古都京都。
その中心に厳かな空間が広がっています。
かつてはこの国を動かしてきた帝たちが暮らした聖域でした。
今なお限られた人々しか入れないこの場所を撮影する事が許されました。
帝たちが即位する時に座った玉座。
金箔や貴重な絵の具を惜しみなく使った障壁画1,800枚。
平安の昔から続く御所の美を守る匠たちの類いまれなる技。
御殿の奥には神話の時代から伝わる宝を祭った特別な部屋がありました。
代々の帝が暮らし日本の歴史を生み出してきた京都御所。
知られざる宝と四季折々美しい表情を見せるその姿をより鮮明に捉えられる4Kカメラで記録しました。
三方を山に囲まれた山紫水明の地京都。
794年桓武天皇によって日本の都に定められ以来73代の帝がここで暮らしました。
帝の住まいである京都御所は火災や戦乱で何度か場所を変え14世紀に今の場所に移りました。
緑に囲まれた京都御苑。
その中の一角が京都御所です。
広大な敷地の中におよそ20棟の御殿が立ち並びます。
現在の建物は江戸時代に建て直したものですが平安の趣を今に伝える貴重な建造物です。
宮内庁京都事務所が維持管理しています。
御所の正門…かつてここを通る事ができたのは時の帝だけ。
皇后や皇太子といえども許されませんでした。
建礼門をくぐり巨大な朱色の扉を開けると正面に建つのが紫宸殿です。
新たな法令の公布や外国からの使者との対面など重要な儀式が執り行われました。
近代日本の夜明けを告げた「五箇条御誓文」もここで読み上げられています。
ほの暗い御殿の奧に巨大な調度品がかいま見えます。
紫のとばりの中には代々の帝が即位や特別な儀式の時に座った玉座が納められています。
100年前大正天皇の即位の時に作り直されましたがその形は古来よりほとんど変わっていないといわれます。
玉座のへりは赤を基調とした錦で彩られています。
この模様は皇族が座る場所や神仏が祭られる所にだけ使われる高貴な柄です。
玉座の脚にはアワビなどの貝殻が埋め込まれ精巧な細工が施されています。
この高御座実は現代でも使われています。
天皇陛下は京都御所から運ばれた高御座に上られました。
(鐘の音)高御座の高さはおよそ6メートル。
その頂点に立つのは伝説の鳥…徳の高い王が治める世に現れると信じられ古代中国では王者の象徴として尊ばれてきました。
高御座には古代日本人の思想をうかがわせるある数字が隠されています。
それは「八」。
高御座は八角形の柱になっているのです。
「八」は古代の人々にとってとても神聖な数字でした。
最古の歴史書「古事記」でも日本を8つの島と考え大八嶋國と表現しています。
紫宸殿の北西に平安時代の帝の暮らしをしのばせる場所があります。
帝はここで寝起きをしさまざまな公務を執り行いました。
帝の起床は…身支度を整えると真っ先に向かう場所がありました。
その名のとおり床一面が白い漆喰で塗り固められています。
帝は一日の初めにここで重要な公務を行っていました。
石灰壇に座り神への祈りをささげるのです。
鎌倉時代に記された御所の規則。
その冒頭にはこのように書かれています。
「宮中では何よりもまず神事が大切である」。
「古事記」によると帝の祖先は天照大神という天上界における最高の神です。
国の安寧を保つためには天照大神をはじめとした神々の加護が必要であると考えられていました。
そのため帝は毎朝必ず天照大神を祭る伊勢神宮の方角に向かって祈りをささげました。
白い漆喰は地面を表しています。
神に祈る時には地面に座る事が最高の敬意の表れとされていたからです。
石灰壇の脇には一脚の机があります。
平安時代の帝の食卓です。
ここでとる食事も帝の重要な公務の一つでした。
史料を基に再現した平安時代の帝の食事です。
30皿に及ぶ豪華なものでした。
大陸の影響を受けうずたかく盛りつけられています。
こちらは近畿地方で取れたキジの肉。
塩や酢をつけて食べました。
毎日のように食卓に上っていたのがアワビ。
関東や東海地方で取れたものを乾燥させて運んでいました。
全国から食材を集めた豪華な食事。
実は政治的に重要な意味が込められていました。
当時御所には帝の食事を用意する専門の役所まで設置されていました。
内膳司といいます。
記録によると調理人だけでも40人。
下働きの者まで合わせると100人以上の役人が所属していた大規模な組織でした。
帝が日中のほとんどを過ごしたのがこの昼御座。
ここで国の将来を左右する重要な法律を決裁したり臣下の報告を受けたりしました。
興味深い仕掛けが残されています。
帝に呼び出された臣下が通る一角。
