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「南京事件資料館」

「南京事件資料集」


南京大虐殺事件関連

日本軍が集団虐殺した中国軍民の数

出典:「南京事件」(笠原十九司 岩波新書)224〜225ページ ただし、原典にあった出典・資料の列は省き、備考はkoβによる。

戦闘詳報・陣中日誌などの日本側史料に基づく、日本軍が集団虐殺した中国軍民の数
 日時部隊殺害数範疇備考
第16師団12/13歩兵36連隊5000〜6000長江渡江中殺戮 
  歩兵33連隊約2000 
  佐々木支隊一万数千敗残兵殺戮 
  数千投降捕虜殺戮 
  1中隊1300 
  重砲兵第2大隊7000〜8000投降捕虜処刑 
 12/14佐々木支隊(約2万)捕虜とする処刑の記述なし。
  歩兵第20連隊800武装解除して殺害 
  310武装解除して銃殺 
  (約1800)捕虜を連行処刑の記述なし。 
  150〜160敗残兵を連行処刑 
  600 
 12/24〜1/5佐々木支隊数千敗残兵狩りで処刑 
第13師団12/14山田支隊約1000敗残兵掃蕩 
 12/16〜17約2万捕虜殺害下記参照
第9師団12/13〜24歩兵7連隊6670難民区の敗残兵刺殺 
第114師団12/13歩兵66連隊1500余捕虜を背信行為で処刑安全を保障する旨の投降勧告に従った捕虜を殺害
第6師団南京攻撃中 (5500)捕虜捕獲処刑の記述なし。
 12/10〜13 (11000)上河鎮下関遺棄死体処刑の記述なし。
 12/12〜13 (1700)城壁遺棄死体処刑の記述なし。
第5師団12/13国崎支隊(約5000)捕虜の処置軍に委任処刑の記述なし。
 12/14歩兵41連隊(2350)捕虜を後刻処置する処刑の記述なし。
第2碇泊場司令部12/16 (約2000)下関で敗残兵処刑目撃記録。他の殺戮との重複の可能性有り
 12/17 (約2000)下関で敗残兵処刑処刑の記述なし。
海軍第11戦隊12/13 約1万長江渡江中殺戮 
 12/14軍艦「熱海」(約700)敗残兵武装解除処刑の記述なし。
 12/15第2号掃海艇約500敗残兵殲滅 
  軍艦「栂」約700敗残兵殲滅 
 12/16前後 数千八卦洲の敗残兵殺戮 
※「処刑の記述なし」に関しては、前後関係、他の資料との比較検討により、処刑された可能性が高いと判断するのが妥当であろうとされている。

合計値
 最大値では括弧付きの人数をすべて合計に入れ、数千の表示は5000と扱う。最小値では括弧付きは合計に含めず、数千の表示は2000として扱う。
最大値 140,990人
最小値  80,830人
koβ註:
あくまでもここに集計された数字は、公開されている戦闘詳報などを集計したものであり、それら軍関係の文書は、いまだに公開されていないものが多い。また、南京事件の死亡者数の推計には、軍関係以外の史料も考慮に入れる必要がある。戦闘詳報などの「戦果」は一般に大目の見積もりをする傾向があるので、あくまでも概数として参考にする他はない。

南京事件に関する、日本側の記録

「第一一四師団第六六連隊第一大隊 戦闘詳報」

(一二月一二日午後七時ごろ)最初の捕虜を得たるさい、隊長はその三名を伝令として抵抗断念して投降せば、助命する旨を含めて派遣するに、その効果大にしてその結果、我が軍の犠牲をすくなくなからしめたるものなり。捕虜は鉄道路線上に集結せしめ、服装検査をなし負傷者はいたわり、また日本軍の寛大なる処置を一般に目撃せしめ、さらに伝令を派して残敵の投降を勧告せしめたり。
 一般に観念し監視兵の言を厳守せり。

(一二日夜)捕虜は第四中隊警備地区洋館内に収容し、周囲に警戒兵を配備し、その食事は捕虜二〇名を使役し徴発米を炊さんせしめて支給せり。食事を支給せるは午後十時ごろにして、食に飢えたる彼らは争って貪食せり。

(十三日午後二時)午後二時零分、連隊長より左の命令を受く。
 旅団(歩兵第一二七旅団)命令により捕虜は全部殺すべし。その方法は十数名を捕縛して逐次銃殺してはいかん。
(中略)
 各隊共に午後五時ごろ準備終わり刺殺を開始し、おおむね午後七時三十分刺殺を終わり、連隊に報告す。第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり。
 捕虜は観念し恐れず軍刀の前に首をさし伸ぶるもの、銃剣の前に乗り出し従容としおるものありたるも、中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり。とくに隊長巡視のさいは各所にその声おこれり。

(koβ註:助命する旨の投降勧告をした上で、その勧告を信じて投降した捕虜を殺害している。これは「陸戦の法規慣例に関する条約」に違反している。)

(「南京戦史資料集」「「南京難民区の百日」笠原十九司 青木書店 所載)

「山田支隊山砲兵第十九連隊第三大隊 黒須忠信上等兵の陣中日誌」

(十二月十六日)午後一時、我が段列より二十名は残兵掃湯(掃蕩)の目的にて馬風(幕府)山方面に向かう。二、三日前捕慮(捕虜)せし支那兵の一部五千名を揚子江の沿岸に連れ出し機関銃を持って射殺す。その后銃剣にて思う存分に突き刺す。自分もこの時ばが(か)りと憎き支那兵を三十人も突き殺したことであろう。
山となっている死人の上をあがって突き刺す気持ちは、鬼お(を)もひひ(し)がん勇気が出て力いっぱい突き刺したり。ウーン、ウーンとうめく支那兵の声、年寄りも子供もいる。一人残らず殺す。刀を借りて首も切ってみた。こんなことは今まで中にない珍しい出来事であった。
帰りし時は午後八時となり、腕は相当つかれていた。
(「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち」「南京事件」笠原十九司、岩波書店 所載)

「上海派遣軍司令部野戦郵便長 佐々木元勝の日記」
十二月十六日−
 ……新局舎の前には、軍帽を被った支那兵(士官)が脚から腹のほうを焼かれ、まだ、燃えている。壊れた煉瓦の上では、少し前殺されたらしい中老の死体が、口と鼻から血を出して倒れている。・・・・・・麒麟門で敗残兵との一戦では、馬群の弾薬集積所で五名の兵が、武装解除した二百人を後手に縛り、昼の一時頃から一人づつ銃剣で突刺した。・・・・・・夕方頃、自分で通った時には二百人は既に埋められ、一本の墓標が立てられてあった。
(中略)
 ・・・・・・碼頭の局に行った運転手の兵等が、だいぶ遅くなってからドヤドヤ帰ってきたが、碼頭で二千名の俘虜を銃殺したという話。手を縛り、河に追い込み銃で撃ち殺す。逃げようとするのは機関銃でやる。三人四人づつ追い立て、刺しても斬ってもご自由というわけで、運転手の兵も十五名は撃ったという。
(「証言による「南京戦史」(9) 「天皇の軍隊と南京事件」吉田裕 青木書店 所載)

「第六師団歩兵第二三連隊の一兵士の従軍日記」

十二月十五日−
今日、逃げ場を失ったチャンコロ約二千名ゾロゾロ白旗を掲げて降参する一隊に会ふ。老若取り混ぜ、服装万別、武器も何も捨ててしまって大道に婉々ヒザマヅイた有様はまさに天下の奇観とも云へ様。処置なきままに、それぞれ色々の方法で殺して仕舞ったらしい。近ごろ徒然なるままに罪も無い支那人を捕まえてきては生きたまま土葬にしたり、火の中に突き込んだり木片でたたき殺したり、全く支那兵も顔負けするような惨殺を敢へて喜んでいるのが流行りだした様子。
十二月二十一日−
今日もまた罪の無いニーヤ(中国人のこと)を突き倒したり打ったりして半殺しにしたのを壕の中に入れて頭から火をつけてなぶり殺しにする。退屈まぎれに皆おもしろがってやるのであるが、それが内地だったらたいした事件を引き起こすことだろう。まるで犬や猫を殺すくらいのものだ。
(「朝日新聞」一九八四年八月五日付 「天皇の軍隊と南京事件」所載)

