どこの誰かは知らないけれどなぜだか妙に懐かしい。
明治時代の庶民の映像です。
こちらは昭和の初めの東京。
高速道路に覆われていなかった時代お江戸日本橋の上には大きな空が広がっていました。
一方これは大正時代の関東大震災。
火災の猛威を捉えた歴史的な記録です。
実はこれらの映像は全てもともと白黒フィルムで撮影されたものでした。
NHKは2年前から白黒映像をカラー化するプロジェクトをフランスのチームと進めてきました。
世界中からおよそ500時間の記録映像を収集。
さまざまな分野の専門家100人以上の知識を結集して色の特定に挑みました。
綿密な時代考証を重ね最新のデジタル技術を駆使して可能な限り現実に近い色によみがえらせたのです。
カラー化の舞台は2020年のオリンピックパラリンピック開催を控えた日本の首都東京です。
明治から昭和までニュース映画やプライベートフィルムなどおよそ800カットの色彩を復元。
東京カラーアーカイブを完成させました。
昭和の初め銀座では鮮やかな服を着たモダンガールがかっ歩。
夜の街にはネオンが輝いていました。
しかし僅か10年で街は華やかさを失い戦争へと突き進んでいきます。
同じ場所に注目すると街の表情が目まぐるしく移り変わった様子が際立ってきます。
繰り返される自然災害。
それを耐え抜いてきた人々。
東京の歴史は不思議な運命の糸でつながっています。
震災と戦争。
2度も焼け野原となりながら不死鳥のようによみがえり繁栄を築いてきた東京。
初公開のフルカラー映像でよみがえる100年の物語。
さあ映像のタイムトラベルに出かけましょう。
(エレベーター)「NextstopistheTOKYOSKYTREETEMBODECKfloor350」。
地上高く地下深く。
世界に類を見ないスピードで日々刻々と姿を変えるメガシティー。
日本の首都東京です。
この街の歴史が記録フィルムに残されるようになったのは今からおよそ100年前の事。
そのころに撮影された貴重な映像が最近発見されました。
千葉県にある危険物専用の倉庫。
引き取り手のないまま保管されている可燃性フィルムの山の中にその映像は埋もれていました。
タイトルは…大正6年は西暦1917年。
海外では第1次世界大戦が続きロシア革命が起こった年でもありました。
一体何が映っているのか。
修復したフィルムをまずは白黒のままハイビジョンの映像に変換しました。
大正時代の東京です。
フィルムのところどころには場所を示す表示もありました。
28分に及ぶ「東京見物」は当時の東京を代表するおよそ20か所の風景を一本にまとめた記録映像でした。
ではこの時代の東京はどのような色彩に彩られていたのでしょうか。
時代考証に基づき色彩を復元した「カラーでよみがえる東京」です。
皇居前広場から見た丸の内。
まるで西洋を思わせる町並みです。
明治維新から半世紀。
世界の1等国を目指していた大正時代。
丸の内は東京の表玄関でした。
赤煉瓦の東京駅。
1914年に完成した直後の姿です。
こちらは神田の万世橋駅。
赤煉瓦の建物は街の至る所に建てられていました。
駅前の須田町交差点は現在の秋葉原のすぐ近く。
当時の東京で一二を争う交通量でした。
当時の資料を調べると既に赤と緑の2色が交通信号として使われていました。
また交差点には大きな銅像が建てられていました。
日露戦争で国民的ヒーローになった海軍の広瀬中佐と杉野兵曹長です。
部下を最後まで見捨てる事なく戦死を遂げ軍神第1号となった広瀬中佐。
銅像は市民からの寄付金で造られこの場所に設置されました。
・「軍神広瀬とその名残れど」桜の名所上野公園にもあの有名な銅像がありました。
高台から街を見下ろす西郷さん。
広瀬中佐の銅像と人気を二分する存在でした。
こちらは浅草。
江戸時代から続く盛り場でも近代化の影響が随所に見られます。
区画整理で誕生した六区には演芸館やオペラ館映画館が軒を連ねていました。
六区の突き当たりに建てられたのが日本初の西洋式展望塔凌雲閣。
浅草十二階の名で親しまれた当時最も高い建物でした。
いち早く煉瓦街が整備され西洋文化の発信地となった銀座。
