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【環境学習参考情報】 歴史・文化

西宮津門

番号地図のポイント番号です

概要

西宮の地名の由来は文字通りどこかを拠点として西にある宮というところから名前がついたもので、それは、西宮が入り海だったことにも関係があるようです。

入り海の真ん中には、小さな島がありました。現在の市役所あたりです。入り海には暴れ川の夙川と東川が流れ込み、土砂堆積が進んだ平安末期頃から、この入り海が埋まり始めます。あまりに氾濫する夙川は、鎌倉時代にまっすぐ南に流れるように川筋をつけかえられましたので、その後、入り海は湿地帯となっていきます。

そういったことによって古くから栄えた所の津門は港としての機能を果たせなくなり、新しい港を意味する「今津」が津門の南に築かれます。一方、津門は港町から農村へ変わっていき、かつての繁栄も薄れていくようになりました。

入り海が埋まることによって、人々は漁場を南に求めましたので、海沿いの漁師町が栄え始めました。漁師が奉(たてまつ)る神社の周りも賑やかになってきました。この場所が今の本町あたりで、以前栄えた津門の周りから見た西の「えべっさん」を指して、西にある宮「西宮」というようになったという説が有力です。つまり西宮は、津門の前に広がる湿地帯の向こう側に栄える門前町を指したというわけです。

西宮神社

西宮神社

日本の神は、上から天下るか、海の向こうから水平にやってくるか、このどちらかから現れると考えられています。広田神社の天照大神(アマテラスオオミカミ)は天からですが、「えべっさん」は海の彼方からです。

海に面して古くから栄えた町々の人々は共通して、外からの人やものが入ってくることにオープンで、幸をもたらすのは海の向こうからやってくると信じていました。

では、なぜ「えべっさん」といわれるのでしょうか。「戎(えびす)」は野蛮人の意味として使われていましたが、西国(さいごく)街道を通る雅(みやび)な人たちから見たら、裸同然の漁民がまさに「戎」と写ったようです。「戎」の漁民が奉(たてまつ)る神様だから、「えべっさん」と呼ばれるようになりました。

最初「えべっさん」は、広田神社南宮の敷地に移されました。

平安時代の頃までは、広田が官幣(かんぺい)社として栄えていましたが、平安末期には国家権力の弱まりと同時に、広田神社が衰えました。一方、漁民や商人などの民衆の力が強まると、えべっさんの方が栄えるようになりました。

西宮神社1は平安の昔に始まりましたが、当時、全国へ領布する神札は年間数十万と言われています。神が民衆とつながり、民衆が神に育てられてできあがった神社です。

現在の神殿は三連春日造りで、東棟はえびす大神(蛭児尊(ヒルコソン))、中央は天照大神(アマテラスオオミカミ)と大黒主大神(オオクニヌシノオオカミ)、西棟は須佐之男大神(スサノウノオオカミ)の四祭神です。

それに10社を越える摂社(本社に縁の深い神を祭ってある神社)もあります。

鎌倉時代から室町時代にかけて、神社の周辺に門前町ができ、市場(市庭(いちにわ)町の由来は別項参照)を持った西宮の町へ発展していきました。西宮の旨酒、「お前の浜」の鯛などの産物も、この商業町を有名にさせました。その上、山手を通っていた西国街道が広田神社から南へまっすぐおりて与古道(よこみち)から神社赤門前につくという街道変化もあり、京街道という天下の幹線をも変えるほどにえびす神社が有名になりました。

長い歴史の中には、応安4(1371)年に西宮町が800軒も焼けるような大火もありました。神社が焼失したことも何度かありましたが、その度に元通りに修復され、庶民の根強い信仰に支えられて、毎年全国からの参詣者が100万人を越える賑わいです。

