なかのひと
2007-09-01 04:12:43

J.R.ジャヤワルダナJayewardene

テーマ:歴史考察

太平洋戦争を正当化したがるネトウヨが絶賛する海外の声にJ.R.ジャヤワルダナ蔵相の言葉があります


『アジアの諸国民はなぜ、日本が自由になることを切望しているのか、それは、アジア諸国民と日本との長きにわたる結びつきのゆえであり、また、植民地として従属的地位にあったアジア諸国民が、日本に対して抱いている深い尊敬のゆえである。往事、アジア諸民族の中で、日本のみが強力かつ自由であって、アジア諸民族は日本を守護者かつ友邦として、仰ぎ見た。私は前大戦中のいろいろな出来事を思い出せるが、当時、アジア共栄のスローガンは、従属諸民族に強く訴えるものがあり、ビルマ、インド、インドネシアの指導者たちの中には、最愛の祖国が解放されることを希望して、日本に協力した者がいたのである。』
(セイロン(現スリランカ)J.R.ジャヤワルダナ蔵相 サンフランシスコ講和条約締結時の言葉)


こんな内容です。


とりあえず、J.R.ジャヤワルダナとはどんな人か見てみましょう。と言っても日本語サイトはほとんどネトウヨによる太平洋戦争擁護の内容ばかりで、本人に迫った内容は見当たりません。何とも自分達に都合のいい言質だけ取れればそれ以外に用はない、と言わんばかりですな。


Junius Richard Jayewardene (ジュニアス・リチャード・ジャヤワルダナ)
1906年9月17日生まれ。
Eugene Wilfred Jayewardene とその妻Agnes Helen の11人の子の長男。コロンボの王立大学に学ぶ。学生時代はクリケットチームに参加して大きな試合(Royal Thomian big matchとありますが詳しくないのでよくわかりません)に出たり、1925年にはラグビーチームにキャプテンになったりとかCadet Platoonというチームのメンバーになったそうですが、やはり詳しくないのでよくわかりません。親しい人からはDickieと呼ばれていたようです(なんでだ?)。世界には”JR”で知られている。コロンボ大学では、英語、ラテン語、論理学、経済学を学び、1932年3月に法学に進んでいます。1935年2月28日Elina Bandara Rupesinghe嬢と結婚。Ravindra Vimalという息子が得る。

JRは32歳のときに表舞台に出る。セイロン国民議会保守派がJRに接触する。JRは彼の仏教教義とは反対のLanka Sama Samaja党のマルクス主義思想、Sinhala MahaSabhaの民族主義、他の政党を見てまわる。1940年の地方選挙で勝ち、1943年4月に国民州議会に入り、1947年にD.S.Senannayakeが連合国民党(United National Party)を作った時、JRは創設メンバーの一人であった。JRは1947年の総選挙で勝ちセイロン政府の初代蔵相となる。
1951年、JRはサンフランシスコ講和会議にセイロン代表として参加。この会議でJRは仏陀の「憎悪は憎悪によって止むことなく、愛によって止むHatred ceases not by hatred but by love」と言う言葉を引用している。
1952年の総選挙後、蔵相兼任のまま首相となる。
議会多数派を持って、JRは社会民主主義の立法を行い、新憲法と大統領への就任が認められる。1978年2月4日スリランカ社会主義共和国の初代大統領として宣誓。


以下、ジャヤワルダナ・センター(http://www.jic.net/ )のサイトを見てください。

ちなみに現在のスリランカの首都スリ・ジャヤワルダナプラ・コッテは、町の旧名がジャヤワルダナ大統領と同名だったので、大統領を記念して、旧名に戻したそうです。


とりあえず、ジャヤワルダナ大統領はマルクス主義に精通する社会民主主義者のようです。とてもネトウヨが好きになるような経歴ではないような気がしますが(多分、経歴を知らないのだろう・・・)。


ま、ネトウヨの引用部分は、実のところ捏造ではなく実際にあります(「植民地として従属的地位にあった」に該当する部分はありません)。しかし、流れを無視した引用はトリミングになりかねませんので全体を見てみましょう。

なお、これは1951年9月6日の演説(日本の受諾演説は9月7日、署名は9月8日)で、ソ連などが修正案を提議(1951年9月5日)した直後です。(参照:http://www.ioc.u-tokyo.ac.jp/~worldjpn/documents/texts/JPUS/19510905.O1J.html


ソ連案には
(第2条(b)(f))「日本国は,満州,台湾及びこれに接近するすべての諸島,澎湖諸島,東沙島,南沙群島,マクスフィールド堆,並びに,西鳥島を含む新南群島に対する中華人民共和国の完全なる主権を認め,ここに掲げた地域に対するすべての権利,権原及び請求書を放棄する。」

