「ラーベの日記」から窺えるモノ

「ラーベの日記」から推測できる、
当時の南京での安全区の難民及び日本軍の食糧事情
(&「
ぴょん吉郎大権現」さまの醜態)はずっと下の方(日本茶歴史ボードでの椿事を再録)

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「ラーベの日記」に見られる、日本兵の好色ぶりはここから↓↓
(2ちゃんねる国際情勢板に投稿したものを修正して再録)

南京大虐殺の話題が出ると往々にしてリンクが貼り付けられる「虐殺否定の15の論拠+a」というサイトでは、田中正明センセエの著書を引用し、「南京での犠牲者はわずか49人」という主旨の主張をしている。「国際委員会の抗議」は、「ほとんど伝聞ないし噂話によるもの」であり、「これらをすべてクロと認定して」も、「強姦 361件」「殺人わずか49件」であるそうです。
なんつーか、それじゃ最近の歌舞伎町よか治安いいんじゃない(笑)
確かに、南京安全区国際委員会のメンバーが直接、強姦や殺人の現場を目撃したという記録は「たったの二件」であるそうだが、
しかし、国際委員会の代表であるジョン・ラーベの日記によると、彼は日本兵の非行を何度となく未然に防いでいたそうである。
日本兵が今まさに強姦・略奪に及ぼうとする直前に、ハーケンクロイツの腕章を突きつけて制止していたのである。
助さん格さんが「この印籠が目に入らぬか」と葵の御門のはいった印籠を悪代官や越後屋に突きつけるが如く、
「このカギ十字が目に入らぬか!」とばかりに日本兵の悪行を阻止していたのである。


ナチスのハーケンクロイツといえばホロコーストの象徴だが、当時の南京では市民の生命を守る救いの手だったわけだ。
繰り返して言うが、ジョン・ラーベの記録は「強姦・殺人の現場をこの目で見た!」というものではない。
「強姦・殺人事件を人から聞いた、死体を(無数に)見た、強姦・略奪を阻止した」というものである。
ジョン・ラーベの記録を根拠にして「南京での市民の被害者数はこんなに多かったんだよん」と言うことはできない。
私のような「自虐史観の徒」(と、いつも言われてます)の想像している、南京での日本兵による被害者は多すぎるのかもしれない。
しかし当時の南京の状況を推測する上で、ジョン・ラーベの残した記録は無視できないのである。
以降は抜粋。


12月16日・・・・・いまこれを書いている間も、日本兵が裏口の扉をこぶしでガンガンたたいている。ボーイが開けないでいると、塀から頭がにゅっとつきでた。小型サーチライトを手に私が出ていくと、サッといなくなる。正面玄関を開けて近づくと、闇にまぎれて路地に消えていった。その側溝にも、この三日というもの、屍がいくつも横たわっているのだ。ぞっとする。
女の人や子どもたちが大ぜい、庭の芝生にうずくまっている。目を大きく見開き、恐怖のあまり口もきけない。そして、互いによりそって体を温めたり、はげましあったりしている。この人たちの最大の希望は、私が「外国の悪魔」日本兵という悪霊を追い払うことなのだ。

12月17日・・・・・二人の日本兵が塀を乗り越えて侵入しようとしていた。
ナチ党のバッチを見せると、そそくさとひきかえして行った。
・・・・・アメリカ人の苦労にひきかえ、私の場合、たいていは「ドイツ人だぞ!」あるいは「ヒトラー」と叫ぶだけでよかった。
すると日本兵はおとなしくなるからだ。

