日時 | 部隊 | 殺害数 | 範疇 | 備考 | |
第16師団 | 12/13 | 歩兵36連隊 | 5000〜6000 | 長江渡江中殺戮 | |
歩兵33連隊 | 約2000 | 〃 | |||
佐々木支隊 | 一万数千 | 敗残兵殺戮 | |||
〃 | 数千 | 投降捕虜殺戮 | |||
1中隊 | 1300 | 〃 | |||
重砲兵第2大隊 | 7000〜8000 | 投降捕虜処刑 | |||
12/14 | 佐々木支隊 | (約2万) | 捕虜とする | 処刑の記述なし。 | |
歩兵第20連隊 | 800 | 武装解除して殺害 | |||
〃 | 310 | 武装解除して銃殺 | |||
〃 | (約1800) | 捕虜を連行 | 処刑の記述なし。 | ||
〃 | 150〜160 | 敗残兵を連行処刑 | |||
〃 | 600 | 〃 | |||
12/24〜1/5 | 佐々木支隊 | 数千 | 敗残兵狩りで処刑 | ||
第13師団 | 12/14 | 山田支隊 | 約1000 | 敗残兵掃蕩 | |
12/16〜17 | 〃 | 約2万 | 捕虜殺害 | 下記参照 | |
第9師団 | 12/13〜24 | 歩兵7連隊 | 6670 | 難民区の敗残兵刺殺 | |
第114師団 | 12/13 | 歩兵66連隊 | 1500余 | 捕虜を背信行為で処刑 | 安全を保障する旨の投降勧告に従った捕虜を殺害 |
第6師団 | 南京攻撃中 | (5500) | 捕虜捕獲 | 処刑の記述なし。 | |
12/10〜13 | (11000) | 上河鎮下関遺棄死体 | 処刑の記述なし。 | ||
12/12〜13 | (1700) | 城壁遺棄死体 | 処刑の記述なし。 | ||
第5師団 | 12/13 | 国崎支隊 | (約5000) | 捕虜の処置軍に委任 | 処刑の記述なし。 |
12/14 | 歩兵41連隊 | (2350) | 捕虜を後刻処置する | 処刑の記述なし。 | |
第2碇泊場司令部 | 12/16 | (約2000) | 下関で敗残兵処刑 | 目撃記録。他の殺戮との重複の可能性有り | |
12/17 | (約2000) | 下関で敗残兵処刑 | 処刑の記述なし。 | ||
海軍第11戦隊 | 12/13 | 約1万 | 長江渡江中殺戮 | ||
12/14 | 軍艦「熱海」 | (約700) | 敗残兵武装解除 | 処刑の記述なし。 | |
12/15 | 第2号掃海艇 | 約500 | 敗残兵殲滅 | ||
軍艦「栂」 | 約700 | 敗残兵殲滅 | |||
12/16前後 | 数千 | 八卦洲の敗残兵殺戮 |
(一二日夜)捕虜は第四中隊警備地区洋館内に収容し、周囲に警戒兵を配備し、その食事は捕虜二〇名を使役し徴発米を炊さんせしめて支給せり。食事を支給せるは午後十時ごろにして、食に飢えたる彼らは争って貪食せり。
(十三日午後二時)午後二時零分、連隊長より左の命令を受く。
旅団(歩兵第一二七旅団)命令により捕虜は全部殺すべし。その方法は十数名を捕縛して逐次銃殺してはいかん。
(中略)
各隊共に午後五時ごろ準備終わり刺殺を開始し、おおむね午後七時三十分刺殺を終わり、連隊に報告す。第一中隊は当初の予定を変更して一気に監禁し焼かんとして失敗せり。
