自分のことをエリートだと思うのは、本当にすごいことを成し遂げてからにしませんか

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お疲れ様です。編集者・ライターをしております、朽木です。

僕にはかねがね疑問に思うことがあるのですが、エリートっていったい誰のことなんでしょう。辞書や資料に当たってみると、一定の職業やキャリアなどを指すことが多いようです。医者や弁護士、東大生などがいわゆるエリートかと思われます。

では、このような一定の職業や学歴がなぜエリート、フランス語で「選ばれた優れた人」と呼ばれるのでしょう。

みなさんは自分をエリートだと思っているかもしれません。もしそうなら、あなたは今、国を動かせますか。あるいは世界を変えられますか。

前例がないわけではありません。孫正義さんがカリフォルニア大学バークレー校経済学部在学中に、シャープに自動翻訳機を売り込んで得た資金1億円を元手に、アメリカでソフトウェア開発会社を設立したのは22歳のときのことです。

「学生だから」「新卒だから」は言い訳にならないのです。今この瞬間に国を動かすこと、世界を変えることができないなら、あなたが自分をエリートだと思う自信の根拠はなんですか。

僕は現在編集者・ライターをしていますが、大学は医学部を卒業しました。医者にならなかったことで他人からバカだなんだと言われがちな僕には、自分をエリートだと思っているあなたに伝えられることがあるかも知れない。

なんてことを思ったので、興味があればお時間を頂けますと幸いです。

著者:朽木 誠一郎
Web制作、Webプロモーションを主軸に、企画のTVドラマ化やゲストハウスの運営など、多方面で活躍する株式会社LIGの編集長。国立大学医学部を卒業後、周囲の反対を押し切って医療とは全く無関係な業界へ。現在クリエイターとして活躍するアウトエリートの先人。

他人を見下すことで得られるプライドとあまりにも窮屈な世界

あらかじめ断っておくと、僕は自分のことをエリートだと思って生きてきました。

物心ついた時から親に「将来は医者か弁護士」と言われて育ち、近所の友達と遊ぶのも「あの子の親は三流私大」と制限されるような、今思うとおそろしく偏った教育方針のもとで育ったため、選民思想に疑いを持つ機会もなかったのです。

当然ですが親は僕の職業が気にくわないようで、卒業からしばらく経った今でも「貧乏になるぞ」「女にモテなくなるぞ」と言った脅迫文のような手紙が届きます。40代における医者とそれ以外の年収比較表が届いた時は、さすがに呆れました。

安定した高収入で社会的な地位も名誉もある医者という生き方を選ばなかった理由はたったひとつで、僕はそんなふうに他人を見下してプライドを得るような窮屈な人生を送りたくはなかったのです。

いつの間にか正当化された他人を見下す思考

エリートと呼ばれる人の中にいて、エリートと呼ばれる人の競争を繰り返していくうちに、いつの間にか頭の中で考えてしまう次のようなことがありませんか。

「努力しないヤツらは下らない」
「だからあいつらより頑張った俺はスゴイ」

これが学歴とか職業による差別の根本にある発想だと思います。しかし、一度立ち止まってみてほしいのですが、努力したり頑張ったりはそれ自体がすごいわけではありません。

努力した結果、本当にすごいことを成し遂げたらすごいのです。もし結果でなく頑張り自体がすごいのなら、そもそも他人を下に見る必要はありません。みんなすごい、でいいじゃありませんか。

でも、みんな比べたがります。もしかしたら、比べていないと不安なのかもしれません。本当にすごいことを成し遂げられる保証がないから。

こういう思考はエリートの集団においては正当化されがちです。学校教育しかり、集団をうまく機能させようとするなら、相対評価を軸に仮想敵を設定するのが一番効率的でしょう。

ただし、それって結局踊らされているだけなのではないでしょうか。自分よりもより上位の、エリートと呼ばれる人たちに。

自分自身の内側に根拠のないプライドの脆さ

当時の僕、あるいは僕の親みたいな人が持ってしまっているのは、「狭いコミュニティの中での相対評価」に根ざしたプライドです。

これってつまり、自分ではない他の誰かが決めていることになりますから、ひどく脆いものではないかと僕は思います。

日本最難関の東大医学部であれ、世界的に見ればハーバード大学医学部には及ばない、かもしれない(一意的に言えることではないでしょうけれど)。このように、相対評価にもとづいて何かを見下す姿勢というのは井の中の蛙とさして違いがありません。