12月18日・・・・・・最高司令官ががくれば治安がよくなるかもしれない。そんな期待を抱いていたが、残念ながらはずれたようだ。それどころか、ますます悪くなっている。塀を乗り越えてやってきた兵士たちを、朝っぱらから追っ払わなければならない有様で。なかの一人が銃剣を抜いて向かってきたが、私を見るとすぐにさやにおさめた。私が家にいるかぎりは、問題はなかった。やつらはヨーロッパ人に対してはまだいくらか敬意を抱いている。だが、中国人に対してはそうではなかった。
・・・・・(発電所復旧の件で相談していた日本軍将校と一緒に)家に着くと、
ちょうど日本兵が一人押し入ろうとしているところだった。すぐに彼は将校に追い払われた。
そのとき近所の中国人が駆け込んできた。妻が暴行されかかっているという。日本兵は全部で4人だということだった。
われわれはただちに駆けつけ、危ないところで取り押さえることができた。
将校はその兵に平手打ちを喰らわせ、それから放免した。
ふたたび家に戻ろうとすると、韓(ジーメンス社南京支店の中国人スタッフ)がやってきた。私の留守に押し入られ、物を取られたという。
・・・・・・(18時)危機一髪。日本兵が二人、塀を乗り越えて入り込んでいた。なかの一人はすでに軍服を脱ぎ捨て、銃剣を放り出し、難民の少女に襲いかかっていた。
私はこいつをただちにつまみ出した。もう一人は、逃げようとして塀をまたいでいたので、軽く突くだけで用が足りた。
・・・・・(ラーベ邸に難民が集まってくる状況について)私の家が一番安全だということになっているらしい。私が家にいるかぎり、確かにそういえるだろう。そのたびに日本兵を追い払うからだ。だが留守のときはけっして安全ではなかった。もらった張り紙はあまり役に立たなかった。兵士たちはほとんど気にしないのだ。

12月19日・・・・・日本兵が6人、塀を乗り越えて庭に入っていた。門扉を内側から開けようとしている。
なかの一人を懐中電灯で照らすと、ピストルを取り出した。
だが、大声で怒鳴りつけ、ハーケンクロイツ腕章を鼻先に突きつけると、すぐにひっこめた。
全員また塀を乗り越えて戻っていくことになった。おまえらにはそれで十分だ。なにも扉を開けてやることはない。

12月23日・・・・・・昨夜、総領事館警察の高玉清親氏来宅。外国人が受けた物的損害の一覧表を作ってもらいたとのこと。
・・・・・・リストの完成を待っているとき、ボーイの張(使用人)が息せききってやってきた。
日本兵が押し入り、私の書斎をひっくり返して、2万3千ドルほど入っている金庫を開けようとしているという。
クレーガーといっしょにかけつけたが、一足違いで逃げられた。金庫は無事だった。どうしても開けられなかったとみえる。
昼食のとき、兵隊が3人。またぞろ塀をよじ登って入ってきたので、どやしつけて追っ払った。おまえらに塀なんかあけてやるものか。クレーガーが、午後の留守番をかってでてくれた。
私が本部にもどる直前、またまた日本兵が、塀を乗り越えようとしていた。今度は6人。今回もやはり塀越しにご退場願った。
思えば、こういう目にあうのもそろそろ20回近くになる。
午後、高玉氏に断固言い渡した。私はこういうウジ虫どもを二度とわが家に踏み込ませない。命がけでドイツの国旗を守ってみせる。
それを聞いても高玉は動じるようすもない。方をすくめ、それで一件落着だ。
「申し訳ないが、警官の数が足りないので、兵隊の乱暴を抑えることができないんですよ。」

1月30日・・・・・午後4時、漢口路で大ぜいの中国人に車を停められた。50人はいる。聞けば女の人が日本兵につれていかれたという。どうか助けてください、とかわるがわる訴えている。葭家巷四号の家に入っていったいったというので、そこまで案内してもらった。
なかに入ると家じゅうくまなく荒らされていた。床一面ありとあらゆる破片で足の踏み場もない。部屋は開け放しで、そのうちの一室には棺桶が安置されており、藁だのガラクタだのが散らばっているとなりの部屋でまさにことが始まろうとしている。間一髪だった。
私はそいつを玄関へひきりだした。大ぜいの中国人と、ハーケンクロイツがついた私の車をみて泡を食ったらしく、やつは近くの瓦礫の中へいずこともなく姿を消した。中国人たちは家の前でなにやらぶつぶついってなかなか帰ろうとしない。こんなところでぐずぐずしていると別の日本兵がやってくるぞと言うと、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。


