(常盤貴子)その旅は長く厳しいものでした
家族全員で中国の大地を西へ
私の家族は日本人。
生まれたばかりの国中国で生きていました
私は敦子。
中国で生まれその後50年以上を中国で過ごしました
40歳を過ぎて中国人の荘
(そう)さんと結婚しました
荘則棟
(そうそくとう)さん。
あなたは卓球で何度も世界を制した英雄でした
東西冷戦の時代断絶していた中国とアメリカが手を取り合うきっかけを作ったのもあなたでした
あなたは2013年に逝ってしまいました
国は人々があなたを送ることを許さなかった
日本と中国。
私は2つの国に人生を揺さぶられ生きてきました
佐々木敦子さんは今70歳。
東京で暮らしています
はい佐々木さまカードありがとうございます。
(佐々木敦子さん)はい。
じゃあ行ってきます。
はい。
ごゆっくり行ってらっしゃいませ。
平均して2日に一度来てますからね。
デートに来てます。
フフフ…。
ここは都内にあるお寺です
2013年亡くなった夫に声をかけに来ます
荘さんまた来ます。
元気で頑張ってね。
2014年の夏敦子さんは中国を旅していました
シルクロードの途中甘粛省
(かんしゅくしょう)に思い出の町があります
まぁ…第二の故郷と言えるとこでしょう。
主な青春をそこで過ごしてますからね。
うん。
13歳から22歳まで。
まさに青春を過ごした場所です
旅の目的は同級生たちに会うことでした
日本人の敦子さんがなぜ中国で青春を送ることになったのか。
そもそもは戦争です
1931年日本の関東軍が中国の東北地方を占領し「満洲国」という国が作られました
満洲国には大勢の日本人が渡りました
そして戦争の終わりを告げるその声はここハルピンでも流れました
(昭和天皇)「然
(しか)レトモ朕
(ちん)ハ時運ノ趨
(おもむ)ク所」「堪ヘ難キヲ堪ヘ」「忍ヒ難キヲ忍ヒ」「以テ万世ノ為ニ太平ヲ開カムト欲ス」
敦子さんは満洲で生まれ戦争が終わった時はハルピンにいました
ソ連の侵攻があり満洲にいた日本人は大混乱に陥りました
シベリア抑留残留孤児。
数々の悲劇が生まれました
その一方で大陸に残ることを決めた日本人がいたのです
敦子さんの父親もその1人
満洲の病院で家畜の伝染病を研究していた獣医でした
技術のある人はなるべく残って新中国の建設に…建設を助けて欲しい…というかね。
お手伝いして欲しいちゅうかさ…。
そういう…そういう…こう…呼びかけにさ応じた…。
じゃないかなと思うのね。
現在の中国「中華人民共和国」が生まれたのは敦子さんが5歳の時です
中国は新しい国を作るため進んだ技術を持つ日本人に留まるよう求めました
鉄道や医療の関係者を中心にその数はハルピンだけで一時2000人を超えました
父親は研究を続けながら子どもたちを養うために中国に残る道を選びました
1953年。
ハルピンから一家の長い旅が始まりました
途中の町に滞在しながら西へ。
開発の遅れていた西北地方へ行くよう指示されたのです
当時西北なんか汽車無いでしょ。
だから馬車なんですよね。
たとえオーバー着てね布団かけても…。
足の方にね布団かけてもさやっぱり耐え切れないんでしょうね。
時々泣き出したりなんかして。
だからもう…。
両親が結構さ…すごく苦労したと思うんですけどね。
凍る黄河を越えながら進んだ道のりは約3000km。
移動にかかった時間は3年に及びました
ようやくたどり着いたのが敦子さんが青春を過ごした町「張掖
(ちょうえき)」でした
湿地帯に囲まれた張掖は人口約130万人。
シルクロードのオアシスとして栄えあのマルコ・ポーロも滞在したと伝えられています
当時張掖にいた日本人は敦子さんの家族だけ。
敦子さんは中国人と全く同じ教育を受けて育ちました
訳)敦子の印象はとても向上心があり性格も明るいということです。
訳)男子生徒にも女子生徒にも人気がありました。
彼女はみんなに優しく人の悪口を聞いたことがありません。
敦子さんが高校生だった頃中国という国は若く熱気を帯びていました
工業・農業で欧米に追いつこう。
そう国は呼びかけていました
その時代ちゅうのがすごく好きなのね。
なぜかいうとみんながさあの…新中国をさより良くね建設しようってもう…みんな一致団結。
雑念無しでさあの…一所懸命頑張った時代なんですよね。
しかしその一方で政策の失敗などが原因で深刻な食糧難を招きました
敦子さんたち学生は集団で農村に泊まりこみ麦の収穫などを手伝いました
例えば一列に並んでね間隔をこのぐらいにしてほいでこうやってさ。
ここ…ガバーッとしてねこうやって…こうやってちぎるの。
ほれでちぎる時にこういう感じでね切れるでしょ。
ここが。
あの…中にえぐれられて。
ほいで手が切れるとかね。
でしょうがないから…痛いからハンカチ巻いてねほれでこうやってやって。
明くる日なんか手が腫れてね。
最初なんか曲がんないもん。
(スタッフ)どうしてそこまで一所懸命やってたんですか?