オレンジ色の路面電車は赤電車と呼ばれ市民の足となっていました。
日比谷の高架橋を行き交うぶどう色の電車や汽車。
現在の東海道新幹線や山手線の元祖です。
交通商業の中心地として栄えたお江戸日本橋。
この界わいでも近代化が加速していました。
木造だった橋はルネサンス様式の石の橋へと架け替えられていました。
江戸の台所と呼ばれた魚河岸。
荷揚げ場は拡張され3階建ての白壁の倉庫が立ち並んでいます。
こちらは10年時を遡った明治後期。
フランス人が撮影した映像をカラー化したものです。
奥に見えるのが木造の日本橋。
小舟のひしめく魚河岸など江戸の風情がまだ残っていました。
江戸から東京へまっしぐらに西洋化の道をひた走っていた時代。
日本を訪れた外国人はその中でも変わる事のない日本人のある表情に注目していました。
ジャパニーズ・スマイル。
不思議なほほ笑み。
明治時代東京に滞在したフランス人画家の言葉です。
明治から大正にかけて撮影された人々の日常をカラー化しました。
・「オッペケペーオッペケペーオッペケペッポーペッポッポー」・「おやじの職業は知らないが娘は当世の束髪で」・「言葉は開化の英語にて何にも知らずに知った顔」・「むやみに西洋振り回し日本酒なんぞは飲まれない」・「ビールにブランデーベルモット」・「腹にも馴れない洋食を」・「むやみに食うのも負け惜しみ」・「内証でこっそりへどはいて」・「澄ました顔してコーヒ飲む」・「おかしいネおよしなさい」・「オッペケペーオッペケペーオッペケペッポーペッポッポー」この時期日本は10年ごとに対外戦争を繰り返していました。
そして第1次世界大戦で戦勝国となり5大国の一角を占めるまでになっていきます。
大正時代の東京を空から撮影したフィルムも残っていました。
当時の東京市の人口は220万。
人口密度は現在の東京23区のおよそ2倍に達していました。
明治維新から50年余りで出現した超過密都市東京。
その行く手には過酷な試練が待ち構えていました。
春の花見に夏の花火。
四季折々を楽しむ人々が集う隅田川。
しかし91年前こののどかな水辺が未曽有の悲劇の中心地となりました。
マグニチュード7.9の巨大地震が半世紀をかけて築き上げた東京の町並みを壊滅させました。
その96%が市内100か所以上から同時多発的に発生した火災によるものでした。
記録映像をカラー化すると被害を拡大させた火災の猛威が生々しくよみがえってきます。
被災した若い女性の手記です。
あの「東京見物」で撮影された各地の名所も無残な姿に変わっていました。
西洋建築が立ち並んでいた丸の内。
警視庁から出火した火災が隣接する帝国劇場に燃え広がっていました。
浅草十二階の愛称で親しまれた凌雲閣。
8階から上が崩れ落ちていました。
広瀬中佐の銅像が建つ須田町交差点でも赤煉瓦の駅舎が倒壊。
文明開化を象徴する銀座も灰じんに帰していました日本橋の周辺も炎に包まれました。
橋のたもとにあった魚河岸は完全に焼失。
江戸時代から300年続いた歴史が途絶える事になりました。
桜の名所上野公園。
行き場を失った50万人の被災者が集まり東京最大の避難所となっていました。
西郷さんの銅像に貼られていたのは安否を知らせる張り紙です。
臨時の掲示板になっていました。
大混乱に陥った被災地では流言飛語が乱れ飛び自警団が朝鮮人などを殺害する事件も起こりました。
その一方で震災直後のフィルムからは被災者たちのもう一つの姿が見えてきます。
配給の行列に並び自分の順番が来るのをじっと待ち続ける人々。
その整然とした姿を目にした驚きを駐日フランス大使のポール・クローデルはこう書き残しています。
更にはカメラの前であのジャパニーズ・スマイルを浮かべる人々も撮影されていました。
怒りや悲しみは表に出さず前を向こうとする人々。
その心意気はこの年流行した「復興節」にも表れていました。
復興は文明開化の象徴だった赤煉瓦の建物を爆破して始まります。
未曽有の苦境を新しい時代へのチャンスと捉えるたくましさは江戸から明治への激動期にも通じるものでした。
東京のど真ん中に広がる皇居前広場です。
関東大震災の時には多くの被災者が身を寄せていたこの広場で新たな時代が幕を開けました。
