[アイカツ!]『薄紅デイトリッパー』という衝撃 (およびサンプリングミュージックとしての音頭・00年代以降のバンドサウンドについて)
- 2014/12/31
- 14:35
(作曲・編曲:fu_mou 作詞:オノダヒロユキ)
(『紅白アイカツ合戦』アーカイブ)
昨日(12/30)放送の番組『紅白アイカツ合戦』にて、DCD(データカードダス)次シリーズにて公開予定の新曲『薄紅デイトリッパー』のショートバージョンが解禁されました。
この楽曲は、いちアイカツ!楽曲として優れているのみではなく、00年代以降のバンドサウンド傾向に関する批評性と、日本のトライバルダンスミュージックとしての音頭に対する深い理解のもとに作られた途轍もない名曲だと確信しました。
この記事は、『薄紅デイトリッパー』を構成する要素について段階的に分析しようと試みるものです。
◇概要(2000年代中盤以降のバンドサウンド・および“踊るロック”の陳腐化について)
楽曲そのものに触れる前に、まずは「00年代以降のバンドサウンドにおける“踊れる”ビート」について概観しておかなくてはなりません。この要素への考察なくして、『薄紅デイトリッパー』の革新性を語ることは不可能だからです。
まずは、この楽曲を聴いていただきましょう。
アークティック・モンキーズの2ndアルバム『Favourite Worst Nightmare (2007年)』は、日本で共有されている“踊るロック(のちにタワーレコードのキャンペーンで付与される名称)”の概念を理解するために恰好の作品です。
リードトラック“Brianstorm”を一聴しただけで、「デッッデッッデッ デッッデッッデッ」という一定のビート(Fig.1)が使われていることに気付くでしょう。このビートは同アルバムの中でも繰り返し使われています(D Is For Dangerousなど)。本文内ではこれを“ブライアンビート”として仮称します。
この“ブライアンビート”がいかに急速にシーンに浸透したか、についてはこちらの曲たちを聴いていただければ明白でしょう。(*1 *2 *3)
殊に日本のインディーバンドにおいて“ブライアンビート”は親しまれました。それは「アレックス・ターナーのいないアークティック・モンキーズ」を自称するThe Mirraz が当該ビートを多様していることからも明白です。
(その一方で本家アークティック・モンキーズは、ジョシュ・オムのプロデュースのもと、今までにはなかったトリプレットのビートやザラついたサウンドプロダクションを導入して3rdアルバム『Humbug』を完成させるのですが、それはまた別の話)
ともあれ、ここで踏まえておかなくてはならないのは、 「“ブライアンビート”の浸透に伴い、“踊るロック”・あるいはバンドサウンドそのものが急速に陳腐化してしまった」という事実です。
先に挙げた多数のバンドを聴けばわかる通り、「デッッデッッデッ」というブライアンビートは「とりあえず使っておけば踊れる」ような安易なクリシェに堕してしまったのです。日本のロックバンドのビートに対する意識の欠如は、現在でも拭い去りがたい病巣として残ったままである、というのが私見です。
◇『薄紅デイトリッパー』影響元の分析
さて、『紅白アイカツ合戦』でお披露目されるとともに、『薄紅デイトリッパー』はとある既存楽曲との類似性を指摘されました。ボーカロイド楽曲『千本桜 (2011年)』です。
『千本桜』を聴いていただければ、もうイントロから「デッッデッッデッ デッッデッッデッ」式のビート(ブライアンビート)の影響下にあることがわかります。『薄紅デイトリッパー』でもイントロの一小節にブライアンビートが導入されていますし、この二曲は比較を避けられないものでしょう。
しかし『薄紅デイトリッパー』は、『千本桜』より以前に発表された楽曲に影響の源流を持っています。
1970年発表の楽曲『二十一世紀音頭(歌唱:佐良直美)』です。
一聴していただければ、『薄紅~』のBメロは『二十一世紀音頭』の引用ともいうべきフレーズになっていることに気付くはずです。
では、『薄紅~』は過去の楽曲を都合よく引用しただけの曲なのか? そうではありません。むしろ、過去のいくつもの既存楽曲・既存ジャンルの文脈を取り入れることにより、『薄紅~』は単独で豊かな情報量を獲得しています。それを分析するには、「サンプリングミュージックとしての音頭」という文脈を理解する必要があるでしょう。