(第3条)「日本国の主権は,本州,九州,四国,北海道並びに琉球諸島,小笠原群島,西之島,火山列島,沖之鳥島,南鳥島,対馬及び,第二条に掲げられた諸地域及び諸島を除いて一九四一年十二月七日以前に日本国の一部であつたその他の諸島に及ぶ。」

(第6条(a))「すべての連合国の軍隊は,できる限りすみやかに,且ついかなる場合にもこの条約の効力発生の日から九十日以内に,日本国から撤退しなければならない。また,それ以後はいかなる連合国及び他の外国も,日本国の領土上にその軍隊または軍事基地を保有してはならない。」

(第14条(a))「日本国は,連合国に対する軍事行動により,及び,ある連合国の領土の占領により生じた損害を補償することを約束する。日本国によつて支払われるべき賠償の額及び源泉は,関係諸国の会議において検討されるものとする。この会議には日本国の占領下にあった諸国,すなわち中華人民共和国,インドネシア,フィリピン,ビルマは,必ず参加招請するものとし,この会議には日本国も招請される。」

(第23条(a)(b))「この条約は,日本国を含めて,これに署名する国によつて批准されなければならない。この条約は,批准書が日本国により,且つ,アメリカ合衆国,ソヴィエト連邦,中華人民共和国及びグレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国を含んで,次の諸国,すなわちオーストラリア,ビルマ,カナダ,セイロン,フランス,インド,インドネシア,オランダ,蒙古人民共和国,ニュー・ジーランド,パキスタン,フィリピン,グレート・ブリテン及び北部アイルランド連合王国,ソヴィエト社会主義共和国連邦,中華人民共和国及びアメリカ合衆国の過半数により寄託された時に,その時に批准しているすべての国に関して効力を生ずる。この条約は,その後これを批准する各国に関しては,その批准書の寄託の日に効力を生ずる。」

(第4章中の新条項)「日本国は,日本国人民の間の民主主義的傾向の復活及び強化に対するすべての障碍を除去し,且つ,人種,性,言語または宗教について差別なく,人種の享有並びに,表現,新聞及び出版,宗教的崇拝,政治的意見及び集会の自由を含む基本的自由の享有を日本の主権の下にあるべての人に保証するために必要なすべての手段をとることを約束する。」

(第8章中の新条項) 「日本国は,武力をもつて対日戦争に参加したいかなる国を対象とする連合または軍事同盟にも加入しない義務を負う。」

(第3章中の新条項)「日本の陸,海,空軍の軍備は自己防衛の任務にのみ供されるように厳格に制限されるべきである。従つて,日本国は,国境警備隊及び憲兵を含めて次にのべる範囲内の軍備を有することが認められる。
(略)」


などの記載がありました。


さて、以上を踏まえて、やっと本文です。
訳はscopedogによります。結構適当ですので、不審に思ったら原文にあたるようにお願いします。


(ここから)

J.R. JAYEWARDENE閣下による演説
セイロン(スリランカ)政府代表団主席/サンフランシスコ講和条約に署名する会議 アメリカ合衆国サンフランシスコにて/1951年9月6日


51カ国会議で今、私たちに示された平和条約案について、セイロン政府の意見を述べる機会を与えてくれたことを大変な名誉と考えております。私の声明はこの条約を承認する理由を示すもので、かつ、公平な批評を述べるものです。本来なら我が政府のみを代表して話すべきことですが、日本の将来に対する一般的態度においてアジアの国民感情を代表できる内容と考えております。条約最終案に対する意見として扱う必要はありません。米国代表Dulles氏、英国代表Kellneth Younger氏は、1945年8月の日本降伏以降の出来事について公正な説明をしてくれました。しかしながら、四大国間には、この条約案の作成手順について重大な意見の衝突があったことを指摘させてもらいます。それは、ソ連による、条約案の作成は四大国、つまり、米国、英国、中国、ソ連の外相会議だけが取り扱うべきであり、かつ、各国の拒否権を認めるべきだという主張です。

これに対して、英国は自治領も参加すべきであると主張し、米国もそれに同意しました。彼らはまた対日戦争に参加した全ての国が参加すべきであるとの考えを示しました。

また、これらの国々の中にも、様々な意味に取れる条約の実際の用語、軍国主義日本復活への恐怖、日本の侵略によって引き起こされた忘れることの出来ない損害と恐怖など、多くの意見の相違がありました。

1950年1月に開催された英連邦外務大臣によるコロンボ会議で、初めて私は日本の完全独立を提案しました。
コロンボ会議で示した日本の事例は、決して日本だけの問題というわけではなく
、世界の富と人口において大きな割合を持ちながら、自由を求め、今なお苦しんでいる南アジア・東南アジアの問題の一部なのです。この会議で示したのは2点。一つは、日本独立のことであり、もう一つは南アジア・東南アジアの人々の経済・社会発展の必要性です。これらを確実にするために現在コロンボ・プランとして知られる計画が始まったのです。