「第一六師団第二〇連隊 牧原信夫上等兵の日記」

〔一一月十八日〕
〔一一月二二日〕
〔一一月二六日〕
〔一一月二七日〕
〔一一月二八日〕
〔一一月二十九日〕
〔一二月一日〕

(「京都師団関係資料集」「南京難民区の百日」および「南京事件」 笠原十九司 所載)
南京戦に於ける軍民殺害について

「日本軍に包囲された南京城の一方から揚子江沿いに女、子どもをまじえた市民の大群が怒濤のように逃げていく。そのなかに多数の中国兵がまぎれこんでいる。中国兵をそのまま逃がしたのでは、あとで戦力に影響する。そこで、前線で機関銃をすえている兵士に長中佐は、あれを撃て、と命令した。中国兵がまぎれているとはいえ、逃げているのは市民であるから、さすがに兵士はちゅうちょして撃たなかった。それで長中佐は激怒して、「人を殺すのはこうするんじゃ」と、軍刀でその兵士を袈裟がけに斬り殺した。おどろいたほかの兵隊が、いっせいに機関銃を発射し、大殺戮となったという。」
(「最後の殿様」徳川義親 「天皇の軍隊と南京事件」吉田裕 所載)

殺戮に用いられることの多かった日本刀について

「今度の事変では、飛行機の発達から、日露戦争の時のように、大兵集団の会戦というような事が、徒に兵を損ずるのみなので、自然、分散的な陣形をとり、彼我少数を以って、所在に白兵戦、格闘戦を演ずる機会が多くなった。殊にゲリラ戦術、便衣隊潜入等の後方撹乱戦其他で、一面恐ろしい器械化戦が行わるると共に、多面一騎打の原始戦が盛んに行われ、戦風は一部元亀天正に逆戻りしたかのようなところさえある」

「これは今度の事変ばかりでなく、日清日露から西南役維新戦争に遡って見て、実際乱戦中に敵とわたり合って血戦した事実は、小説や講談にあるようにそうザラにあったものでは無いらしい。殊に今度の事変などでは、いざ接戦となると敵は逃げ足となり、一人斬つて二人目に及ばんとする時は、早二間も三間も離れて居るというような場合が多く、実際十人も二十人も斬ったというような話は、例えば敵を城壁域内際とか袋路地のような所へ追いつめ、ひしめき合いわめき合う処を片っ端から滅多斬りにした時などの事で、そうした将兵の血刀を手にし、状況を聞いてみると、四五人斬ったかと思う頃、多くの場合血がぬるぬると柄に伝わって来る」

(成瀬関次「戦ふ日本刀」 「南京大虐殺−まぼろし化工作批判」洞富雄 所載 
ただし、旧仮名遣いなどは改めてある。)

※成瀬関次氏は日中戦争期に刀剣修理技術者として大陸にわたり、数多くの損傷刀の修理を行った。その彼曰く、「概して日本刀は強靭なものである」そうです。上記の引用からもわかるように、日本刀での斬人は結構行われていたようで、「日本刀では何人も斬ることはできないから、百人斬りなんてウソだ」などという話には説得力がない、という事になりますな。

日本刀による捕虜殺戮の様子・旧陸軍将校鵜野晋太郎氏の記録より

「 私は常用の貞光を引き抜くと、一息入れて剣背(峰、つまり刀の刃の背)を軽く村長の首に当て、間合いを見て足の位置を定め、今度は刃部を前に戻し乍ら一気に振り下ろした。
 "ドスッ"と鈍い手応えと同時に、噴水の如く、二、三本と吹き出す血。村長の首は胴体より僅かに早く落ち、顔は苦悶に歪み、歯はガチガチと砂を噛んだ。凄愴、無惨。漂う血の匂い。・・・・・・つづいて私は四十がらみの村幹部の後方に廻った。
 (先ずはうまくいったが、目釘はどうかな。刀の曲りは出たかな?)
 目釘は異状ないが、刀身は僅かに曲りが出たようだ。
 (大丈夫だ。連続してどこまでいけるか、やるんだ)
 次の首に剣背を当てるや、返して振り下ろす。そして三人、四人目へと息もつかせず斬った。だが四人目は八分通りの斬れ方で首は胸に垂れて倒れた。
 (失敗だ!落着け!)
 私は強いて笑顔を試みたが、泣き面になってしまった。
 「おい!警戒兵、そこの水桶を持ってこい!」
 私はひったくるようにして水桶の水で刀の血糊を拭いた後、タオルを刀身に巻いて切先から四〇センチのところに膝をあてがい、右に約五度曲がったのを両手でぐいと元に戻したが、僅かな曲がりは残った。
 (エイッ、あとの五人を殺らなくちゃ)
 そのとき、聞き覚えのある不気味な歌−「抗日歌」を、五人が涙を流して斉唱し始めた。低く怒りの気概が迫る。
 「止めろ!止めないか!よーし、斬ってやる」
 だが不安がふとよぎった。−(貞光の目釘はかなり緩んどる。これ以上緩めば刀は使えないぞ。でも父の祐定に取り替えて使うべきではない。勿論郭劉湾で一度血を吸わせたが、父の魂として祐定は一旦緩急の決戦の秋まで静かに保管した方がよいと決心してきたではないか。この母の魂たる貞光は昭和新刀だが、据え物でもこんなに曲るとは思わなかった。しかしここで父の祐定に取り替えては母の貞光を汚すことになる。そうだ!母のためにも断じて貞光で斬ろう!)
 そのとき五人の斉唱は止んでいたが、悲痛な鳴き声は続いていた。私は一段と凶暴に刀を振るって斬った。目釘は更に彎曲して緩み、鍔元がガタガタになって来た上、再び刀身の四〇センチまでが右五度に曲がった。そのため二人斬首して曲りを直し、また二人斬っては直して、ようやく最後の九人目の首を斬り落とした。首を完全に落としたのは一番目と九番目だけであった。
 血の匂いは暫らく消えなかった。鉄柵の中の捕虜の集団は、涙を拭おうともせず立ちすくんでいた。」

(鵜野晋太郎「日本刀怨恨譜」 「南京大虐殺否定論13のウソ」南京事件調査研究会 柏書房より)
 

 
鵜野氏は日本刀を二振り持っていて、「祐定」は父から贈られた関ヶ原新刀。「貞光」は母から贈られた昭和新刀。日本刀は一般に古い物ほど鉄の質がよく、とうぜん、古刀ほど強靱かつ切れ味がよい。鵜野氏は古刀に比べナマクラと言われる昭和新刀で、九人もの捕虜を斬殺している。このことからも一応マトモに作られている日本刀は強靱かつ、斬人に適しているのである。

<日本刀余談>
 私の知る限りで、日本刀の強靱さを示す例としては、幕末期に信州真田藩にて行われた刀剣試しの逸話がある。山浦真雄という名工の鍛えた剣を、藩で採用するに値する代物かどうか、強靱さを試すため、生鉄を斬ってみたり、兜を斬ってみたり、果ては鉄杖で打ち据えたりもしてみたそうだが、ほとんどびくともしなかったそうである。少々別格ではあるにせよ、強靱さを示す一例である。
 また、日本刀の茎(なかご・柄に差し込まれている部分)にはしばしば、「二ツ胴」とか、「三ツ胴」とか象嵌されているものがあるが、これは、刑戮された囚人の死体を二つ、三つ重ねたものを一刀で両断した(すなわち強靱な斬れ味の保証付き)、という意味で、そういうものが残っていること自体、日本刀の鋭利さ、強靱さを示すものであるといえよう。
 テレビのチャンバラなどを見ていると誤解しやすいかもしれないが、日本刀はズッシリとした鉄のカタマリなのである。中身がぎっちり詰まったカタイカタイ鋼鉄の棒に刃がついているような代物なんであって、ちゃんと鍛え上げられている物ならば、そうそう簡単に折れたり、殺傷力がなくなったりはしないのだ。日本の誇る高度な鍛鉄技術に基づく伝統工芸品でもあるのだから、折れやすいとか、そんなに斬れないとか、「自虐的」になる必要はないのだけど?


