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2015.02.15
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カテゴリ:きのこの文化誌・博物誌
きのこ青年の見つけた良形のマツオウジ 猪名川の源流域の能勢の奥にある三草山(564.1m)を訪ねた。猪名川は尼崎の久々知(樹木神と関わる久々智氏に由来する地名)に始まり、伊丹を北上し池田の城辺山(きのへやま・今の池田市木部)の側を通り、宇禰野(今の畝野)で二流れに分かれ東の支流は久佐佐川、西の流れは美度奴(みどの)川と呼ばれ三草山を囲むように最上流域を形成する。美度奴川は三草山西側の木津あたりでは木津川とも呼ばれ、上杉、杉生などの地名とともに杉材の供給地であったことがうかがえる。東の久佐佐川域の久佐佐村は雄略朝に朝廷の膳に供せられる土器作りの技術集団の土師部(はじべ)が置かれており、猪名川は武庫川(河口部は武庫水門・むこのみなと)と並び、古代には丹波、有馬方面の内陸交通と猪名湊と呼ばれた河口部の港湾施設を結ぶ重要な河川であったことが分かる。 僕たちの目指す三草山はかって美奴売(みぬめ)山と呼ばれていた。『摂津国風土記』逸文には、美奴売というのは元々は神の名で、能勢郡の美奴売山に居られた。昔、神功皇后が筑紫の国に行幸した折りに近隣の神々が川辺郡の神前の松原に集い天皇の行幸を祝した時、この神も集い「吾も護りたすけよう」と言い「私の住む山に杉の木がある。これを伐採して船を造りこの船に乗って行幸するとよい。幸いがあろだろう」と言った。天皇の西征は成功し、還りにこの神をこの浦に祀った。またこの船をもこの浦に留め置いて神に献上した。またこの地を神にちなんで美奴売というようになったとある。この美奴売とは現在の神戸市灘区の敏馬(みぬめ)神社のある海岸付近を指すという。
敏馬神社 写真・佐田俊美さん提供 この猪名川の名の由来となった猪名部は渡来系の優秀な木工集団で、秦氏・物部の影が色濃く落とされている。この地が積極的に開拓された5世紀後半、ここに秦氏の集団が入植していたことは池田市がかって豊嶋郡と呼ばれ、『正倉院文書』や『続日本紀』に豊嶋郡在住の秦名が出てくることやこの地が秦上郷、秦下郷とに分かれていたことが知られるからである。三田から川西の地は、わが国の根幹を成す歴史のスクランブル交差点としての役割を果たしてきたことから、僕は鬼(き)の子の日本史の流れを実感するため、暇にまかせてふらふらと歩きまわっている。
本日の旅の起点となった岐尼(きね)神社 標越しに三草山方面をのぞむ
カワトンボ シリアゲの仲間
三草山三角点 頂上直下の清山寺址
帯化アザミ(一種のフリ―ク) クロヒカゲ
塞の神峠 ガマズミ
草間よりちょっとキモいマネキンの首 クロキツネタケ
槻並の地蔵 ヤブニンジン 大塩平八郎の乱に呼応して決起の拠点となった岐尼神社から慈眼寺(じげんじ)を訪ね、浄瑠璃の竹本太夫の墓に詣でたのち、ゼフィルスの森として整備中の三草山を目指したが、道中人影もなく、白昼夢のようなチョウの影を追いつつ、静謐の時を数名の人たちと馬鹿話に興じながら歩いた。さえの神峠では数年前のきのこ初心の頃のO君が同行して木の洞にあったマンネンタケを見つけたのだが、この日、往時の記憶を辿って探し当てるとそのままミイラ状態で残っていて感動、O君にとってはきのこの神様からの一種の免許皆伝をさずかったように僕には思えた。以前はここから千枚田のほうへ下ったが、本日は槻並集落へ道をとりひたすら歩き倒して屏風岩のバス停に午後4時きっかりに到着した。道中の槻並集落の山林はマツカサの馬鹿でかいダイオウマツの植林が杉を圧倒して日本の里山とはいささか趣きの異なる風景がひろがっていた。きのこは端境期につき少なかったが、呆たけたクロキツネタケとおぼしききのこときのこ青年が良形のマツオウジを藪の奥から見つけ出してきて参加者全員溜飲を下げる思いがした。 当日仕事のため不参加となったSさんは、他日、阪神岩屋の敏馬神社へ出向いて社殿の写真を撮ってきてくれた。この場を借りてお礼申し上げる。
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