無為療法 禅の講義

「道元」松原泰道著から
普勧坐禅儀はこのようにリズミカルな美しい文章で説きすすめますが、そのあらましを申しますとこうなります。

・・だれもが持つ本来円通自在の仏性が現実には塵にまみれ、汚れているのはどういうわけであるか。それは、わずかに「違順」の念が起きるためである。違(自分の気に入らぬ)順(気に入る)の念が生じると、気に入るものを貪り気に入らぬのを嫌う。違順の念が煩悩妄想になって、本来円満の仏性を傷つけるのである。

・・・「さとりという臭いがなくなって、はじめて真の解脱人とする」と道元は判定するのです。

・・・真実の坐禅はさとるためのものではない。さとりの有無をこえ、行住坐臥(ぎょうじゅうざが)に続けるべきものである、と示します。
最初のパラグラフでは森田、及び宇佐先生が神経症を講義する時の一節に大変似ている。ただ、いくらこの説明を聞いても、神経症解脱には役立たない。

第2のパラグラフでは、神経症がこのようにきれいに治ったと大げさに言わなくなった時こそ、神経症の治りであるとしている。重要なメッセージであり、斎藤もうっかりすると間違える。以前、力んで神経症完治根治宣言を書こうと考えている最中に、激しいフラッシュバックに入った。この時の混乱は激しく、1ヶ月以上意識の混乱に悩まされたもので、それ以来、完治根治を意識してはいけないと学んだ。神経症者は二言目には改善したと言うが、改善した、良くなったと言ったら、地獄に落ちると覚悟をしておいた方が良い。改善を忘れているその瞬間が健康世界であるのが、神経症が治って来ると次第に分かる。

第3のパラグラフでは、高い悟りを経験した禅匠が座禅をする時、悟りを求めていないと言うから驚く。ただ座る、座るから座ると言う。
斎藤が雑用をする時も同じ心境で、ただ雑用をしていて、雑用をしたらからどの報酬があるとは考えていない。雑用とは生活の様々な動作であるが、動物として生命を維持する動きでもある。だから犬は犬なり、猫は猫なりの雑用をしている。この動きが途絶えるとは、生命維持に重大な脅威であり、そのような状態に至った動物が生命をまっとう出来るとは思えない。



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