南京事件に関する、中国側の記録

「江浦県誌」
一二月二七日、日本軍四〇人が村々を捜索してまわり、農民や難民一七人を殺害、婦女六人を強姦。
(「南京事件」笠原十九司、岩波書店 所載)

「江寧県誌」
一二月下旬、上坊で婦女一〇名が強姦され、陰部に鉄棒を刺して殺害される。三八年一月八日、陸郎村で県城から避難していた市民が、「敗残兵狩り」で一〇〇余人殺害される。そのとき婦女八人が輪姦され、腹を割かれて殺害される。岔路郷では南京城から近く、交通の便も良いため、日本兵が「花姑娘探し(女性狩り)」のために頻繁に襲来、婦女二五〇余人が強姦され、多くは殺害された。石馬村だけでも女性二〇余人が凌辱され、殺害された。曹村では三度にわたって日本軍部隊が襲来し、五〇人が殺戮された。
(「南京事件」笠原十九司、岩波書店 所載)

「高淳県誌」
一月、襲来した日本軍によって高宣●王家、南○の二村が放火される(koβ註:●は土へんに于、○は土へんに更)。掃蕩や「女性狩り」にきた日本軍が各県城や各村で婦女を強姦、多くは殺害した(日中戦争期間中、全県で数百名の女性が強姦された)。
(「南京事件」笠原十九司、岩波書店 所載)

「南京市崇善堂埋葬隊活動一覧表・付属文書」

 郊外の民衆で、未だ他所へ避難できず、難民区にも入れない者は、昼間は一か所に集まって助け合って身を守っているが、不幸にして日本侵略者に会うと多くが被害に遭う。背後から撃たれて倒れているものがいたが、逃げる途中で難にあったものである。横臥した形で、刀で突かれて血を流している者は、生きているうちにやられたものである。口や鼻から血を出し、顔面が蒼くなり、脚が折れているのは、大勢の者から殴られたり、蹴られたりしたものである。婦人で髪が顔にかかり、乳房が割れて胸を指され、ズボンをつけていない者、これは生前辱めを受けたものである。また、頭をもたげ、目をむき、口を開けて歯をくいしばり、手足を突っ張り、ズボンの破れている者は、乱暴されるのを拒んだものである。惨たるかな、惨たるかな。
(「南京事件」笠原十九司、岩波書店 所載)


南京事件に関する、第三国の報道

「南京大虐殺」 シカゴ・デイリー・ニューズ 一九三七年十二月十五日 A・T・スティール

<見出し>
・日本軍何千人も殺害
・”目撃者の語る地獄の四日間”
・通りに5フィートも積もる死体の山

<南京(米艦オアフ号より)十二月十五日>南京の包囲と攻略を最もふさわしい言葉で表現するならば、”地獄の四日間”ということになるだろう。
 首都攻撃が始まってから南京を離れる外国人の第一陣として、私は米艦オアフ号に乗船したところである。南京を離れるとき、我々一行が最後に目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして三〇〇人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた。
 それはこの数日間の狂気の南京を象徴する情景であった。
 南京の陥落劇は、罠にはまった中国防衛軍の筆に尽くせないパニック・混乱状態と、その後に続いた日本軍の恐怖の支配、ということになる。後者では何千人もの生命が犠牲となったが、多くは罪のない市民であった。
 首都放棄以前の中国軍の行為も悲惨であったが、侵入軍の狼藉に比べたらおとなしいものだった。
 南京にいる外国人は全員無事である。

・同情の機会を失う
 中国人のとの友好を主張しているにもかかわらず、日本軍は中国民衆の同情を獲得できるまたとないチャンスを、自らの蛮行により失おうとしている。
 中国軍の士気の完全な崩壊と、それに引き続いて起こった目茶苦茶なパニックのあと、日本軍が入場してきたときにはかすかな安堵感が南京に漂った。中国防衛軍の行為ほどには悪くなり得ないだろうという気持ちがあった。が、その幻想はたちまち破れてしまった。
 罠にはまった中国兵に憐憫の情をたれるだけで、日本軍は一発も発砲せずに市内を全部制圧できたはずだ。ほとんどの兵がすでに武器を捨てており、降伏したに違いない。しかしながら、日本軍は組織的撲滅の方法を選んだ。

・5フィートも積もる死体
 まるで羊の屠殺であった。どれだけの部隊が捕まり殺害されたか、数を推計するのは難しいが、おそらく五千から二万の間であろう。
 陸上の通路は日本軍のために断たれていたので、中国軍は下関門を通って長江に殺到した。門はたちまち詰まってしまった。今日この門を通ったとき、五フィートの厚さの死体の上をやむなく車を走らせた。この死体の上を日本軍のトラックや大砲が、すでに何百となく通り過ぎていた。
 市内の通りはいたるところに市民の死体や中国軍の装備・兵服が散乱していた。渡航船を確保できなかった多くの部隊は長江に飛び込んだが、ほとんどが溺死を免れなかった。

・米公使宅襲撃さる
 日本軍の略奪はすざまじく、それに先立つ中国軍の略奪は、まるで日曜学校のピクニック程度のものであった。日本兵はアメリカ大使ネルソン・T・ジョンソン邸を含む外国人宅にも侵入した。
 アメリカ人運営の大学病院(鼓楼病院)では、日本軍は看護婦から金や時計を奪った。また、アメリカ人所有の車を少なくとも二台盗み、車についていた国旗を引き裂いた。日本軍は難民キャンプにも押し入り、貧しい者からなけなしの金を巻き上げた。
 以上は、私自身および包囲中南京にとどまった外国人が見た事実によるものである。

(「南京事件資料集・アメリカ関係資料編」 南京事件調査研究会・編訳 青木書店より)

「日本軍、南京の行き過ぎを抑制」 ニューヨークタイムズ 一九三七年十二月十九日 ハレット・アベンド

 日本軍上層部は、南京入城を国家の不名誉にした略奪、暴行、殺戮を速やかに終息させるため、遅ればせながら厳しい懲戒手段を取り始めた。たけり狂った部下が、数百人の非武装の捕虜、民間人、婦女子をでたらめに殺害するという衝撃的な不行跡が、中支方面軍司令官松井岩根大将にはいっさい知られないようにするために、必死の努力が為されているものと思われる。ところが、この狡猾な老武将は、下級将校の中にはもみ消し工作に関与しているものがいることを、すでにうすうす気付いている模様である。
 指揮の手腕を心からほめたたえられるはずの正当な南京入城は、パナイ号攻撃で台なしになってしまい、さらには、中国の元の首都に到着するや、包囲が完了してからの出来事を知ったとき、落胆はパナイ号を凌ぎ、恐怖と恥辱の色を濃くした。日本の国も国民も、武勇と義侠の誉れ高い陸軍を長く誇りにしてきた。が、中国の大略奪集団が町を襲うときよりひどい日本兵のふるまいが発覚したいまや、国家の誇りは地に墜ちてしまった。

(「アジアの中の日本軍」 笠原十九司 大月書店より)

「中国軍司令部の逃走した南京で日本軍虐殺行為」 ニューヨークタイムズ 一九三八年一月九日 F・ティルマン・ダーディン

(中略)南京を掌握するにあたり、日本軍は、これまで続いた日中戦争の過程で犯されたいかなる虐殺より野蛮な虐殺、略奪、強姦に熱中した。抑制のきかない日本軍の残虐性に匹敵するものは、ヨーロッパの暗黒時代の蛮行か、それとも中世のアジアの征服者の残忍な行為しかない。
 無力の中国軍部隊は、ほとんどが武装を解除し、投降するばかりになっていたにもかかわらず、計画的に逮捕され、処刑された。安全区委員会にその身を委ね、難民センターに身を寄せていた何千人かの兵隊は、組織的に選び出され、後ろ手に縛られて、場外の外側の処刑場に連行された。
 塹壕で難を逃れていた小さな集団が引きずり出され、縁で射殺されるか、刺殺された。それから死体は塹壕に押し込まれて、埋められてしまった。ときには縛り上げた兵隊の集団に戦車の砲口が向けられることもあった。もっとも一般的な処刑方法は、小銃での射殺であった。
 南京の男性は子供以外のだれもが、日本軍に兵隊の嫌疑をかけられた。背中に背嚢や銃の痕があるかを調べられ、無実の男性の中から、兵隊を選び出すのである。しかし、多くの場合、もちろん軍とは関わりのない男性が処刑集団に入れられた。また、元兵隊であったものが見過ごされ、命びろいをする場合もあった。
 南京掃討をはじめて三日間で、一万五千人の兵隊を逮捕したと日本軍自ら発表している。そのとき、さらに二万五千人がまだ市内に潜んでいると強調した。(中略)  年齢・性別に関わりなく、日本軍は民間人をも射殺した。消防士や警察官はしばしば日本軍の犠牲となった。日本兵が近づいてくるのを見て、興奮したり恐怖にかられて走り出すものは誰でも、射殺される危険があった。日本軍が市内の支配を固めつつある時期に、外国人が市内を回ると、民間人の死骸を毎日のように目にした。老人の死体は路上にうつ伏せになっていることが多く、兵隊の気まぐれで、背後から撃たれたことは明らかであった。

