ほんとなんで風呂って気持ちいいことわかってんのに動けないんだろ
— ふじもなお (@atelier_monao) 2015, 2月 20
こちらのTweetから下にたどり着きました。
前にネットの何処かで見つけた「入って後悔した風呂は無かった」という言葉が好きで、入浴は面倒に感じるけれど入ってみれば気持ち好いし、逆に言えばその良さを知っていても初動は掛かりづらい。私が「静止摩擦係数が高い」と呼んでいるこの心理は風呂以外でもよく気分を支配する。
— 御調 (@triarbor) 2015, 2月 18
そこで「静止摩擦係数が高い」問題について考えました。
風呂の良さを想像するということは、風呂に入る前には簡単とは言えません。そもそもそういう問題もありますが、ここでは、その問題は見事クリアしたものとしましょう。
「風呂の良さ」が十分に想像・イメージできているという前提で出発します。しかし「入れば結果として快適な」その風呂になかなか入ろうとしない。
そうなるのは、結果の快適さを想像しても、行動意欲を発揮できないからです。
私達は「行動意欲」というものについて、何となく、「一定の敷居を乗り越えられれば、行動を起こすエネルギー」というようにイメージしがちです。
ものすごく図式的に書くと、次のようなイメージです。
でもこれはあまりにも「敷居」がスタティックすぎて、おかしいという気がします。私達の「行動を起こす障害」というものは、もっとダイナミックなものです。行動意欲が高まれば、それに対して行動を起こさせまいとする力も強くなる。
というのも、まったく盲目的に意欲を使っていいわけではないからです。
この2つの力が均衡状態になるのです。というのも、行動意欲が高まって、それによって「風呂に入る障害(服を脱いだり寒い思いをする)を乗り越える」のはいいとして、そのための気力・体力・時間を使うことが、本当にいいかどうか明らかでないからです。
1日のうちに取り除くべき障害は、風呂に入るときの障害ばかりではなく、食事を作る際の障害や、掃除をする際の障害など、多岐にわたります。風呂に入る上での障害を取り除くのに全エネルギーを使ってしまっては、風呂に入ったことを後悔はしないかもしれませんが、おかげで食事を作れなくなって後悔するかもしれないのです。