宝塔の林立

大御本尊を受持しないと会則変更を指示し、自らの人生の大半をかけてきた信仰の根本を変更して、邪宗門に踏み出した先生は、指導者の説明責任を放棄して会員の疑問に答えるわけではなく、決して表面に出ようとしない。恥ずかしくて出られないのでしょう。責任を果たさないこのような高慢な人が善良であるわけがなく、野望や欲望を巧妙に隠して、人を影で操ろうとする悪辣な精神の持ち主です。そのような人物を、仏法では魔ということを、何度も学習しました。
教学部の論理不同の解説でない解説を、その幼稚さを半分笑いながら、半分涙を流しながら読みました。教学部の苦渋が滲み出ていたからです。このような文章を書かなければならない心中の苦しみに思い至らない会員は、今までどのような信仰生活を営み、信仰の美しさや楽しさや喜び、時には辛さを、思いやりや同苦を、本当に味わい、信仰の本義を知るために叡智を傾けてきたのでしょうか。
会員の皆さまは、ただ言われるままに素直に、先生のためと思いながら活動してきました。健気な純真さという信仰者の美徳を所有しておりますが、その先生は、そのような会員の心理を悪用し、使命感と純情さに訴えて、自らの名声を高めるためだけに利用してきたのです。仏法を知る者が、仏法を汚す。その極悪の姿が魔なのです。その魔は、聖者の言葉を口にして、聖者のような眼差しを宿して訴え、聖者のように優しく信者の肩に触れるのです。
会則変更以来、この暴挙とも言うべきできごとは、会長以下の執行部が、先生の考えから逸脱して勝手に作り上げたものとの思いもありました。しかし、人間革命を読んで、その一抹の希望も消えました。


現在連載の「新・人間革命」大道4~5には、次のように書いています。

『伸一は、そのあとにある、「阿仏房さながら宝塔・宝塔さながら阿仏房・此れより外の才覚無益なり」の一節を引いて訴えた。
「ここでは、阿仏房を対告衆として、わが身そのままが妙法蓮華経の当体であり、宝塔とは、南無妙法蓮華経と唱える私たちにほかならないことを示されています。
これこそが、仏法の教えの結論であるといえます。したがって『此れより外の才覚無益なり』――“これだけ知っていればいいのですよ”と言われているんです。
本来、私たち自身が宝塔であり、大御本尊なんです。この己心の宝塔を顕現させるための生命の明鏡として御本尊がある。ですから、いつ、どこにいようと、自分のいるところが宝塔の住処となり、常寂光土にすることができるんです。なんの心配もありません」
「阿仏房御書」で日蓮大聖人は、「我が身又三身即一の本覚の如来なり」(御書一三〇四ページ)とも仰せである。私たち凡夫が、円融円満の、完全無欠の仏であると言われているのだ。
ここに、創価の人間主義の根幹がある。
山本伸一が、自ら仏に仕えるように皆に尽くし、また、その実践を幹部に訴えてきたのも、この御文を根底にしてのことである』


