一度考えてみることは価値あることだと思います。カブトだって捕獲されるのは嬉しいわけないですしね。
わが家のカブト、ちゃんと生命のバトンを受け渡していました。飼育用のケースから土をあけましたら、大きな幼虫が出てきました。これは嬉しい。次男坊は驚愕していました。今は幼虫のお世話をしています。霧吹きをかけるだけですけどね。
posted by 伊東昌彦 at 07:52
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| 仏教 住職恣意 -jyushokushii
2014年10月07日
坊さんがバラエティの異様
先日、新たにスタートするバラエティ番組から出演を打診されました。即座に断りましたが、坊さんもバラエティでタレント化するのでしょうか。世間に埋没しないためにも、ある程度は坊さんにもこういう露出は必要かと思います。ただ、テレビ番組の影響力を考えますと、坊さんも商品化していく可能性もあり不安になります。
坊さんがお寺の内幕を話したり、霊感の話をしたりすれば、そりゃ面白おかしい図が出来上がりますよね。何てったって坊さんですから。坊さんってのは不思議な存在です。あんな服装しているけど、異様に俗っぽい人も多い。一体全体、何なんだろうと思われる方も多いことでしょう。だから面白がられるわけです。
一瞬、ちょっと出てみようかななあとも思いましたが、一時的にテレビ出演の恩恵があっても、長い目で見れば、テレビ用に奇抜な坊さんを演じなければならないかもしれんわけで、悪影響のほうが多そうです。バラエティに坊さん・・・。坊さんが世間からどう見られているのか、今一度、振り返る必要がありそうです。坊さんとしての本道、ちゃんと考えないと。
坊さんがお寺の内幕を話したり、霊感の話をしたりすれば、そりゃ面白おかしい図が出来上がりますよね。何てったって坊さんですから。坊さんってのは不思議な存在です。あんな服装しているけど、異様に俗っぽい人も多い。一体全体、何なんだろうと思われる方も多いことでしょう。だから面白がられるわけです。
一瞬、ちょっと出てみようかななあとも思いましたが、一時的にテレビ出演の恩恵があっても、長い目で見れば、テレビ用に奇抜な坊さんを演じなければならないかもしれんわけで、悪影響のほうが多そうです。バラエティに坊さん・・・。坊さんが世間からどう見られているのか、今一度、振り返る必要がありそうです。坊さんとしての本道、ちゃんと考えないと。
posted by 伊東昌彦 at 10:18
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| 仏教 教え〜事事無礙 -jijimuge
2014年10月05日
離檀ということ
離檀というのは、お寺の檀家をやめることです。お墓を引き払ってしまうわけです。最近、石材屋さんがしきりに「お墓のお引っ越し」を宣伝されていますね。新規ではお客さんが取れないのでしょう。これも時代の流れと言うべきことでしょうか。
お墓の区画が空いてしまいますと、これは結構困ります。墓地区画の中古販売は難しいですし、活用方法が思いつきません。墓地が虫食い状態になってしまうわけです。もちろん、収入も減少しますので、離檀が増えれば増えるほど、お寺の経営は圧迫されていきます。
離檀がまったくないお寺はないとは思いますが、出来るだけないようにしたいものです。そのためには、魅力あるお寺であり続ける必要がありましょう。檀家としての負担も問題ですし、改革をしなければならないことは、山のようにあると感じます。
お墓の区画が空いてしまいますと、これは結構困ります。墓地区画の中古販売は難しいですし、活用方法が思いつきません。墓地が虫食い状態になってしまうわけです。もちろん、収入も減少しますので、離檀が増えれば増えるほど、お寺の経営は圧迫されていきます。
離檀がまったくないお寺はないとは思いますが、出来るだけないようにしたいものです。そのためには、魅力あるお寺であり続ける必要がありましょう。檀家としての負担も問題ですし、改革をしなければならないことは、山のようにあると感じます。
posted by 伊東昌彦 at 13:58
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