毎月10日が祭日ということは早くから決まっていたようです。戎が商売繁盛の神となってエビス大黒信仰が盛んになるのは、13世紀中頃(鎌倉時代)過ぎからです。

戦国時代、織田信長の家来で、一国を領する大名で荒木摂津守村重(せっつのかみむらしげ)という人がいました。信長の信任は厚かったのですが、信長の側近からは妬(ねた)まれ、好意を寄せたのは境遇が似ていた羽柴(はしば)(豊臣)秀吉だけでした。天正(てんしょう)6(1578)年、反信長同盟が播磨三木で戦を起こしました。これには秀吉が対戦し、信長自身も大坂本願寺で抗戦していたため、信長としては両面戦争の最中で、一生一代の難局だったのです。村重はこの時期、反信長連盟の本願寺連如(れんにょ)の誘いに応じて、謀反(むほん)を起こし、まず、伊丹城、後に尼崎城に立て籠もりました。逆上した信長は西摂の町村などを焼き払いました。西宮も例外ではなく、西宮戎もこの時炎上したそうです。

えべっさんの豆知識

1. 西宮神社の社叢

社叢(しゃそう)は昭和36(1961)年5月12日に県の天然記念物に指定されました。クスノキ、クロガネモチ群落の静かな森です。

境内のおかめ茶屋の中に欅(けやき)の神木があります。ある年の大風で途中から折れてしまいましたが、幹は今でも屋内に残っています。

2. 狛犬

たいていの神社の狛犬(こまいぬ)は、姿上、雄・雌の区別がわかりません。ただ、口を開けた「阿(あ)」が雄、閉じている「吽(うん)」が雌と見分けることになっています。しかしながら、西宮神社の狛犬は、外形からも区別がつきます。なお、南宮社の狛犬は子連れで子どもの狛犬がいます。

3. 荒戎町

荒戎町は、もう一つの戎社、沖ノ荒恵美酒(おきのあらえびす)社が明治5(1872)年まで祀(まつ)られていた地です。沖ノ荒恵美酒社は海岸であったこの地に漁民が祀った戎社だそうです。今は南宮の南、南門のすぐそばに摂社として遷されました。

4. 宮前町

宮前町の「宮前」とは、西宮戎神社(宮)の前に位置することからきた名です。西宮神社の場合、豊臣秀頼(とよとみひでより)が寄進した東大門(通称「赤門」、国重要文化財)が正面と思われていますが、一般の神社の正面は南向きであることが多く、西宮神社も実は本来の正門は、宮前町側の南門であり、東大門は裏門であるとも言われています。

おこしや伝説

蛭子神御輿屋伝説地

本町筋が札場筋と交わるところに「蛭子神(ヒルコシン)御輿屋(おこしや)伝説地」2の石碑があります。この「蛭子神」とは、西宮神社の祭神のえびす様のことです。

『古事記』などによると、水蛭子(ひるこ)(蛭子神)はイザナギ、イザナミの2神から生まれましたが、葦(あし)船に乗せられて海に流されました。そのえびす様を鳴尾の浜の漁師が引き上げたお話は、〈なぎさ街道〉の「えべっさんと鳴尾の伝説」の項で詳しく述べていますが、その後、えびす様が西宮神社へと移動する際、途中で疲れて昼寝をした所だと伝えられているのが、石碑が建っている場所です。

今でも、6月14日には、西宮神社から御神輿(おみこし)が出て、ここで「おこしや祭り」が行われています。この時期がビワのなる季節であることから「ビワ祭り」とも、昔はこの日から浴衣を着るところから「浴衣祭り」ともいわれています。

昼寝をした神様のお尻をひねって起こしたことから、お祭りの日には、女性のお尻をひねる習慣が大正時代まで残っていたようですが、今は問題がありますね。

石在町(宮水と酒)

宮水発祥地の碑

豊富な地下水―神戸市東灘区から西宮市にかけて、地下水が豊富に流れています。

六甲山は山全体が花崗岩(かこうがん)質で出来ており、この地層からほどよい量のミネラル分(カルシウム・カリウム・マグネシウムなど)が水に溶けだしています。その中でも西宮神社の南東(現在の久保町・石在町(いしざいちょう))あたりだけが他の地域と水質が違って「宮水地帯」3と呼ばれています。

