質オザサ店主ブログ

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大和川付替から310年が過ぎて

2014-01-07 | 古代史のミステリー
大阪市と堺市の境に大和川が流れています。
今当たり前の地理が、歴史を見えなくさせる。

去年暮れに訪れた開口(あぐち)神社は和泉の国で、5(日曜)参拝した菅原神社は摂津の国、
大小路が境界となり北庄と南庄に分かれそれぞれの鎮守の神様だった。
堺の旧市街のど真ん中で境界あったのが不思議な気がした。





江戸時代の元禄から宝永に変わった時代、1704年大和川は西へと流れを変えた。
確かに中高の日本史で河村瑞軒、大和川付替工事とか習った気がする。




かつて住吉大社がある住吉津と堺の浜は、大和川で分断されてなかったのですね。
玉出あたりの粉浜という地名は小浜から来てるのかもと思ってた。
安曇イソラを奉じる?大浜と小浜っていう海の民だかがいましたよね?
堺に大浜があり対になっている?




この地図を見て納得できたことがあります
菅原神社でいただいた由緒略記に、戎島というのがでてくるからです。

大和川の付け替えにより、川の水が運んでくる土砂の堆積により、
堺の海港は機能しなくなって行くようです。
これにより中世の堺の繁栄は終わるのです。

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4 コメント

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Unknown (TM)
2014-01-07 23:10:56
河川は歴史を知っているという感じがしますね。
自然の力や人間の力で、川は流れを変えたり消えたりし、それにともなって町や産業が栄えたり衰えたりするんですね。
私の住んでいる地域には、江戸時代の運河が多いのですが、多くが埋め立てられて道路や公園になりました。でも昔掘割や川があった証のような史跡が、街角にポツンと残っていたりします。最近はそんな町歩きが楽しみです。
TMさんへ (ulala)
2014-01-08 20:11:58
1年前のお正月あけに淀川堤防を歩いた時、淀川が流れを変えていたことを知りました。
今年のお正月は大和川の変遷。

今を生きる人にとっては、現在の地形がそのまま認識されるのは当たり前のことながら…。
川の付け替えに村が分断されたりいろいろ問題あったそうです。

この大和川の場合は川床がすでに高くなった天井川うえ氾濫起こしてた。
それで明治以降鉄道を敷くのにもってこいだったそうです。
かつての大和川はJR関西線や近鉄線の一部になっています。
つながってきた… (DIVA)
2014-01-09 00:08:06
自転車で堺の大道筋を北上、大和川を渡り「安立」「あられ松原」を過ぎ「住吉大社」へゆくと、太古の海べりをずぅ〜っと走る実感があります。

この安立町は『一寸法師』の町。かつて、針の行商人が多く住んでいたからとも言われます。 

一寸法師は少彦名。この少彦名を祭る薬祖神社(菅原神社摂社)が、海岸線で一筋につながるのに気付きました。紀州街道と称される海岸線を、人やものが行ったり来たり… この線上で文化が伝搬していったのでしょうか。

ulalaさまの戎もきっと、何かと何かが繋がっていますよね。知らなかった資料など教えて頂き、興味深いです。何回もコメント欄にお邪魔して申し訳ないのだけれど、身近なテーマなので、もう少しお付き合いさせて下さいね。

なんで堺のここで、戎神社のお祭りやってるの?と疑問でした。えべっさんの日に、いろんな勉強ができて最高♪いつもありがとう♪
DIVAさんへ (ulala)
2014-01-09 15:54:25
安立町、親戚があります。
祖母の姉の嫁ぎ先で、酒屋でした。
子供の頃祖母と一緒によく泊めてもらいました。
うなぎの寝床と言われる商家で、店の奥に中庭があって…。

>一寸法師は少彦名
知らんかった…
子供の頃は安立町がどんな場所かも知りませんでした。
ただすみよっさんがすぐ近くで歩いて行けたということぐらいの認識だった。

薬祖神社は道修町の少彦名神社よりもうんと歴史が長いそうです。
菅原神社の続きで書きますので見てくださいね。
コメント投稿も大歓迎、どうぞよろしくお願いします。

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