マイク・タイソンの不幸は、自分自身の感情を見つめることができなかった点にあるのではないか。『真相 マイク・タイソン自伝』(ダイヤモンド社)を読むと、このトラブル続きのアメリカ人ボクサーが、チャンピオンらしくあらねばならない、男らしくふるまわねばならないという強迫観念にとらわれ、ほんらいの性格・資質とは違う「ボクシング王者」を演じさせられていたことがわかる。おとなしく臆病で、動物の世話や読書が好きだった少年は、ボクシングの成功で名声と富を手に入れると、常軌を逸した蕩尽を始める。たくましいボクサー、マッチョな成功者のイメージをなぞることで、タイソンは自分自身の男らしさを証明しようとするのだ。
たくさんの女性と性的関係を持ち、どのような場でも尊大にふるまい、麻薬や逸脱行為でトラブルが絶えず、結果的には刑務所にまで入れられるタイソン。それがチャンピオンの態度であり、男らしさだという規範に引きずられた青年は、その後の人生において、取り返しのつかないほどに貴重な時間や財産、信頼を失った。彼の長い告白を読みながら、なぜもっと早く「自分はそのような性格の人間ではない」と宣言できなかったのかと悲しくなってしまう。もしタイソンが「僕は不特定多数の女性と性行為をするより、鳩の世話をする方が落ち着くんです」と認めることができていたら、別の人生があったのではないか。みずからを痛めつけるだけの「男らしさ」を拒否することは、なぜそれほどにむずかしいのだろうか。
スパイク・ジョーンズ、マイク・ミルズ、マーク・ウェブ、ミシェル・ゴンドリーといったミュージック・ビデオ出身の映画監督は、主にそのスタイリッシュな映像や、新鮮なデザイン感覚によって高い評価を受けているが、彼らの本質的な特徴はもう少し別の部分にあるようにおもう。彼らの作品に共通するのは、ステレオタイプな男性らしさやマッチョさを拒否し、みずからの感情に向き合って行動する過程を肯定的にとらえる傾向ではないだろうか。
ミシェル・ゴンドリー監督の『エターナル・サンシャイン』(’04)は、自己の内面や感情との距離感をていねいに描く点において優れている。本作の観客は、ストーリーを通してみずからの感情をポジティブにとらえ直すことができる。主人公の男性は、かつての恋人が、記憶を消去してくれる会社に依頼し、ふたりの恋愛に関する記憶をすべて消してしまっていたと知る。喪失と孤独に耐えかねた主人公は、くだんの会社を訪ね、自分の記憶も消去してもらえないかと訴える。かくして、記憶を失ったふたりの男女がそれまでの過去を取り戻していく過程は、ユーモラスでありつつ、胸を抉られるような苦痛をともなうものとなっている。『エターナル・サンシャイン』で描かれる、どこか情けない男性の姿は、ときに観客をいらだたせつつも、ふだん抑圧していた感情を解き放つ効果を持っているといえる。
『エターナル・サンシャイン』でまず目を引くのは、観客に対して感情の揺れを隠さない主人公の姿である。困惑し、涙を流し、みっともなく取り乱す姿こそが、本作の主人公を特徴づけるふるまいである。記憶消去というモチーフを通じて、心の深い部分にあるエモーションが前面に押し出される展開は、自分の感情など取るに足らないものではないかと考えてしまいがちな観客を刺激する。記憶消去サービスを提供する会社という設定は、作品にSF的な雰囲気をつけくわえつつ、主人公の喜怒哀楽を解放する舞台設定にもなっている。過去の記憶へとさかのぼりながら、悲しさ、悔しさ、恥ずかしさといった感情を自由に発露するストーリー構成は、「感情を表に出してはいけないのではないか」と無意識に自分を制限している観客へ、なぜそのように自分を押さえ込むのか、と問いかけているようでもある。多くの人にとって、みずからの感情を制御することは習慣になってしまっているように感じるのだ。
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