江戸時代(1837年)、当時、西宮と魚崎で酒造りをしていた山邑(やまむら)太左右衛門が宮水を発見しました。出来上がった酒が、いつも西宮の方が質が良く、米や杜氏(とうじ)を替えても、やはり西宮の酒の方が美味しかったのです。そこで西宮の水を魚崎に運んで酒造りをしてみたところ、西宮と同じような美味しい酒が出来ました。

明治から大正時代にかけて、西宮港改修工事によって水質が変化したため、宮水地帯が北東に移転、現在は、約30の井戸場に70余りの井戸が掘られています。宮水地帯に流れ込む水量は、推定で年間50〜70万トンで、そのうち約15万トンほどが酒の仕込み用水として使用されています。

鞍掛町(宿場)

幕府は、正徳(しょうとく)元(1711)年に五街道をはじめ主要街道に宿駅を設け、宿泊と人馬による輸送を備えました。西宮宿でも、輸送用の馬25匹、輸送人員25人を常備することが義務づけられました。宿駅に指定されると町は賑わいましたが、公務に関わる宿駅の負担は徐々に拡大し、各宿駅を苦しめました。

西宮宿は、兵庫から5里(約20km)、尼崎城下へ2里弱の位置にあり、また、京都や大坂(阪)からに四国へ通じる街道の交差点でもあり、大いに繁栄しました。

西宮の町は宿駅に関わる「町方」と酒造業地帯の「浜方」から成り立っています。町全体の人口は、資料によりややばらつきはありますが、江戸時代後半で約8千人から6千数百人前後で、家数1千7百軒、町方に属するのはその約30%弱でした。

西宮宿の街道筋には一般旅行客が宿泊する旅館が60軒を越えたほか、主に大名が宿泊する本陣・脇本陣、荷物継ぎ立て義務を取り仕切る問屋場、各種のお触れを掲げる札場(ふだば)などが街道に沿って並んでいました。

市庭町

市庭町(いちにわちょう)4は、まさに市場(いちば)(庭(ば))からきています。宿場から少し離れた広場に決まった日に市が立ちこの場所が今の市庭町だといわれています。

市庭町に市がたったのは、西宮神社が栄え始めた室町時代からのようです。

古来から広田・西宮社の漁民は、他の漁民より強い特権を持っていました。

13〜4世紀になると、西宮の人口が増し、魚を売りに来る人も多くなり、エビスの祭日などには人出がたくさんになりました。よそから西宮の町に魚を持ち込むときは、1人1荷につき銭3文の税金を広田・西宮社に納めなければなりませんでした。西宮の魚屋でも、税を払わなければなりません。よそからの魚売りには、西宮の漁師から魚を買って売る魚商人も出てきました。

また、魚市とか魚の加工もこの町で起こり、捕れた魚などは貴族や神社に納めるほか、京都や奈良で売ることもありました。

西宮は町になりましたが、当時の町民は魚を毎日買える余裕はありませんでした。しかし、貴族や社寺などは10里(約40km)から20里(約80km)かけて、西宮に買い物に来ました。

戸田町(大坂町奉行所の出張所)

平安時代の末期頃、広田神社の南宮や戎社のあった地域すなわち現西宮周辺は「戸田」5と称されていました。

この地域には、近世の尼崎藩領時代の西宮を支配する陣屋(じんや)が置かれて藩士5名が常駐して庶務に当たっていましたが、明和6(1769)年、西宮が、幕府直轄領(天領)になると大坂町奉行所の出張所ともいうべき勤番所に改められました。勤番所には大坂から1か月交代で派遣される与力1名、同心2名の他、飛騨高山から転勤して勤番所内に屋敷を与えられた同心3名と門番の足軽(あしがる)1名が勤務し、敷地は(地付き同心の屋敷を含め)2,100m2 以上(638坪)もありました。