(「南京事件資料集・アメリカ関係資料編」 南京事件調査研究会・編訳 青木書店より)

「日本軍の略奪と暴行」 マンチェスター・ガーディアン・ウィークリー 一九三八年二月十一日

 日本軍は十二月十三日南京に入城し、その翌日には五万人の日本兵が中国人難民のひしめく市内に解き放された。日本兵は傍若無人に市内を徘徊し、中国人からお金、食料、衣料を奪い、家に押し入り、女性を襲い、要求を拒む者は構わず負傷させ、殺害した。多くの難民は外国人宣教師の保護下にある金陵大学の建物に集中避難した。このうち幾棟かはアメリカ国旗を掲げていたが、何ら防衛効果を上げていない。日本兵は門を壊すか壁をよじ登り安全区に押し入り、国旗を引き裂き、銃剣で外国人を威嚇する。安全区国際委員会や大学当局は日本大使館に繰り返し抗議したが、無益であった。大使館員は軍と外国人居留民との緩衝役として、南京に十二月十五日に到着していた。日本大使館はしばらく抗議内容を信じまいとしていたが、通りは死骸で溢れ、大使館から見えるところで強姦が行われ、もはや無実を装うことは不可能となり、大使館は自ら無力を認めざるをえなくなった。当初、五万人の兵士を統制するのに、南京市全域で憲兵は一七人に過ぎなかった。十二月二十一日になって、安全区委員会のメンバーが車で市内を数マイル走ったところ、一人の憲兵にも出逢わなかった。

 以下は外国人の目撃談であるが、南京市全域で何が起こっているのかを示す、重要な証言である。
 十二月十五日 日本兵が大学図書館に三たび侵入した。この建物内で、女性四名を強姦し、連れ去った女性のうち、強姦後に解放された者が二名、戻ってこなかった者が三名ある。この建物には千五百名の難民が避難していた。
 十二月十六日 農業経済系構内で、三〇名あまりの女性が、ひきもきらずにやって来る大勢の日本兵に強姦される。同夜、日本兵が図書館に再び侵入し、銃剣を突き付けて、お金、時計、女性を要求した。女性数人が構内で強姦され、兵士に少女を差し出さなかった門番が殴打された。
 十二月十七日 日本兵数名が大学付属中学校に侵入。恐怖のあまり騒ぎ出した子供一人が銃剣で刺殺され、もう一人が重傷を負った。女性八名が強姦にあう。日本兵は昼夜を分かたず、この建物を乗り越えて侵入するので、難民はヒステリー症状を起こし、三晩不眠状態となった。
(中略)
 これらは膨大なリストから引用したほんの僅かの例である。

(「南京事件資料集・アメリカ関係資料編」 南京事件調査研究会・編訳 青木書店より)
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従軍慰安婦関連

こちらに移転しました。
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15年戦争に於ける日本政府・軍の基本方針・国内統制

1942年8月7日の南方軍軍政総監指示
「あまねく帝国臣民に発展の機会を与えてその堅実なる地歩を確立せしめ、指導民族たるの資質を昂揚して大和民族永遠の発展を図る」ことが戦争の「基本理念」である。
(「日本の侵略と日本人の戦争観」江口圭一 岩波ブックレット より)

1943年5月31日の御前会議決定「大東亜戦争指導大綱」
「マライ・スマトラ・ジャワ・ボルネオ・セレベスは帝国領土と決定し、重要資源の供給地として極力これが開発並びに民心把握に努む」
(「日本の侵略と日本人の戦争観」江口圭一 岩波ブックレット より)

1941年11月の大本営政府連絡会議策定「南方占領地行政実施要領」
「国防資源取得と占領軍の現地自活の為、民生に及ぼさざるを得ざる重圧はこれを忍ばしめ、宣撫上の要求は右目的に反せざる限度に止むるものとす」
「皇軍に対する信倚(しんい)観念を助長せしむる如く指導し、その独立運動は過早に誘発せしむることを避くるものとす」
(「日本軍政下のアジア」小林英夫 岩波書店 より)

1933年1月、陸軍歩兵学校作成「対支那軍戦闘法ノ研究」
「捕虜は多列国人に対する如く必ずしも之を後送監禁して戦局を待つを要せず、特別の場合の外之れを現地又は他の地方に移し釈放して可なり。
 支那人は戸籍法完全ならさるのみならず特に兵員は浮浪者多く其存在を確認せられあるもの少きを以って假りに之を殺害又は他の地方に放つも世間的に問題となること無し。」
(「南京大虐殺の研究」晩聲社)

メディア統制

1928年5月21日 内務省警保局長より各庁府県長官宛通牒 「軍事活動写真フィルム検閲に関する件」
今次の山東派兵に関する時事の実写「フィルム」中、左記各項のものは其の映写を禁ぜられ度旨、陸軍当局より申越候に付、該「フイルム」の検閲に当たりては特に御留意相成度

  1. 軍機秘密に亘る事項
  2. 軍機風紀に関する事項
  3. 軍部に反感を抱かしむる虞ある事項
  4. 惨忍の感を与ふる事項
  5. 日支両国の国交に害を与ふる虞ある事項
(「現代史資料 マス・メディア統制」 みすず書房 但し、句読点を適宜施す)

1937年7月13日、内務省警保局図書課「時局に関する記事取扱に関する件」(下記に該当する報道はすべて厳重な取締の対象となった)
「反戦又は反軍的言説を為し、或いは軍民離間を招来せしむるが如き事項」
「我が国民を好戦的国民なりと印象せしむるが如き記事、或いは我が国の対外国策を侵略主義的なるが如き疑惑を生ぜしむる虞ある事項」
「外国新聞、特に支那新聞等の論調を紹介するに当り、殊更に我が国を誹謗し、又は我が国に不利なる記事を転載し、或いは此等を容認又は肯定するが如き言説を為し、延て一般国民の事変に対する判断を誤らしむる虞ある事項」
(「天皇の軍隊と南京事件」吉田裕 青木書店 所載・P55)

1937年8月2日、憲兵司令部警務部長通牒「時局に関する言論、文書取締に関する件」(以下のような言論、文書を取り締まるよう各憲兵隊に通達している)
「事変の経過又は戦地の状況等を論議するに当り、皇軍の名誉威信を損じ又は軍紀の厳正を疑わしむるが如き事項」
「国境を超越する人類愛又は生命尊重、肉親愛等を基調として現実を軽蔑する如く強調又は風刺し、為に犠牲奉公の精神を動揺減退せしむる虞ある事項 」
(「天皇の軍隊と南京事件」吉田裕 青木書店 所載・P55)

(koβ註:最後の一文、なんか「戦争論」にリンクしていて面白い。小林は憲兵隊の尻尾なのかな?)

1937年8月13日 内務省警保局図書課長より警視庁特高部長殿 府県警察部長殿 通牒
北支事変に関する出版物取締に関する件
(略)
北支事変に関する一般安寧禁止標準
  1. わが国の対支方針に関し、政府部内、特に閣僚間に於て、意見の対立し居れるが如く揣摩憶測する論議
  2. 国民は政府の対支方針を支持し居らず、或は民心相離反して、国論統一し居らずと為すが如き論議
  3. 国民の対支強行決意は当局の作為に依り偽作せられたるものにして、国民の真意は戦争を恐怖し、又は忌避せんとするの傾向ありと為すが如き論議
  4. 政府の採り来たる対支方針、若は事変の経過等を批判するに当たり、根本的に誤謬ありと為し、或は事実を歪曲して殊更に非難し、以て国論統一に支障を来し、或は対外関係を不利に導くが如き論議
  5. 今次事変を目するに、我国に領土的野心ありとし、或は好戦的に実力を行使するものなりしとて、帝国の公明なる態度を誣妄するが如き議論
  6. 支那に於ける英米等の経済的排除する等を云為するは可なるも、之等を敵国視し濫りに開戦を主張するが如き論議
  7. 事変に関聯して国内、殊に農村の窮乏を特に誇張し、或は今次の戦時財政は国民生活を蹂躪するものなりと断じ、依て反軍若は反戦思想を鼓舞し又は軍民離間を企図するが如き論議
  8. 事変に関聯して国内情勢に論及し、国内改革の必須なるを主張するが如きは可なるも、その目的達成の為不法又は矯激なる手段を煽動するが如き論議
  9. 共産主義又は人民戦線運動を宣伝、煽動し、或はソヴエツト・ロシアの政治形態又は生活状況を讃美、謳歌するが如き論議
  10. 殊更に我国の弱点を暴露し、或は支那側を弁護するが如き論議
  11. 時局に関し流言浮説を為し、人心を惑乱するが如き論議
(「現代史資料 マス・メディア統制」 みすず書房 但し、句読点を適宜施す)