漆塗りに金の装飾の馬車。
即位式のため東京駅へ向かう昭和天皇です。
震災の時には病弱だった大正天皇に代わり摂政宮として被災地を視察。
首都をうつす案を否定し東京を震災前より発展した町に復興させる方針を国民に示しました。
震災から僅か7年後。
東京は不死鳥のようによみがえります。
区画整理によって街路が整備されより近代的な町並みへと生まれ変わりました。
その象徴が東京に張り巡らされた幹線道路でした。
東京の新たな名所も続々と誕生しました。
昔から花火で名高い両国の川開きはこの橋の左右で毎年7月中頃行われております。
・「花咲き花散る宵も」・「銀座の柳の下で」・「待つは君ひとり君ひとり」・「逢えば行くティールーム」・「楽し都恋の都」・「夢のパラダイスよ花の東京」復興した銀座ではモダン文化が花開きます。
古風な日本女性のイメージを打ち破るモダンガールモガが街をかっ歩。
流行を追いおしゃれを楽しむライフスタイルが一世をふうびします。
新しいものへそろって熱を上げる様子はほかでも撮影されていました。
この長い行列の先にあるのは完成したばかりの神宮球場です。
アメリカから輸入された野球が既に国民的なスポーツとなっていました。
野球場の周りは明治神宮外苑として整備され多くのスポーツ施設が完成。
東京はオリンピックの招致にも動き始めます。
皇居前広場でも熱狂する人々が撮影されています。
映像をカラー化すると日の丸と共に黄色い旗が交じっていました。
震災から8年後満州事変が勃発。
中国大陸で日本の関東軍が勢力を広げ傀儡国家である満州国の建国が宣言されたのです。
昭和恐慌と呼ばれる不況のさなか人々は満州の権益を守れと軍の行動を熱烈に支持しました。
しかし当時のプライベートフィルムからは戦争とは無縁の日常があった事も伝わってきます。
1936年19歳の大学生が撮影した映像が最近発見されました。
このモダンボーイが夢中になっていたのが宝塚少女歌劇。
日比谷の劇場に通い撮影していた舞台の様子をカラー化しました。
フランスのレビューを下敷きにした宝塚歌劇。
不況や軍の台頭とは裏腹に華やかなモダン文化は最盛期を迎えていました。
実はこの映像が撮影されたのと同じ年東京の人々を震撼させる事件が起きていました。
陸軍青年将校たちが要人を殺害し永田町周辺を占拠。
クーデターを企てます。
反乱は鎮圧されますが軍部が政治の実権を握る大きな転換点となっていきます。
モダン文化が花開いた銀座の夜。
映像をカラー化すると豊かな色彩にあふれた町の姿が際立ってきます。
色鮮やかなネオンとそれを包む真っ暗な闇。
昭和初期の東京は新しい文化への熱狂と忍び寄る軍国主義が危うい均衡を保っていたのです。
明治以来新たな文化の発信地として時代の先頭を走り続けてきた銀座。
しかしその銀座が戦争への激流にのみ込まれるまでに長い時間はかかりませんでした。
震災復興から7年後に撮られた白黒フィルムには出征する兵士に贈るお守り千人針を縫う女性の姿が映っています。
映像をカラー化すると着物の鮮やかさが浮き立ってきます。
モダンガールもいつの間にか戦争に協力するようになっていました。
転機となったのは日中戦争でした。
満州事変以来くすぶっていた中国との関係が悪化。
偶発的な武力衝突から戦闘が拡大します。
東京の幼稚園で撮影されたフィルムからは戦争気分が子どもにまで広がっていた事が分かります。
防毒マスクのお面をかぶり日本軍の活躍を見よう見まねで演じる子どもたち。
暴虐な中国を懲らしめよという陸軍のスローガンが浸透し中国に対する敵がい心が高まっていきます。
1938年には国家総動員法が公布され暮らしの隅々にまで戦時色が強まっていきました。
この1938年が一つの潮目となりました。
戦争の勝利とその先にある豊かな暮らしを願って人々はお国のために長い列を作るようになっていったのです。
出征する兵士を見送る壮行行事。
女性たちは色鮮やかな着物を覆い隠すようにそろいの上着を着るようになっていました。
戦争によって東京市民の夢も奪われる事になります。
1940年の開催が決まっていた東京オリンピックの中止です。