なお、大坂町奉行所から派遣された与力の中には若き日の大塩平八郎もいました。

こうした西宮の政治の中心だった勤番所も、明治になって廃され、跡地には明治23(1890)年に定員850名という三浦座が建てられ、歌舞伎や喜劇が上演されました、しかし上客は大阪・神戸の劇場に向かったので、あまり繁盛しなかったといいます。

寄席の戎座(大正末期に映画館となった)や隣接する花月(与古道町(よこみちちょう))、敷島劇場(今在家(いまざいけ))は庶民には人気があり大衆芸能の中心になりました。また散在していた芸妓(げいぎ)業者を明治40年頃に1カ所に集めた西宮遊郭(ゆうかく)の中心部でありました。

産所町(傀儡師)

傀儡師故跡

えべっさんは西宮から全国に広まって行ったもので、これは、全国を旅した傀儡師(くづつし)の働きによるものです。傀儡師は、西宮神社のお札を売りながら戎信仰を広めていきました。お札を売る前に、えべっさんのありがたさを分かりやすく人形劇で伝えていきました。

そのむかし、西宮の神主に道君房(どうくんぼう)という人がいて、よく神の御心にかなっていました。しかし、彼の死後は海上の風波が強く、人々の難儀となりました。

そこで、百太夫藤原正清(ひゃくだいゆうふじわらのまさきよ)というものに、この難儀を鎮めるように勅命(ちょくめい)が下りました。百太夫は道君房の人形を作り、これを舞わして神の御心を慰めたところ、海が再び穏やかになりました。

さらに、百太夫は、諸国の神々を慰める勅命を受け、胸に箱をかけ人形を舞わしながら国々を巡りました。百太夫は淡路で亡くなり、その技芸を伝えたのが淡路座の人形浄瑠璃(じょうるり)の起こりです。

平安中期頃、操り人形を遣い諸国を回って生活をしていた傀儡師集団が登場し、その一団が室町初期頃からこの地に根づきました。門前市場が発達してきた戎社の護符(ごふ)(神仏の御礼(おふだ))を諸国に領布する手段として木偶(でく)(人形)を用いました。

この集団は夷舁(えびすかき)・夷舞(えびすま)い、また江戸では山猫などと称されました。

この活動があって戎社もこの頃から本社(広田神社)をしのぐ急激な発展をしました。裏方的な役割をした散所(さんじょ)(産所町(さんしょちょう)6の人々の功績はとても大きいものでした。

六湛寺・海清寺

「西宮のへそ」ともいうべき六湛寺町(ろくたんじちょう)7。市役所や市民会館のあるあたりが六湛寺町ですが、今は「六湛寺」という寺はありません。

かつでは5つの塔頭を持つ大寺で海清寺(かいせいじ)とともに臨済(りんざい)宗の寺町として有名でしたが、明治3年(約130年前)に廃寺となりました。しかし、その勢力の大きさから地名は残ったのです。

六湛寺の歴史

鎌倉時代、武士から厚い信仰を得たのが、禅宗でした。鎌倉時代の終わり頃から南北朝時代にかけ、その波は西宮地方にも及び、禅寺の六湛寺(ろくたんじ)も建立されました。茂松(もしょう)庵、如意(にょい)庵など5つもの塔頭(たっちゅう)を持つ大寺(だいじ)となったのです。

戦国時代、荒木村重(あらきむらしげ)の織田信長への反乱により戦火に焼かれました。それ以後、六湛寺は衰退の一途をたどりました。

幕末(1876年)、この地に長州藩が薩摩藩との戦いで本陣を置いたと言われています。その地に1876年には町営の墓地が造られましたが、その後、この墓地は現在の満池谷(まんちだに)に移転され、市役所などが建てられました。