◇サンプリングミュージックとしての音頭
ここで、タマフルでの音頭特集『音頭ディスコNIGHT特集』における、音楽ライター大石始氏の“東京音頭”への言及を参照してみましょう。
(以下引用)
大石始(以下大)「実はこの“東京音頭”、元ネタがあるんですよ」
宇多丸(以下宇)「元ネタ!?」
大「一番オリジナルは、昭和八年(1933年)の、小唄勝太郎さんが歌ったバージョンがオリジナルとされてるんですけど、その前の昭和七年に、丸の内音頭っていうのがあるんですね。それは丸の内界隈の商店街の方が、お客さんがですね、銀座に流れてしまって。これは盛り上げないとマズいぞっていうので、日比谷公園で盆踊り大会を企画したんです。そのときに作られたのが丸の内音頭」
宇「じゃあ、(東京音頭は)最初は丸の内音頭だった? メロとか同じなんですか?」
大「まったく一緒なんです」
宇「へぇ~」
大「歌詞だけが、翌年に“東京音頭”として出たときに少し変えてリリースされたと。(略)“東京音頭”の「チャンカチャンカチャンカチャンカチャンカ」ってイントロは、あれもまた元ネタがあってですね」
宇「別にあるんですか!?」
大「あるんです。“鹿児島おはら節”っていう民謡があって、それが当時ブレイクしていたヒット民謡だったと」
宇「売れてる曲なんですか! あまり知らない曲からパクってきたんじゃなくて?」
大「売れてる曲・流行ってる曲をイントロに入れて。なおかつ、その出だしの「ハァーッ」って歌い出しありますけど、あれもオリジナルシンガーである小唄勝太郎さんが同じ年にヒットさせていた“島の娘”という曲があるんですけど。それのフレーズを引っ張ってきてるんですね」
宇「はぁ~っ……サンプリングっていうか、マッシュアップっていうか」
大「当時流行っていた曲を繋げあわせて、「こんなの売れないわけない」的な曲なんですよ」
宇「その発想が当時からあったんですね。当時聴いてる人はその文脈をすべてわかって聴いてたわけですね」
大「そうですね。だから“東京音頭”っていうと、たとえば伝統的な音頭って思うかもしれないんですけど、そんなことなくて。たかだか80年前の流行歌を繋ぎあわせて作られた、マッシュアップした曲だと。それが80年後も踊られてるっていうのが素晴らしいですね」
(引用終わり)
上述の大石氏の文脈を踏まえると、日本の“音頭”というトライバルダンスミュージックは、当時の流行を敏感に取り入れたサンプリングによって成り立っていたということになります。
ここで、『薄紅デイトリッパー』の話に戻りましょう。
『薄紅~』は、00年代中盤からの「間違いなく踊れるビート」こと“ブライアンビート”を継ぎ、及び十代に絶大な人気を誇るボーカロイド楽曲『千本桜』と類似した楽曲でもあることを確認しました。さらに『二十一世紀音頭』からの引用までも含んでいるという、まさに多様なサンプリングの集積のような楽曲なわけです。
そう、『薄紅デイトリッパー』は、まさに前世紀におけるサンプリングミュージックとしての音頭の様式をアイドルソングに適用した、真の意味で“音頭”を再現せしめた楽曲だと言えるわけです。
では、『薄紅~』のサンプリングの元ネタがいかにして活用されているのか? 次の項目ではそれらを詳らかにしていきます。
◇『薄紅デイトリッパー』楽曲構成の妙
『薄紅~』は、Aメロ・Bメロ・サビという歌謡曲の様式に沿っています。
この曲が出色しているのは、その同セクション内における色分けの見事さ(主にビートの使い分けによる)です。簡易な構成表を用意したのでご覧下さい。
注目すべきは、イントロからAメロに入る瞬間の露骨な「落ち」のビートです。
イントロの二小節でブライアンビートのキメが入った直後、Aメロではドラムスが(ほとんど)不在の、しっとりとした雰囲気に変わります。「絶好の旅日和ね」のパートでドラムスが入るまでは、ピアノとボーカルが支配するだけの粛々としたサウンドです。
この点を『千本桜』の構成と比較してみても面白いでしょう。『千本桜』はイントロのノリのままAメロでもドラムスがアップなビートを刻んでいるのに対し、『薄紅デイトリッパー』はあえてビートが落とされ、楽曲全体の抑揚が付けられています。
さて、注目すべきはBメロです。
直前のAメロでのビートがハーフになり、ここで前述の『二十一世紀音頭』からのサンプリングフレーズが歌われるわけです。ビートが控えめになった分、ボーカルが優美に響く構成になっていることは言うまでもありません。