★★これはちょっち笑い話★★
1月23日・・・・・・・8人も警官を引き連れて、高玉が事務所に訪ねてきた。いやに興奮している。二、三日前にアメリカンスクールからピアノが一台盗まれ、アメリカ大使館はワシントンに打電した。さっそく東京から「ただちにピアノを元へ戻すように」との指令がきたのだという。ピアノがどこにあるのかわからないのだが、心当たりはないか。というのだ。どうせとっくに薪にされてしまったのだろう。私はそのままお引き取り願った。そんなことまでいちいちいってくるな!
★★ほのぼのとした逸話だね。ラーベも面食らってるね★★


★★これはおまけ★★
2月10日・・・・・・昨日の夕方、福井氏(日本大使館書記官)が訪ねてきた。昨日、日本大使館で会うことになっていたのだが、うまくいかなかったのだ。なんと、氏は脅しをかけてきた。
「よろしいですか、もし上海で新聞記者に不適切な発言をなさると、日本軍を敵にまわすことになりますよ」
クレーガー(ドイツ人商社マン)は思ったとおりを言った。つまり、日本軍に具合の悪い証言をしたのだ。ロンドンからの長い電報、といっても実は香港からで、クレーガーが書いたということになっているのだが、福井氏はそれを例に出して、クレーガーは日本に悪意を抱いているといった。
「それならどう言えばいいんですか?」私が聞くと福井氏は言った。「ラーベさんの良識に任せます」
「つまり、報道陣にこう言えばいいんですね。南京の状況は日に日に良くなっています。ですから、日本軍兵士の恥ずべき行為についてこれ以上報道しないでください。そんなことをすると、日本人と欧米人の不協和音をますます大きくしてしまうだけですから、と」
すると非常に満足そうな答えが返ってきた。「それでけっこうです!」

田中センセエは、ラーベが「国際委員会を代表して日本軍に送った書簡」を引用し、「国際委員会が日本軍に感謝していた→だから南京で日本軍の行儀はよろしかった」という強引な展開に持ち込んでいるが、実際はこのような裏話がありそうだな。



難民用の食糧さえ狙った日本軍

 

「ぴょん吉郎大権現」さまが日本茶歴史ボードの投稿番号14961にて、トンデもないことを仰った。


>日本軍が20万人分の食事を供給していたという裏づけ事実があるの。
>そして、安全区の代表者であるラーべ自身、それを手伝っている訳。
全く初耳の話なので、私は14964にてソース提示を求めたが、ぴょん吉さまは14970にて
>ノンポリさんは、虫が良すぎるんじゃないの。 
>そもそも、飯を食わずに、20万人以上の人間が、一ヵ月半、生きて往けるのかな。
>ラーべ自身が委員長をしていた南京の安全区国際委員会が、占領直後の日本軍に20万人分の食糧を調達するよう手紙を出していると、「国民の油断」PHP研究所、211頁にある。
などとお茶を濁し、逆にこのような質問を発して煙に撒こうとした。
>ところで、逆にノンポリさんに聞きたいのだが、二十数万人から三十万人もの市民の虐殺が南京であったといえる、根拠は何かを教えて頂きたい。
 私は日本茶歴史ボードでも、2ちゃんねるでも、「南京大虐殺の犠牲者は20万または30万人ぐらい」などと逝ったことはないのだが・・・・
「南京大虐殺否定派」に反論する人間は、全て「20万乃至30万虐殺説」を唱えている、という安易なレッテル貼りには辟易している。
結局ぴょん吉さまは、「安全区に20万ないし25万の難民が収容されていたのだから、20万や30万人も殺せるわけがない!」と主張したかっただけのようである。
そして肝心の、「日本軍による安全区への食糧供給説」についての具体的な説明は無かった。下らないハッタリをかますな!などと罵倒したら罰が当たりますよ(笑) 自ら「大権現」を名乗る方故、常人には伺い知れない精神世界があるのでしょう(w
 無粋にも私はぴょん吉さまの「日本軍による安全区への食糧供給説」の真偽について多少追及してみた(14981以降)が、どうもそのような事実は無いどころか、日本軍はこともあろうに安全区の備蓄の食糧にさえ色目を使っていたようだ。以下はそれらの再録する。