現在、この歴史の地には、往時の寺のうち茂松禅寺を残すのみとなりました。

もうひとつの大寺は海清寺(かいせいじ)で、今も楠に囲まれ、立派な伽藍(がらん)を誇っています。この寺の創建は1394年。臨済宗妙心寺派の高僧、無因宗因(むいんそういん)が開きました。600年間西宮を見てきた大木がそびえるお寺。この人はあの一休さんの先輩になります。

この地域にまつわる悲しい話として、越水(こしみず)城主の瓦林正頼(かわらばやしまさより)が、文武に秀で信頼していた小姓の若松丸を、その父が自分に敵対した疑いで涙ながらに斬った刑場としても有名です。

芦原町義民の碑

四良右衛門 義民碑

西福寺の西にある義民四良右衛門(しろうえもん)の碑8は、鳴尾義民碑、百間樋(ひゃくけんび)、兜麓底績碑(とろくていせきひ)など、幕府体制の年貢の取り立ての厳しさと、水に関わる農民の苦労を残しています。

湿地の劣悪な環境の中で日照りが続き、厳しい年貢の取り立てに農民の不満は募っていました。四良右衛門は、尼崎藩主青山侯の見回り日を知り、厳罰に処せられることを覚悟の上、訴え出ることを決意しました。殿様の行列に訴え出る四良右衛門は、はねのけられ、斬られて血だらけになっても訴え続けましたが、行列は四良右衛門を無視して通り過ぎて行きました。

しかし、後になって藩主は、ことの経緯を知り、この地域に水が引けるように整備を進めるように命じました。現在でも、四良右衛門の功績を称え、今でも2月5日に慰霊祭が営まれています。

松原神社・染殿池

染殿池

万葉集に高市連黒人(たかいちのむらじくろひと)

吾妹子(わがもこ)に 猪名野(いなの)は 見せつ名次山(なすきやま) (つぬ)の松原 いつか示さむ

と、大伴旅人(おおとものたびと)の供の者が

海少女(あまおとめ)(いさ)り焚(た)く 火のおぼほしく 都努(つぬ)の松原 思もほゆるかも

と詠(よ)んだ角や都努は「つの」のことです。市役所付近が湾に浮かぶ島であった時代、その湾に東のほうから角のように美しい松原の砂嘴(さし)があり、その西の端が今の松原神社あたりだと考えられています。

その頃は風光明媚(めいび)な観光地として有名だったのでしょうが、それだけではないのです。「つの」は「つと(津門)」に通じます。津は港、門は入り口、すなわち港としても栄えていました。この地に織姫伝承が残っていることからもそれが伺(うかが)えます。

応神(おうじん)天皇の御世(みよ)、呉の国から2人の工女、綾織(あやはとり)と呉織(くれはとり)が阿知使主(あらのおみ)に連れられ、ここにたどり着いた時、天皇が亡くなられたことを知らされ、この地に留まり、神社の向かい側にある池、染殿池(そめどのいけ)9で糸を染めて布を織ったというものです。

これは4世紀の頃、朝廷が大陸より技術者を招いていた時の玄関口だったことを示す伝承です。

古くから津門首(つとのおびと)という大豪族が住んでいたこともあり、神社も栄えていましたが、暴れ川の夙川や東川が土砂を運び込むようになり、徐々に港としての機能を果たせなくなるに従い、神社も衰えてきました。しかし、何時の頃からか、九州の大宰府に流される途中に美しい松原を眺めて休息したといわれる菅原道真が祭神となり、松原天神として親しまれるようになりました。

津門神社

津門(つと)神社10の祭神は、天照皇大神(アマテラスオオミカミ)、毘沙門天神(ビシャモンテンジン)(多聞天)、八意思兼神(心の神)です。

百済(くだら)の国より綾羽(あやは)、呉羽(くれは)姫が渡来、わが国に初めて機織(はたおり)または染物などを教えた場所に、彼らが外来渡来の神(大日如来)を勧請して創立したといわれています。

