幾原邦彦論序説――少女革命ウテナと輪るピングドラムについてのメモランダム

幾原邦彦様についての原稿依頼が来ておりまして、その宣伝用にアウトラインと草稿の一部を公開いたします。KAI-YOU.netというポータルサイトに連載することとなっております。

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構成

序:イントロダクション 幾原についての紹介 寺山修司の影響を受けながらシャフトに引き継がれる表現と演出 シンボリズム アヴァンギャルド アングラ演劇 文学 ヘッセ デミアン サブカルチャー セーラームーン 少女の理想と幻想 ジェンダー セクシュアリティ クィア 九十年代 セカイ系 社会構造 革命 レトリック 精神分析学 テーマ性 学術性 大衆性

1章:ウテナ論 テーマ批評編
2章:ウテナ論 表現論編
3章:綜合と補足 資料等
4章:ピングドラム論 テーマ批評編
5章:ピングドラム論 表現論編
6章:綜合と補足 資料等
7章:セーラームーン魔法少女 ガーリッシュな欲望とその系譜
8章:総括 そしてユリ熊嵐

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序章においては幾原邦彦についての概括を行う。その際にまず彼が寺山修司のアングラ演劇や前衛的な映画の多大な影響のもと独自の作品世界を形成していったことが論述される。そして寺山の劇団「天井桟敷の音楽担当であったJAシーザーウテナにおいても音楽を担当し絶対運命黙示録といった名曲を作曲したことにも触れる。

他には幾原の映像表現と演出の技法がのちにシャフトの新房監督に継承されたといったアニメ史の軽い紹介がなされる。また彼がセーラームーンにも携わり、元来「少女的なものとその理想、そしてそれらの現実における残酷さ」にこだわり続けた作家であることも述べられる。

一章二章においては「少女革命ウテナのテーマ批評と表現論が行われる。それぞれ独立的に叙述するか統合的な記述を二分割するかは未定。おおまかな論旨は以下である。

少女革命ウテナのテーマとなるのは「永遠」「少女の幻想」「幻想を裏切る現実」「家父長制的な社会システムとジェンダー」「友情と革命」「代替不可能性=かけがえのなさ」である。

ストーリーに絡めてその本質部分すなわちテーマ性に該当する箇所を私なりにサマライズする。

まず、王子様という表象に幻想を抱いたウテナが王子様を求めるのではなく王子様になることを欲望する。欲望とは欠如に由来するものだが、彼女にとってその欠如とは幼少期における死別による「永遠への不振と憧憬」である。アンシーという究極的な太母的女性を巡り剣術によるバトルが行われる。これはもちろん家父長制的な権力構造とそれによる女性への抑圧と搾取を行っている社会構造を比喩的に描出している。

ここで決闘が剣術によるものであることは象徴的である。これは単に中世的な騎士道を指し表すのみならず、剣とはもちろん精神分析学的に言ってファルスのシンボルであり、そのゲームフィールド上のプレイヤーの権力志向を指し示す。

彼ら彼女らはその決闘の結果「永遠」に至ることができると述べ、また、それを信奉している。これはある種の王子様と少女の「幸福な結婚」とそれによる物語の完結という「シンデレラストーリー」的な物語類型の隠喩である。

しかし終盤においてこの城が実際にはプラネタリウムのプロジェクタによる幻影でしかないことが明らかとなる。城がさかさまであったことはカメラを通したことによる像の倒立であり、すなわち「永遠」なるものの錯覚=イリュージョン性がここで映像的に表現される。

また、こうした「永遠」への疑義は、「友情」といったものとも連関する。作中においては幾度も「本当の友達がいると思っている奴なんて馬鹿ですよ」といった台詞と展開が繰り返されるからだ。友情もまた永遠的ではないのではないか。これもまた少女という、男性主体よりもずっとコミュニケーションの関係性を重視する生き物が常に生存戦略として思考せねばならない課題である。

ラスト付近において、ウテナは王子様=ディオスと性交渉を持つ。アンシーの兄であるディオスとだ。しかし本当はナンシーは実の兄であるディオスと近親相姦を行っていたことが発覚する。そこでウテナとアンシーの友情にヒビが入る。すなわち「友情か恋愛か」の二者択一という極めて少女漫画的な主題である。

こうして私たちは最終話を目撃する。すなわち、「少女革命」とはなにか、その真骨頂を、である。

棺桶のなかに入ったアンシーと剣の群れに串刺しにされるウテナそれを眺むるディオス。これは端的に言って男性的権力構造によって女性が従属されていることを意味している。前期のとおり剣とは弾痕であるから、ウテナはこの時点とまたディオスとの性行の段階において貫通=姦通している。少女時代はセックスによってひとつのフェイズを終える。

しかし、それでもなおウテナは王子様であらんとする。そして泣きながら棺桶の中のアンシーを救いだしたのち「王子様に、なれなかったよ」と諦念を込めて述べたてるのである。だがこの瞬間、被従属的な女性であり非主体であったところのアンシーは、ウテナとの間に瞬間的永遠としての「友情」を感じるのである。これが「少女革命」の意味に他ならない。ここにおいてウテナとアンシーの関係性はかけがえのない単独性=特異性へと生成変化している。

ディオスはその父権性ゆえにその「革命」という〈出来事〉に気づかない。学園という檻、これはモラトリアムや思春期を象徴するスペースであるが、そこからいなくなったウテナを探しに、アンシーもまたその一歩を踏み出す。かくのごとき「幻想の崩壊とそれでもなお祈りによって成就するかけがえのない友情=革命=永遠」をえがいてみせたがゆえにこそ、本作は一方で女性からの多大な指示を得たし、また他方でその少女漫画的想像力に対する自己批評性によって類い稀なる強度を有するに至ったわけだ。

