ボンK日報

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日本国民は「先進国日本人」と「島国原理主義者」に分裂している

 「二極化」と言う言葉がある。

 それは多くの場合、勝ち組と負け組とか、右翼と左翼とか、そういう捉え方になりがちだ。

 しかし、私はそんなことより、平成の日本国民が「先進国日本人」と「島国原理主義者」に分裂していることに着目したいものだ。

 

 これは非常に大きな出来事だろう。

 一般的な外国の場合は「所得」や「学歴」が二分化する要因になるというが、「先進国日本人」には都内の下町で商売をやっている高卒・専門卒の庶民もいるし、「島国原理主義者」には有名な大学を出た人もいる。

 

 平成以降顕著になっているものの、実はこの2種類の日本人の葛藤は明治維新以来の流れである。

 大衆文化で考えると、戦前の文明開化の象徴である「大正昭和モダン」は先進国日本人の文化だ。しかし、戦時中はあからさまな「島国原理主義者」が日本社会を乗っ取り、支配した。

 戦後昭和で大衆の中心にあったメディアと言えばテレビだが、巨人大鵬卵焼きやドリフのコントのような大衆文化は「島国原理主義者」の価値観に依拠していた一方で、平凡パンチやan・anやポパイなどのマガジンハウスの雑誌は「先進国日本人」を求めた。そういう流れは糸井重里的でセゾン的なバブルの文化に引き継がれ、1980年代以降はテレビ番組も先進国日本人志向の独走的な番組がゴールデンタイムからフジテレビの深夜放送まで沢山あった。ラジオの場合、AMは島国原理主義者が、FMは先進国日本人の媒体としてすみ分けられていた。

 しかし、2000年代以降急激にテレビ地上波やラジオや雑誌や広告などのマスメディア全体の劣化が顕著に、良い文化は衛星放送やネットの客層のいい情報媒体やSNSにのみ存在しており、マスメディアやネット原住民空間は島国原理主義者ばかりが鬱陶しいくらい目につくようになった。

 

 たぶんこうした流れは幕末の「開国するか、鎖国を守るか」とか、あるいは織田信長が南蛮被れていたころに起因するかもしれない。しかし、いずれにせよ言えるのは、今再び明るみになっているという事実ではないか。

 「1億日本国民をひとくくりにできたこと」は、近代で見れば、1940年あたりに原点があるんじゃないだろうか。社会が戦時中のファシズムを突っ走るようになり、鬼畜米英が排斥された。メディアはみな戦意高揚を煽るようになり、国民は肌で感じる空気とメディアに煽られ、意思統一を図ったのである。物資不足でお金持ちもよほどの支配層以外は貧乏になり「ぜいたくは敵だ」の時代になった。それは敗戦後はそれこそ焼野原で、1億人が全員貧困化した。

 それが高度成長期になり、三種の神器を手に入れ、1億総中流の道を駆け上がった。誰もがみなテレビを持ち、新聞を契約し、それでもインターネットやスカパーはないため、「ファシズムの毒」は抜かれながらも、特定有力メディアへの服従は戦時中よりひどくなったんじゃないかと思う。たとえば60歳以下なら田舎の生まれでも方言を喋れない人がいくらでもいるが、彼らが「テレビっ子」だったからだ。ファシズムと言う、まるで誘拐犯が脅迫するような手段を用いて常識を強いるのではなく、己が積極的にメディアに影響され地域ごとに言葉が違い常識も違うという構造が壊れたのは戦後のことである。

 

 とはいえ、大正のようにモボやモガを生んだ遺伝子は生き抜いており、それらが雑誌や都市文化と言う形で華やいだのである。戦前であれば、都市部の若者はレコードやラジオの流す洋楽とか、ディック・ミネらの洋楽カバー曲の音楽を楽しみ、地方では(あるいは年配層は)ご当地の民謡を楽しんでいた。その構造が、1970年代であれば、ロックバンドやアメリカ歌謡曲の日本語カバー曲(たとえば田中星児のビューティフル・サンデーなど)を楽しむような進歩的な団塊世代と、いかにもコテコテの興業臭のする昭和歌謡や演歌を楽しむ下流団塊層に分裂品のではないだろうか。上位層はモンティ・パイソンを、下位層はドリフを楽しんだ。平成時代初期なら、宇多田ヒカルや小室サウンドが上位にあったはずだ。

 島国原理主義者は、「ムラ社会精神」や「島国根性」という地方農耕社会の百姓型の精神に基づいている。恐らくその表面の見かけではない本質は江戸時代の農村から続いていて、町人(工・商)が形作った江戸などの都市文化や、あるいは既得権に居た武家の文化とは相いれない別次元だったのではないだろうか。

 おそらく、明治維新江戸幕府が崩壊し、武家が社会をリードする構造が無くなった際、武家の代わりのポジションに「お雇い外国人」とかがついたのだと思う。政治的な支配構造は藩閥政府に受け継がれたが、藩閥は文明開化を国民に届ける上での1つのルーターにすぎなかった。そうした社会下で、賊軍側の士族によって生じた自由民権運動大正デモクラシーと言う形で発展し、ハイカラな欧米文化を日本人に沢山定着させ、誰もが当たり前に洋服を着てパンを食べるようになった。その振り戻りで、支配側の権限を強化する形で戦時中のファシズムにつながったのかもわからない。