今から1600余年前(延喜(えんぎ)元年)、菅原道真が大宰府に左遷の途次、美しい白砂青松(はくしゃせいしょう)の景勝を愛(め)でられ小祠(しょうし)の辺にご休憩になりました。その祠(ほこら)が津門大明神と称されて里人が崇敬する津門の氏神です。

津門の氏神(うじがみ)である祠(ほこら)を現神域に遷宮(せんぐう)したのは宝暦(ほうれき)4(1754)年11月ということが旧社殿上棟(じょうとう)札により明らかになっております。当時は神仏混合の時代でもあったため毘沙門天神も祀(まつ)りましたが、明治の代になり天照皇大神を御祭神として仰ぎました。

大塚古墳

5世紀から6世紀にかけて当時の"武庫の水門(みなと)"を管理した豪族を葬(ほうむ)ったものと見られます。地元の人たちに権現塚(ごんげんづか)とか、源頼光(よりみつ)ゆかりの鬼塚と称せられました。

源頼光が大江山(おおえやま)での鬼退治の後、所持品をここ埋めたという伝説が残っています。

西宮市内でも最大級の前方後円墳でしたが、明治5年、大阪神戸間に鉄道を敷設する際、封土(ふうど)が道床の盛り土として取り去られてしまいました。

場所は、津門大塚町、現在のアサヒビール西宮工場敷地西南部です。

稲荷山古墳

大塚古墳の約300mほど西南、墳丘(ふんきゅう)の頂(いただき)に稲荷神社がありました。大正時代までは全形をとどめていたようで、記録によれば全長約40m高さ約2.5mで後円部からは埴輪(はにわ)や土器の破片が出土していました。大正12(1923)年阪神国道工事に際して破壊されました。

領界碑

江戸幕府発足当初は大部分が幕府直轄(天領)でしたが幕府体制の確立に伴い、大名、旗本に土地を分封(ぶんぽう)した結果、一部を除き大半は尼崎領となりました。寛文(かんぶん)4(1664)年、尼崎藩主青山幸利(よしとし)が家督を継いだ際、父の遺言により弟たちに所領を分割したため、青山氏の分家領として旗本領が成立しました。

明和6(1769)年、西宮町が天領となるなど、江戸中期以降は天領と私領が交錯し、市域の何箇所かに領界傍示碑(ほうじひ)が建てられました。現存するのは、3ヶ所で、それぞれ、「従是西尼崎領」(津門)、「従是尼崎領」(岡太神社境内)、「従是東北尼崎領」(西広寺門前)の文字が刻まれています。

昌林寺

昌林(しょうりん)11は浄土宗の寺院で、寺伝には多田(源)満仲(ただみなもとのみつなか)の子、源賢僧都(そうず)が開いたと伝えています。

満仲は、中山寺に預けた我が子の美丈丸(びしょうまる)(源賢の幼名)が少しも修行に励まないことに激怒し、家臣の藤原仲光にその首を取るように命じました。父の悩みを察した仲光の子の幸寿丸(こうじゅまる)が自分を身代わりにと申し出ました。仲光は泣く泣く我が子の首をはね、満仲に差し出しました。それを知った美丈丸は幸寿丸の忠節を深く感じ、心を入れ替えて修行に励み、やがて比叡山に入って高僧となり幸寿丸の菩提(ぼだい)を弔(とむら)うためにこの寺を建立したといいます。

しかし、これには「今昔物語」中に異伝があり、父満仲の殺生三昧(ざんまい)を悲しんだ源賢が比叡山の高僧を招き父を改心させ、閉じ込めていた生類(しょうるい)を野に放ち、父自らも出家させたというものです。いずれにしても、この寺院の創建は猪名川の上流に住んだ多田一族の手になるものといわれています。

史跡明星池

昌林寺(しょうりんじ)にある明星池(みょうじょういけ)は、藤原仲光が幸寿丸(こうじゅまる)の首を洗ったと言い伝えられています。一説では源頼光(みなもとのよりみつ)(通称らいこう)が大江山酒顛童子(おおえやましゅてんどうじ)の首を抱えて四天王とともに丹波から京都へ帰る道で、ここに休息してその首を洗ったともいわれています。坂田金時(さかたきんとき)以下、四天王の墓があります。