(スタッフ)なぜ…。
みんなで応援してね…。
なんとかまず農業を生産量とかそういうのを向上させなかったらさ他のことは一切もう考えられない…いうこと。
見つめていたのは中国の未来
♪〜「中国語の歌」えっ?分からない。
忘れた…。
♪〜「中国語の歌」
張掖に来て5年が過ぎた頃大きな転機が訪れます
獣医として中国に協力してきた父親ががんで亡くなりました
まぁ将来…いろんなことでね相談相手になる親じゃなかったかなと思ってるしだから…。
うん。
父親が…亡くしてガクーッときたけどね。
「子どもたちが学校を出たら日本に帰れ」そう父親は言い残していました
(佐々木隆さん)おふくろはもうなんし…おやじの遺言。
6人の子ども連れて帰らにゃいかんともうそれで必死だったんですよ。
まぁそういう状態の中でおふくろはもうちょっと頑張ろうって残った。
ところが「文化大革命」が始まったから学校なんかもうグッチャグチャですよ。
全然勉強なんかできる状態やないし。
「文化大革命」いわゆる「文革」です。
建国の父である毛沢東
(もうたくとう)が権力をより確かなものにするために始めた政治運動でした。
資本主義を徹底的に否定し多くの人々が弾圧されました
父親が亡くなって5年。
「文革」が激しくなったことで母親は帰国を決心します
敦子さんは22歳になっていました
母親のふるさと。
島根県の江津市です
移り住んだのは江津市の「浅利」という集落でした
この日は姉と2人で墓参り。
中国で亡くなった父親と1999年に亡くなった母親が眠る墓です
ちょっと失礼して…。
浅利の海を一目見よう。
浅利の海が…こういう感じですよ。
あの…モヤモヤした時はあそこ行ってねジーッと見とったらあの…水平線とかああいうの見とったらさ何かもう…。
雑念が全部無くなりそうな感じ。
嫌な思いも無くなって…。
つらい時に見つめた日本海
敦子さんは江津市内にあったテレビの製造工場で働きました
中国にいた時から両親は敦子さんたちに日本語や日本の作法を教えて育てました
それでもここには冷たい目がありました
自分の国で暮らしているのにまるで外国にいるような心細い日々を送っていたのです
そこに心を躍らせるニュースが飛び込んで来ました。
卓球大会に出るため国交の無い中国から代表チームが来ることになったのです
ちょっとオーバーだけど…。
ワー!ヤー!ってね中国から来るんだ!って。
大会が始まるのを待って敦子さんは列車に飛び乗りました
向かった先は名古屋。
ここ「愛知県体育館」に世界の目が注がれていました
「文革」中の中国は国際社会から孤立し情報がほとんど外に出ない国でした
中国代表チームは中国で何が起きているかを知る数少ない手掛かりだったのです
「誰でもいいから選手に会わせてください」
約束も無しに宿舎を訪ねた敦子さん。
たまたま出て来たのが荘則棟でした
荘は1961年に開かれた北京大会で優勝。
その後世界選手権で三連覇を果たした中国のスーパースターです
(荘則棟・訳)毛沢東は我々に名古屋へ行けと命令しました。
我々卓球チームを外国に行かせ国際社会にどんな変化が起きるか見たかったのです。
大会の途中荘の行動が世界を驚かせました
中国が敵とみなし接触を禁じていたアメリカの選手とカメラの前で握手をしてみせたのです
これがきっかけで中国とアメリカの関係は雪解けを迎えます
荘は外交の面でも高く評価され後に「スポーツ大臣」にまで上り詰めました
でも一応向こうが話してることね分かるから「うんうんうん」とかやっとったけどハハ…。
緊張してうまく話せなかった敦子さんは改めて気持ちを中国語の手紙につづりました
そして大阪に向かう選手たちと同じ新幹線に乗りました
その時の写真です。
手紙をその場で読んでくれた荘
この時敦子さんは人生を変える言葉をかけられます
卓球の元世界王者荘則棟
名古屋で荘と出会った敦子さんは人生を変える言葉をかけられました
とかいう話ね。
で…もうそこからさムズムズしてさ。
ハハハ…。
でぐずって…。
…て騒いで。
温かい風が吹き始めていました。
荘と出会った翌年当時の田中角栄総理が北京を訪問。
かつて戦った日本と中国は国交を結びました
[中国がこのようにまぁニュースを見ますと][非常に温かい手で迎えてくれたと。
][みんながこういう気持ちで待っとったと。
][戦争状態からですね][なんかあの…抜け出して][新しい手をつないだというところでも][非常にあの…いいことだと思うんですけど…。
]
敦子さんは東京に出て中国との貿易に力を入れていた商社に就職しました。