この文章を読んで、この度の会則変更を指示していたのは、やっぱり先生だったということをはっきりと理解しました。「わが身そのままが妙法蓮華経の当体」であるとしながらも、なぜ「私たち自身が宝塔であり、大御本尊」なのであろうか。こういう書き方の文章はおおいに誤解を招くものですが、はじめから意図した書き方であることは間違いないでしょう。わが身が宝塔であるということを確信できるのは、信仰対象である御本尊に働きかけるからです。強い信仰心が自身の生命に変革の動機を与えるからです。人間自身が大御本尊であるという強調が、そもそも大聖人の妙法ではありません。妙法は厳格な法のもとに成立しています。「私たち凡夫が、円融円満の、完全無欠の仏である」……このような文章だけで説明なし、なんと傲慢な。凡夫に総別の違いがあることを知っていながら、全く無視している。それが人間主義の根幹なら、その完全無欠という絶対性であらゆる問題を解決していただきたいと考えますが、このような誇大妄想は魔の所為によるものであると、わたしのような不真面目で教学嫌いな娘にもわかるというものです。誇大妄想であるがゆえに、なにも解決しないばかりか、問題が複雑になり解決も遠ざかるばかり。
03年の対談「御書の世界」では、上記の人間革命とよく似た文章がありますが、11年10月号の大白に掲載された「阿仏房御書」の講義にも同じ文章があります。執筆者にはよほど強い記憶があるのでしょうか。それとも「阿仏房御書」の講義を脇に置き、見ながら書いたのでしょう。
人間革命では、「私たち自身が宝塔であり、大御本尊」と述べ、明鏡である御本尊には、「大」をつけずに対比しているように思われます。「わたしたち自身が大御本尊」と表現したのは始めてであり、本来の大御本尊を否定し、それに代わる本尊を人間自らの仏性に見ているのでしょう。己心の南無妙法蓮華経に重きを置いた印象操作のように感じられます。一大秘法は大御本尊ですが、御本尊にかわって法を一大秘法にしたいのでしょうか。その法を実現するための御本尊と考えれば、法の元に従属した御本尊とする解釈変更の可能性もあります。もちろんこれは、人法一箇を究極とする大聖人の妙法ではありません。人間の心と肉体を分離できないように、法と御本尊は分離できるものではありません。
「阿仏房御書」の講義はまともです。このころはまだ、大御本尊を否定する思惑はなかったのでしょう。先生は、最近まで、その気はなかったのかもしれません。どうして急に思いたったのか、死期を感じていらっしゃるのかもしれません。
『鏡がなければ、自分の顔を見ることができません。まして「己心の宝塔」は、それを見る明鏡がなければ誰も見ることができない。そこに、大聖人が御本尊を顕された理由もあります。
日蓮大聖人は、御本仏としての御自身の生命を御本尊として御図顕されました。私たちが、この御本尊を明鏡として、南無妙法蓮華経の題目を唱えた時に、自身に内在する仏の生命が力強く涌現します。私たち一人一人が胸中に宝塔を打ち立てる、まさに、そのための御本尊なのです』

『法華経の宝塔を、日蓮大聖人は御本尊として御図顕されました。すなわち「宝塔をかきあらはし・まいらせ候ぞ」とは、日蓮大聖人が宝塔、つまり南無妙法蓮華経の御本尊を御図顕し、万人が現実に成仏できる道を確立されたことです。
これを、「出世の本懐」、仏が世に出現した究極の本意・目的であると仰せです』

「解説」でも、出世の本懐を定義していますが、3年前の先生の講義とは異なっています。
『大聖人の御生涯における出世の本懐とは、三大秘法をもって、末法万年の民衆救済の道を完成したことです』(1月29日、解説・上)
「御本尊」が「三大秘法」に変化しています。
『大聖人が、「弘安2年の御本尊」を御図顕されたことも、この三大秘法の確立と民衆仏法の確立という意義の中に含まれるものと考える』
そして、大御本尊が三大秘法のなかに取り込まれて格下げされました。「解説」・下では、さらに「弘安2年の御本尊」を「日寛上人の書写御本尊」と同等に扱い、謗法を理由に受持の対象にしないと、断言されましたが、上記の文章には多少のためらいがあるのか、「含まれるものと考える」と言い訳がましい書き方になっています。
御本尊は普遍的価値を有するものです。環境に左右されるものではありません。もしも絶対的なものが存在するとしたら、御本尊こそ第一ものです。つまり時間や空間に支配されない永遠的な価値を所有するもの、それが御本尊なのです。「広宣流布のための御本尊」という定義に意味はありません。「信心の血脈を受けた創価学会だけが認定できる」という御本尊の定義も無駄です。そんな言葉に惑わされはならない。
また、受持即観心は教義の根幹。その受持の対象を変更するのであるから、これは単なる解釈変更などと言える次元を越えている。この「解説」を書いた教学部の誰かの、苦しい言い訳が、後年、歴史検証の資料にならないことを祈るばかりです。創価では、御本尊の均一化、合理的な平準化を行おうとしているのですね。
御書にないから、六大秘法を用いないそうです。法本尊、人本尊、三宝を毎日、ご祈念しているのに、人法という区別もなくなるのでしょうか。御書にないからという拙い理由は、妙法の解釈史を否定するものですが、「魂の独立」も「大聖人直結」も「仏意仏勅」も、御書にはないのではないでしょうか。自分に都合よい解釈は、決して生き残ることはありません。支離滅裂、論理滅裂。