(板を踏む音)板を踏むと大きな音が鳴るようになっています。
鳴板というこの板自分の次に呼び出された者に順番が来た事を知らせるためのものだったといわれています。
帝を待たせないようにするために考え出された仕掛けです。
歴代の帝が生活を営んできた京都御所。
御所は今も天皇陛下や皇族方が京都を訪ねられた折に使用される現役の施設です。
御殿や庭は四季を通じて常に美しい状態が維持されています。
御所の景観を保つための大切な作業が始まろうとしていました。
巨大な松の剪定です。
松は一年中緑を絶やさない事から繁栄のシンボルとして植えられたといいます。
御所のさまざまな手入れを担うのは選ばれた匠たち。
毎年のようにその顔ぶれは変わり今回松の剪定を任されたのは…熟練の庭師です。
高さ20メートルに及ぶ御所の松を手入れするためには道具も特別にあつらえたものを使います。
長柄鎌という長さ4メートルにも及ぶ鎌です。
刃が上下についています。
身動きのとれない木の上でこの長柄鎌が威力を発揮します。
鎌を押すだけで枝を剪定する事ができるのです。
上に伸びようとする枝を切り落とし全体をやわらかい印象に仕上げるのが御所の松の剪定。
この長柄鎌を扱える職人は京都でも僅かしかいません。
匠たちが守り継ぐ御所の景観。
中でも手間も人手もかかるのが御殿の屋根です。
檜の皮で葺く…1,300年前から伝わる日本独特の工法で檜皮を積み重ねた美しい曲線が特徴です。
しかしこの檜皮葺30年も風雨にさらされると傷みが目立つようになり定期的な葺き替え作業が必要になります。
作業に当たるのは全国から集められた屋根葺き師たち。
横一列に並び檜皮を一枚一枚素早く並べていきます。
この時檜皮と檜皮の間隔はぴったり4分。
1.22センチ。
屋根の美しい曲線を生み出すためには僅かなズレも許されません。
檜皮をはり付けるのに使うのは竹の釘です。
口に30本もの竹釘を含むと次々に打ちつけていきます。
左手は檜皮を押さえていて右手しか使えないために編み出された匠の技です。
1坪の屋根を葺くために必要な檜皮はおよそ1,800枚。
その檜皮を集める作業もまた特別な匠の仕事です。
京都の北厳寒の山奥でその作業が行われていました。
高さ20メートル檜の巨木に取りつくこの人。
国内で僅か20人ほどしかいない檜皮を集める専門の職人原皮師です。
良質の檜を求めて全国を駆け回っています。
ロープ1本で体を支える命懸けの仕事です。
使い込んだ木のヘラを操るこの作業には森を守っていくための先人の知恵が込められています。
檜の皮は外側の外樹皮と内側にある内樹皮に分かれます。
森山さんが皮を剥ぐのは外樹皮だけ。
内樹皮を傷つけると木の成長を妨げてしまうからです。
こうして集められた貴重な檜皮を使った葺き替え作業。
見事な曲線を見せる新しい屋根が完成しました。
しかしまた30年ほどすれば葺き替えが始まります。
御所の屋根は匠たちの伝統の技によって営々と守られていくのです。
一本の桜が御所に春の訪れを告げます。
代々の帝がこよなく愛した紫宸殿の桜です。
帝から向かって左側に見えるため左近の桜と呼ばれてきました。
この桜が紫宸殿に初めて植えられたのは平安時代の初めです。
「源氏物語」にも主人公光源氏はこの桜の下で華麗な舞いを披露し宮中の女性たちを魅了したと記されています。
あでやかな左近の桜御所の暗い歴史も見つめてきました。
その最たるものが1467年に起きた…京の町が戦乱の舞台となり御所もまた苦境に立たされました。
その苦難の時代を物語るものが残っています。
御所の南側塀が続く一角に突然現れる小さなくぐり戸です。
10年を超えた応仁の乱。
各地にあった領地からの収入は途絶え帝の生活は困窮をきわめました。
当時の帝後柏原天皇は21年間も即位の礼を行う事ができませんでした。
自ら筆を執った書を大名に与えその礼を生活の足しにした帝もいたと伝えられています。
そんな帝を見るに見かねたある商人が毎日朝食を献上するようになりました。
この門は後にその商人川端道喜が通うためにつくられたもの。
道喜門と呼ばれています。
川端道喜の末裔は今も京都で店を構えています。
16代目夫人…川端さんの家には当時の御所の窮状を伝える古文書が残されています。
よく伝え聞いてますのは…絵には御所の変わり果てた状況が描かれています。
壁は崩れたまま放置。
檜皮の屋根には雑草が生い茂っています。
御所の窮状は応仁の乱のあとも100年近く続きました。
その御所に救いの手を差し伸べた人物がいます。
あの豊臣秀吉です。
