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未完の論文ーある社会学者の死1「最後の講義」

(2015年2月10日) 【中日新聞】【朝刊】【その他】 この記事を印刷する

絶望しない姿 教えた

 教壇のわき。電動車いすに座った名古屋市立大教授の石川洋明は、くぐもった声で、学生の発表に口を挟んだ。「全然聞こえない。もう一度、大きな声で言って」

 教室の学生たちは顔を見合わせた。マイクを使った発表は、十分に聞き取りやすかったからだ。

 昨年6月27日、人文社会学部の2限目「社会問題論1」での光景だ。4年の今枝麻里(22)は「耳も滑舌も、どんどん悪くなっていました。何度もせき込み、苦しそうでした。あの状態で講義を続けられたことに、鬼気迫るものを感じました」と、最後となった石川の講義を振り返る。

がんが見つかる前年の石川

 時は6年さかのぼる。虐待、依存症などの病理を研究する社会学者・石川に、2008年2月、名古屋市立大病院で前立腺がんが見つかった。既に終末期。ホルモン療法で数年間、進行を食い止めたが、次第に効かなくなった。

 そして12年9月、夫の病を苦にした重度そううつ病の妻=当時(51)=が、小学校6年の長男=同(12)=を殺害した。執行猶予付き有罪判決を受けた妻はその後、自殺した。二つの悲劇の間に、石川は車いすの身になり、余命半年の宣告を受けた。妻の死の直後、前立腺がんの勢いを示すPSA値はどんどん上昇し、9146に達した。主治医の郡健二郎(66)=学長、泌尿器科教授=は「今まで見たことのない数値」という。生きているのが不思議な状態で、石川は講義を続けた。

 準備にも手間をかけた。学生のコメントをすべてパソコンに打ち込み、翌週に教室のスクリーンに映して一つ一つ批評する。本音でズケズケが石川流で「君は本当に文献を読んで書いたのか」と、厳しくしかることもしばしば。「講義は学生のもの」と議論や研究発表を重視した。

 「余命を考えれば、休講にすべきだったと思う。でも彼の執念をだれも止められなかった」と親友の人文社会学部教授・吉田一彦(59)。

石川が最後の講義をした203教室。最前列に置いたパソコンを車いすで操作し、スクリーンに映していた=名古屋市瑞穂区の名古屋市立大で

 最後の講義の約4時間後、石川は急に手足を動かせなくなり、緊急入院。救急車を拒み、大学医務室の看護師(59)に付き添われて、病院までの約800メートルを車いすでゆっくり進んだ。通い慣れた風景をかみしめるように。

 翌28日には、吉田が差し入れたパジャマの色にケチをつけるなど「本音ズケズケ」健在を思わせたが、30日早朝、容体が急変。55年の人生の幕を閉じた。(敬称略)

 打ちのめされ、絶望してもおかしくない悲劇が重なる中で、石川は気力を奮い立たせた。愛する妻子を守れなかったことへの償いの思いを込め、事件の再発を防ぐための研究に情熱を注いだ。石川の終末期から、人生、仕事、家族の意味を見つめたい。(この連載は、編集委員・安藤明夫が担当します)

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