『近代学問の起源と編成』の刊行から三ヶ月あまり。
ご意見・ご感想をお寄せいただいた方々には、改めてお礼申し上げます。
ウェブ上では、ツイッター等での言及もちらほらありましたが、もっとも詳細なものは
こちらの記事でしょうか。ありがとうございます。
さて、勉誠出版刊行の
『書物学』には「自著を語る」というコーナーがあるのですが、第4号に共編者の井田が本書について書きました。
田中康夫の
『なんとなく、クリスタル』が日本の夕方六時を描く小説だとすると、我々はすでに八時くらいの位置にいる。八時以降を生きねばならない我々の世代は、今後、どのような世界を築いてゆくのであろうか――と。
私も本書で書ききれなかったことを、いや、書いたけれど、別の書き方で改めて書いてみたいことがあるので、少しばかり・・・
こんにち、大学等、「研究」の現場・環境は、種々の外的・内的要因によって大きな変容を余儀なくされています。当然、「研究者」なる存在も、それに即して変わってゆくことが容易に予想されるはずです。職務内容をはじめ、社会的な立場も、そして研究の手法や目的も。
しかし一方で、「学問とは真理を追究する営み」であり、そして「真理はひとつ」であるがゆえ、研究という営為は周囲の環境に左右されるものではないと考える向きもあるでしょう。特に、人文科学系で過去を扱う領域や、自然科学系で基礎理論を扱う領域では、そういう考え方をする人が多いのではないでしょうか。
例えば、精緻な文献学的手法による「実証主義」を標榜している研究者は、その目的を突き詰めれば、要するに「過去の完全なる再現」ということに帰着します。しかし、近代科学における「モデル」という思考法や「実験」というものの在り方、あるいは言語が現実世界を構成するという考えに基づく「言語論的転回」・・・等々のことを引き合いに出すまでもなく、それが不可能であることは言うまでもありません。
また一方で、その「文献学的」な手法は、文献をニュートラルな立場で客観的に扱うことのできる唯一無謬の定理でもなければ、真理解明のために神から授けられたレガリアでもなく、「十九世紀のゲルマン人が発明した、ひとつのやり方」
(1)でしかないのです。ほかに、いくらでも対象にアプローチする方法は存在し、そしてそれらの妥当性の判断は神ならぬ人によってなされます。
つまり、真理はひとつかもしれない
(2)けれど、そこに到達しようとするためのツールは山ほどあり、そのツールを作るのも選ぶのも人間の仕事である、ということですね。
これは、研究の“環境”という問題を考えるための、ほんの一例です。
そう、環境。
研究の「手法」とか「方法論」とか言われるものも(当該手法の採用に至った経緯も)、研究というものをめぐる環境のひとつと考えてみたいのです。
もちろん、なんのためにこうした研究をおこなうのかという「目的」も、研究を遂行するための「資金」や「空間」も、成果を発信する「媒体」も、ありとあらゆるものが研究の“環境”を構成しています。研究者が特定の時代や社会に生き、考え、書く限り、こうしたものから独立し、種々のバイアスから完全に自由になることなど不可能なのです。
古典文学研究者は、例えばある「作品」を対象とする際、それが成立した思想的・社会的背景や典拠となった文献、その「作者」の経歴や血縁・交友関係・・・等々を非常に丁寧に、微に入り細に入り、徹底的に調べあげます
(3)。
一方で、ある「研究成果」に対し、その研究がなされた種々の背景や、研究者の置かれた立場、研究目的・・・等々のことについては、不思議なくらい無頓着な人が多い。いや、無頓着というよりも、そもそも研究内容にまったく関係のないこととして、それを検討するという発想にすら至らないと言ったほうが近いでしょうか
(4)。
しかし、研究というものが人間によってなされる社会的な営みである限り、そういった環境を無視することなど、できるはずがありません。
日本の夜八時という「時間」。
こうした“環境”を生きる「世代」は、これからどのような研究を生み出してゆくことになるのでしょうか。
『33年後のなんとなく、クリスタル』を読みながら、そんなことに思いを巡らせてみました。
(1)なお、日本前近代を対象とする研究者のなかには、自身がドイツ由来の文献学や史料批判に拠って研究していることを忘れ、海外の/新たな理論を毛嫌するという愉快な御仁が、けっこういたりします。とても興味深い現象です。
(2)もちろん「真理はひとつ」ということ自体、自明の前提ではありませんし、哲学や宗教学の領域でも種々の議論がありますが、なぜかこの言い回しを錦の御旗のごとくに奉って「研究」というものを無闇に神聖視する人たちが多いですね。こうした風潮―言説がどこから生まれたのか、ということも、いずれ考えてみたいと思っています。
(3)実際のところ、そこまで徹底的に調べる能力のある古典文学研究者がどのくらいいるかというと心もとないのですが、まあ、理想論としてはそういうことです。お察しください。
(4)誤解のないよう申し添えますが、その研究を“評価”する際には、成果だけを見ればよいのであって、それが誰によってどんな目的でなされたかは関係ないでしょう。そういうことではなく、ここでは、研究という営為そのものを、社会的・文化的・歴史的コンテクストのなかにどう位置付けるか、ということを問題としています。