Kenneth Younger氏は会議後に、英連邦作業部会がどのようにして対日講和条約案を作成するか説明し、その後Dulles氏とも相談しました。
この条約案は、そのような相談と交渉の結果であり、我が政府や他の多くの国の意見を反映したものです。現時点の条約案は対日講和について議論することを厭わない国々の間で達した合意の最大公約数であると考えます。
セイロン、インド、パキスタンといったアジアの国の日本に対する態度に大きな影響を与えたのは、日本は自由になるべきだと言う考えです。私はこの条約がその考えを具体化することを望みます。

それとは別に他の問題もあります。つまり、自由が本州、北海道、九州、四国に限定されるのか、それとも、近隣の小島にも適用されるのか?適用されないなら、我々はそこをどうするのか。1943年のカイロ宣言にしたがって台湾を中国に返還すべきですか(※第2条(b)(f))?もしそうなら、どっちの中国(※国民党、共産党)に返すのですか?中国を講和会議に招請すべきですか(第23条(a)(b))?もしそうならどちらの政府を?賠償金を日本から取り立てるべきですか(※第14条(a))?もしそうなら、どれだけの額ですか?日本は、自分自身を守れるようになるまでどのように自衛するのですか(※第6条(a))?

日本の自由については、私たちは最終的に同意することができ、そして、条約はその合意を具体化した内容です。
他の問題については、激しい意見の相違があり、条約はその中の多数意見を具体化した内容です。我が政府は、いくつかの問題については別の案が採用されることを望みましたが、大多数意見という事実を踏まえて、自由で独立した日本という最も重要な概念を具体化しているこの条約案に署名することにしたのです。
私たちは、その他の関連問題は日本が自由になれば解決不能な問題ではなく、逆に日本が自由でなければ解決不能でしょう。

自由な日本は国連組織を通じて世界のその他の自由国家の問題を議論し満足できる決定に貢献することができる。この条約に署名すれば、日本はそのような態度で、統一後の中国政府と友好条約交渉を始めることができるでしょう。そして、インド政府とも平和友好条約交渉をはじめることができるでしょう。
しかし、もし私たちがこの条約に署名しないなら、これらの状況は何も変わりません。

アジアの諸国民はなぜ、日本が自由になることを切望しているのか、それは、アジア諸国民と日本との長きにわたる結びつきのゆえであり、アジア諸国の中で強大かつ自由であり、私たちが守護者・友人として仰ぎ見た日本に対して抱く深い尊敬のためです。
私は、先の戦争中に起こったことを覚えています。民衆に示された大東亜共栄のスローガン。それを見て、ビルマ、インド、インドネシアの指導者が最愛の祖国が解放されることを望んで日本に協力したのです。

我がセイロンは幸いにも侵略されませんでした。しかし、空襲や東南アジア方面の大規模な軍隊駐留、そして我々の主要産物であるゴムの残虐な搾取によってダメージを受けました。セイロンは連合軍にとって唯一の天然ゴムの供給源だったのです。私たちには、その損害を回復するように求める権利があります。しかし、そのようなことはしない。なぜなら、私たちはアジアの数百万の人々を救済した偉大な仏陀の言葉「憎悪は憎悪によって止むことなく、愛によって止む」と信じているからです。この言葉が、南アジアを通じてビルマ、ラオス、カンボジア、タイ、インドネシア、セイロンに人道主義を広げ、北の方へはヒマラヤを通じて西蔵、中国、そして最後に日本へと広がりました。この思想は何百年を経て私たちの一般的な文化・財産となったのです。この文化は今も生きています。私は先週この会議に参加する途中に日本を訪問しました。日本の指導者、大臣、一般市民から、僧侶から、私は日本の普通の人々は未だ仏陀の影響を受けている印象を受けました。私たちは彼らに機会を与えなければなりません。

それこそが、私が、日本の自由を制限すべきであるとするソ連代表の提案に同意できない理由です。
日本が自由国家として防衛力を保有する権利の制限(※第3章中の新条項)やその他ソ連が提案する制限は、ここにいるほとんどの国の代表にとってのみならず、この会議に参加していない国にとっても、この条約を受け入れ難くするでしょう。
特にこの条約とは大きく異なる主張を持っているインドなどはそうです。
そもそも、もし再びソ連が、カイロ宣言やポツダム宣言に反して琉球や小笠原諸島の日本返還を求めるなら(※第3条)、なぜ南樺太や千島列島を日本に返還しないのか?
ただし、ソ連の修正案には興味深い点もある。日本人に表現、報道、宗教・政治的主張の出版、公開の会合の自由という基礎的な自由を保障するという点です(※第4章中の新条項)。ソ連の人々はおそらくそのような自由を享受しているのでしょう。