1937年9月9日、陸軍省報道検閲部局「新聞掲載事項拒否判定要領」(以下のような記事は掲載してはならないことになっている)
「我軍に不利なる記事写真」
「支那兵または支那人逮捕尋問等の記事写真中、虐待の感を与えるおそれあるもの」
「惨虐なる写真、ただし支那兵または支那人の惨虐性に関する記事は差し支えなし 」
(「南京大虐殺否定論13のウソ」南京事件調査研究会 柏書房)

1937年10月14日 陸軍省報道検閲係長通牒 「戦死傷者名を新聞紙上に多数羅列せざる様指導相成度件」
今般戦死傷者の氏名は、内地に於ける留守隊等に限り新聞通信社に対し、報道資料(新聞掲載の際は原隊入電とす)として提供することに定めらる。 然る処、現在の如く、単に之を名簿式に新聞紙に羅列するは国民の志気を鼓舞する所以にあらざるのみならず、資料として提供する本来の趣旨にも合せざる次第なるに、就ては将来新聞掲載は、戦死者及重傷者の勇敢なる行為、又は美談等を其肖像と併載する程度に止め、名簿式に氏名を多数列挙するが如きことなき様可然関係者を指導相成度通牒す
(「現代史資料 マス・メディア統制」 みすず書房 但し、句読点を適宜施す)

1941年8月 連絡会議諒解閣議決定 国論昂揚に関する件
帝国は現下、英米特に米国の対日圧迫頗る急なるに対応し、速に帝国の毅然たる態度を内外に明示すると共に、国論の昂揚、特に国民の志気を最高度に発揚し、以て来るべき事態に備ふるは刻下緊急の要務たり、之が為、従来の言論取締の規定に拘らず左記諸項に準拠し、情報局をして対英米国論昂揚の為、敏活機敏に所要施策を講ぜしむ

  1. 英米の不当なる対日圧迫に対し、日本国民は断乎之を排撃抗争するの決意と気迫と内外に充溢せしむること
  2. 英米は対支那事変の背後的勢力たること及、其政治的経済的軍事的対日包囲の形勢、刻々我を脅威しつつあるの事実を具体的に中外に深刻に徹底せしむること
  3. 大東亜共栄圏確立の成否が即ち帝国死活の岐なることを極力強調すること
  4. 米英の新聞記事其他の対日言論は努めて之を発表すると共に、之に徹底的反駁を常に附加すること
  5. 以上與論指導は煽動、挑発的言辞を避け、努めて冷静、理知的に実施すること
  6. 露骨なる対蘇刺戟は別に指示するまで差控ふること
(「現代史資料 マス・メディア統制」 みすず書房 但し、句読点を適宜施す)

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アジア各国教科書の記述

フィリピン 高等学校用「フィリピン国の歴史」(一九八一年版)
「日本軍の残酷さ−とくに地方での女性に対する邪悪な扱い−は、多くの市民がゲリラになる要因の一つであった。ゲリラ活動の広がりを危険視した日本軍は、フィリピン市民に対して残酷さをいっそう加えるようになった。多くのフィリピン人は、有罪無罪を問わず捕らえられ、サンディアゴ砦や、日本軍が接収し刑務所とした他の施設に送られた。家に戻ることができた者にしても、不自由な身体となっていた。」

インドネシア 中学校用「社会科学・歴史科 第五分冊」(一九八八年版)
「当初、日本軍の到来はインドネシア民族に歓迎された。インドネシア民族は、長く切望した独立を日本が与えてくれるだろうと期待した。
 どうしてインドネシア民族は、このような期待を持ったのだろうか。それは日本がやってきてまもなく、つぎのような宣伝を展開したからである。
−日本民族はインドネシア民族の「兄」である。日本がきた目的は、インドネシア民族を西洋の植民地支配から解放することである。
−日本は「大東亜の共栄」のために開発を実施する。
 その実体はどうであったか。日本時代にインドネシアの民衆は、肉体的にも精神的にも、並はずれた苦痛を体験した。日本は結局独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。その行いは、強制栽培と強制労働時代のオランダの行為を超える、非人道的なものだった。資源とインドネシア民族の労働力は、日本の戦争のために搾り取られた。」

タイ 中学二年生用 社会科教育読本「歴史学 タイ2」(一九八〇年版)
「タイ人の多くは、日本がタイを占領し、横行することに不満を感じていた。タイ人グループの中には、日本と同盟関係を持つという政府の方針に反対するものもあった。これら一般民衆グループには、連合国から遣わされたリーダーがいたものと思われる。(後略)
 在英タイ人留学生の大部分は運動(koβ註:自由タイ運動、反日独立運動のこと)に参加し、イギリス政府の援助を受けた。アーナンタ・マヒドーン王の名代であるプリディ・パノムヨン摂政は、タイ国内に抗日地下部隊を設立した。そしてアメリカやイギリスの自由タイ運動と連絡を取り、様々な行動を起こした。例えば、日本の兵力や動向に関する情報を連合国側に提供したり、破壊行為によって日本の通行を妨害したり、また、日本兵を拘引したりして連合国を援助した。」

ベトナム 十二年生用 「歴史 第一巻」(一九八四年版)
「インドシナに足を踏み入れて以来、ファシスト日本のあらゆる経済活動は、直接的にあるいはフランスを通じて間接的に、略奪戦争を遂行するため、資源や食料をできる限り多く獲得することであった。(後略)
 もう一つの非道な政策は、日本への供出用と戦争の備蓄用とのために、食料、とくに米の強制かつ廉価な買いつけをしたことである。この非道な政策こそ、市場における深刻な食糧不足をもたらし、一九四五年初頭の数ヶ月の間に、北部で、二〇〇万人以上のわが同胞が餓死した直接の原因となった。」

シンガポール 中学校初級用 「現代シンガポール社会経済史」(一九八五年版)
「一二三年間、シンガポールの人々は平和に暮らしていた。日本軍がシンガポールを攻撃したとき、人々は戦争の恐怖を体験しなければならなかった。日本軍が島を占領した三年半の間は、さらに大きな被害と困難な状況が待ち受けていた。この時期は、日本軍占領時代として知られている。
(中略)シンガポールは昭南島(ショウナントウと発音)、あるいはショーナンアイランドと名前を変えさせられた。”ショーナン”は”南の光”を意味する。しかし、この”光”は明るく輝くことなく、シンガポールの人々は日本の支配下で彼らの生涯のうち、もっとも暗い日々を過ごした。」
「日本軍警察であるケンペイタイについては、恐ろしい話がたくさんある。「ケンペイタイ」ということばを口にすると、人々は心に恐怖の念が打ちこまれる思いをもつことだろう。ケンペイタイは島全体にスパイをおいた。だれを信じてよいのかだれにもわからなかった。スパイによって日本軍に通報された者は、オーチャード通りにあるYMCAや、クィーン通りにあるラッフルズ女学校といったケンペイタイの建物に連れて行かれた。そこで彼らはあまりにもひどい拷問を受けたので、多くの者は自分の受けた苦しみを人に告げることなく死んでいった。」

マレーシア 中学校二年生用 「歴史のなかのマレーシア」(一九八八年版)
「日本は、マレー人の解放獲得への期待を裏切った。日本人はマラヤを、まるで自分たちの植民地であるかのように支配した。今度は彼らがイギリス人の座を奪ったのだ。日本の支配はイギリスよりずっとひどかった。」
「日本がマラヤを占領したとき、彼らは中国人に対して、厳しく乱暴だった。彼らはすべての中国人は反日であると疑っていた。シンガポールを占領したのち、日本は数万人の中国人を殺した。
 マラヤの他の地域の中国人もまた、同じようにひどく扱われた。疑いを持たれた人間はすべて捕まえられ、刑務所に入れられた。」

ミャンマー 八年生用 「ビルマ史」(一九八七年版)
「「独立」したとはいえ、ビルマ政府には本来あるべき権限はなかった。ファシスト日本が許容した権限があっただけである。日本時代にもっとも強大な権力を見せつけたのは、日本軍のキンペイタイン(憲兵隊)である。憲兵隊が管轄し、処理する事柄については、階級の上下を問わず、いかなる日本軍将校も口出しできなかった。一般の国民は、憲兵隊の思うがままに逮捕され、拷問され、さらには虐殺されたのである。こうしたファシストの弾圧の結果、無法者から学歴があまりない者までが、反乱への怒りの炎をたぎらせた。真の独立を望む声は全土に広がった。民族、男女を問わず、僧侶も一般国民も、ファシスト日本に反乱を起こそうという強い決意を抱くようになった。」