そして34歳の時北京事務所の駐在員に抜擢されます
必死ですよ1人だけでね。
最初はさ1社1人しかいないっちゅう感じでね。
ただ…やっぱり当時の環境っていうのはねもう…日中友好一色だからものすごい…どこに行っても歓迎受けとったからね。
だから仕事もやりやすかったし。
貿易で日本と中国を結ぶ仕事
荘の言葉が始まりでした
しかしその頃荘は表舞台から姿を消していました
政治の世界が大きく変わっていたのです
敦子さんが北京に駐在する2年前毛沢東が亡くなりました
毛沢東の妻江青
(こうせい)らそれまで権力を握っていた4人の指導者いわゆる「四人組」が失脚
スポーツ大臣になっていた荘は「四人組」の協力者とみなされ4年間監禁されたうえ地方へ追放されました
7年経って自由の身になりましたが地位も名誉も失っていました
当時いた荘の妻は去っていきました
荘の境遇を知人から聞いた敦子さんは会って励ましたいと思うようになりました
心配でしたね。
やっぱり人間ちゅうのはすごく…栄光のとこからねどん底に落ちたんですよね。
ほいでいろんな…つらい目とかねひどい目に遭ってる。
そういうことを聞いてるから。
なおさら可哀想とかね…。
敦子さんは思い切って荘を訪ねることにしました
あそこです。
この卓球のね練習場です。
この建物で荘はひっそりと子どもたちに卓球を教えていました
目ね…らんらんとしててさそれで声もすごく甲高い声でね元気で…。
だから私なんかがこの奥のねあの…部屋に座ってたらもうここからさ声が…。
もう聞こえててね。
・「誰が来た!?」とかいう感じでね聞かれて。
で安心したんですけどね。
名古屋で出会ってから13年ぶりの再会。
惹かれていったのは敦子さんの方でした
そういう恋心がありつつもやっぱり歳なりにね…。
もう40過ぎてますからね。
歳なりにやっぱり恥ずかしいちゅうかね。
万が一誤解だったらね嫌な思いするから…。
だから一切口に出さないしね。
で…中秋の名月にね荘さんに…。
電話がかかってきてね。
「中秋の名月だから公園で会いましょう」とか言って…。
中秋の名月に誘うこと。
中国ではプロポーズです。
2人は結婚を望みました
しかし国は認めませんでした
「荘が国家機密を知っているから」という理由でした
さらに中国は日本人である敦子さんが中国で働くためのビザを突然打ち切ったのです
二度と会えなくなるかもしれない。
敦子さんが中国を離れる前の日2人きりで写真を撮りました
「私は半年後に絶対帰って来る!」とか言ってね意地になっとったけどやっぱり心の中ではね…。
ひょっとしたらこれが最後だと思うと…。
日本に帰って…。
当面荘さんに電話してる時もねもうまず涙でね。
言葉が出なかったもんね。
荘さんはさ私が電話してるってこと分かるから一所懸命慰めてくれるけどこっち言葉が出ないの。
声が出ないのね。
ただただ…「うん…」ちゅう感じで。
そこまでいっちゃったもんね。
日本に戻っても仕事が手につかず敦子さんは母親と姉がいた島根の浅利に身を寄せました
(島田美智子さん)追い出されて帰ってきてほいで浅利に帰ってきてショボーンとして時々涙ぐんでんのね見たけど…。
で母ちゃんに「敦子元気無いね」ちゅうたら「うーんちょっとあったみたい」とか言って。
「荘さんとは駄目かもしれん」なんつってから言いおった。
2人をつないだのは手紙でした
訳)「親愛なる妻敦子さま」「この別れは私たちの力ではどうすることもできません」訳)「最愛の夫則棟さま」「あなたの手紙がいとしくて手放せません」「読みながらつらくて涙を流しています」
待つしかなかった敦子さん。
荘は党の幹部にも手紙を書きました
そして8カ月が過ぎた頃…
訳)「8月1日」「あなたが中国に来ることを認めると」「政府から正式に連絡がありました」
結婚は認められました。
しかし条件がありました。
「北京に住むこと」「荘が外国へ行かないこと」「敦子さんが中国の国籍になること」
ホッとする一面ねやっぱり厳しい国だなぁと。
ねぇ。
人が結婚するのにさ三条件も出してね。
自由も何も無いじゃないかっちゅう感じでね。
国籍を変える覚悟はできていました。
ただ離れていく日本の景色を見てつらくなったと言います
こんな奇麗なね富士山ももう永遠に私なんか…私なんかのものじゃないわとか思ってさ。
じーっと見とったけどね。
2人で暮らした北京。
敦子さんがそれまで経験したことの無い穏やかな生活が始まりました
ここが結婚した当時暮らした「胡同
(フートン)」です。