この条約が、日本に主権、平等、および威厳を戻すと提案し、私たちにその資格がある以上、私たちがソ連の代表による修正に同意することはできません。条約の目的は、日本を自由にし、日本の回復に何ら制限を課さず、日本が国の内外の問題から防衛できる軍事力を組織し、それまで日本を友好国が支援し、そして賠償金が日本経済に害を及ぼさないようにすることです。

この条約は、敗北した敵国に対して寛大です。
私たちは、日本に友情の手を差し伸べ、人類の歴史に於けるこの戦争の章を本日記載される最終ページによって終わらし、明日から始まる新しい章によって、日本国民と我々が平和と繁栄の中で人類の偉大さを感じるために友に歩むことを信じます。


(ここまで)


まあ、正直いいこと言ってますな。なんかよくわからんところは適当に訳してますが。
原文はこちら(http://www.d7.dion.ne.jp/~tomoca/nettaigo/address_jr_e.htm )なので、怪しいと思った方は原文にあたってくださいな(下記にも転載)。


ただ、明らかなのは、戦争中の日本を褒め称えているわけじゃないんですよね。これ。
「我がセイロンは幸いにも侵略されませんでした。We in Ceylon were fortunate that we were not invaded,」とか「私たちは彼らに機会を与えなければなりません。We must give them that opportunity.」とか言っているくらいですから。
日本に対して、厳しくすればいいというわけではない、という程度です。
日本独立を支援することが、当時なお、植民地的な扱いを受けている南アジアや東南アジアの独立の手助けになる、という認識も見えます。
その他、戦後の冷戦構造下での社会主義国家スリランカを取り巻く国際情勢だってあったでしょう。地理的条件を考えれば、いたずらに米英と対立するのは不利と考えたのかもしれませんし(発言当時、スリランカは英連邦下の自治領だったかと思うのだが・・・)。

全体的なトーンは確かに日本に好意的ですが、それは軍国日本ではなく、中国やインド、他のアジア諸国の友好国であるように期待される将来の日本に対してであることがわかります。決して、太平洋戦争を解放戦争として肯定している発言ではありませんね。




ADDRESS BY HIS EXCELLENCY J.R. JAYEWARDENE
LEADER OF ThE DELEGATION OF THE GOVERNMENT OF CEYLON (SRI LANK) / AT THE CONFERENCE FOR THE CONCLUSION AND SIGNATURE OF THE TREATY OF PEACE WITH JAPAN - SAN FRANCISCO, USA / 6TH SEPTEMBER 1951 / HIS EXCELLENCY J.R.JAYEWARDENE IS PRESENTLY THE PRESIDENT OF THE SOCIALIST REPUBLIC OF SRI LANK


--------------------------------------------------------------------------------

I consider it a great privilege to be afforded the opportunity of placing before this assembly of fifty-one nations the views of the Government of Ceylon on the draft Treaty of Peace which we have been invited to approve. My statement will consist of the reasons for our acceptance of this treaty, and I shall also attempt to meet some of the criticisms that have been levelled against it. It is true that I can speak only on behalf of my Government, but I claim that I can voice the sentiments of the people of Asia in their general attitude towards the future of Japan. I need not deal with the events that led to the formulation of the final draft of the treaty which we are considering. Mr Dulles, the American representative, and Mr.Kellneth Younger, the British representative, have given us a full and fair account of those events, beginning with the capitulation of Japan in August 1945. It may, however, be mentioned that there was a serious conflict of opinion between the four major powers as to the procedure that should be adopted to draft this treaty. The Soviet Union insisted that the four major powers alone - that is, the Council of Foreign Ministers of the USA, UK, China and the USSR -should alone undertake it, and that the power of veto should be reserved to them if any others were admitted for the purpose of drafting the treaty.

The United Kingdom insisted that the Dominions should be consulted and the United States of America agreed with this. They also supported consltation with all the countries that took part in the war against Japan.

Among these countries, too, there was a difference of opinion as to the actual terms of the treaty actuated by various considerations, some by a fear of the raising of a new militaristic Japan, and others yet unable to forget the damage and horrors caused by the Japanese invasions.

I venture to submit that it was at the Colombo Conference of Commonwealth Foreign Ministers held in January, 1950, that for the first time the case for a completely independent Japan was proposed and considered. The Colombo Conference considered Japan not as an isolated case, but as part of the region known as South and Southeast Asia, Containing a large proportion of the world's wealth and population, and consisting of countries which have only recently regained their freedom, whose people were still suffering as a result of centuries of neglect. Two ideas emerged from that Conference - one, that of an independent Japan, and the other, the necessity for the economic and social development of the peoples of South and South-east Asia, to ensure which, what is now known as the Colombo Plan was launched.