−参考− 日本 国定修身教科書 初等科六年用 「初等科修身4」(一九四二年版)
「すでに満州国は、輝かしい発展を遂げました。国民政府もまた支那で、着々とその基礎を固め、タイ国も、東部インド支那も、日本と親密な関係を結び、相たずさえて大東亜建設のために、協力しています。
 その上、わが戦果にかがやく南方の諸地方は、新生の光にあふれ、マライや昭南島、ビルマやフィリピン、東インド諸島に輝く建設の音が、耳元に聞こえて来ます。大東亜十億の力強い進軍が始まったのであります。日本は、大きな胸を開いて、あらゆる東亜の住民へ、手を握りあうように呼びかけています。日本人は御稜威(みいつ)をかしこみ仰ぎ、世界に本当の平和をもたらそうとして、大東亜建設の先頭に立ち続けるのであります。」
「アジアの教科書に書かれた日本の戦争」(越田稜 梨の木社)より

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教科書検定における「検定」の様子

1950年代後半から60年代における検定意見(第1次教科書攻撃) 1980年代における検定意見(第2次教科書攻撃)
(「教科書から消せない戦争の真実」教科書検定訴訟を支援する全国連絡会・編 青木書店 
および、「検定に違法あり!」教科書検定訴訟を支援する全国連絡会・編 青木書店 による)

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陸戦の法規慣例に関する条約(ハーグ条約)・抜粋

1899年オランダのハーグで開かれたハーグ平和会議、1907年第2回平和会議にて採択される。
署名:1907年10月18日(日露戦争は1904年〜1905年、第一次大戦は1914年〜1919年、15年戦争は1931年〜1945年)
日本の条約批准:1911年12月13日

前文

 ドイツ皇帝プロシア皇帝陛下(以下締約国元首名略)は、平和を維持し且諸国間の戦争を防止するの方法を講ずると同時に、其の所期に反し避くること能わざる事件の為兵力に訴うる事有るべき場合に付攻究を為すの必要なることを考慮し、斯の如き非常の場合に於ても尚能く人類の福利と文明の駸々として止むことなき要求とに副わんことを希望し、之が為戦争に関する一般の法規慣例は一層これを精確ならしむるを目的とし、また成るべく戦争の惨禍を減殺すべき制限を設くるを目的として、これを修正するの必要を認め、千八百七十四年の比律悉会議の後に於て、聡明仁慈なる先見より出でたる前記の思想を体して、陸戦の慣例を制定するを以て目的とする諸条規を採用したる第一回平和会議の事業を或点に於て補充し、且精確にするを必要と判定せり。
 締約国の所見に依れば、右条規は、軍事上の必要の許す限、努めて戦争の惨害を軽減するの希望を以て定められたるものにして、交戦者相互間の関係及び人民との関係に於て、交戦者の行動の一般の準縄たるべきものとす。
 但し、実際に起る一切の場合に普く適用すべき規定は、この際之を協定し置くこと能わざりしと雖、明文なきの故を以て、規定せられざる全ての場合を軍隊指揮者の専断に委するは、亦締約国の意志に非ざりしなり。
 一層完備したる戦争法規に関する法典の制定されるるに至る迄は、締約国は、其の採用したる条規に含まれざる場合に於ても、人民及交戦者が以前文明国の間に存立する慣習、人道の法則及公共良心の要求より生ずる国際法の原則の保護及支配の下に立つことを確認するを以て適当と認む。
 締約国は採用せられたる規則の第一条及第二条は、特に右の趣旨を以て之を解すべきものなることを宣言す。
 締約国は、之が為新なる条約を締結せんことを欲し、各左の全権委員を任命せり。
(全権委員名略)
 因て各全権委員は、その良好妥当なりと認められたる委任状を寄託したる後、左の条項を協定せり。

第三条 前記規則の条項に違反したる交戦当事者は、損害あるときは、之が賠償の責を負うべきものとす。交戦当事者は、其の軍隊を組成する人員一切の行為に付き責任を負う。

※koβ註:赤色部は「マルテンス条項」と呼ばれ、人道の原則を以て、陸戦法規の不備を補うべく、またその不備を恣意的に解釈した行為を封じるべく設けられた文章である。

条約付属書 陸戦の法規慣例に関する規則

第一条
 戦争の法規及権利義務は、単に之を軍に適用するのみならず、左の条件を具備する民兵及義勇兵団にも亦之を適用す。
  一 部下の為に責任を負う者其の頭に在ること
  二 遠方より認識得べき固著の特殊徽章を有すること
  三 公然兵器を携帯すること
  四 其の動作に付戦争の法規慣例を遵守すること
 民兵又は義勇兵団を以て軍の全部又は一部を組織する国に在りては、之を軍の名称中に包含す。

第二条
 占領せられざる地方の人民にして、敵の接近するに当り、第一条に依りて編成を為すの遑なく、侵入軍隊に抗敵する為自ら兵器を操るものが公然兵器を携帯し、且戦争の法規慣例を遵守するときは、之を交戦者と認とむ。

第三条
 交戦当事者の兵力は、戦闘員及非戦闘員を以て之を編成することを得。敵に捕らわれたる場合に於ては、二者均しく俘虜の取扱を受くるの権利を有す。

第四条
 俘虜は、敵の政府の権内に属し、之を捕えたる個人又は部隊の権内に属することなし。
 俘虜は人道を以て取り扱わるべし。
 俘虜の一身に属するものは、兵器、馬匹及軍用書類を除くの外、依然其所有たるべし。

第五条
 俘虜は、一定の地域外に出でざる義務を負わしめて之を都市、城寨、陣営其の他の場所に留置することを得。但し、已むを得ざる保安手段として、且該手段を必要とする事情の継続中に限、之を幽閉することを得。

第六条
 国家は、将校を除くの外、俘虜を其の階級及び技能に応じ労務者として使役することを得。其の労務は、過度ならざるべからず。又一切作戦動作に関係を有すべからず。
 俘虜は、公務所、私人又は自己の為に労務する事を許可せらるる事あるべし。
 国家のためにする労務に付ては、同一労務に使役する内国陸軍軍人に適用する現行定率に依り支払を為すべし。右定率なきときは、其の労務に対する割合を以て支払うべし。
 公務所又は私人の為にする労務に関しては、陸軍官憲と協議の上条件を定むべし。
 俘虜の労銀は、其の境遇の艱苦を軽減するの用に供し、剰余は、解放の時給養の費用を控除して之を俘虜に交付すべし。

第七条
 政府は、其の権内に在る俘虜を給養すべき義務を有す。
 交戦者間に特定の協定なき場合に於ては、俘虜は、糧食、寝具及被服に関し之を捕えたる政府の軍隊と対等の取扱を受くべし。

第八条
 俘虜は、之を其の圏内に属せしめたる国の陸軍現行法律、規則及命令に服従すべきものとす。総て不従順の行為あるときは、俘虜に対し必要なる厳重手段を施すことを得。
 逃走したる俘虜にして其の軍に達する前又は之を捕えたる軍の占領したる地域を離るる先ち再び捕えられたる者は、懲罰に付せらるべし。
 俘虜逃走を遂げたる後再び俘虜と為りたる者は、前の逃走に対しては何等の罰を受くることなし。

第九条
 俘虜其の氏名及階級に付訊問を受けたるときは、実を以て答うべきものとす。若此の規定に背くときは、同種の俘虜に与えらるべき利益を減殺せらるることあるべし。

第一〇条
 俘虜は、其の本国の法律が之を許すときは、宣誓の後解放せらるることあるべし。この場合に於ては、本国政府及之を捕えたる政府に対し、一身の名誉を賭して、其の誓約を厳密に履行するの義務を有す。
 前項の場合に於て、俘虜の本国政府は、之に対し其の宣誓に違反する勤務を命じ、又は之に服せんとの申出を受諾すべからざるものとす。

第一一条
 俘虜は、宣誓解放の受諾を強制せらるることなく、又敵の政府は、宣誓解放を求むる俘虜の誓願に応ずるの義務なし。

第一二条
 宣誓解放を受けたる俘虜にして、其の名誉を賭して誓約を為したる政府又は其の政府の同盟国に対して兵器を操り、再び捕らえられたる者は、俘虜の取扱を有くるの権利を失うべく、且裁判に付せらるることあるべし。