(歴史ボード14982、14983その他から抜粋)
上海から南京に攻め上る道中の日本軍には、食糧が充分では無かったことはよく知られています。いや、当初の計画に無かった急進撃のため、とても満足な食糧補給の準備を行う余裕などなかったのです。食べ物を持たずに山登りに行くようなもんです。「徴発」を行わなければ、中国大陸の真ん中で餓死するしかなかったのです。

たとえば、歩兵第三十六連隊のある兵士は、
「南京追撃戦において、米も副食物も缶詰一個も支給された記憶がないし、私の日記にも一行も記されていない。まして煙草だの甘味料、酒などの嗜好品は上海戦も皆無であった」(山本武「一兵士の従軍記録」より)

と回想しています。そのため、食糧の補給は専ら現地での「徴発」(と言えば聞こえはいいが)に頼ることになったようです。ある兵士の日記にはこのように記されています。

 大寺隆陣中日記
【11月16日】徴発隊として午前7時20分整列。7時に起きたので泡を食って出ていく。途中道を間違えて半道ばかり反対の方向に行く。豚や米、芋の類、徴発する物資たくさんあり、徴発容易。午後2時半東流鎮につく。龍廟鎮から約四里、町に着き宿舎を決めると徴発に忙し、部隊の着くまでに徴発を終える。米、豆腐、小豆、砂糖、豚、芋、野菜など、部隊もまたいろいろ徴発してきた。分隊では豚、野菜、米、鶏、芋などを徴発してきたので、今晩は相当に馳走があった。(「南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち――第十三師団山田支隊兵士の陣中日記」より)

 楽しそうですね。まともに軍から食べ物が支給されるより、食生活が充実しているのでは?
(もちろん、まともに食料を準備していた部隊もあったそうです。西住小次郎中尉という人の部隊は、食料の持ち合わせが充分だったので、絶対に徴発を許さず、たまに見つけると監視の者をつけて返しに行かせたそうです)

「南京戦・閉ざされた記憶を尋ねて・元兵士102人の証言」(松岡環編著、社会評論社)にも同様の回想があります。「・・・・・・この蘇州での戦いは数日で終わったけど、分隊では覚えていられないほど、怪我人や死者が出ました。減った分は、あとから予備兵が補充されました。背嚢はそのまま置きっぱなしにして来たもんで、米もカンパンも持ってなくての。特務隊が半煮えの、できそこないのご飯で作ったおにぎりなんかを、たまに届けてくれたの。だけども食料が来ないので、食べ物はほとんど徴発ですましてました。米とか味噌とか、鶏、豚なんかを徴発していました。夜、中国人の家ん中に入って、鍋を探す者、米探す者、菜っ葉探す者、とそれぞれ役目を決めて、探して来た物を分隊で分けて食べるのさ。住民は皆逃げてしまっていなくなって、ほとんど何も残っていなかったこともあったけど、二ヶ月くらい徴発で食いつないだかの。米がない時もあったけど、菜っ葉なんか食べて食いつなぎました。ずっと物を盗ってすごしたな」(P-350,351