天下統一を間近に控えた秀吉は全長2キロにわたる行列を率いて御所にやって来ました。
そして帝を自分の屋敷に招待し盛大にもてなしました。
秀吉に付き従うのはかつてライバルだった武将たち。
秀吉は帝との関係の深さを見せつける事で天下統一を円滑に進めようともくろんだのです。
更に秀吉は帝のために御所の中に巨大な御殿まで建ててしまいます。
御所最大の建物…創建当時の建物は焼けてしまいましたがその後徳川家によって建て直されました。
中には帝の寝室や女官の部屋など大小15の部屋があります。
南側にあるのが帝が臣下と対面する部屋。
いわば帝の応接室です。
部屋を飾るのは金箔で覆われた障壁画26枚。
黄金の茶室を作り上げた秀吉の好みを彷彿とさせる豪華なものです。
帝が座る席。
その背後にはひときわ鮮やかな絵が飾られています。
狩野派の名手永岳の筆による「桐竹鳳凰図」です。
高御座の頂上にいた伝説の鳥鳳凰が自由に飛び交う様が描かれています。
鮮烈な青。
群青という当時中国の奥地で産出された最高級の岩絵の具が使われています。
この絵ではその群青を惜しみなく何重にも塗り重ね鮮やかで深みある青を生み出しているのです。
御所にある襖絵や屏風など障壁画はおよそ1,800枚にも上ります。
全てが当時一流の絵師が描いた国宝級のものばかり。
実は絵の一枚一枚には深い意味が込められています。
例えばこちらは中国の皇帝の逸話を描いたもの。
酒好きの皇帝のもとにある男が飛び切りの美酒を献上します。
酒を一口飲んだ皇帝。
味を褒めたたえながらも意外な事に男を遠ざけてしまいます。
このうまい酒を飲み続ければ国を滅ぼしかねないと恐れたのです。
「君主たる者酒に溺れてはいけない」という戒めです。
歴代の帝たちはこうした教訓や戒めに囲まれながら暮らしていたのです。
7月。
祇園祭の山鉾が都大路を巡行する頃京の町は夏の盛りを迎えます。
(囃子)盆地のため夏は厳しい暑さに見舞われる京都。
(囃子)御所には京の夏をしのぐために作られた特別な場所があります。
風の吹き抜ける廊下を行くとその先にあるのが御涼所。
帝が夏を過ごす場所です。
(せみの声)庭には遣水という小さな川が設けられ涼やかな水の音が響いています。
(水音)建物は襖を開けると東から西へ風が吹き抜ける構造になっています。
襖の絵も涼しさを感じさせる淡い色づかい。
明治天皇は東京に移ったあともここを懐かしみ歌を詠んでいます。
10月御所を訪ねる一人の匠がいました。
襖や障子を修理する表具師です。
松村さんは15年にわたり御所の障壁画の修復作業を行っています。
湿気によって紙が伸び縮みを繰り返すと亀裂が入ります。
一旦入った亀裂は修復はできますが決して元どおりにはなりません。
そこで松村さんは亀裂が入る前に予防のための修理を任されています。
まずは襖から絵を取り外します。
描かれてから150年以上経過した障壁画。
慎重に作業を進めます。
襖絵は絵の下に下張りと呼ばれる紙を何枚も張り形が崩れるのを防いでいます。
通常は骨組みの上に5枚から6枚の紙を張りますが御所の襖はその倍以上も重ねてあります。
最も重要なのが絵の裏に直接貼る裏打ちという紙です。
裏打ちには湿気による伸び縮みの少ない丈夫な紙が求められます。
裏打ちに使われる紙もまた匠の技の結晶です。
京都府北部の丹後半島。
御所で使われる裏打ちの紙はここで作られていました。
清流にさらしているのは和紙の原料…奈良時代からほとんど変わらない伝統的な技法で和紙を作り続けています。
かつてこの地域には200軒の和紙職人がいましたが今は田中さんただ一人。
楮を栽培する農家もほとんどいなくなりました。
そのため田中さんは自ら楮の栽培にも取り組んでいます。
(取材者)この今横にけばだっているのが繊維ですか?寒冷なこの土地では楮の成長が遅く繊維の長さが短くなります。
この楮が御所が求める丈夫な和紙に必要だといいます。
田中さんは紙を漉く時にも工夫をしています。
楮を溶かした水の中で簾桁と呼ばれる道具を揺すり繊維を絡ませる作業。
通常は縦方向にだけ揺すりますが田中さんの場合横にも揺すります。
楮の繊維がより複雑に絡まるようにしているのです。
御所の襖絵を支える特別な和紙が完成しました。
繊維が縦横に複雑に絡み合い伸び縮みしにくい丈夫な和紙です。
田中さんが丹精込めた和紙を使って松村さんが裏打ちを行います。
満遍なくのりをつけ絵の裏に和紙をぴったりと貼り合わせます。
裏打ちを終えた襖絵は再び御殿に戻されました。
金色に輝く御所の襖絵。
表側からでは決して見えない匠たちの技で守られています。
