こういうニュース、10年前だったら、「NY 、さすが本場!」と思ったかもしれないけれど、今では、「NY、心狭いなあ」という感想になるのは、それだけ文化的多様性の温度が上がっているんだろうね。 http://t.co/6ceSpVcatk
— 茂木健一郎 (@kenichiromogi) 2015, 2月 23
いや、そらそうだろう。
出そうと思ってた企画側こそ何を考えてるんだか。
日本では、東京ガールズコレクションのおかげでファッションや、コレクション及びランウェイの価値、存在が落ちてブレ過ぎてるきらいがある。
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菊地成孔「服は何故音楽を必要とするのか」から引用。
ランウェイを一定の速度で歩き、立ち止まり、ポーズして写真を撮られ、ターンしてまた歩き去る、そしてそれを、何度も繰り返す。という行為は「音楽とまったく無関係でもない動き」であると同時に「決して音楽にノッてはいけない」、つまりはかなり抑圧的な仕事/日常であり、同時にシック、エレガンス、スタイリッシュな仕事/日常なのです。
海外のファッションショー(ランウェイ)を見ればモデルは会場に流れる音楽のリズムとズレて歩く。
そこにいないかのごとく、観客を見ない。
ランウェイとは目の前にありながらも非日常、異空間である。
音楽のリズムに乗らないことによってランウェイ上を闊歩するモデルと観客席とは同じ空間でありながらも断裂し、ランウェイを歩くモデル及びその服に特殊性が産まれる。
服だけ見せるならインスタレーション(マネキンに服を着せ並べておく)方式で充分。
ランウェイは、服を見せるだけではない。
Louis Vuitton Fall/Winter 2013-2014 - YouTube
比して、東京ガールズコレクションは音楽に合わせてモデルが踊り闊歩し、観客に手を振って見せる。
そこに舞台上下の断絶はない、単なるエンタメ。
ランウェイを装ったエンタメ即売会。
最近は、そういうランウェイが増えましたが。
だからこそ漫才も歌もある。
見せる服にテーマなんていらない。コンテクストも必要ない。
好きなモデルが着てる、あのタレントが着てる、カワイイ。
そして観客はその場で購入することが出来る。
だからふなっしーだって出られる。
アレは空間を見せるための作り込んだブランドのランウェイとは別のもの。
もし「ふなっしーオッケー」となれば、それはNYコレクションの根幹がおかしくなる。
もちろん東京ランウェイと言う新手の試みを、NYコレクションに絡めた新機軸の「東京ランウェイ・ミーツ・ニューヨーク」だからそういうチャンレンジもしてみたかったのかもしれないけど、幾ら新興のNYだからってそれを許す理由がない。
パリにしろミラノにしろそこで行われるランウェイは、ただ単に服を着て歩いてるだけの場所ではない。
それは「心が狭い」なんて言う単純な言葉で置き換えられるものではない。
デザイナーからすればNYコレクションでランウェイを行えるということ自体が憧れの対象。
デザイナーが打ち出すテーマ性とコレクションとして展開される世界観を見るための展覧会。
ブランドはブランドを確立させ、特権化し、己のブランド価値を高める。
評価され、その先の売れ行きも左右される生き残るための闘いの場所。
それが海外のランウェイ。
そういう価値観を守っているからこそ、皆が出たいと思う。
商業主義剥きだしてランウェイもどきのにぎやかしい東京ガールズコレクションなら梨汁プッシャーでも何でもやってりゃあいい。
アイテムが絵画だとすれば、ブランドは額縁。
そしてコレクションには、アトリエの役割がある。
モスキーノと言う看板が付けばスポンジボブだって、マクドナルドだってオシャレアイテム。
ジェレミー・スコットのぶっとんだデザインがハイソになる。
作り上げたブランド価値をあえて梨汁プッシャーで溶かす理由もなく、心が狭いとか言う意見もよくわからない。
茂木健一郎氏は「文化的多様性」と言うが、文化的多様性とイロモノを出すことでわざわざコレクション、ブランド価値を落とすことは別の話。
ワイドショーのネタ作り以外誰も得しない。
「文化的多様性ガ―」と言って、いろいろとり込み、来るモノ拒まず、パリでもNYでもコメディアンがランウェイに出て来て観客を笑わせ、モデルが手を振って歩けば、いろいろ終わりじゃないかと思うんですがね。
とまれ海外でも商業主義的なブランドが増えてきましたが。