『唐会要』倭国・日本国伝
古倭奴國也。在新羅東南、居大海之中。世與中國通。其王姓阿毎氏。設官十二等。俗有文字、敬佛法、椎髻無冠帶。隋煬帝賜之衣冠。今以錦綵為冠飾。衣服之制、頗類新羅。腰佩金花、長八寸、左右各數枚、以明貴賤等級。 古の倭奴国なり。新羅の東南に在り、大海の中で暮らす。代々中国と通交する。その王の姓は阿毎氏。官には十二等を設けている。習俗は文字があり。佛法を敬う。椎髻で冠と帯はない。隋の煬帝がこれに衣冠を賜う。今、錦綵を以て冠を飾る。衣服の作り方は大変新羅に類似している。腰に金製の花を佩びる。長さ八寸。左右に各数枚。これを以て貴賎や等級を明らかにする。
貞觀十五年十一月。使至。太宗矜其路遠、遣高表仁持節撫之。表仁浮海、數月方至。自云路經地獄之門。親見其上氣色蓊鬱。又聞呼叫鎚鍛之聲。甚可畏懼也。表仁無綏遠之才。與王爭禮。不宣朝命而還。由是復絶。 貞観十五年(641年)十一月。使者が到着。太宗はその道程の遠さを哀れむ。高表仁に節を持たせて派遣し、これを慰撫した。表仁は海を乗り出し、数カ月で到達した。 (帰国した高表仁が)道は地獄の門を経て、その上に気色(風雲の気色=天気の様子)は鬱蒼(うっそう)とする(天空に激しく雲が巻き起こる)のを目撃し、鎚(金槌)で殴られているような絶叫が聞こえ、甚だしい恐怖を感じたと言った。 表仁には慎みと遠慮の才覚(外交の才能)がなく、王と礼式で争い、朝命を宣下もせずに帰還した。ここに再び通交が途絶えた。
永徽五年十二月。遣使獻琥珀瑪瑙。琥珀大如斗。瑪瑙大如五升器。高宗降書慰撫之。仍云。王國與新羅接近。新羅素為高麗百濟所侵。若有危急。王宜遣兵救之。倭國東海嶼中野人。有耶古。波耶。多尼三國。皆附庸於倭。北限大海。西北接百濟。正北抵新羅。南與越州相接。頗有絲綿。出瑪瑙。有黄白二色。其琥珀好者。云海中湧出。 永徽五年(654年)十二月。遣使が琥珀(こはく)と瑪瑙(めのう)を献上した。琥珀の大きさは一斗升の如し。瑪瑙の大きさは五升器の如し。高宗は降書を以てこれを慰撫した。 なお言うには、倭王の国は新羅と近接している。新羅は平素から高句麗や百済を侵略し、もし危急が生じれば、倭王は宜しく派兵してこれを救う。 倭国は東海の小島の野人。耶古、波耶、多尼の三国がある。いずれも倭に従属している。北は大海が限界、西北は百済と接し、正北は新羅と抵触、南は越州に相接する。絹糸と綿がよく採れる。瑪瑙を産出し、黄白の二色がある。そこの琥珀は逸品である。雲海の中で湧き出る。
咸享元年三月。遣使賀平高麗。爾後繼來朝貢。則天時。自言其國近日所出。故號日本國。蓋惡其名不雅而改之。 咸享元年(670年)三月。遣使が高句麗平定を祝賀。以後は続いて朝貢に来る。則天武后の時、自ら言うには、その国は日の出る所に近い。故に日本国と号する。思うに、その名が雅でないことを憎み、これを改名したのであろう。
大歴十二年。遣大使朝楫寧副使總達來朝貢。 大歴十二年(777年)。大使の朝楫寧、副使の總達を遣わして朝貢に来た。
開成四年正月。遣使薛原朝常嗣等來朝貢。 開成四年(839年)正月。遣使の薛原、朝常嗣などが朝貢に来た。
日本。倭國之別種。以其國在日邊。故以日本國為名。或以倭國自惡其名不雅。改為日本。或云日本舊小國。呑併倭國之地。其人入朝者。多自矜大。不以實對。故中國疑焉。 日本。倭国の別種である。その国は日辺に在る故に、日本国を以て名と為した。あるいは倭国は自らの名が雅ではないことを憎み、日本に改名した、あるいは日本は昔は小国だったが、倭国の地を併呑したという。そこの人が入朝したが、多くは自惚れが強く、不実な対応だったので、中国はこれを疑う。
長安三年。遣其大臣朝臣真人來朝。貢方物。朝臣真人者。猶中國戸部尚書。冠進コ冠。其頂為花。分而四散。身服紫袍。以帛為腰帶。好讀經史。解屬文。容止閑雅可人。宴之麟コ殿。授司膳卿而還。 長安三年(703年)。その大臣の朝臣真人を遣わして来朝、方物を貢献した。朝臣真人は中国の戸部尚書のようである。冠は進コ冠、その頂を花のようにする。分而四散。身服紫袍。以帛為腰帯。好讀経史。解属文。容止閑雅可人。宴之麟コ殿。授司膳卿而還。 長安三年(703年)、そこの大臣の朝臣真人が方物を貢献に来た。朝臣真人は、中国の戸部尚書のようで、冠は進コ冠、その頂は花となし、分けて四方に散らす。紫の袍を身に着け、白絹を以て腰帯とする。真人は好く経史を読み、文章を解し、容姿は穏やかで優美だった。(則天武后は)これを麟コ殿に於ける宴で司膳卿を授けて帰国させた。
開元初。又遣使來朝。因請士授經。詔四門助教趙元默就鴻臚教之。乃遺元默闊幅布。以為束脩之禮。題云白龜元年調布。人亦疑其偽為題。所得賜賚。盡市史籍。泛海而還。 開元初(713年)。また遣使が来朝。因請士授経。 盡市史籍。泛海而還。其偏使朝臣仲滿。慕中国之風。因留不去。改姓名為朝衡。歴仕左補闕。終右常侍安南都護。 開元初(713年)、粟田が再び来朝、諸儒に沿った経典を拝受したいと請うた。 詔を以て四門学助教の趙元默を鴻臚寺に就かせこれに教授させた。元默に幅広の布を遣わし、以て師恩の謝礼とした。題して白亀元年調布という。人々はまたその題名の真偽を疑う。賜り物を得て、あらゆる史籍を買い求め、海に浮かんで還った。
其偏使朝臣仲滿。慕中國之風。因留不去。改姓名為朝衡。歴仕左補闕。終右常侍安南都護。 その副使の朝臣仲満(阿倍仲麻呂)は中華の風を慕い、留まって去らず。姓名を朝衡と改め、左補闕を歴任し、右常侍安南都護で終えた。
蝦夷。海島中小國也。其使至鬚長四尺。尤善弓箭。插箭於首。令人戴瓠而立。數十歩射之。無不中者。顯慶四年十月。隨倭國使至入朝。 蝦夷。海の島の中の小国である。そこの使者は鬚の長さ四尺。最も弓射に練達している。首の後ろに矢を挿し、人に戴瓠を載せて立たせ、数十歩の先からこれを射る。的中さぜるはなし。 顕慶四年(659年)十月。倭国の使者に随伴して入朝した。 |