ところが、Bメロの後半(「しゃなり しゃなり」)ではビートが一変します。ハーフビートで抑えめだった曲調に、ここで唐突にブライアンビートが入るわけです。
この瞬間に「音頭=サンプリングミュージック」としての様式の妙味が凝縮されています。なぜなら、ここでまさに「1:日本のトライバルダンスミュージック=音頭からの引用フレーズ」と「2:近代のポップミュージック=踊るロック・ボカロからの引用ビート」という二つの要素が結合されるからです。
「しゃなり しゃなり」からのパートを聴いていただければ、『二十一世紀音頭』のボーカルとブライアンビートが完全に調和していることがわかるでしょう。このふたつの要素をひとつの楽曲の中で両立させてみせたことに『薄紅デイトリッパー』の真のオリジナリティがあるのです。Bメロの初めでハーフビートにしていたぶん、この両要素のマッシュアップがより鮮やかに際立ちます。イントロからBメロまでの曲の流れは、すべてこの瞬間のために演出されていたと言っても過言ではないのです。
そんな絶妙の編曲によって突入するサビは、スネアの頭打ちとブライアンビートのキメによってただごとではない高揚感を伴っています。メロディ自体の美しさもありますが、それ以上に歌詞の意味性が多くを担っていると言えるでしょう。
◇歌詞(行きて帰りしあこがれ)のお話
ここまで『薄紅デイトリッパー』の編曲の見事さを分析してきましたが、ここから歌詞に言及していきたいと思います。じつは自分がこの記事で強調しておきたかったのは、この歌詞の完成度なのです。
まず確認しておきたいのは、この曲は2015年3弾のDCDにおいて“藤原みやび”(新ブランド『桜色花伝』のドレスを擁するアイドル)の持ち曲として歌われる、ということです。
アイカツ!では、前シリーズで“紅林珠璃”という、日本人とスペイン人とのハーフであるアイドルが登場しました。楽曲『Passion flower』も、タンゴの要素を色濃く含んだ見事な楽曲でした。
その流れで和装アイドル・藤原みやびが登場するという点に、アイカツ!のバランス感覚の絶妙さが表れています。前シリーズで外国の文化に目を向けさせた後で、はじめて和装アイドルという藤原みやびの存在が際立つのです。ここでの「和風」は「誇るべき我が国の風土」というような薄っぺらなものではなく、言わば多くの選択肢の中の一つ、万国旗の中の一枚としての日本、というフェアな意味性が付与されています。
たとえば「大和撫子」という言葉は、言ってしまえば「父権的社会が要請する窮屈な女性のありかた」とでも換言されかねないもので、それはアイカツ!の打ち出してきたメッセージと相容れるものではありません。
では、『薄紅デイトリッパー』で歌われている「大和撫子」とはどんな存在か? それは『オリジナルスター』『SHINING LINE*』で歌われているような、能動的に勝ち取るべき未来の自分として対象化されているものです。
それはBメロまでの歌詞に顕われています。
「木漏れ日の翠の光で目を覚ましたら
ここは…訪れたかったトコ
絶好の旅日和ね 高まる気持ち
今日の旅 満喫しましょう
しっとり はんなり
古都の町並みは美しいな
ずっと色褪せない景色なの
しゃなり しゃなり
着物姿の舞妓さんキレイだな
いーな あんな風に染まりたい!」
この歌詞だけで、『薄紅デイトリッパー』の主人公は「古都や舞妓さんのようなノスタルジックな世界に憧れていて、目を覚ましたらその中に迷い込んでいた」という状況にいるとわかります。不思議の国のアリスのような、突如として異世界に入り込んだ少女の姿がここで提示されます。
日常を脱してあこがれの世界に飛び込む、という状況はそのままアイカツ!のスターライト学園に象徴されるようなアイドル観にも繋がりますが、『薄紅デイトリッパー』の歌詞が特異なのは、ひとえにその歌詞の一回性にあります。
デイトリッパー=日帰り旅行客(ドラッグでトリップする人、との含意もある)というモチーフによって、ファンタジーの古都は少女が能動的に体験するものとして客体化されています。「いーな あんな風に染まりたい!」という一節には、まだ何者でもない少女の姿(初代OP曲『Signalize!』で歌われていたような)が克明に描かれています。
あこがれ(古都のような古き良き日本)の客体化、という様式を踏まえたことで、『薄紅デイトリッパー』の歌詞は非常に豊かな意味を獲得しています。