第一三条
 新聞の通信員及探訪者並酒保用達人の如き、直接に軍の一部を為さざる従軍者にして、敵の権内に陥り、敵に於て之を抑留するを有益なりと認めたる者は、其の所属陸軍官憲の証明書を携帯する場合に限り、俘虜の取扱を有くるの権利を有す。

第一四条
 各交戦国は、戦争開始の時より、又中立国は、交戦者を其の領土に収容したる時より、俘虜情報局を設置す。情報局は、俘虜に関する一切の問合に答うるの任務を有し、俘虜の留置、移動、宣誓解放、交換、逃走、入院、死亡に関する事項其の他各俘虜に関し銘銘票を作成補修する為に、必要なる通報を街灯官憲より受くるものとす。情報局は、該票に番号、氏名、年齢、本籍地、階級、所属部隊、負傷並捕獲、留置、負傷及死亡の日附及場所其の他一切の備考事項を記載すべし。
 情報局は、又宣誓解放せられ逃走し又は病院若は繃帯所に於て死亡したる俘虜の遺留し並戦場に於て発見せられたる一切の自用品、有価物、信書等を収集して、之をその関係者に電送するの任務を有す。

第一五条
 慈善行為の媒介者たる目的を以て、自国の法律に従い正式に組織せられたる俘虜救恤協会は、其の人道的事業を有効に遂行する為、軍事上の必要及行政上の規則に依りて定められたる範囲内に於て、交戦者より自己及其の正当の委任ある代表者の為に一切の便宜を受くべし。右協会の代表者は、各自陸軍官憲より免許状の交付を受け、且該官憲の定めたる秩序及風紀に関する一切の規律に服従すべき旨書面を以て約したる上、俘虜収容所及送還俘虜の途中休泊所に於て救恤品を分与することを許さるべし。

第一六条
 情報局は、郵便料金の免除を享く。俘虜に宛て又は其の発したる信書、郵便為替、有価物件及小包郵便物は、差出国、名宛国及通過国に於て一切の郵便料金を免除せらるべし。
 俘虜に宛てたる贈与品及救恤品は、輸入税其の他の諸税及国有鉄道の運賃を免除せらるべし。

第一七条
 俘虜将校は、其の抑留せらる国の同一階級の将校が受くると同額の俸給を受くべし。右俸給は、其の本国政府より償還せらるべし。

第一八条
 俘虜は、陸軍官憲の定めたる秩序及風紀に関する規律に服従すべきことを唯一の条件として、其の宗教の遵行に付一切の自由を与えられ、其の宗教上の礼拝式に参加することを得。

第一九条
 俘虜の遺言は、内国陸軍軍人と同一の条件を以て之を領置し、又は作成す。
 俘虜の死亡の証明に関する書類及埋葬に関しても、亦同一の規則に遵い、其の階級身分に相当する取扱を為すべし。

第二〇条
 平和克復の後は、成るべく速に俘虜を其の本国に帰還せしむべし。

第二一条
 病者及傷者の取扱に関する交戦者の義務は「ジェネヴァ」条約に依る。

第二二条
 交戦者は、外的手段の選択に付、無制限の権利を有する者に非ず。

第二三条
 特別の条約を以て定めたる禁止の外、特に禁止するもの左の如し。
交戦者は、又対手当事国の国民を強制して其の本国に対する作戦動作に加わらしむることを得ず。戦争開始前其の役務に服したる場合と雖亦同じ。

第二四条
 奇計並敵情及地形探知の為必要なる手段の行使は、適法と認む。

第二五条
 防守せざる都市、村落、住宅又は建物は、如何なる手段に依るも、之を攻撃又は砲撃することを得ず。

第二六条
 攻撃軍隊の指揮官は、強襲の場合を除くの他、砲撃を始むるに先ち其の旨官憲に通告する為、施し得べき一切の手段を尽くすべきものとす。

第二七条
 攻囲及砲撃を為すに当たりては、宗教、技芸、学術及慈善の用に供せらるる建物、歴史上の紀年建造物、病院並病者及傷者の収容所は、同時に軍事上の目的に使用せられざる限、之をして成るべく損害を免れしむる為、必要なる一切の手段を執るべきものとす。
 被囲者は、看易き特別の徽章を以て、右建物又は収容所を表示するの義務を負う。右徽章は予め之を攻囲者に通告すべし。

第二八条
 都市其の他の地域は、突撃を以て攻取したる場合と雖、之を掠奪に委することを得ず。

第二九条
 交戦者の作戦地帯内に於て、対手交戦者に通報するの意志を以て、隠密に又は虚偽の口実の下に行動して、情報を蒐集し又は蒐集せむとする者に非ざれば、之を間諜と認むることを得ず。
 故に変装せざる軍人にして情報を蒐集せんが為敵軍の作戦地帯内に進入したる者は、之を間諜と認めず。又、軍人たると否とを問わず自国軍又は敵軍に宛てたる通信を伝達するの任務を公然執行する者も亦之を間諜と認めず。通信を伝達する為、及総て軍又は地方の各部間の連絡を通ずる為、軽気球にて派遣せられたるもの亦同じ。

第三〇条
 現行中捕らえられたる間諜は、裁判を経るに非ざれば、之を罰することを得ず。

第三一条
 一旦所属軍に復帰したる後に至り敵の為に捕らえられたる間諜は、俘虜として取扱わるべく、前の間諜行為に対しては、何等の責を負うことなし。

第三二条
 交戦者の一方の命を帯び、他の一方と交渉する為、白旗を掲げて来る者は、之を軍使とす。軍使並之に随従する喇叭手、鼓手、旗手及通訳は、不可侵権を有す。

第三三条
 軍使を差向けられたる部隊長は、必しも之を受くるの義務なきものとす。
 部隊長は、軍使が軍情を探知する為其の使命を利用するを防ぐに必要なる一切の手段を執ることを得。
 濫用有りたる場合に於ては於ては、部隊長は、一時軍使を抑留することを得。

第三四条
 軍使が背信の行為を教唆し、又は自ら之を行う為其の特権ある地位を利用したるの証迹明確なるときは、其の不可侵権を失う。

第三五条
 締約当事者間に協定せらるる降伏規約には、軍人の名誉に関する例規を参酌すべきものとす。
 降伏規約一旦確定したる上は、当事者双方に於て厳密に之を遵守すべきものとす。

第三六条
 休戦は、交戦当事者の合意を以て作戦動作を停止す。若其の期間の定なきときは、交戦当事者は、何時にても再び動作の開始することを得。但し、休戦の条件に遵依し、所定の時期に於て其の旨敵に通告すべきものとす。

第三七条
 休戦は、全般的又は部分的たるを得。全般的休戦は、普く交戦国の作戦動作を停止し、部分的休戦は、単に特定の地域に於て交戦軍の或部分間に之を停止するものとす。

第三八条
 休戦は、正式に且適当の時期に於て之を当該官憲及軍隊に通告すべし。通告の後直に又は所定の時期に至り、戦闘を停止す。

第三九条
 戦地に於ける交戦者と人民との間及人民相互間の関係を休戦規約の条項中に規定することは、当事者に一任するものとす。

第四〇条
 当事者の一方に於て休戦規約の重大なる違反ありたるときは、他の一方は、規約廃棄の権利を有するのみならず、緊急の場合に於ては、直に戦争を開始することを得。

第四一条
 個人か自己の発意を以て休戦規約の条項に違反したるときは、唯其の違反者の処罰を要求し、且損害ありたる場合に賠償を要求するの権利を生ずるに止るべし。

第四二条
 一地方にして事実上敵軍の権力内に帰したるときは、占領せられたるものとす。
 占領は右権力を樹立したる且之を行使し得る地域を以て限とす。

第四三条
 国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限、占領地の現行法律を尊重して、成るべく公共の秩序及生活を回復確保する為施し得べき一切の手段を尽くすべし。

第四四条
 交戦者は、占領地の人民を強制して他方の交戦者の軍又はその防御手段に付情報を供与せしむることを得ず。

第四五条
 占領地の人民は、之を強制して其の敵国に対し忠誠の誓を為さしめることを得ず。

第四六条
 家の名誉及権利、個人の生命、私有財産並宗教の信仰及其の遵行は、之を尊重すべし。
 私有財産は之を没収することを得ず。

第四七条
 略奪は、之を厳禁す。

第四八条
 占領者が占領地に於て国のために定められたる租税、賦課金及通過税を徴収するときは、成るべく現行の賦課規則に依り之を徴収すべし。この場合に於ては、占領者は、国の政府が支弁したる程度に於て占領地の行政費を支弁するの義務あるものとす。

