「竹島の日」記念式典の会場に到着した上代義郎さん=22日午後、島根県松江市(沢野貴信撮影)

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 韓国が不法占拠を続ける竹島(島根県隠岐の島町)の早期領有権確立に向け、島根県議会が2月22日を「竹島の日」とする条例を定めてから10年。

 松江市で10回目の記念式典が開かれた22日、韓国との友好関係を重視する政府からの後押しもない中、条例制定に奔走した元県議の上代(じょうだい)義郎さん(79)は「条例によって腰の重かった国を動かすことができた。地方の小さな抵抗にも意味があった」と振り返った。

 「必ず竹島を取り返しましょう」。約500人の参加者で埋め尽くされた式典会場の最前列で、上代さんは登壇した国会議員らの言葉に感慨深げに頷いた。「問題解決への決意を聞けて感無量。涙が出るかと思った」

 平成17年3月16日、竹島の日条例案は県議会本会議で県議36人中33人が賛成し、可決された。上代さんは当時、超党派の竹島領土権確立島根県議会議員連盟の事務局長。条例案は議員提案だったため、国や県との折衝や、案文の作成といった実務を一手に引き受けた。

 若いころから竹島周辺で日本漁船の拿捕(だほ)が相次ぐことに心を痛めた。県議になってからは、議会で領土や漁業問題の解決を国に訴える意見書の採択を重ねても確たる回答がないことに憤りを感じた。「国の主権にかかわる問題なのに、事なかれ主義でいいのかという思いが募った」という。

 韓国の不法占拠が続けば問題が風化し、国際社会で時効とみなされる恐れがあった。竹島の漁民は高齢化し、漁再開の見通しも立たなくなる。交渉の起爆剤になろうと、16年秋から県条例案の準備に着手した。

 江戸時代から続く竹島漁の歴史や、第二次世界大戦後、日本が主権を回復したサンフランシスコ講和条約の条文まで詳細に調べ、竹島が日本の領土である根拠について理論武装した。韓国側の反発だけでなく、問題を棚上げしようとしているかにみえた政府との摩擦も想定されたからだ。

 竹島の島根県編入100年に当たり、条例案を提出しようとしていた17年は、日韓基本条約調印から40年で、「日韓友情年」としてさまざまなイベントが企画されていた。当時は小泉純一郎内閣で、上代さんは首相の手腕に期待をかけたが、歴代政権と大きな変化はなかった。

 政府の消極姿勢を裏付けるように、条例の可決直前、当時の町村信孝外相の秘書官から、大臣名で県議会にファクスが届いた。韓国側の反発の動きが記されていたが、議会側への具体的要望はなかった。

 思わず激怒し、秘書官に「こちらに何を求めているのか」と電話すると、大臣の命令でファクスしただけだとかわされた。「正論を貫いたのは島根だから、国もダメだとは言えなかったのかな」。県議会の動きに国が決して賛成でないことを改めて思い知らされた。

 ただ、条例や式典開催を受けた世論の高まりを受け、政府も各省庁を通じ、国内外に向けた竹島問題の情報発信を強化。領土問題を所管する部署の設置も検討している。少しずつ態度を前向きに変化させ始めたと感じている。

 一方で物足りなさも残る。記念式典の主催は県のままで、念願の政府主催にはなっていない。政府から派遣されるのも内閣府政務官で、閣僚ではない。

 友好にこだわって韓国に配慮するのでなく、毅然とした対応で領土問題を解決することが真の日韓友好につながると信じる上代さんはこう話した。

 「ここまで膠着した竹島問題が一気に決着することは難しい。粘り強く政府に対応を促していかなければならない」