このように南京を目指した日本軍は、「徴発」という名の略奪を続けなければ南京に到達するどころか餓死すら覚悟せねばならぬ状態だったのです。そうやって辿り着いた南京に於いても、一般的な意味での略奪を行う兵士もいたのです。本来、「徴発」は略奪とは違い、その場で現金で清算するか、それが出来なければ「徴発」を行った旨を示す書き送りを残し、後日必ず清算を行わなければならないものです。しかしこの原則は、終戦の日を迎えるまで満足な食糧補給を行えず、一般市民の憎悪の的となっていた中国戦線での日本軍の実情とは乖離したものだったようです。

これは1944年湘桂作戦に従軍した一兵士の回想です。
「徴発、掠奪をガタクルと言った・・・・・掠奪はいかん、物品は必ず金円を支払って調達せよと空命令を出しても、身も心も荒みきった兵隊に通じる筈もなかった。漢口を発つ時、どの部隊も糧秣等は現地調弁せよと命令され、調達物資は必ず、相当金額を支払うこと、金円がない場合は後払い証を発行せよと言われた。こんな馬鹿げた命令をする奴は、第一線の状態がどんな様相を呈しているのか承知していて、腹の中では腕ずくでも、相手を殺してでも徴発すべしと言っているのだ。日本軍の来襲を知り、いち早く避難し、姿をくらましてしまった住民とどうやって売買を交渉し、金を払えというのか」(小平喜一「湘南戦記」)

そして、南京に到着した後も、日本軍は充分な後方からの食糧補給を行ったわけではないようです。
とてもぴょん吉さまが仰ったような、安全区に供給できるほどの余裕など、無かったようです。
第十六師団の中島中将が勝手に師団独自の入城式を挙行した日の、
佐々木少将の日記に、日本軍の食糧事情について窺わせる記載があります。
(12月15日)我が第十六師団の入城式を挙行す、師団が将来城内の警備に当たるのだとゆふものがある。終つて冷酒乾杯。各師団其他種々雑多の各部隊が既に入城していて、街頭には先にも云つた如く兵隊で溢れ、特務兵なんかには如何はしき(いかがわしき?)服装の者が多い、戦闘後軍紀風紀の頽敗(頽廃?)を防ぐため指揮官がしつかりしないと憂うべき事故が頻発する。
城内に於て百万俵以上の南京米を押収する、この米の有る間は後方から精米は補給しないとゆふ、聊か(いささか)癪だが仕方が無い、因に南京米はぼろぼろで飯盒の中から箸では掬へない。(偕行社「南京戦史資料集」P−380)
ってことは、南京市内から押収した米を食い尽すまで、日本本土からの米の輸送は行われない約束だったのでしょうか?

これは第十六師団の六十六連隊第一大隊が、1937年12月12日夜、中華門から光華門にかけての城壁南で約1500人の捕虜を捕らえたときの状況です。
捕虜は第四中隊警備地区洋館内に収容し、周囲に警戒兵を配備し、その食事は捕虜20名を使役し、徴発米を炊さんせしめて支給せり。食事を支給せるは午後10時ごろにして、食に飢えたる彼らは争って貪食せり

「徴発米」というのは、ようするに中国人から取り上げたお米ですね。
それを捕虜になった中国兵に食わせたのですね。
(しかし翌日、彼ら全員を銃剣にて刺し殺すなどして処刑したそうです)

それではジョン・ラーベ著の「南京の真実」に記されている、南京入城後の日本軍を巡る食糧事情について見てみます。
(1937年の)12月13日・・・・・日本軍は10人から20人のグループで行進し、略奪を続けた。それは実際にこの目で見なかったら、とうてい信じられないような光景だった。彼らは窓と店のドアをぶち破り、手当たり次第盗んだ。食料が不足していたからだろう。
ドイツのパン屋、カフェ・キースリングもおそわれた。また、福昌飯店もこじ開けられた。中山賂と太平賂の店もほとんど全部。なかには、獲物を安全に持ち出すため、箱に入れて引きずったり、力車を押収したりする者もいた(110ページ)