Mr Kenneth Younger has explained how, after that Conference, a Working Committee of Commonwealth High Commissioners worked on a draft treaty, and later had consultations with the American representative, Mr Du11es.

The treaty now before us is the result of those consultations and negotiations. It represents some of the views that my Government had, and some of them which it did not have. I claim that at the present moment it represents the largest common measure of agreement that could be attained among the countries that were willing to discuss peace with Japan.

The main idea that animated the Asian countries, Ceylon, India and Pakistan, in their attitude to Japan was that Japan should be free. I claim that this treaty embodies that idea in its entirety.
There are other matters which are external to the question of Japan's freedom - namely, should that freedom be limited to the main islands of Honshu, Hokkaido, Kyushu, and Shikoku, or should it extend to several minor islands in the neighbourhood? If not, what should we do with those islands? Should Formosa be returned to China in accordance with the Cairo Declaration of 1943? If so, to which Government of China? Should China be invited to the Peace Treaty Conference? If so, which Government? Should reparations be exacted from Japan? If so, the amount. How is Japan to defend herself until she organizes her own defence?

On the main question of the freedom of Japan, we were able to agree ultimately, and the treaty embodies that agreement. On the other matters, there were sharp differences of opinion, and the treaty embodies the majority views. My Government would have preferred it if some of those quetions were answered in a different way, but the fact that the majority don't agree with us is no reason why we should abstain from signing the treaty, which contains the central concept of a free and independent Japan.

We feel that the allied matters I mentioned earlier are not insoluble if Japan is free, that they are insoluble if Japan is not free.
A free Japan, through, let us say, the United Nations organization, can discuss these problems with the other free nations of the world and arrive at early and satisfactory decisions. By signing this treaty we are enabling Japan to be in a position to do so, to enter into a treaty of friendship with the Government of China if she decides to recognise her, and I am happy to state, enabling her to enter into a treaty of peace and friendship with India. If we do not sign this treaty, none of these eventualities can take place,

Why is it that the peoples of Asia are anxious that Japan should be free ? It is because of our age-long connections with her,and because of the high regard the subject peoples of Asia have for Japan when she alone, among the Asian nations, was strong and free and we looked up to her as a guardian and friend. I can recall incidents that occurred during the last war, when the co-prosperity slogan for Asia had its appeal to subject peoples, and some of the leadders of Burma, India, and lndonesia joined the Japanese in the hope that thereby their beloved countries may be liberated.

We in Ceylon were fortunate that we were not invaded, but the damage caused by air raids, by the stationing of enormous armies under the South-East Asian Command, and by the slaughter-tapping of one of our main commodities,rubber, when we were the only producers of natural rubber for the Allies, entitle us to ask th1at the damage so caused should be repaired. We do not intend to do so, for we believe in the words of the Great Teacher whose message has ennobled the lives of countless millions in Asia, that (hatred ceasesnot by hatred, but by love'. It is the message of the Buddha, the Great Teacher, the Founder of Buddhism, which spread a wave of humanism through South Asia, Burma, Laos, Cambodia, Siam, Indonesia and Ceylon, and also northwards through the Himalayas into Tibet, China, and finally, Japan, which bound us together for hundreds of years with a common culture and heritage. This common culture still exists, as I found on my visit to Japan last week on my way to attend this Conference; and from the leaders of Japan, Ministers of State as well as private citizens, from their priests in the temples, I gathered the impression that the common people of Japan are still influenced by the shadow of that Great Teacher of peace, and wish to follow it. We must give them that opportunity.

That is why I cannot subscribe to the views of the delegate of the Soviet Union when he proposes that the freedom of Japan should be limited. The restrictions he wishes to impose, such as the limitation on the right of Japan to maintain such defence forces as a free nation is entitled to, and the other limitations he proposes, would make this treaty not acceptable not only to the vast majority of the delegates present here, but even to some of the countries that have not attended this Conference, particularly India, who wished to go even further than this treaty visualizes. If again the Soviet Union wishes the islands of Ryukyu and Bonin returned to Japan, contrary to the Cairo and Potsdam Declarations, why should then South Sakhalin, as well as the Kurile be not also returned to Japan?
It is also interesting to note that the amendments of the Soviet Union seek to insure to the people of Japan the fundamental freedoms of expression, of press and publication of religious worship, of political opinion and of public meeting - freedoms which the people of the Soviet Union themselves would dearly love to possess and enjoy.