わたしは、会員の方にお聞きしたいのです。昭和54年に、先生が会長職を辞任したおり、辞任を当然と考える大幹部が多くいたとうかがいました。先生を慕う一般会員は、そのときなにをされたのでしょうか?   暗愚な会員は信念もなく、ただ右往左往していたのではないですか?    理不尽と考えながら、どこか間違っていると思いながら、なにも行動を起こさなかった。少なくとも、横柄な大幹部に対し強く抗議する信仰者がいたのですか?   常日頃、師弟不二を叫んでいても、いざとなればだらしがない。勇気もない。不二とは一体ということであり、やくざな世界でも、親分子分のつながりを命にかえても全うします。親分子分より強い一体感、普遍的使命感を感じられるのが師弟ではないでしょうか。
今回も同じです。戸田先生が言われることは正しい。大御本尊から離れてはいけないと会員に教えてくれたのは、戸田先生であり、池田先生です。この度の会則変更は先生のご真意ではなく、先生が会長辞任したときと同じく、大幹部が仕組んだ暴挙なのではないか、という疑問を、なぜ持たないのですか?   このような歴史的にも教義的にも転換点とも言える大切なところで、先生は一言も言及されない。不自然だと思わないのですか? 
三代の師の業績を「僧俗和合時代の歴史的文脈で言われた発言」と解説し、弟子が一言で切り捨てました。先生が会長辞任されたときと、全く同じなのではないでしょうか。それとも先生自身が、栄光も業績も師の輝かしい過去も、全部捨てたというのでしょうか。自らの人生から、宗教者として、最も大切な教義や哲学の論理性、整合性を捨てたというのでしょうか。普遍性を有するものが、環境の変化で無に帰すのですか?   日顕日如の時代より、日興上人から昭和時代までの歴史が比較しようもなく長く、宗門が汚れているというのなら、それは現在の短い一期間なのではないでしょうか。将来、清浄な上人が現れたら、どうするのでしょうか。
先生は何も語らない、というのは、語れるような環境にいないからなのではないか。会員が考える先生の実像は、指導者としての優秀な姿ですが、組織の管理者としては会長以下の創価キャリアに依存する部分が大きいのではないか。渉外や上意下達の指揮系統を整備運営し、連絡網やこまごまとした事務的手続きは、有名大学出身の会長以下の職員が優秀なのではないか。「解説」には、すべて自分たちが決めるという全能感、絶対感に溢れていますが、小説・人間革命の「完全無欠」という内容にも敷衍できます。優秀さはときには、信仰への畏敬を拒絶する。知が信を凌駕するからです。わかりやすく言えば、頭でっかちということです。慈悲は対人間関係のなかで育まれるものですが、慈悲すら頭で理解しようとするこれらの小舎利弗を使いこなすのは大変。本部といえどもつまりは力関係です。まさかと思う善良会員ばかりですので、外部のアンチからは洗脳などと批判されるのでしょう。