これがさあの…結婚してから建てた家。
敦子さんは仕事を辞め夫を支えました
幸せもね色々あるけどやっぱり荘さんとの結婚25年間ね家庭の主婦としてもね一番幸せだったと思うし一番わがままも言えたし一番荘さんのために力になったと思うしね。
自分としては今…思い返してもね。
うん…良かったなと人生の中でこういう部分があって…。
結婚20周年を迎え外国にも行けるようになった夫。
しかしこの翌年がんが見つかりました
戦争が終わって2015年で70年。
日本と中国は国交を結んだあとも歴史や領土を巡って度々摩擦を起こしてきました
摩擦は敦子さん夫婦にも暗い影を落としました
夫のがんは末期がんでした
晩年の夫と過ごした北京のマンション
夫は入退院を繰り返しながらこの部屋で書道に打ち込みました
息をこう…止めたり何かこう…必死でね集中してやるのがね何か気功に相当するものだって言うのね。
体にもいいし書道も練習できたっちゅうことで。
もう一心無念でね。
なんか…必死で書いてるような感じ。
がんの進行は止まりませんでした
日本に期待できる治療法があることを知り渡航の準備を始めました。
日本の医療滞在ビザが下りたちょうどその頃
今日本に行けば夫が中国を裏切ったと思われる。
諦めるしかありませんでした
もしあの尖閣列島がね…問題が無かったら予定どおり日本に来て治療したら…。
ひょっとしたらもうちょっと…生きられたんじゃないかなぁ…とかね。
思ったりして。
大声で泣くとかねそういうのは他の病室にもね影響与えて良くないし。
ほいで私が悲しめば悲しむほどねきょうだいとか他の周りの人もつらいと思うし…。
だから…本当にもうじーっと我慢してね…。
亡くなった翌日敦子さんは夫の職場に呼び出され通告を受けます
「四人組」の協力者とされた者には告別式を行う資格が無いというのです
敦子さんはその場で激しく抗議しました
なんとか許可を取りつけましたが会場は夫が亡くなった病院の中。
取材に向かうとそこは異様な緊張感に包まれていました
公安警察が入り口を封鎖していたのです
荘則棟の告別式が許可されたのは亡くなった18日後です。
会場の入り口は中に入れない人であふれていました
公安警察が配置され取材や一般の人たちの弔問は許可されませんでした
かつて中国の英雄だった荘則棟。
その弔いは国民に伏せられたのです
うん…。
やっぱり…。
やっぱりただただ残念っちゅう感じしかないですね…。
墓も希望した場所には作らせてもらえませんでした
受け入れ先が決まり完成したのは亡くなってから8カ月後のことです
「万里の長城」を望む場所で力強く球を打ち込む姿。
敦子さんが中国の大地に刻んだ英雄の証しです
墓の完成を見届けた敦子さんは大きな決断をしました
「中国から離れて暮らそう」
50年以上を過ごした中国。
国籍も中国のままです
中国を分けてね私の人生なんて語れないいうぐらいね密接な関係があるけどやっぱり人間っちゅうのは1人でね生きていけませんのでね。
今んとこ両方ね行ったり来たりして暮らすしかないなって…まぁそんな…。
(読経)
敦子さんは東京で夫の一周忌を営みました
一部を中国に残して遺骨を日本に持ち込んでいたのです
(読経)
遺骨を納めた箱には家紋の代わりにラケットを描きました
・
(スタッフ)敦子さんは今の中国はどう思いますか?思いたくない。
・
(スタッフ)まぁある部分不信感みたいなのもあるんだと思いますけど…。
うん…。
多分。
永遠に解けないでしょうね。
・
(スタッフ)そこまで思わせちゃったのは何が一番大きかったんですか?本当に…。
言えない言えない…。
言ったら…もう中国に帰れなくなるかもしれないからもう…。
多分この心境っちゅうのは永遠に言えないでしょうね。
結婚のため中国に渡って以来26年ぶりに日本で暮らし始めた敦子さん
日本と中国の関係が戦後最悪と言われる今政治の中心にいる人たちの振る舞いがとても気になると言います
トップの人間のうんぬんでねやっぱり例えば…戦争とかね色々運動とかそういうのが起きますよね。
で最終的に一番犠牲になるのが民衆なんですよ。
普通の人間としてはねやっぱりそういう物事は起きなく平穏なね日々を送ってきたいなっていう感じが…。
ものすごい強烈に感じますよね。
国というものに揺さぶられた70年
敦子さんは今も時折中国へ出掛けます
高校の同窓会に向かった時もそうでした
切り離すことのできない国中国
不信感を克服する鍵は中国の中にある。
そんな気がしています
干杯
(乾杯)!