捕虜は観念し恐れず軍刀の前に首をさし伸ぶるもの、銃剣の前に乗り出し従容としおるものありたるも、中には泣き喚き救助を嘆願せるものあり。とくに隊長巡視のさいは各所にその声おこれり。
(koβ註:助命する旨の投降勧告をした上で、その勧告を信じて投降した捕虜を殺害している。これは「陸戦の法規慣例に関する条約」に違反している。)
「これは今度の事変ばかりでなく、日清日露から西南役維新戦争に遡って見て、実際乱戦中に敵とわたり合って血戦した事実は、小説や講談にあるようにそうザラにあったものでは無いらしい。殊に今度の事変などでは、いざ接戦となると敵は逃げ足となり、一人斬つて二人目に及ばんとする時は、早二間も三間も離れて居るというような場合が多く、実際十人も二十人も斬ったというような話は、例えば敵を城壁域内際とか袋路地のような所へ追いつめ、ひしめき合いわめき合う処を片っ端から滅多斬りにした時などの事で、そうした将兵の血刀を手にし、状況を聞いてみると、四五人斬ったかと思う頃、多くの場合血がぬるぬると柄に伝わって来る」
※成瀬関次氏は日中戦争期に刀剣修理技術者として大陸にわたり、数多くの損傷刀の修理を行った。その彼曰く、「概して日本刀は強靭なものである」そうです。上記の引用からもわかるように、日本刀での斬人は結構行われていたようで、「日本刀では何人も斬ることはできないから、百人斬りなんてウソだ」などという話には説得力がない、という事になりますな。
※鵜野氏は日本刀を二振り持っていて、「祐定」は父から贈られた関ヶ原新刀。「貞光」は母から贈られた昭和新刀。日本刀は一般に古い物ほど鉄の質がよく、とうぜん、古刀ほど強靱かつ切れ味がよい。鵜野氏は古刀に比べナマクラと言われる昭和新刀で、九人もの捕虜を斬殺している。このことからも一応マトモに作られている日本刀は強靱かつ、斬人に適しているのである。
<日本刀余談>
私の知る限りで、日本刀の強靱さを示す例としては、幕末期に信州真田藩にて行われた刀剣試しの逸話がある。山浦真雄という名工の鍛えた剣を、藩で採用するに値する代物かどうか、強靱さを試すため、生鉄を斬ってみたり、兜を斬ってみたり、果ては鉄杖で打ち据えたりもしてみたそうだが、ほとんどびくともしなかったそうである。少々別格ではあるにせよ、強靱さを示す一例である。
また、日本刀の茎(なかご・柄に差し込まれている部分)にはしばしば、「二ツ胴」とか、「三ツ胴」とか象嵌されているものがあるが、これは、刑戮された囚人の死体を二つ、三つ重ねたものを一刀で両断した(すなわち強靱な斬れ味の保証付き)、という意味で、そういうものが残っていること自体、日本刀の鋭利さ、強靱さを示すものであるといえよう。
テレビのチャンバラなどを見ていると誤解しやすいかもしれないが、日本刀はズッシリとした鉄のカタマリなのである。中身がぎっちり詰まったカタイカタイ鋼鉄の棒に刃がついているような代物なんであって、ちゃんと鍛え上げられている物ならば、そうそう簡単に折れたり、殺傷力がなくなったりはしないのだ。日本の誇る高度な鍛鉄技術に基づく伝統工芸品でもあるのだから、折れやすいとか、そんなに斬れないとか、「自虐的」になる必要はないのだけど?
