無要の葉

振り上げた正論(つるぎ)は切り裂くためじゃない

古典を勉強する意義とその他いろいろな話

 たまーに出てくる的なアレです。そういえば「国語」を勉強する意義みたいなのはチラチラ書いているけど、「古典」は何故勉強するのかってきちんと書いたことなかった気がするから少し書いてみるね。

 

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 なかなかハードロックな燃やし方をするなーと思ったのですが、追記等々見てみたら割とブーメランブーメランしていますな。自分で建てた論理に自分で落っこちて行っている不思議の国のアリスみたいな。先に「古典の意義」を書いてから少しその辺にも触れます。

 

【古典は言語感覚の訓練】

  自分が古典を勉強して一番身に着いた能力は「未知の言語に対する姿勢」です。古語文法の知識や昔の人の考え方とかそういうのはまた別です。

 

 この「未知の言語に対する姿勢」というのは、現在私たちが使用している口語文法だけでは理解が難しいと思います。何故ならば無意識で使用している「未知の存在」でないものを学術的に理解しようとすればするほど「無意識との戦い」になってしまうからです。自分の使っている言語をバラバラに解体することは自分自身を引き裂いていることに等しく、作文の添削を嫌がる人が多いのもこの辺に起因します。

 

 そこで日本語の特性を学問として教えるとき、そのまま口語文で教えることが非常に難しくなります。「主語」「述語」「目的語」「修飾語」などの言葉は小学校で習ったけれど、それが一体何なのか理解できるのはおそらく中学生以上でしょう。中学では口語文法を一応学びますが、その煩雑な分類や種類の多さに多くの人が面食らうはずです。同じ「が」でも「格助詞」と「接続助詞」では意味が異なりますが(←これは接続助詞の「が」ですね)、そんなことを知って今更何になるんだと思ってしまえばこんな学習ただの苦痛な暗記でしかないのです。

 

 また、口語文は文体表記の揺れが大きく、厳密に「これは形容詞」とか「動詞」とか区別がつきにくいものなどもあり、「きちんとした日本語」という意味では学習に不向きです。

 

 そこで文語文法の登場です。 口語文と違って時代を超えているので我々自身と切り離して文脈を捉えることができます。更に「品詞分解」という方法で言語を切り離して細かい意味を探る手段も「ぱっと見て意味がよくわからない」古文だから出来るのです。

 

 

 ちょっと上のツイートを細かく書きます。面倒な人はこのパラグラフ読み飛ばして構いません。「ぬ」は完了の助動詞「ぬ」の終止形で、これは連用形に接続します。「風立ちぬ」の「立ち」は四段活用動詞「立つ」の連用形であり、ここの「ぬ」は完了の助動詞であると言えます。他にも打消しの助動詞「ず」の連体形に「ぬ」がありますが、これは未然形接続です。もし「風立たぬ」であればこの「ぬ」は打消しの助動詞の連体形と捉えることも出来そうですが、係り結びもなく連体形で文が終わる形になるので不自然です。よって完了の助動詞「ぬ」の意味で取るのが適切です。

 

 こういう思考の方法は「見てなんとなく意味が分かる口語文」ではなかなか身に付きません。ある程度「現代使っている言葉と違うけど、なんとなく頑張ればわかる言葉」が適当です。そしてこの「未知の言語に対する感覚」を身に着けることが「古典」を学ぶ最大の意義だと思うのです。

 

 日本語を無意識に使用して、特に考えず英語を勉強していれば「時制で活用ってなんだよ」「何で同じ『私』なのに『my』とか『me』とかあるんだよ」という感想が出てくるはずです。その時に「知らない言語なんて面倒くさい」と思うか「こうすればわかるようになる」と思うか、それは言語に対する感覚次第だと思います。

 

 なお漢文に関しては句法を暗記すれば解決、ということもあるでしょうが漢文はふわっとした大和の恋愛ストーリーに比べて構文が取りやすく、何よりストーリーが論理的である点が思考訓練に繋がります。とりあえず「意味がない」と言うことはないと思うのです。

 

【……と思ったら】

 ここまで書いて元記事確認しに行ったら、こんなことに。

 


ブログを始めて200日になるので、そろそろブログを卒業しようと思う。 - 割れ物注意な貧乏学生

 

 

 

 

 

 

 

 逃げた。

 

 もちろん上記の記事も削除済み。ガチ叩きされたわけでもなく、こんなにあっさり消すとは思っていなかったのでおどろきんごです。

 

 えーと、一応ブーメラン的なことを簡単に書いておくと「自分が言いたいことは言うし読みたいように読むしそのための勉強は意味ないと思うけど、相手にはこう読んでほしいとか要求する」ってものすごい自分勝手です。そんで「ちょうどキリもいいし、ブログはオシマイ!バイバイ!」って、えええええ!? って感じです。記事も消えているのでこのくらいしか言いません。本文読むともっとぐさぐさ刺さるところがあったんですが。

 

 つまりブコメに書いた通り「思ったことを思ったように言う」ことが「相手の言わんとしていることとすれ違う」ことを防ぐために、「現代文」という教科が存在するわけなのです。つまり身を以て「現代文」の大切さを筆者は体感したはずなのですが……?

 

 あと素直に「叩かれたからメンタル弱い僕はブログ続ける気がなくなった」って言えばいいのに。だって辞める予定なかったんだろうから。

 

 

 ちなみに「自分が苦手、わからない、面倒くさいから嫌いだし勉強しない(自分に原因があるとわかっている)」じゃなくて「やる意味がわからないから勉強しない(勉強しないのを外的要因にしている)」というのは基本的によろしくない思考であると思います。おわり。