 戦後になると、まさにGHQが「お雇い外国人」の立場に位置することになり、マッカーサーが去ってもなお日本人は欧米(特にアメリカ)を求め、ジャズの代わりにマイケルジャクソンやエミネムを聴き、マクドナルドやディズニーランドやトイザらスを誘致し、ディスコやクラブで洋楽で躍ったり髪の毛を茶髪にしていった。プラザ合意がバブルの火ぶたを切り、政治面でもアメリカ化は進んだ。前川リポート、日米構造協議、年次改革要望書、日米経済調和対話と言う形で、最終形態がTPPだ。

 

 こうした社会構造の変化に対する「反動」が、島国原理主義者を復権させているのではないだろうか。あるいはそれと、「戦勝国日本人」である側との軋轢につながっているんじゃないだろうか。

 たとえば代表例は「手書き改革論」だ。

 先進国日本人であれば、ワープロ(この言葉自体古いが)が生活に必要不可欠になって久しいご時勢に、手書きの履歴書なんてやっているのは世界の中で日本だけであまりに恥ずかしいと改革を求める考えが多い。

 しかし島国原理主義者たちは、自身は日常的にパソコンや携帯電話にかじりき続けてネットのバズを追い求め、ネットジャーゴンをまき散らすネット原住民であったとしても、書道などを引き合いに「手書きは美しい日本の伝統」としたがる。「手書きの文章表現には心がこもっている」などと便所を素手で洗うような根性論を持ち出す人もいるし、「手書き履歴書廃止論は韓国を持ち上げる在日反日朝鮮人の妄言」とネトウヨ丸出しになる場合もある。テクノロジーを否定しつつ、かといって「正当な伝統」としての筆と墨汁による履歴書執筆を復活させろとまではいわない、「日本の今当たり前の慣習」を過信し、それに矛盾する概念に敵意をむき出しにするのが、この手の島国原理主義者の特徴だ。

 「島国原理主義者」はハッキリ言って反知性主義者だ。

 彼らは無知である。

 たとえば歌舞伎は江戸時代は下品な低俗文化であったが、明治時代に外国人に見せても恥ずかしくない立派な文化にするよう改良運動が嫉視され、今はハイカルチャーに成り上がっているように、「時代によって文化の位置づけが変わる」ことは多いにあるし、ラーメンやゴスロリのように外来文化だと思っているものが実は日本発祥だったり、漫画表現や鉄板ステーキのように一見すると国に関係ない普遍的な文化でありそうなことが外からすれば「日本独自の文化」として解釈されていることだって大いにある。

 こういう事実を知らないばかりか、この構造を受け入れられないのが島国原理主義者たちの精神だ。こんなものが増長すれば、日本社会は文化的な低迷どころか、後退をしてしまうのは言うまでもない。彼らが「当たり前の日常文化だから」容認している洋服だってパソコンだってロキノン系バンドだって、ましてや「美しい日本文化」として称賛する歌舞伎や国技の相撲だって、そのすべてが「外国の影響」がなければ成立することなどできないものなのだ。

 日本のガラパゴス化に問題意識を感じるか、不気味さを覚えるか。あるいはそれにこそ居心地の良さや愛着を感じ、ガラパゴスを失うことにこそ警戒意識を抱くか。これは先進国日本人と島国原理主義者の違いを図る上での踏み絵の1つである。

 

 たとえば紅白歌合戦で、EXILEとかAKB48やジャニーズが、関連グループと合わせて膨大な集団を形成して、演歌歌手と一緒にパフォーマンスをする様子を貴方はどう思うだろうか。

 私なら、「2015年の未だに国営放送NHKと言うものが存在していること」や「2015年の未だに紅白歌合戦が終わっていないこと」をまず憂慮し、「実力の歌唱力でのし上がるのではなくゴリ押しマーケティングでB層をカモにさせることで成り上がるJ-POPのグループがたくさんあること」に憂慮をする。彼らが徒党を組んで芸能界を支配することで、優れたピンの歌手がかき消されたことには全体主義を連想するし、サザンが三波春夫を茶化してから30年たっているのに未だに演歌歌手なんかが生きていることにも腹立たしさを感じる。あのような光景は、真面目に捉えれば低迷斜陽日本の負の掃き溜めである。あのまんまアイドルたちが軍歌を歌いだしたら、AKBオタクやEXILEマイルドヤンキーが軍国青年になるのはいうまでも無かろう。

 

 こういうものを、「これこそが美しい日本の1年の終わりを飾る国民的行事だ」と考えるとしたら、それは「島国原理主義者」である。

 21世紀の日本には急速にデジタル社会が発展し、新自由主義とか、戦後日本企業の老朽化や高齢化と国際化にともなう世の中の構造の転換が起きていて、それらの不可抗力に逃れられないからこそ、古典的なジャニーズとかAKBみたいな文化が復権し、昔の昭和アイドル歌謡のような曲調の音楽を歌い、かつ昭和時代ですら控えたような露骨な全体主義が蔓延るわけである。それは島国原理主義者の守旧的願望を愛撫する讃美歌なのだ。

 ジャニー喜多川氏も秋元康氏もバブル時代のほうが今より洗練されていた音楽をプロデュースしていたという事実を彼らはそもそも生まれてないか知らないか、当時を生きていたはずなのにすっかり忘れている。こういう時代に生きているということを、私たちは今一度強く認識する必要がある。