<南京(米艦オアフ号より)十二月十五日>南京の包囲と攻略を最もふさわしい言葉で表現するならば、”地獄の四日間”ということになるだろう。
首都攻撃が始まってから南京を離れる外国人の第一陣として、私は米艦オアフ号に乗船したところである。南京を離れるとき、我々一行が最後に目撃したものは、河岸近くの城壁を背にして三〇〇人の中国人の一群を整然と処刑している光景であった。そこにはすでに膝がうずまるほど死体が積まれていた。
それはこの数日間の狂気の南京を象徴する情景であった。
南京の陥落劇は、罠にはまった中国防衛軍の筆に尽くせないパニック・混乱状態と、その後に続いた日本軍の恐怖の支配、ということになる。後者では何千人もの生命が犠牲となったが、多くは罪のない市民であった。
首都放棄以前の中国軍の行為も悲惨であったが、侵入軍の狼藉に比べたらおとなしいものだった。
南京にいる外国人は全員無事である。
・同情の機会を失う
中国人のとの友好を主張しているにもかかわらず、日本軍は中国民衆の同情を獲得できるまたとないチャンスを、自らの蛮行により失おうとしている。
中国軍の士気の完全な崩壊と、それに引き続いて起こった目茶苦茶なパニックのあと、日本軍が入場してきたときにはかすかな安堵感が南京に漂った。中国防衛軍の行為ほどには悪くなり得ないだろうという気持ちがあった。が、その幻想はたちまち破れてしまった。
罠にはまった中国兵に憐憫の情をたれるだけで、日本軍は一発も発砲せずに市内を全部制圧できたはずだ。ほとんどの兵がすでに武器を捨てており、降伏したに違いない。しかしながら、日本軍は組織的撲滅の方法を選んだ。
・5フィートも積もる死体
まるで羊の屠殺であった。どれだけの部隊が捕まり殺害されたか、数を推計するのは難しいが、おそらく五千から二万の間であろう。
陸上の通路は日本軍のために断たれていたので、中国軍は下関門を通って長江に殺到した。門はたちまち詰まってしまった。今日この門を通ったとき、五フィートの厚さの死体の上をやむなく車を走らせた。この死体の上を日本軍のトラックや大砲が、すでに何百となく通り過ぎていた。
市内の通りはいたるところに市民の死体や中国軍の装備・兵服が散乱していた。渡航船を確保できなかった多くの部隊は長江に飛び込んだが、ほとんどが溺死を免れなかった。
・米公使宅襲撃さる
日本軍の略奪はすざまじく、それに先立つ中国軍の略奪は、まるで日曜学校のピクニック程度のものであった。日本兵はアメリカ大使ネルソン・T・ジョンソン邸を含む外国人宅にも侵入した。
アメリカ人運営の大学病院(鼓楼病院)では、日本軍は看護婦から金や時計を奪った。また、アメリカ人所有の車を少なくとも二台盗み、車についていた国旗を引き裂いた。日本軍は難民キャンプにも押し入り、貧しい者からなけなしの金を巻き上げた。
以上は、私自身および包囲中南京にとどまった外国人が見た事実によるものである。
以下は外国人の目撃談であるが、南京市全域で何が起こっているのかを示す、重要な証言である。
十二月十五日 日本兵が大学図書館に三たび侵入した。この建物内で、女性四名を強姦し、連れ去った女性のうち、強姦後に解放された者が二名、戻ってこなかった者が三名ある。この建物には千五百名の難民が避難していた。
十二月十六日 農業経済系構内で、三〇名あまりの女性が、ひきもきらずにやって来る大勢の日本兵に強姦される。同夜、日本兵が図書館に再び侵入し、銃剣を突き付けて、お金、時計、女性を要求した。女性数人が構内で強姦され、兵士に少女を差し出さなかった門番が殴打された。
十二月十七日 日本兵数名が大学付属中学校に侵入。恐怖のあまり騒ぎ出した子供一人が銃剣で刺殺され、もう一人が重傷を負った。女性八名が強姦にあう。日本兵は昼夜を分かたず、この建物を乗り越えて侵入するので、難民はヒステリー症状を起こし、三晩不眠状態となった。
(中略)
これらは膨大なリストから引用したほんの僅かの例である。