うーむ、やはり先立つものはクーニャンより団子ですかね?
大胆不敵にもラーベ邸より食いもんを盗み出そうとした輩もいたそうです。
12月28日・・・・・夜の9時ごろ、日本兵が二人、こっそり裏の塀をよじ登っていた。私が出かけようとしたすきには、やつらはすでに食料貯蔵庫にもぐりこんでいた。私は取り押さえようとした。クレーガーには衛兵を呼びにいってもらった。ところがどうだ、衛兵はドロンをきめこんでいたのだ!クレーガーが私に知らせにきたときには、こっちの二人もあわてて塀を乗り越えて逃げ出していた(152ページ) 

1937年12月15日に日本軍と南京安全区国際委員会で会議が行われたそうですが、その会議の内容を日本側がまとめた議事録を、ラーベは日記に転写しています。その第6項です。
6、委員会によって安全区内に貯蔵された一万担の米は、難民のために使用してもよいが、 我々日本軍にとっても必要である。したがって米を買う許可を求める。(地区の外にある我々の備蓄米に関する回答は要領を得なかった)(112ページ)

難民に米を与えるどころか、安全区委員会の保管している米を日本軍にも分けてくれっ!!ってことですね。しかも日本軍は、安全区の外にある、安全区委員会の管理下にあるはずの備蓄米にも、安全区内に持ち込むことに難色を示していたようですね・・・・・

12月21日には、ラーベら委員会の面々が日本大使館を訪れ直談判を行い、日本軍の行状に対して3点の改善要求を行ったそうです。
1、街をこれ以上焼かないこと
2、統制を失った日本軍の行動をただちに中止させること
3、食糧や石炭の補給のため、ふたたび平穏と秩序がもどるよう、必要な措置をとること
・・・・・・・(日本大使館の領事は)書簡のはじめの2点については軍当局と話し合うと約束してくれた。
だが第3点については、耳を貸さなかった。日本人も食糧不足に悩んでいるので、われわれのことなど知ったことではないというのだろう(134ページ)
南京市民への食糧供給の問題なんて、日本軍にとっちゃ「耳を貸さない」「知ったこっちゃない」ことだったようですね・・・・・

12月26日
・・・・・安全区の20万もの人々の食糧事情はだんだん厳しくなってきた。米はあと一週間しかもたないだろうとスマイスはいっているが、私はそれほど悲観的には見ていない。
米を探して安全区にまわしてくれるよう、何度も軍当局に申請しているのだが、なしのつぶてだ」(146ページ)

確かに、ラーベから日本軍への食糧供給要請はあったようですが、「なしのつぶて」だったのですか・・・

1938年の)1月6日
ばんざい!アメリカ大使館のアリソン、エスピー、マクファディエンの三氏がアメリカの砲艦オアフ号で今日上海から到着した。すでに12月31日に南京を目の前にしていたのだが上陸の許可が下りず、蕪湖で待機していたのだ。アリソン氏はかつて東京で勤務したことがあり、日本語ができる。これで日本の軍当局から米と小麦粉(これは軍が略奪したものだが)が買える。価格は高いが(米一袋約13メキシコドル)、約5万メキシコドル買う事にした。石炭も1万2千メキシコドルぐらい買っておかなくては。難民の蓄えが底をついてきたので早急に手を打つ必要がある」(167ページ)
日本通のアメリカ人の仲介によって、やっと日本軍から米を高値ながら買えることに、喜んでいます。
しかもその米は元々「軍隊が略奪したもの」ということは?まさか日本軍が中国人から略奪した物では・・・・・

以上、「南京の真実」を読んだ限りでは、
ラーベの要請にもかかわらず、日本軍は安全区に食糧を供給するつもりは無かったようです。
それどころか日本軍自体も食糧の確保に苦労していて、
お腹の空いた日本兵は略奪を繰り返したようです。