翻訳書でしつこく繰り返される表現
先日、ツイッターで「#翻訳書でしつこく繰り返される表現」というタグを作ったところ、ずいぶん大きな反響がありました。だいたいのいきさつは、togetter「翻訳書でしつこく繰り返される表現」にまとまっています。どちらも、ツイッターに登録していなくても読めるので、お時間のあるときにご覧ください。
最初はこんなに反応があるとは予想もせず、「翻訳書」や「しつこく」ということばは、なんとなく使っただけでした。
「翻訳書」については、自分としてはフィクションに限定したつもりはありませんでしたが、はじめに挙げたいくつかの例がいかにも翻訳小説に出てきそうなものだったことや、自分のまわりに翻訳小説の読者・関係者が多いこともあって、そちら寄りの表現がかなりの部分を占めました。実のところ、このように印象に残りやすい言いまわしはフィクションのほうが多いのだろうとも思います。
「しつこく」については、これが否定的なニュアンスを帯びたことばだということもあり、繰り返されてうるさく感じるもの、くどく感じるものが集まったようです。もちろん、これらをまったく使わないことは不可能ですし、感じ方は千差万別ですが、何人もが選んでいるものが翻訳臭を感じさせる表現の代表であることは否定できないでしょう。
原文で同じ単語や表現が繰り返されているのだから、訳文でもそのままにすべきだ、という趣旨の書きこみもいくつかありました。それは原則論としては正しいのですが、その語が作中で重要なキーワードになっている場合や、反復することに作者のなんらかの意図が感じられる場合以外は、特に長編小説においては、訳文は原文以上に繰り返しが目立って受け止められるものなので、機械的な反復は避けるべきだというのがわたしの考えです。
たとえば、このタグを作ったとき、最初に挙げたのが blink を「目をしばたたく」と訳す例でした。この場合、blink というごくふつうの動作の訳語として「目をしばたたく」は大げさなので、数多く出てくるとどうしても鼻につきます。では「まばたきをする」で統一したらどうかというと、それでは文脈から考えて弱すぎることもしばしばあり、大きな流れのなかでは、両者が併用されているほうがむしろ落ち着きます。著者に blink を目立たせようという明確な意図があれば別ですが、そうでないかぎり、単調な訳語で必要以上に目立たせるよりは、複数の訳語にして目立たせないほうが、結果として著者の意図をより反映している、ということです。
あるいは、sigh を「ため息をつく」と訳すのはまちがいではないものの、日本語の「ため息」にはどうしても失望や不安のニュアンスが付きまといます。sigh はそういう場面だけではなく、安堵した場合や、なんでもなくひと息ついた場合にも使われるので、そんなときはほかの訳語を選ぶべきです。
外国語と日本語は、単語レベルでももっと長い表現のレベルでも、そもそも一対一には対応しないものですから(一対多のときもあれば、多対一のときもあります)、翻訳者としては、原著者の意図や癖、外国語特有の味のある言いまわしなどをできるかぎり生かしつつも、最終的には自分自身の読みとったもの、解釈したものを自分の文体や文章作法で伝えるしかありません。
エラリー・クイーンの『Xの悲劇』に、かつてシェイクスピア劇の名優だったドルリー・レーンと扮装係のクエイシーが、扮装のあり方について議論を交わす場面があります。細部が何より肝心であると主張するクエイシーに対し、レーンはこんなことを言います。
「扮装の真の役割についてだ。おまえのその絶妙な技術のどこかに欠点があるとしたら、完璧を狙いすぎることではないかな」
「しかし、繰り返しになるが――扮装において、塗り重ねられる個々の要素は、ある意味でまったく重要ではない。いわば小道具なのだよ」
「ほんとうだ。おまえは、ふつうの人間の目に全体を見渡す本能があることを考慮に入れていない。物を観察するとき、人は細部よりも全体の印象を大づかみにとらえるものだ」
「わたしは扮装の細部が人目につくほどぞんざいでもかまわないとは言っていない。細部が完璧であるべきなのはむろん正しい。だが、すべての細部がそうである必要はないのだよ。言いたいことがわかるだろうか。扮装があまりにも精緻なのは……それはいわば、波をひとつひとつ忠実に描いた海の絵、葉の一枚一枚まで丹念に描いた木の絵のようなものだ。波や、葉や、人間の顔の皺をひとつ残らず描きこんだら、それは駄作になる」
「したがって、顔料や白粉、そのほかの化粧道具が作るのは、扮装の外形であって、扮装そのものではないという結論が得られる。顔のいくつかの部分を強調すべきなのはおまえも承知しているね。もしわたしをエイブラハム・リンカーンに変装させるなら、ほくろと顎ひげと唇を目立たせて、ほかの部分は控えめにしようとするはずだ」
これは小説の翻訳にも応用できる考えだと思います。もっとも、レーンが言うように、「細部が完璧であるべきなのはむろん正しい」という前提での話ですが。
ともあれ、冒頭のタグやまとめの教訓として、日ごろから翻訳書以外にもじゅうぶんに接しているべきことと、日本語の語彙・表現のストックを増やすように心がけるべきことは、確実に言えるでしょう。翻訳に携わっている人や勉強中の人は、この結果を参考にしたうえで、それぞれに是々非々の取捨選択をしていただけるとありがたいです。