津門

領界碑 津門神社境内

津門(つと)は古くから豪族がすみ、栄えた港町でした。その証拠に、津門首(つとのおびと)という豪族が住んでいたらしく、この地域からは、西宮で唯一銅鐸(たく)が出土されています。

豪族が残した古墳が2つこの地にあったとも記されています。1つは大塚古墳と呼ばれ、現在のアサヒビール工場の敷地にあったとされています。現在も地名に「津門大塚町」として残っています。もう1つは古墳の小山にお稲荷さんが奉ってあったことから「稲荷山古墳」と呼ばれ、現在津門稲荷町あたりにあったということです。この2つの古墳は現在跡形もありません。ただ、大塚古墳の石室の一部が津門神社に残っています。

かつて、武庫平野には伊丹─西宮の西国(さいごく)街道しかありませんでした。大坂(阪)の人は神崎から伊丹へわざわざ回って西に旅をしていました。それがいわゆる上街道です。

中世のころから海沿いの集落を結ぶ小さな道が次第につながっていき、尼崎が城下町として発展するにつれ、大坂─尼崎─西宮の往来が激しくなり、整備され街道になっていきました。それが下街道(中国街道)です。幕府の命令で作られたものではなく、全く自然発生的に生まれ、中世の頃のコースは瓦木より守部(もりべ)付近で(守部の渡し)武庫川に渡り、「津門の中道」と呼ばれています。

大昔の海岸線を確認できる地点

本町の国道43号線から商店街の方を見てください。

本町筋だけが盛り上がって商店街へは下り坂になっています。本町はかまぼこ型になっているのです。このように、本町筋は平安時代頃、約1000年くらい前まで低い砂丘が、鳥の嘴(くちばし)のように突き出していました。砂嘴(さし)といわれています。つまり阪急電車のあたりまで海が入り込み、今津から突き出した岬とに囲まれた入り江でした。その後、夙川が運んできた砂によって海岸線は後退していきますが、そのまま砂嘴が丘のように残ったのです。

本町筋を掘ると弥生時代の土器と共にそれより以前の石器が出てきます。また、その上層から奈良時代の単純な土器が発見されています。網を沈めるオモリも多く発掘されていることから漁業で暮らしを立てた人々がいたと考えられます。西宮神社が「漁業の神様」だったことがこれでもわかります。

広田小学校、大社小学校の近くや甲山森林公園のそばあたりに古代の人々の暮らしの跡があります。

なぜでしょう?

米作りをするには低地の川の側が便利なはずです。

参考地図を見ていただければ分かるように阪急電車の線路あたりが当時の海岸線だったのです。武庫川や夙川が毎年のように氾濫して住むのに危険だったのかもしれません。そうすると西宮神社のあたりは海です。弥生人達は武庫の平野を見下ろすところに住み、その平野で米作りをすると同時に山に入って狩りをし、海岸線に出て、魚や貝をとって暮らしていたと考えられます。その後1000年ほどかかって武庫川と夙川が徐々に西宮の土地を広げてきたのです。

平安時代の前期「峯大路」と呼ばれたこの道筋が、西宮のメインストリ−トに発展していきます。それは、「西宮神社」のより一層の発展と「街道」の発達によるものです。

西宮津門散策コース

今津曙町の段差(正面奥が浄願寺)

平安時代の海岸線を意識しながら歩くと興味深いです。とくに本町あたりの南北のゆるやかなスロープ、宮水発祥地の石碑あたりの東西のゆるやかなスロープ、西田公園の南の段差、今津曙町あたりの段差、津門呉羽町や今津山中町あたりの南北の緩やかなスロープなどは、海岸線がかつてここにあったことを彷彿(ほうふつ)とさせます。

津門呉羽町の坂(右が浄願寺)
語り部マップ
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