The reason why, therefore, we cannot agree to the amendments proposed by the Soviet delegate, is that this treaty proposes to return to Japan sovereignty, equality and dignity, and we cannot do so if we give them with qualifications. The purpose of the treaty then is to make Japan free, to impose no restrictions on Japan's recovery, to see to it that she organizes her own military defence against external aggression, and internal subversion, and that until she does so, she invites the aid of a friendly power to protect her, and that no reparations be exacted from her that harm her economy.

This treaty is as magnanimous as it is just to a defeated foe.
We extend to Japan a hand of friendship, and trust that with the closing of this chapter in the history of man, the last page of which we write today, and with the beginning of the new one, the first page of which we dictate tomorrow, her people and ours may march together to enjoy the full dignity of human life in peace and prosperity.


AD

コメント

[コメントをする]

1 ■無題

インドネシアタイムス会長 
(インドネシア人慰安婦について)ばかばかしい。針小棒大である。一人の兵隊に一人の慰安婦がいたというのか。どうしてインドネシアのよいところを映さない。こんな番組、両国の友好に何の役にも立たない。我々には、日本罵倒体質の韓国や中国と違って歴史とプライドがある。「お金をくれ」などとは、360年間、わが国を支配したオランダにだって要求しない。




36年で、謝罪だの賠償だの言っている国がありますねw

2 ■無題

 かつて約350年の長きにわたりオランダの植民地支配下にあったインドネシアでは、12世紀ごろから伝わる「ジョヨボヨ王の予言」が広く信じられていた。



 「我々は、欧州の民に支配される。しかし、やがて北から小柄で肌の黄色い民族がやって来て、白人を打ち負かすだろう。しかし彼らがここにいるのは、トウモロコシが実るまでの間だけだ。実りの時が過ぎれば彼らは母国に帰り、この国は我々の手に戻る」



 1942年、太平洋戦争初頭に日本軍がオランダ領東インド(現インドネシア)に侵攻してオランダを駆逐した時、民衆は日本こそが「黄色い救世主」だと熱狂した。しかも予言の通り、日本軍は「トウモロコシが育つ」期間とされる約3年半だけ駐留し、45年の敗戦とともに姿を消した。



 当時、インドネシア全土で1000人前後いたといわれる残留兵のうち、独立戦争を生き残ったのは300人程度。その中で現在もインドネシアで存命が確認されているのはわずか11人に過ぎない。



 ジャカルタに住む宮原永治氏(84)も、そんな生き残りの1人だ。42年3月1日、今村均中将率いる第16軍の一員としジャワ島カラワンに敵前上陸。住民らの手厚い歓迎を前に、「この戦争は、有色人種を白人の支配から解放するための戦争なのだ」と確信したという。





 日本は44年、独立運動指導者のスカルノらに対し、将来の独立を約束する。しかし、日本の敗戦で約束は守られなかった。「だからこそ、我々が約束した独立を助けるため、ここで戦おうと決意した」と宮原氏は言う。





 戦闘に不慣れなインドネシア人にとり、残留日本兵の存在は大きかった。何より、インドネシア人のみによる初の軍事組織「祖国防衛義勇軍」(ペタ)を日本軍政がすでに設置していたため、結果として組織的な軍事行動を可能にしたことが、勝利に大きく役立った。



http://www.yomiuri.co.jp/tabi/world/abroad/20041122sc22.htm

3 ■無題

インドネシア独立戦争中は情報面の責任者として活躍したズルキフリ・ルビスの言葉を聞こう。

「オランダに再植民地化をあきらめさせる中心となったのは義勇軍出身者でした。



日本がインドネシアにもたらしたもの中で、



最も素晴らしかったことは訓練ですが、



それがインドネシアの独立にとって最も重要な要素となったのです。..



もし、日本軍が育てた義勇軍がなかったならば、



インドネシアの独立は南米のスリナム共和国のように長期間かかっていたかもしれません。



スリナム共和国は、オランダから独立するのに



インドネシアの独立からさらに30年もかかりましたから。


大東亜戦争というものは、本来なら私たちインドネシア人が、



独立のために戦うべき戦争だったと思います。



もし、あの時私たちに軍事力があったなら、私たちが植民地主義者と戦ったでしょう。



大東亜戦争はそういう戦いだったんです。

4 ■無題

★インドネシア アリ・ムルトポ准将
「日本はアジアの光である。
 大東亜戦争は欧米人にアジア人の勇敢さを示したもので
 アジア人の誇りである。
 今、忽然として日本民族がこの地球上から消えたら韓国が一番困ると思う。
 もし、日本がシンガポールの地点にあったら、インドネシア人の成功は
 容易である。つまり、日本の近いところに位置していることは、幸運なのだ。
 経済的支援を連続的に受けていると言ってもよいくらいだ。
 インドネシアが日本に近ければ、今のような貧弱なインドネシアではない。
 つまり、我々インドネシア人は『日本はなにもしてくれなくてもよい』と
 考えている。日本は欧米と肩を並べて進歩しているだけで十分、
 アジア・アフリカにつくしていると考えている。
 だから、我々アジア人は外交面に弱い日本を支援したいと思っている」