俯瞰するエリートをさらに俯瞰するエリート。このような構図では、誰も幸せにならないのではないかと僕は思ってしまうのです。

実際のビジネスの現場に立って思うことですが、何かをしようとするときの「○○から褒められるように」「○○に怒られないように」という発想は、いざコミュニティの外に出たときにすごく折れやすいものです。

なにしろ上司や先輩、あるいはライバルである同僚の先にはプロダクトがあって、さらにその先にユーザやお客様という圧倒的な他人がいます。このような存在にとっては、あなたのキャリアは関係ありません。問われるのはプロダクトの是非だけです。

これまで自分をチヤホヤしてくれたコミュニティから離れた時、負けるのはごく普通のことです。だから、プライドの根拠を他人の評価に求めるのは結構危うい行為なんじゃないかと思うんです。

誰の役にも立たない中途半端な現状にのぼせる気持ち悪さ

例えば「医学生だからモテる」「医学生だから家庭教師の時給3万円」みたいな立ち位置とは、つまりそのうち医者になるという将来性への期待なんだろうと理解できます。

エリートという存在は“他者より高い経験と責任を発揮して国家の統治や一般大衆への指導をすることが期待されており、社会的な分業体制の一端”とされることもあるようです。

でも、医学生だった当時の僕は、少なくともチヤホヤしてくる人たちに対して特になんの価値も提供してないはずです。にも関わらず、中途半端な、それ自体では誰の役にも立っていない医学生という属性を褒められる。

本当にすごいことは何一つ成し遂げていないのに、やがて調子に乗って他人を見下す。僕はそれを気持ち悪いと思うようになりました。

自分をエリートだと思っている人、そして他人を見下している人に考えてみてほしいのは、あなたがチヤホヤされていること、あるいは「選ばれた優れた人」を自認していることに根拠はありますか、ということです。

そして本当のエリートとは、そもそも周囲の評価が気にならないために、自分をエリートだとも思っていないような気がします。本当にすごいことを成し遂げることに、おそらく不安も抱かないでしょう。

もしかしたら、あなたが自分をエリートだと思っている時点で、国を動かしたり、世界を変えたりと言った「本当にすごいこと」の実現は不可能なのかもしれません。

視点を変えてみて今分かること

僕は今、かつての自分や、今なお相対評価のラットレースを繰り返すエリートと呼ばれる人たちを、少しだけ客観視できるようになったかもしれないと思っています。

狭いコミュニティの中での評価を競争すると相対評価になってしまう。その相対評価の結果にのぼせれば、なんだか自分がスゴイ人間になったような気分になってしまう。

期待されているのは自分の将来性なのに、すでに何か「すごいことを成し遂げた」ような気分になることができてしまう。

このような構造上の欠陥は、おそらく人としての成長をものすごく阻害するような気がします。そもそもこのラットレースは、あくまで狭いコミュニティの秩序維持のためのもので、どれほど努力しても頑張っても本当の意味でのエリートにはなれない。

そしてそこに他人の幸せという概念が存在しないからです。

人間が社会生活を営む以上、他人と関わることは不可避になります。実際にサービスや製品を生み出し、それを誰かに届けようとした時に、自分の幸せだけを考えていたのでは、そのプロダクトが受け入れられることはないでしょう。

なので、ちょっとだけそこから意識か、または物理的な距離を置いて客観視してみるといいんじゃないかなと僕は思うんです。自分の立ち位置を変えてみるだけで、職業や学歴ではなく色んな他人が見えてきます。

圧倒的な他人をも幸せにすること、それはある意味でエリートという言葉の原義にもそうことです。

生き方なんて結局 自己満足

自分の評価のためだけに頑張る人と、他人の幸せのことも考えられる人。別にどっちが良いも悪いもないと思います。

結局、生き方なんて自己満足以外の何ものでもないのです。

でも、願わくば、これを読んでいただいたみなさまには「自分だけじゃない他の誰かを幸せにする仕事」をしてもらえたらいい、なんてことを思います。

自分だけが幸せになるより、みんなが幸せになった方が幸せじゃないですか。

これを当たり前だと笑い飛ばせる人は、本当のエリートかもしれません。でも、こんなバカみたいなことにすら気づけていなかったあなたは、窮屈な世界からちょっとだけ顔を出してみるのもいいかも知れません。

ライティングの仕事に出会えたことに心から感謝してる僕みたいに。

僕は自分がエリートではなかったことに気づいてしまったけれど、それですごく面白いものに出会えたし、今 気持よく笑えていますから。

アウトエリート編集部

アウトエリート編集部

若き異端児達の“自”論展開メディア「アウトエリート」編集部。ちょっとした瞬間や毎日の生活の中で役に立つ…かもしれない知的な情報を上手いこと編集して流していきます。

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