−日本民族はインドネシア民族の「兄」である。日本がきた目的は、インドネシア民族を西洋の植民地支配から解放することである。その実体はどうであったか。日本時代にインドネシアの民衆は、肉体的にも精神的にも、並はずれた苦痛を体験した。日本は結局独立を与えるどころか、インドネシア民衆を圧迫し、搾取したのだ。その行いは、強制栽培と強制労働時代のオランダの行為を超える、非人道的なものだった。資源とインドネシア民族の労働力は、日本の戦争のために搾り取られた。」
−日本は「大東亜の共栄」のために開発を実施する。
<731部隊>
<沖縄戦>
ドイツ皇帝プロシア皇帝陛下(以下締約国元首名略)は、平和を維持し且諸国間の戦争を防止するの方法を講ずると同時に、其の所期に反し避くること能わざる事件の為兵力に訴うる事有るべき場合に付攻究を為すの必要なることを考慮し、斯の如き非常の場合に於ても尚能く人類の福利と文明の駸々として止むことなき要求とに副わんことを希望し、之が為戦争に関する一般の法規慣例は一層これを精確ならしむるを目的とし、また成るべく戦争の惨禍を減殺すべき制限を設くるを目的として、これを修正するの必要を認め、千八百七十四年の比律悉会議の後に於て、聡明仁慈なる先見より出でたる前記の思想を体して、陸戦の慣例を制定するを以て目的とする諸条規を採用したる第一回平和会議の事業を或点に於て補充し、且精確にするを必要と判定せり。※koβ註:赤色部は「マルテンス条項」と呼ばれ、人道の原則を以て、陸戦法規の不備を補うべく、またその不備を恣意的に解釈した行為を封じるべく設けられた文章である。
締約国の所見に依れば、右条規は、軍事上の必要の許す限、努めて戦争の惨害を軽減するの希望を以て定められたるものにして、交戦者相互間の関係及び人民との関係に於て、交戦者の行動の一般の準縄たるべきものとす。
但し、実際に起る一切の場合に普く適用すべき規定は、この際之を協定し置くこと能わざりしと雖、明文なきの故を以て、規定せられざる全ての場合を軍隊指揮者の専断に委するは、亦締約国の意志に非ざりしなり。
一層完備したる戦争法規に関する法典の制定されるるに至る迄は、締約国は、其の採用したる条規に含まれざる場合に於ても、人民及交戦者が以前文明国の間に存立する慣習、人道の法則及公共良心の要求より生ずる国際法の原則の保護及支配の下に立つことを確認するを以て適当と認む。
締約国は採用せられたる規則の第一条及第二条は、特に右の趣旨を以て之を解すべきものなることを宣言す。
締約国は、之が為新なる条約を締結せんことを欲し、各左の全権委員を任命せり。
(全権委員名略)
因て各全権委員は、その良好妥当なりと認められたる委任状を寄託したる後、左の条項を協定せり。第三条 前記規則の条項に違反したる交戦当事者は、損害あるときは、之が賠償の責を負うべきものとす。交戦当事者は、其の軍隊を組成する人員一切の行為に付き責任を負う。
「世界に問われる日本の戦後処理2」に掲載されているハーグ陸戦法規を一読して、その背後に感じるのは、戦争の名による無用且つ恣意的な殺戮、虐待、破壊、荒廃を防ごうとする意図(それも切実な)と、蹂躙されがちな俘虜、非戦闘員の権利を保護しようとする人権重視・尊重の思想である。「ゲリラを殺しても構わない」とか、「戦争で残虐な行為があるのはやむを得ない」とかいう、どうしようもない思想とは正反対のもので、そういった愚劣な思想の持ち主は、自分の言説がハーグ陸戦法規に比して、90年以上も時代遅れであることを認識した方がよい。な、よしりん。
1950年 | 天野貞祐文部大臣 | 「教育勅語と修身を復活させる」 |
1954年 | 大達茂雄文部大臣 | 「戦争裁判は食人種の部落の首まつり」 |
1954年 | 木村篤太郎防衛庁長官 | 「憲法改正されれば徴兵制をしく」 |
1955年 | 鳩山一郎首相 | 「憲法改正の主眼は第9条及び前文」 |
清瀬一郎民主党政調会長 | 「現行憲法はマッカーサー憲法」 | |
1956年 | 清瀬一郎文部大臣 | 「男女共学は弊害がある」 |
1957年 | 岸信介首相 | 「自衛の範囲内なら核兵器の保有も可能」 |
1958年 | 岸信介首相 | 「憲法9条を廃止する時が来た」 |
井本熊男陸幕長 | 「日本の自衛に核兵器は必要」 | |
1960年 | 池田勇人首相 | 「弱小国はどうであれ、日本は中立主義はとらない」 |