ある雑誌(文藝春秋3月号)に、ips細胞の臨床研究の第一人者、理化学研究所プロジェクトリーダー・高橋政代氏のインタビュー記事が載っておりました。STAP細胞の小保方氏に関連して、科学者の姿勢について述べております。
『私は常日頃から、「科学者の真髄とは自分を疑うこと。徹底的に疑った後、自分を信じること」――そう考えています。自分を疑わないことが一番怖い。彼女(小保方氏)のように、あれほど自分を疑わない人はそもそも科学者とは言えませんが、例えば、笹井(芳樹)さんは、私たちのプロジェクトでも技術的な基礎を作ってくれた発生研究の第一人者です。そんな笹井さんがなぜSTAP細胞を疑わなかったのか……。こればかりは、小保方さんの魔力に”洗脳”されていたと言わざるを得ません』
信仰者も同じなのではないかと、わたしの小さい脳みそも化学反応を起こしました。大聖人も自分を疑い、徹底した疑いの果てに、疑うことができない自分自身の仏性を確信しました。疑うことは信の深部への過程なのです。素直に信じることが美徳とはかぎらないのです。全能感など、まず疑ってかかるのが正しい信仰の道を踏み外さない賢い方法です。
「御本尊を認定する権能」……認定する必要もないのですが、それでも認定する権利があると主張するなら、根拠とプロセスを透明にしていただきたいと考えます。認定する御本尊も、これからは次々と、変化していく可能性があります。影を本体に勝ると言っているのですから、あるいは自分の影も隣りの人の影も同じ本体だと言っているのですから、身軽法重ならぬ身軽影重というところです。本質を忘れて立ち往生している、本末転倒の姿ですね。
喜びや楽しみは長続きしませんが、苦しみや悲しみは、蔦のように絡まって長く締めつけてくれます。創価の苦しみが始まったと言えば言い過ぎでしょうか。「魂の奴隷」と名づけましょう。


「仏に仕えるように尽くす」ということは、最大にその人間性を尊重するということですが、その謙虚さが、実はとても計算高い行動であることもうかがえます。この度の会則変更に伴い暴露された執行部と教学部の葛藤は、会長以下の言動が、実は用意周到なものであることがわかりました。それが、仏に仕える幹部の姿勢なのかと思うとやり切れなくなりますが、人を欺いたり、陥れたりすることが完全無欠の策略なのでしょうか。計算高い幹部は、計算高い師匠を見習っているのでしょう。「会員の皆さまは仏です」と言うと「お客様は神さまです」という意味ですが、会員をおだてて、お金をむしり取る、商売上手な信心おもてなし作法が創価の師弟不二です。
だまされていることに気づかない愚かな会員は、教学を学んでも、真実を理解しない低級な大衆です。このような会員が言われるままに公明党を支援し、社会を変えていく。消費税増税も、集団的自衛権容認も、自民党の暴走を食い止めたなどと会員が安心する口実を与えて、本当は財務省の傀儡になり、軍事国家への着実な足がかりを築いたということです。自衛隊の武力行使を目的とする海外派遣も、憲法改正も、もう間近です。結果的に公明支持者が最も右翼的と考えればよいと思いますが、そんなことに無頓着な、権利意識が過剰な大衆が日本の行く末を決定してしまうのです。政治は民衆が決定するという権利意識ですが、その民衆が欲望制御に関心を持たずに暴走し、始末に負えない権利の亡者と化すからです。そしていつの場合でも、わたしは正しいと固く信じているのです。狂気じみた啓蒙、支持者作りは、創価の悪しき折伏の伝統を引きずっていますが、反省などという殊勝な気持ちはありません。反省なき傲慢はやがて地獄行きです。例外はありません。
「強言なれども人をたすくれば実語」「仏として迎え仕える」、口では立派なことを言っても、やることは修羅畜生の類。師さえ助けようとしない無知な会員が、教義の改悪にも全く反応しないで地方選に目の色を変えている。本部から目を逸らすための選挙活動なのですよ。


創価の御用学者は何を考えているのだろうか。宗門攻撃の急先鋒だった松岡幹夫氏の見解を聞きたいと思う。こういうときこそ、正義を実行していただきたいと思う。噂によれば、会則変更に反対した教学部の責任者が、クビになったというのは本当なのでしょうか。職員という身分も張り紙を剥がすような容易さで剥奪されたとか。パワハラは現場だけではなかったのですね。噂話が好きな女子部の間では、怖いハラスメントがもっぱらの関心事項です。
言論にはどこまでも言論で説得するというのが、民主社会のルールだと思うのですが、意見が異なる者は排除するという排他性は、創価の独善性をよく表しています。「信仰者を仏のごとく敬う」という信仰者は、黙って話を聞いて、素直に実践する、無知で低レベルのバカな会員を指しているのでしょう。オルテガが指摘するところの「大衆の反逆」が起きて、社会を悪い方向に淘汰し一般化する、あの大衆の代表が創価の会員です。


