無要の葉

振り上げた正論(つるぎ)は切り裂くためじゃない

国語教育についての雑感

 昨日こんな記事をあげた。要約すると「国語とか理系だから使わないもんねーという記事に対して言及しようと思ったら消えてた」というところです。その後ブログのみならずはてブTwitterアカウント全部消したようです。

 

古典を勉強する意義とその他いろいろな話 - 無要の葉

 

 学生だから勉強に専念すると言う「名目」らしいですが、それは非常にもったいないと思いました。該当ブコメを見てもただの罵詈雑言というよりこれから起こるムーブメントの到来を告げている感じがするのですが、おそらく文章を書いて全部肯定されないと苦しかったのでしょう。ふむふむ……。

 

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 そうしたら「古典を学ぶ意義」について様々な角度で言及してくださった方々がいらっしゃったのでありがたいです。

 


どうして古典を「勉強」するの?意味あるの?⇒あるよ! - ミチクサダイアリー

 


知への尊敬~古典を読む意味 - いつか朝日が昇るまで

 

 そう考えると「国語教育」って本当に広い能力を育てているんだなーと思うのです。物事は多角的にとらえるとどこまでも多角的に広がる。九十六角形くらいになると円に近くなって、みんなまーるく納まるかもしれない。

 

【答えは最も正しいものをひとつ】

 一応「国語教育」というタイトルなので「国語教育」の話をすると、ブコメで指摘されている通りこの広い能力を育てるのに現在の義務教育のやり方はどうなんだ、というところは確かにあります。意義や教材は申し分ないのに、何故かそれを児童生徒に渡すことに失敗している気がしてならないのです。

 

 子供っていうのは純粋ですから潔癖なもので「絶対これが正しくないといけない」って思い込むんですよ。だから「この人の言うことは信じてはいけない」と思ったらとことん否定しますし、その逆もあり得ます。例えそれが大人からしたらちっぽけなことでも、頑なに肯定しようとします。子供のうちはそれでも構いませんが、「正しいことは絶対ひとつ」は社会に出たら通用しません。問題の数だけ答えがあり、答えの数以上に問題があるのです。

 

 よく「国語の問題は正解がひとつじゃないから嫌い」とかそういう言説がありますが、それは国語という教科の特性上仕方のないことです。そもそも国語の読解問題と言うのは絶対にひとつの答えを導くものではありません。見出し通りに「最も正しいものをひとつ選ぶ」ことが大事なのです。

 

 例えば「夕焼けの色は一般的にどんな色でしょう」という問題に「セルリアンブルー」とか「モスグリーン」と言ったら、それは明らかな間違いです。「赤」などの答えが良い解答ですが、ここで「茜色」や「オレンジ色」を選んでも基本的には問題がありません。間違いではないのです。でも「模範解答」には「赤」って書いてある。そこんところをうまく飲み込めないとこういうことになる。

 

「正解は赤だけなのか」

「いや、茜色もオレンジ色も正しいよ」

「でも模範解答は赤って書いてあるよ」

「他の色でも正解なんだよ」

「じゃあどうして僕のモスグリーンは正解じゃないの?」

「夕焼けはモスグリーンじゃないでしょう」

「でも僕にはモスグリーンに見えるんだ!」

「それは一般的ではないから間違いなんだよ」

「僕自身が否定された! 国語嫌い!」

 

 そもそもこの子供がおそらく「夕焼け」という言葉を正確に捉えていないところが問題なのですが、前記事で触れたように言語感覚と言うのは無意識で身に着くので、言葉の間違いはそのまま本人の否定につながると錯覚してしまうのです。あくまでも言語はツールであるということを学ぶのが「国語」のもうひとつ大事な側面だと思うのです。

 

【国語嫌いを作っているのは?】

 日頃から言っているのですが、「国語教師」を目指す人って言うのは基本的に読書が大好きな人が多いです。「本さえあれば幸せ!」という人が読書が苦手な子に読書の楽しさを教えられるかというと甚だ疑問です。「どくしょかんそうぶん」とか「あさどくまらそん」とかマッチョな読書指導が展開されれば苦手な子はますます読書が嫌いになります。

 

 更に国語教師自身も嫌いになって「国語教育」そのものに疑問を感じるようになると思います。教育には信頼関係が大事なのですが、その「苦手な子の気持ち」という大事な部分をわかってやれないと子供の「苦手嫌い」を作ってしまいます。「体育」なんてその最たる教科じゃないでしょうか。

 

 例えばかけ算順序問題でよく出る「機械的にバツにしては子供のやる気が下がる」というのは、完全に大人の視点だと思うのです。教育としては何故バツがついたのかを納得できればそれでいいと思うし、納得できないのであればその姿勢を大事にさせればいいと思うのです。どちらかというと勝手に子供に感情移入して「間違ったら悲しいから」というのは大人の都合だよなぁと思うのです。ちなみにかけ算問題に対して自分は「今後も文章題で登場順にただ式に数字を並べることを防げるなら正直どっちでもいい派」です。割り算や引き算でも順番通りに並べて「2-4=2」とか平気でやらかすからね、そういう子は。

 

 国語も同じで、大人の「よかれと思って」が裏目に出る場合が多いです。何かで「読み聞かせが大事だということで演劇経験を生かして臨場感たっぷりの読み聞かせを毎晩していたら、『お母さんが読んでくれるから』と自分で字を追うことが面倒だという認識を与えてしまった」という失敗談を見たことがあります。

 

 言語感覚と言うのは「無意識の自分」と向き合うことです。そこで「これは間違っている」とか「これはとってもいい」とかその価値観を「無意識の自分」とすり合わせるのが一般的な「国語教育」のはずなのです。いくら多様性は大事といっても、「人が死んでいるけど人それぞれだから僕は笑うよ、あはは」じゃあダメなんですよ。「人が死んだから悲しい」が一般的な見解であることは理解できなくても認識しなければいけません。それが人間社会で生活すると言うことです。

 

 そんなことまで考えて授業を組み立てたり授業に臨んだりっていうのが多分理想なんですが、もちろんそんなことは机上の空論です。机の上で勉強していてもそうなんです。

 

 個人的に「国語教育三戦犯」をあげるなら「投げっぱなしの作文指導」「読み書き重視で発声教育の無視」「戦争文学を使って戦争はよくないと言わないと怒る主義」かなぁと思います。最後に関しては触れると死にそうだからあんまり触れたくないけど、『ちいちゃんのかげおくり』から始まる「必ず戦争文学が入って教師が張り切るパターン」は上記の「よかれと思って」に当てはまるなぁと思うのです。つかれたからおわり。

 

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