劇場番にはタイトルに「アドレセンス」の語が入っているように、これもまた思春期や青年期の問題を暑かった作品であったと言えよう。本作ではより解りやすく爽快に、それでいて豪快に、幻想の外部への脱出とそこに広がる「平坦な荒野」がえがかれる。彼女たちはTVアニメから劇場版に移行して初めて「大人」になったのだと言える。すなわちこれは少女が成長する極めてまっすぐなビルドゥングスロマンなのだ。

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次作としてあるのは「廻るピングドラム」である。本作もまた「かけがえのなさ」を、あるいはその生成過程や崩壊を叙述した作品である。その描写の際に使用されるのが宮沢賢治の「銀河鉄道の夜である。まだ考えがまとまっていないため以下キーワードやアイディアを列挙する。

列車=旅立ち、死別、再出発
リンゴ=知恵の木の実 聖書 失楽園
「友情」から「家族」へ 生殖と血縁の問題→デリダ的主題
生存戦略」→遺伝と環境における生体の自己維持のための手段
九十年代の総括 オウム真理教 サカキバラセイト 透明な存在 村上春樹の「かえるくん、東京を救う」→震災
りんごちゃんの運命日記→ウテナにおける絶対運命黙示録との関係
銀河鉄道の夜におけるカンパネルラとジョバンニ→カンバとショウマ
りんごはあっちとこっちをつなぐもの
ピクトグラムのモブ→仲間以外はみな風景の時代

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 幾原邦彦は、庵野秀明(『新世紀エヴァンゲリオン』)や佐藤竜雄(『機動戦艦ナデシコ』)などと並んで90年代の日本を代表するアニメーション監督である。代表作としては後述の『美少女戦士セーラームーン』『少女革命ウテナ』『輪るピングドラム』が挙げられるだろう。ファンタジックかつシュールな雰囲気のなかで、少女向け変身ヒロインものや学園系・百合系のジャンル性を踏まえつつ、多くの観客を唸らせる哲学的・文学的なテーマを扱うことで知られている。2015年現在は、彼の最新作である『ユリ熊嵐』が放送中だ。

 アニメーション監督としては出崎統押井守などに影響を受け、「セル画の枚数・作画の力に頼らず面白い物をつくる」ことを信条に掲げ、ユニークな止め絵とトリッキーなバンクそしてギャグ演出を得意とする。切迫した制作現場の状況に対応しうる絵コンテは業界内でも高く評価される。[中略]おそらくそれは作中の象徴的な固有名などにも表れている。また寺山修司の劇団「天井桟敷」に傾倒していたことから演劇に造詣が深く、劇団の音楽担当J・A・シーザーを自作にも起用している。

幾原は1985年に京都芸術短期大学を卒業し、翌年には東映動画(現在の東映アニメーション)に入社している。まず『メイプルタウン物語』の制作進行・演出助手のひとりとして参加すると、佐藤順一の下で様々なアニメ制作に携わり、1990年には『もーれつア太郎』第18話「王子と玉子どちらがえらいのココロ!?」で演出デビューを果たした。それ以降は『美少女戦士セーラームーン』シリーズのシリーズディレクター等を務め、1993年には初の劇場用作品『劇場版美少女戦士セーラームーンR』を手掛けることになる。[中略]

だが『少女革命ウテナ』の制作以後はアニメ業界から距離を置き、もっぱら小説・漫画原作等を執筆するかたわら、シンポジウムのパネリストや学校の講師として活躍することになる。[中略]2011年に『ウテナ』劇場版以来12年ぶりとなる監督作品『輪るピングドラム』を発表し、2015年に『ユリ熊嵐』を監督していることは先に述べたとおりである。

 幾原から影響を受けたアニメ業界人は細田守五十嵐卓哉や長濱博史など数多く、脚本家の榎戸洋司大河内一楼やアニメーターの中村豊など、幾原自身によってその才能を見出された者も少なくない。庵野秀明も幾原に惚れ込んだ人間のひとりであり、彼は『新世紀エヴァンゲリオン』以降、幾原の助言のもとで演劇的要素を取り入れるようになったと言われている。[中略]一説によれば先述の『新世紀エヴァンゲリオン』の渚カヲルは幾原がモデルだとされている。

 幾原自身もまた、その作風や略歴が示唆するように風変わりな人物であるようだ。グラフィックデザイナーへの道は競争社会の恐ろしさによって断念し、実写映画監督への道はキャリアの厳しさによって断念し、楽そうだからという動機でアニメ業界に足を踏み入れた。[中略]異性にモテるタイプだがプラモや絵に熱中していたり、運動部に所属したが暗い性格であったりととにかく掴みどころがない。自分を「褒められて伸びるタイプ」と語るところなどいかにも飄々としている。

 現在放映中の最新作『ユリ熊嵐』を更に楽しむには、さらにこの男の作家性を理解しておいたほうがいいだろう。おそらくそれは『美少女戦士セーラームーン』『少女革命ウテナ』『輪るピングドラム』など過去作のテーマやスタイルを概観し、彼の人間観や世界観に肉迫していく作業となるに違いない。そのとき、我々は幾原の問題意識が我々の生活と決して無縁ではありえないこと、またそれゆえにこそ我々が幾原作品に惹きつけられているのだということを知る。

 このシリーズはそのためのものである。

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