第四九条
 占領者か占領地に於て前条に掲げたる税金以外の取立金を命ずるは、軍又は占領地行政上の需要に応ずる為にする場合に限るものとす。

第五〇条
 人民に対しては、連帯の責ありと認むべからざる個人の行為の為、金銭上其の他の連座罰を科することを得ず。

第五一条
 取立金は、総て総指揮官の命令書に依り、且其の責任を以てするに非ざれば、之を徴収することを得ず。
 取立金は、成るべく現行の租税賦課規則に依り之を徴収すべし。一切の取立金に対しては、納付者に領収証を交付すべし。

第五二条
 現品徴発及課役は、占領軍の需要のためにするに非ざれば、市区町村又は住民に対して之を要求することを得ず。徴発及課役は、地方の資力に相応し、且人民をして其の本国に対する作戦動作に加るの義務を負わしめざる性質のものたることを要す。
 右徴発及び課役は、占領地方に於ける指揮官の許可を得るに非ざれば、之を要求することを得ず。
 現品の供給に対しては、成るべく即金にて支払い、然らざれば領収証を以て之を証明すべく、且成るべく速に之に対する金額の支払を履行すべきものとす。

第五三条
 一地方を占領したる軍は、国の所有に属する現金、基金及有価証券、貯蔵兵器、輸送材料、在庫品及糧秣其の他総て作戦動作に供することを得べき国有動産の外、之を押収することを得ず。
 海上法に依り支配せらるる場合を除くの外、陸上、海上及空中に於て報道の伝送又は人又は物の輸送の用に供せらるる一切の機関、貯蔵兵器其の他各種の軍需品は、私人に属するものと雖、之を押収することを得。但し、平和克復に至り、之を還付し、且之が賠償を決定すべきものとす。

第五四条
 占領地と中立地とを連結する海底電線は、絶対的の必要ある場合に非ざれば、之を押収し又は破壊することを得ず。
 右電線は、平和克復に至り之を還付し、且つ之が賠償を決定すべきものとす。

第五五条
 占領国は、敵国に属し且占領地に在る公共建物、不動産、森林及農場に付ては、其の管理者及用益権者たるに過ぎざるものなりと考慮し、右財産の基本を保護し、且つ用益権の法則に依りて之を管理すべし。

第五六条
 市区町村の財産並国に属するものと雖、宗教、慈善、教育、技芸及学術の用に供せらるる建設物は、私有財産と同様に之を取扱うべし。
 右の如き建設物、歴史上の紀年建造物、技芸及学術上の制作品を故意に押収、破壊又は毀損することは、総て禁ぜられ且訴追せらるべきものとす。

(「世界に問われる日本の戦後処理2 戦争と人権、その法的検討」日本弁護士連合会・編 東方出版 より 但し、旧仮名遣いは改めてある)

 「世界に問われる日本の戦後処理2」に掲載されているハーグ陸戦法規を一読して、その背後に感じるのは、戦争の名による無用且つ恣意的な殺戮、虐待、破壊、荒廃を防ごうとする意図(それも切実な)と、蹂躙されがちな俘虜、非戦闘員の権利を保護しようとする人権重視・尊重の思想である。「ゲリラを殺しても構わない」とか、「戦争で残虐な行為があるのはやむを得ない」とかいう、どうしようもない思想とは正反対のもので、そういった愚劣な思想の持ち主は、自分の言説がハーグ陸戦法規に比して、90年以上も時代遅れであることを認識した方がよい。な、よしりん。

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政治家・官僚の発言

1950年天野貞祐文部大臣「教育勅語と修身を復活させる」
1954年大達茂雄文部大臣「戦争裁判は食人種の部落の首まつり」
1954年木村篤太郎防衛庁長官「憲法改正されれば徴兵制をしく」
1955年鳩山一郎首相「憲法改正の主眼は第9条及び前文」
清瀬一郎民主党政調会長「現行憲法はマッカーサー憲法」
1956年清瀬一郎文部大臣「男女共学は弊害がある」
1957年岸信介首相「自衛の範囲内なら核兵器の保有も可能」
1958年岸信介首相「憲法9条を廃止する時が来た」
井本熊男陸幕長「日本の自衛に核兵器は必要」
1960年池田勇人首相「弱小国はどうであれ、日本は中立主義はとらない」
1965年佐藤栄作首相「建国記念日は紀元節が適当」
防衛庁首脳「外的の侵略を受けた場合、総動員態勢をとる必要がある」
佐藤栄作首相「ベトナム北爆にはそれなりの理由があり、爆撃される方にも責任がある」
久保田貫一郎外務省参与「日本の朝鮮統治は恩恵も与えた」
1966年椎名悦三郎外務大臣「自衛隊の海外派遣を検討する」
倉石忠雄農林大臣「現行憲法は他力本願。やはり軍艦や大砲がなければだめだ」
佐藤栄作首相「在任中に非核武装宣言は行わない」
山口康助文部省教科調査官「子供が神話を史実と混同しても差し支えない」
1972年山中定則総理府長官「現行憲法は米国の押しつけだと思う」
1973年中曽根康弘通商産業大臣「日本は王制の国」
1978年来栖弘臣統合幕僚会議議長「自衛隊は緊急時には超法規的行動をする」
砂田重臣文部大臣「戦後の平等教育には誤りがあった。教育勅語をすべて否定したのは誤り」
1979年石田和外元最高裁長官「軍人勅諭は断じて忘却してはならない金言であります」
1980年奥野誠亮法務大臣「自主憲法の制定は望ましい」
1981年竹田五郎統合幕僚会議議長「専守防衛は戦いにくい。徴兵制は苦役ではない」
奥野誠亮法務大臣「改憲を(昭和)58年の参院選で問うべきだ」
1983年中曽根康弘首相「日本を浮沈空母にする」
「防衛力整備を怠ると、フィンランドのようにソ連のいいなりになってしまう」
「非武装中立はものぐさ」
瀬戸山三男文部大臣「非行は米の占領政策、教科書検定を強化する」
1984年中曽根康弘首相「核兵器を使うかどうかは保有国の勝手」
1986年藤尾正行文部大臣「(教科書問題について)文句をいってるやつは、世界史でそういうことをしたことがないのか」
「日韓併合は韓国にも責任がある」
「東京裁判は不当」
中曽根康弘首相「日本で差別を受けている少数民族はいない」
1988年渡辺美智雄自民党政調会長「日教組には頭のおかしい先生がいっぱい」
1989年水野清総務庁長官「外人労働者問題はゴミ処理と同じ」
1990年石原慎太郎議員「南京大虐殺はでっちあげ」
1992年森喜朗自民党政調会長「在日韓国人労働者はまとまれば軍事行動できる」
1993年大内啓伍厚生大臣「東南アジアを中心とするところはエイズ国家」
1994年永野茂門法務大臣「南京大虐殺はでっちあげ」
「慰安婦は当時の公娼」
桜井新 環境庁長官「日本も侵略戦争をしようと思って戦ったのではない」
1995年宝珠山昇防衛施設庁長官「沖縄は基地と共生、共存を」
江藤隆美総務庁長官「植民地時代に日本は韓国にいいこともした」
1996年板垣正参議院議員「従軍慰安婦問題は歴史的事実ではない」
奥野誠亮元法務大臣「従軍慰安婦は商行為」
1997年江藤隆美議員「日本がどこを侵略したのか。町村合併と差があるのか」
梶山静六官房長官(従軍慰安婦問題に関して)「当時、公娼制度があった」
島村宜伸自民党広報本部長(従軍慰安婦問題に関して)「望んでそういう道を選んだ人がいる」
1998年中川昭一農林水産大臣(従軍慰安婦を)「歴史的事実として教科書に載せることに疑問を感じている」
1999年中村正三郎法務大臣「軍隊も持てないような憲法を作られて、もがいている」
西村真悟防衛庁政務次官「日本も核武装したほうがいい」
2000年石原慎太郎東京都知事「東京の犯罪は凶悪化しており、全部三国人、つまり不法入国して居座っている外国人じゃないか」
森喜朗首相「日本は天皇を中心とした神の国」
出典:「大失言」(失言王認定委員会・情報センター出版局)

 よくもまあ、言いも言ったりといったところか。小林よしのりがこれらの人々と思想的には直結していることは、自明のことだろう。ゴーマンかまして、いきがってる割には、すんげえダサイ御用漫画家みたいなもんだ。小林はしきりにタブーを覆した!とか言ってるけど、なんのことはない、退屈なリメイクものに過ぎないんだよな。

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