平安の昔から続く京都御所の伝統を守り伝えるために研鑽を重ねる人たちがいます。
この日御所の一角に正装をして集まった男たち。
京都御所を管理する宮内庁京都事務所の職員です。
ある技を伝承するため定期的に稽古を続けています。
衣紋道という平安時代から伝わる日本最古の着付けの作法です。
この日は束帯という貴族の正式な衣装の着付け。
ベテラン職員が講師となり作法を伝えます。
衣紋道では手のさばき方から着付けの順番までが厳格に定められています。
この稽古は皇室の特別な儀式のために続けられています。
大喪の礼と即位の礼です。
これ裏返ってる。
ちゃんと。
30年近くこの衣紋道を学んできました。
その技を披露したのはこれまでに2回。
昭和天皇の大喪の礼と今の天皇陛下の即位の礼でした。
自らの技術を磨くとともに後輩への作法の伝承に力を入れています。
11月京都御所は一年で最も美しい季節を迎えます。
御殿を吹き抜けるひんやりとした秋の風。
この季節御所は日一日とその姿を変えていきます。
帝のために造られた特別な庭御内庭です。
代々の帝はこの庭で茶会や歌会を催し深まる秋の景色を愛でました。
(鳥の鳴き声)江戸時代末期の帝孝明天皇が庭を見て詠んだ歌です。
歴代の帝たちが愛し数々の宝で彩られた京都御所。
その中にふだん誰も立ち入る事のない場所があります。
帝にとって特別な意味を持つ宝を保管する部屋です。
その宝は「日本書紀」に「三種寶物」と記されている三種の神器。
帝の正統性の証しとなる宝です。
伊勢神宮に納められている絵に三種の神器が描かれています。
日本武尊が使ったといわれる剣です。
その分身とされる剣が御所に祭られてきました。
残る2つの宝は…天の岩屋に隠れた天照大神を誘い出すために使われたと伝えられています。
剣と曲玉は即位の礼の時に玉座の両脇に置かれる皇位の象徴です。
その実体は謎に包まれ代々の帝ですら見る事ははばかられるといわれてきました。
京都御所に置かれていた三種の神器は明治維新のあと東京の皇居に移されました。
しかし三種の神器が保管されていた部屋は今もそのまま残されているといいます。
今回その部屋をテレビカメラで撮影する事が初めて許されました。
部屋があるのは御常御殿の中。
帝の応接室の奥。
あの鮮やかな鳳凰の絵の向こう側です。
部屋は定期的に畳を張り替え美しい状態に保たれていました。
その一角にある襖絵。
襖の奥が剣と曲玉の保管場所です。
中にあったのは白木の台。
2つの宝はここに置かれていました。
最後の一つ鏡は天照大神の魂が宿った宝とされています。
伊勢神宮に本体が納められ御所にはその分身が祭られていました。
御所の中にはその鏡を保管するためにだけ設けられた建物があります。
春興殿です。
春興殿に祭られていた鏡もまたほかの2つの宝と共に明治の初めに東京に移されました。
今の建物は大正時代に入ってから新たに建てられたものです。
京都御所では今でも春興殿を定期的に補修し使用できる状態を保ち続けています。
歴代の帝とともに日本の歴史を見つめてきた京都御所。
平安の世から戦国乱世江戸の太平そして明治維新。
平成27年元旦。
この地が都と定められてから1,221回目の新しい年です。
2015/02/11(水) 15:05〜16:05
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「京都御所〜秘められた千年の美〜」[字][再]
代々の帝(みかど)が暮らした京都御所を通年取材。豪華な装飾の玉座、黄金の障壁画1800枚、神話の時代から伝わる宝を祀った部屋。至宝の数々と美しい御所の四季を記録
詳細情報
番組内容
代々の帝(みかど)が暮らし、日本の歴史を生み出してきた京都御所に、カメラが入ることを許された。豪華な装飾を施された玉座、黄金に輝く障壁画1800枚、神話の時代から伝わる究極の宝をまつった部屋、平安から続く美や伝統を守るたくみたちの類いまれなる技。御殿の庭では、かつて帝(みかど)がめでた深紅の紅葉が見るものを圧倒。知られざる至宝の数々と、四季折々に様々な表情を見せる御所の姿を、高精細4Kカメラで記録
出演者
【出演】信州大学准教授…佐藤全敏,京都産業大学名誉教授…所功,國學院大学文学部准教授…矢部健太郎,【語り】柴田祐規子
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
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