「潮」は一年前から定期購買を中止しましたが、別のある月刊誌を読んでいたら、相変わらず創価の広告が掲載されていました。一般紙、雑誌、テレビCMがプロパガンダの主流のようです。
同じ雑誌に他宗の広告もあり、いつもならスルーするところですが、興味を引かれて読みました。婦人の体験です。
結婚し、子どもも授かり、順風満帆の生活が夫の過度な飲酒によって一転。夫との諍いが絶えなくなります。そんな生活に限界を感じていたとき、知人から「あなたのご主人は、あなたにとって仏さまよ」と諭されますが、素直に受け取ることができなかった。夫はやがて病気になり、死期を迎えますが、夫の目に光る涙を見て「心安らぐ会話を欲していたのだ」「鬼の心でぶつかれば鬼の心が返ってくる」と気づきます。夫はまもなく他界。後悔の念にさいなまれながらも生死に思いをめぐらし、ようやく「主人は仏さま」という言葉を心から理解します。最後にこのように体験を結びます。「人さまを仏さまと拝み、慈悲や感謝の心を積み重ねる毎日が続いている」


他者に仏性を認めるという行為は、とても人生を豊かにします。仏性は至上のものだがらです。そのことを知る者が賢者と大聖人から教えていただきました。この婦人は、同じ題目を唱える宗派の方ですが、立派に不軽菩薩の心を実践しています。創価と何が違うかと言えば、御本尊の違いだけなのです。創価は今、その大事な根本に不信と迷いを感じています。南無妙法蓮華経は宇宙の根源の法だと説きながら、その法を具現した大御本尊を、邪僧の地にあるから受持の対象から外すという。邪僧の地も宇宙の小さな一部なのです。つまり、南無妙法蓮華経の一部なのです。
邪僧の地であるから謗法というような理屈が通るなら、地球上のほとんどの土地が邪宗の地なのですよ。そのようなところは御本尊を奉るに相応しくなく、穢れていると言えるのですか?
そのような言う方は、寛容もなく慈悲もなく、独りよがりで他の異質なものと調和しようとしない醜い心の持ち主です。仏道を目指し、その実現を理想とする仏教の真髄から遠く離反するものです。大聖人は、弱者に寄り添い、病者を篤く励ましたように、その苦しみの渦中にある人と一体となるような優しさと強さで、渦のなかに身を投じたのです。御本尊の慈悲も同じ。邪宗の地にこそ、清浄な宝塔は建つべきなのです。
『西洋史上の見事な果実であるルネサンスは、何よりまず反省から始まった。一千年もの間神さまの教えのとおりに生きてきたが、あれで良かったのだろうか、という疑いを抱いたことから始まったのである。華麗な絵画彫刻や地球を一つにしてしまった大航海は、その反省の後で新しい生き方を求めた人々による成果である』(「文藝春秋3月号」一神教と多神教:塩野七生)
反省とは自己批判。創価の大幹部は自己批判能力が欠如しています。
「阿仏房御書」の結論で、先生は次のように講義しています。
『七宝に輝く宝塔とは、本来の自分自身の屹立した姿そのものです。わが身は荘厳なる宝塔です。
大聖人は「宝塔即一切衆生・一切衆生即南無妙法蓮華経の全体なり」と教えてくださっています。
わが身に宝塔を見、わが友に宝塔を見る。そして、この宝塔また宝塔の林立で、わが地域を荘厳していくのです。地球を荘厳していくのです。(中略)
皆さま一人一人が、この地球上に宝塔の林立を築いていく使命を持った広宣流布の勇者です』
広布の大航海に旅立とう。どの地にも宝塔は林立するのであり、創価ルネサンスとは、謗法の地にこそ、困難な地にこそ、闘諍の地にこそ、妙法の旗印をたなびかせることなのです。





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