「古き良き日本人でありなさい」として、生得的な人種的ルーツをもって大和撫子という在り方を押し付けるのは簡単です。しかし、それはアイカツ!がシリーズを通して描いてきた「自らの意志で自らの役割を選び取る」という主旨に悖るものです。
そこで『薄紅デイトリッパー』は、古き良き日本像を「既にあるもの」としてではなく、「客体として対峙し、体験するもの」として位置づけたのです。これによって、詞の主人公の少女は「未知の世界としての日本を満喫し、その中で自分自身の姿を見出す(タランティーノの映画を観て深作欣二を知るようなもの)」という“再発見”のカタルシスがもたらされました。
そして、サビではどのように感情が動くのか。
「カワイイだけじゃだめですね おしとやかさも必要ね
そして優しさと強さを あわせ持ったあの花のように
ニッポンの女の子なら ヤマトナデシコを目指すの
ずっと咲かせたい乙女心よ!」
ともすれば国粋主義的に響きかねない「ニッポンの女の子なら ヤマトナデシコを目指すの」という歌詞も、前述の客体化されたあこがれの様式を踏まえると、「あこがれの世界を体験し、魅力を再発見し、その中で自分のあるべき姿を見出した」という達成のプロセスへと導かれるわけです。
ここで、映画『ヤング・ゼネレーション』でイタリアかぶれの主人公デイヴが自転車レースを通して自分の在り方を獲得したことを思い出してもいいし、あるいは『パンズ・ラビリンス』の主人公オフェリアが試練を通過して地下の世界へと迎え入れられた結末を思い出してもいいでしょう。そこには「たとえ現実でなくても、自分のあるべき姿を選ぶ」という、虚でも実でもない、ファンタジーであるからこその成長があるのです。
また、現在シーズン3が放送中であるアイカツ!では既に多様な女の子のありかたが描かれているので、いま和装ブランドを出しても“多くの選択肢の一つ”として提示できる、という勝ち目があります。大文字の「祖国」として無条件に尊ばれるべき姿ではなく、一つの選択肢というフェアな立場で日本の文化を提示できる。それはもちろん紅花珠璃に象徴される“他国の文化にも目を向けよう”という視野があってこそなのです。
◇結び
個人的な愚痴めいたことを書きますが、昨今はテレビをつけると「外国人にインタビューして無理矢理に日本の美点を言わせる」「外国人を馬鹿扱いして日本人が馬鹿騒ぎする」というような見下げ果てた内容のバラエティ番組ばかりで、心底嫌気がさしていました。
アイカツ!で和装ブランドが出ると聞いたときは楽しみでもありましたが、「現在のそういう潮流に乗っかった感じだったらやだな……」という不安もありました。しかし、今回提示された楽曲『薄紅デイトリッパー』の出来映えひとつでそれが杞憂だったと思わされました。楽曲と歌詞だけでここまで豊かな意味性を持たせられるのに、本編で藤原みやびちゃんが登場するエピソードはどれほど素晴らしいものになるのか、と考えると恐ろしいほどです。
前回の記事で、私は「アイカツ!がスタートレックのような存在になってほしい(性差別も人種差別もない成熟した社会の理想型を提示する存在であってほしい)」と書きましたが、今回もまたアイカツ!のポテンシャルの確かさを思い知らされた形でした。
最後に『薄紅デイトリッパー』作曲者fu_mou氏のツイートを引用して終わろうと思います。
アイカツ!に関われた事は本当に本当に、今年一番嬉しいニュースでした。放送開始当初からずっと見てきて、今や一番好きな作品です。”薄紅デイトリッパー”、作編曲fu_mou、作詞はお馴染みオノダヒロユキ先生です!改めてよろしくお願いします!
— fu_mou (@fu_mou) 2014, 12月 30ここで伝わるのは、シーズン2あたりまでは多くの作家が手探りで“アイカツ!的なるもの”を造り出してきたのに対し、“アイカツ!的なるもの”が確かなものになったシーズン3以降はそれゆえに自由な作品が提示可能になった、という状況です。今後は楽曲・お話ともに新しいスタッフの血を取り入れつつ“アイカツ!的なるもの”が更新されてゆくのだと思うと尊さしかありません。
トライバルダンスミュージックとしての音頭の様式を継いだ『薄紅デイトリッパー』は、そんな新しいアイカツ!性を印象づけるものとして在り続けるのでしょう。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
来年も良いお年を。