5 ■無題

「ムルデカ(独立万歳)」を唱えながら歩く人たち。当時を知るお年寄りたちが、日本語の歌で盛り上がっています。

http://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=teconomy&page=4&nid=3035831&st=title&sw=%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%8D%E3%82%B7%E3%82%A2

6 ■無題

■インドネシア残留日本兵が死去 対蘭独立戦争を戦う


 日本の敗戦後、インドネシアに残って対オランダ独立戦争を戦った元残留日本兵の藤山秀雄さんが11日、
ジャカルタ市内の病院で85歳で亡くなった。元兵士の互助会「福祉友の会」によると、同国で生存する残留
日本兵はこれで6人になった。

 戦後、インドネシアの独立闘争に共感して義勇軍に加わった元日本兵は約1000人いたとされるが、多くが
ゲリラ戦で死亡した。佐賀県の出身の藤山さんは独立戦争後、インドネシア人女性と結婚。整備兵だった
知識を生かして自動車整備で生計をたてた。葬儀は13日午前、カリバタ国立英雄墓地で執り行われる。

2007年06月11日19時52分
http://www.asahi.com/national/update/0611/TKY200706110218.html



台湾に続き、インドネシアでもやはり「英雄」扱いです。

韓国・中国の靖国批判、日本を悪辣に描いた主張を「アジアの共通認識」とした

主張が脆くも崩れ去っていきますね。

参考に2chに貼られていたこちらも・・・



インドネシア独立パレード(1994年8月)で、日本の軍歌を歌うインドネシアのお年寄りたち。
http://www.youtube.com/watch?v=4_eZxs4Ln8w
インドネシア独立戦争に関わった元日本兵
http://www.youtube.com/watch?v=NvoC0R7WV_8

Japanese Samurai in Indonesia
http://www.youtube.com/watch?v=jpzNVPRmzAs&NR=1
Taiwan and Japan liberal democratic countries in Far East
http://www.youtube.com/watch?v=chPCjJcpbXw&NR=1
残留日本兵の功績
http://www.youtube.com/watch?v=c2C_KvWBBv0

日の丸も旭日旗も見えます。
Indonesia Raya 1945
http://www.youtube.com/watch?v=6QvyLkdl1_s

The Heroes of Indonesia : National Revolution 1945-1950
http://www.youtube.com/watch?v=dHRyiPjc5E8

こうした歴史的事実からインドネシアの独立記念日では、インドネシアの服装の男女2名になんと!
日本兵の服装をした1名を加えて3名で、国旗を掲揚します。
http://www.jiyuu-shikan.org/faq/A03_1.html

7 ■無題

インドネシア サイデマン外務省上級大使(陸軍大学長、駐日大使などを歴任)
 平成7(1995年)年5月29日「アジア共生の祭典」より
 「第2次大戦中、あるいはその直後、植民地の独立のために、外国の人々が力を貸してくれるということが見られました。
私の国インドネシアの場合、多くの日本の青年たちがインドネシアを自由にするために独立の闘士たちと肩を並べて戦ってくれました。
そして多くの日本の青年がそのために命を捧げてくれました。今日このアジア共生の祭典において、私たちの独立のために
命を捧げてくれたこれらすべての若者たちを偲びたいと思います」


8 ■無題

インドネシアの対日感情はBBCの調査でも一番良い。
http://www.youtube.com/watch?v=c2C_KvWBBv0

9 ■unkoreaさん、なんか必死だな。


>インドネシアタイムス会長 
引用の発言をした人名、日付、メディアの記載をお願いします。
内容はよく見るんですが、出所がよくわからないんですよね、これ。

>インドネシア独立戦争中は情報面の責任者として活躍したズルキフリ・ルビスの言葉を聞こう。
日付、メディアについて、上と同じ。

>★インドネシア アリ・ムルトポ准将
上と同じ

10 ■unkoreaさんのトリミング見っけ

>かつて約350年の長きにわたりオランダの植民地支配下にあったインドネシアでは、(以下略)

http://www.yomiuri.co.jp/tabi/world/abroad/20041122sc22.htm
には、最後に以下の記述がありますが、unkoreaさんは、なぜかトリミングしています。多分、歴史を公平に理解する気が無いのだろう。


「歴史には、必ず「光」と「影」がある。太平洋戦争中の日本のインドネシア支配は、10万人にのぼる「労務者」の使役や食料徴発による飢餓のまん延など、負の側面抜きには語れない。しかし一方で、今まであまりに語られなさ過ぎた、インドネシア独立で日本人が果たした役割を知っておくことも、歴史を公平に理解する上では欠かせない。」

11 ■うわ、日本会議(カルト)がソースかよ

>インドネシア サイデマン外務省上級大使(陸軍大学長、駐日大使などを歴任)~
微妙にニュアンスが違いますよ。
どうして「植民地に住んでいた人々」をカットしたんですか?

