ゼミ等の小集団教育では
むしろ自由な意見を言えない「空気」も
文科省は「道徳必修化が価値観の押しつけになる」等の批判があることは承知している。子ども同士の議論を通じた「問題解決学習」や寸劇などの「体験学習」を採り入れることで、道徳の授業で、多様なものの見方が反映されるよう配慮するとしている。だが、ここにも落とし穴があるのである。
筆者は、大学で各学年の小集団科目(ゼミナール)を何度も担当してきた(第88回を参照のこと)。その経験を通して気づいたことの1つは、日本では、小集団で議論すれば多様な意見が出てくるとは限らないということだった。
小集団で学生に議論をさせると、まずお互いにどんな意見を持っているか探り合うところから始まる。彼らは、集団の多数派の意見から外れてしまわないように、慎重に、小出しに意見を出し始める。他の数名の学生が、自分と少し違う意見を述べると、即座に先に述べた自分の意見を微妙に修正していく。そのうち、議論は1つの方向に収斂していき、反対意見は一切なくなっていくのだ。
小集団で議論をさせて、意見が決定的に対立して、収拾がつかなくなるという場面はほとんどなかった。なにより驚いたのは、たまに強い意見を持って多数派と対立した学生がいた時、授業のアシスタントの大学院生が悩んで、「みんなに合わせない学生がいるのですが、どうしたらいいでしょうか」と聞いてきたことだった。
筆者は、「別に意見が1つに収斂される必要はない」と大学院生を諭した。そして、この状況を変えるために、あえて議論に介入して、少数意見に同調してみるなど、学生が多様な意見を自由に出せるようにさまざまな工夫をした。
要するに、「みんな同じであること」に敏感な日本人が、お互いに顔を突き合わせる小集団形式で議論をすると、孤立を恐れて、できるだけ同じ意見を言おうとし、異論を言いにくい「空気」が形成されがちになるということだ。小学校の道徳の授業でも、「標準家族」から外れた家庭の子どもや、日本人のアイデンティティを持てない子どもが、彼らの立場からの意見を到底言えない「空気」が教室を支配してしまうことが、容易に想像できる。この空気を打破して、みんなと「同じではない」子どもが自由に意見を入れるようにするには、議論を仕切る教員が相当な力量を持たねばならないだろう。