1965年 | 佐藤栄作首相 | 「建国記念日は紀元節が適当」 |
防衛庁首脳 | 「外的の侵略を受けた場合、総動員態勢をとる必要がある」 | |
佐藤栄作首相 | 「ベトナム北爆にはそれなりの理由があり、爆撃される方にも責任がある」 | |
久保田貫一郎外務省参与 | 「日本の朝鮮統治は恩恵も与えた」 | |
1966年 | 椎名悦三郎外務大臣 | 「自衛隊の海外派遣を検討する」 |
倉石忠雄農林大臣 | 「現行憲法は他力本願。やはり軍艦や大砲がなければだめだ」 | |
佐藤栄作首相 | 「在任中に非核武装宣言は行わない」 | |
山口康助文部省教科調査官 | 「子供が神話を史実と混同しても差し支えない」 | |
1972年 | 山中定則総理府長官 | 「現行憲法は米国の押しつけだと思う」 |
1973年 | 中曽根康弘通商産業大臣 | 「日本は王制の国」 |
1978年 | 来栖弘臣統合幕僚会議議長 | 「自衛隊は緊急時には超法規的行動をする」 |
砂田重臣文部大臣 | 「戦後の平等教育には誤りがあった。教育勅語をすべて否定したのは誤り」 | |
1979年 | 石田和外元最高裁長官 | 「軍人勅諭は断じて忘却してはならない金言であります」 |
1980年 | 奥野誠亮法務大臣 | 「自主憲法の制定は望ましい」 |
1981年 | 竹田五郎統合幕僚会議議長 | 「専守防衛は戦いにくい。徴兵制は苦役ではない」 |
奥野誠亮法務大臣 | 「改憲を(昭和)58年の参院選で問うべきだ」 | |
1983年 | 中曽根康弘首相 | 「日本を浮沈空母にする」 |
「防衛力整備を怠ると、フィンランドのようにソ連のいいなりになってしまう」 | ||
「非武装中立はものぐさ」 | ||
瀬戸山三男文部大臣 | 「非行は米の占領政策、教科書検定を強化する」 | |
1984年 | 中曽根康弘首相 | 「核兵器を使うかどうかは保有国の勝手」 |
1986年 | 藤尾正行文部大臣 | 「(教科書問題について)文句をいってるやつは、世界史でそういうことをしたことがないのか」 |
「日韓併合は韓国にも責任がある」 | ||
「東京裁判は不当」 | ||
中曽根康弘首相 | 「日本で差別を受けている少数民族はいない」 | |
1988年 | 渡辺美智雄自民党政調会長 | 「日教組には頭のおかしい先生がいっぱい」 |
1989年 | 水野清総務庁長官 | 「外人労働者問題はゴミ処理と同じ」 |
1990年 | 石原慎太郎議員 | 「南京大虐殺はでっちあげ」 |
1992年 | 森喜朗自民党政調会長 | 「在日韓国人労働者はまとまれば軍事行動できる」 |
1993年 | 大内啓伍厚生大臣 | 「東南アジアを中心とするところはエイズ国家」 |
1994年 | 永野茂門法務大臣 | 「南京大虐殺はでっちあげ」 |
「慰安婦は当時の公娼」 | ||
桜井新 環境庁長官 | 「日本も侵略戦争をしようと思って戦ったのではない」 | |
1995年 | 宝珠山昇防衛施設庁長官 | 「沖縄は基地と共生、共存を」 |
江藤隆美総務庁長官 | 「植民地時代に日本は韓国にいいこともした」 | |
1996年 | 板垣正参議院議員 | 「従軍慰安婦問題は歴史的事実ではない」 |
奥野誠亮元法務大臣 | 「従軍慰安婦は商行為」 | |
1997年 | 江藤隆美議員 | 「日本がどこを侵略したのか。町村合併と差があるのか」 |
梶山静六官房長官 | (従軍慰安婦問題に関して)「当時、公娼制度があった」 | |
島村宜伸自民党広報本部長 | (従軍慰安婦問題に関して)「望んでそういう道を選んだ人がいる」 | |
1998年 | 中川昭一農林水産大臣 | (従軍慰安婦を)「歴史的事実として教科書に載せることに疑問を感じている」 |
1999年 | 中村正三郎法務大臣 | 「軍隊も持てないような憲法を作られて、もがいている」 |
西村真悟防衛庁政務次官 | 「日本も核武装したほうがいい」 | |
2000年 | 石原慎太郎東京都知事 | 「東京の犯罪は凶悪化しており、全部三国人、つまり不法入国して居座っている外国人じゃないか」 |
森喜朗首相 | 「日本は天皇を中心とした神の国」 |