(友人たち)干杯!
同級生は誰ひとり夫の話題に触れませんでした。
「敦子が悲しむからよしましょう」と事前に申し合わせていました
翌日同級生たちは敦子さんを郊外に連れ出しました
最近観光地として整備された丘陵地帯
そこには太古からの地層が織り成す幻想的な風景が広がっていました
張掖もこんな奇麗なとこがあった…。
ほんで自分がさすごくこの…地球の中でちっちゃいなーと思って…フフフ…。
再見
(さようなら)!再見…。
再見再見…。
やっぱり…人間ちゅうのはいろんな友達で心の支えになってるみたい…感じですね。
北京にもこういう方がいっぱいいるし。
やっぱり…よく考えてみたら幸せですよね。
うん。
おはようございます!西川きよしのおしゃべりあるき目です2015/02/11(水) 09:58〜10:53
ABCテレビ1
第29回民教協スペシャル 英雄の妻 敦子〜激動の日中関係を生きた女の人生〜[字]
卓球の元世界王者で「ピンポン外交」の立役者「荘則棟」はまさに“中国の英雄”。その妻、佐々木敦子さんは、人生を国家に翻弄され続けている。波乱に満ちた人生を追う。
詳細情報
◇番組内容
佐々木敦子(70)は、戦争中に旧満州で生まれた。終戦後、獣医だった父親は大陸に残り「新中国」の建国に協力。敦子は中国人社会に溶け込み、18歳まで中国共産党の教育を受けて育った。その頃の中国が、敦子は好きだという。「人々は建国の精神に溢れ、輝いていた」。日中戦争、中華人民共和国の建国、大躍進運動に文化大革命…敦子は激動の中国近代史を「内側」で経験した数少ない日本人だ。敦子の夫は卓球の元世界王者、荘則棟。
◇番組内容2
卓球で世界を三連覇し、建国して間もない中国に夢と希望をもたらした。また荘は、冷戦下で敵対していたアメリカと中国が、友好関係を結ぶきっかけを作った。当時、中国の人々は彼を「民族の英雄」と讃えた。名古屋で開催された卓球大会で敦子は荘と知り合い「日中友好に貢献を」と助言される。敦子は商社の中国駐在員となり、日中貿易を担当した。そして北京で荘と再会、二人は恋に落ちるが中国政府は結婚を認めなかった。
◇番組内容3
結婚は1年後に許可されたが、敦子に過酷な条件が課せられた。日本国籍の放棄だ。敦子は日本に強制的に帰国させられた。敦子は、荘と100通に及ぶ手紙を交換し心を繋いだ。最終的に結婚は許可されたが敦子は訝る。「個人の結婚に、なぜ国が介入するのか」…2013年2月、荘則棟が死んだ。中国当局は荘の葬儀を禁じると告げてきた。文革の時、権力の側に身を置いた荘。「弾圧の協力者」の烙印は消えていなかった…
◇ナレーション
常盤貴子(女優)
◇制作
企画:民間放送教育協会
制作著作:メ〜テレ(名古屋テレビ放送)
◇おしらせ
【番組HP】
http://www.minkyo.or.jp/01/2015/01/29_1.html
【メ〜テレHP】
http://www.nagoyatv.com/
【メ〜テレ公式ツイッター】
http://twitter.com/nagoyatv_6ch
☆最新情報は、メ〜テレ公式ツイッターで![英雄の妻]
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