「これらの植民地となっていた人々の中でも、特に若い人々が大きな犠牲を払い、また独立のために命を捧げました。そして、第二次世界大戦中、あるいはその直後に植民地に住んでいた人々だけではなく、外国の人々が力を貸してくれるということが見られました。
 私の国インドネシアをとりますと、多くの日本の青年たちがインドネシアを自由にするために独立の闘士たちと肩を並べて戦ってくれました。そして多くの日本の若者たちがそのために命を犠牲にしてくれました。そこで、今日の式典におきまして私たちの独立のために命を捧げてくれたこれらの若者たちを偲びたいと思います。」(サイデマン・スリヨハデイブロジョ 外務省上級大使 1995年5月29日 日本会議)
http://www.nipponkaigi.org/1700-rekishi/1750-02ajiakyousei%20aisatu.html#006
日本会議ってカルト団体だよな・・・。

12 ■変なロジック

なんか戦後、インドネシア独立に協力した”元”日本兵を持ち上げているようですが、unkoreaさんがその元日本兵の一人であるならともかく、そうでないなら、
「インドネシアで感謝されている元日本兵は日本人」
「インドネシアで感謝されている元日本兵は偉い」
「unkoreaも日本人」

「unkorea偉い」
という馬鹿げたロジックを内蔵している人なんでしょうね。

13 ■無題

unkoreaさんはコピペ部隊に身を落としたのでしょう(w

>>ネトウヨが絶賛する海外の声

東京裁判におけるパール判事もそうですね。
先日NHKでもこれまでの定説を翻す(というより田中正明の捏造が一部で信じられていただけですが)ドキュメント番組がありましたが、この手の「定説と思われていた」右派による捏造や印象操作は、探せばまだまだ見つかりそうですね

14 ■「定説と思われていた」右派による捏造や印象操作

おっしゃる通り、まだまだあるでしょうね。
名越氏あたりは、印象操作の宝庫の気がします。
インドネシア親日説もネトウヨの間で人気ですが、英語版WIKIとかでは、地域や階級によって(扱いが異なっていたため)対日感情が異なる、とのことで調べれば色々あらが出そうな感じです。


15 ■無題

マルクス主義に精通する社会民主主義者

とありますので、訂正させてください

社会民主主義インターナショナルは、マルクス主義者と敵対し、社会民主主義政党が共産党と接触することも当時禁止していました。

オスロー宣言には、明確に共産党との戦いが宣言されています
http://homepage2.nifty.com/socialist-consort/SDforeign/SI/Oslo/OsloDeclJ.html

16 ■ふうてんの猫さん

情報ありがとうございます。

ただ、実際、Lanka Sama Samaja党のマルクス主義思想にも触れてはいるようですから、「マルクス主義に精通」と言っても特に間違ってはいないように思いますが。
社会民主主義者であってマルキストではないでしょうけど。

また、オスロ宣言で敵対を宣言しているのは、
「共産主義は、単に社会的、政治的、そして経済的制度であるだけではなく、自分たちの主張が絶対的に正しいと主張し、かつ全世界に拡めようと懸命になっている教義体系である。」
という定義での共産主義であって、必ずしもマルクス主義と等価ではないと思います。

この辺の思想関係については疎いので断言はできないのですが・・・

17 ■無題

ううん?僕はスリランカにちゃんと行って彼の博物館も行ったものです。彼は大の親日家ですよ。社会主義者ながらも日本をサポートし、ソ連を批判してるところがすごいわけです。ずっと日本を愛していて彼の亡き後には遺書どおり、角膜の一枚は国内の恵まれない人に、もう一枚に日本に寄付されました。

あなたの妄想こそが激しすぎます。

ちなみにスリランカ人で彼の演説を知らない人は学校に通った人であればほぼいません。そしてスリランカ人の一番大好きな国が日本です。

18 ■>たいようさん


コメントするなら、エントリの内容くらいちゃんと読みなよ。

私はちゃんとこう書いてます。
「全体的なトーンは確かに日本に好意的ですが、それは軍国日本ではなく、中国やインド、他のアジア諸国の友好国であるように期待される将来の日本に対してであることがわかります。決して、太平洋戦争を解放戦争として肯定している発言ではありませんね。」

読めないんですか?
意味が理解できませんでしたか?
それとも、JRは軍国日本が好きだとスリランカの人たちは言ったわけですか?

コメント投稿

[PR]気になるキーワード