競技場の建設など準備が進む中政府は中国との戦争に国力を集中するためオリンピックの開催返上を決めたのです。
更には空襲に備えて防空法も制定され灯火管制が行われるようになります。
浪費やぜいたくが戒められモダン文化の象徴だったネオンも消されていきました。
町が色を失っていく中で際立ったのが白馬にまたがる昭和天皇の姿でした。
オリンピックが開催されるはずだった1940年東京では大規模な陸軍観兵式が行われます。
気が付けば国民一丸となって戦争に突き進んでいた当時の世相を作家永井荷風は日記に記しています。
ついに太平洋戦争へ突入した1941年12月8日東京の空は快晴でした。
真珠湾攻撃で始まったアメリカとの全面戦争。
しかし当初の勢いは長くは続かず半年後にはアメリカとの力の差が明らかとなっていきます。
4年に及ぶ総力戦は東京と人々の暮らしを根底から変えていきました。
銀座のど真ん中4丁目の交差点。
モダンガールが歩いていた歩道にはB29の爆撃に備えて防空壕が掘られました。
日本橋の町なかで行われていた防空演習。
当時の防空法では空襲の際避難が禁じられ地域で消火に当たる事が義務づけられていました。
勇ましい記念行事の裏で太平洋の島々では玉砕戦が始まります。
しかし国民に正確な戦況が伝えられる事はありませんでした。
上野の西郷さんの前では出征する学生の壮行会が開かれていました。
(歌声)戦死者が増え続ける中兵力を補うために駆り出されていく学生たち。
一方女性たちは軍需工場などに駆り出され勤労奉仕に明け暮れました。
服はそろいのもんぺ姿。
着飾る事など考えられない時代になっていました。
関東大震災の直後に造られたスポーツの聖地神宮外苑競技場。
人々の記憶に長く刻まれる事になる式典が1943年10月ここで行われました。
色のない時代の色のない映像。
この日スタンドから学徒兵を見送った一人の女学生の言葉をカラー化した映像に重ね合わせました。
昭和18年10月21日。
天皇陛下万歳!
(一同)万歳!
(東条)万歳!
(一同)万歳!しかし戦況は悪化の一途をたどりアメリカ軍による本土空襲が本格化します。
日本にはもはや首都東京を守る力はありませんでした。
これは銀座のど真ん中で撮影された空襲直後の写真です。
防空法に従い燃えさかる炎に立ち向かう人々。
そしてこの2か月後東京の町は運命の日を迎えます。
3月10日の東京大空襲。
ある写真家の手記です。
犠牲者の中には地域の消火活動に加わったために逃げ遅れた人も少なくありませんでした。
市街地への無差別爆撃はその後も続きました。
東京の空襲による死者は関東大震災を上回る11万5,000人。
こうして東京の町は震災から22年で再び焼け野原となったのです。
1945年8月15日。
日本の敗戦を知らせる玉音放送が町に流れます。
この日も日米開戦の日と同じように東京には青い空が広がっていました。
目まぐるしく移り変わる東京の歴史を静かに見つめてきた上野公園の西郷さん。
敗戦の直後も震災の時と同じようにその周りは被災した人々であふれていました。
映像からは子どもから大人まで汚れた服を身にまとい必死に命をつないでいた現実が浮かび上がってきます。
敗戦というどん底の時代を人々はどんな思いで生きていたのか。
当時の庶民の素顔を記録したプライベートフィルムが今回新たに見つかりました。
その映像をカラー化しました。
映像を提供してくれた男性の言葉です。
焼け野原の中の屈託のない笑顔。
フィルムには解放感に包まれた家族の姿が映し出されていました。
敗戦直後に撮影された映像を見直してみると戦時中には見る事のなかった豊かな表情が端々に記録されていました。
また戦時中は自粛していた下町の祭りが敗戦の翌年の春には早くも復活していた事が分かりました。
みこしは関東大震災のあとに新調され空襲を生き延びたものです。
力を合わせて逆境を生き抜くたくましさ。
それが東京を再び不死鳥のようによみがえらせる原動力となります。
そして日本はアメリカから新たな統治者を迎え入れます。
占領政策を指揮する連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー。
かつての敵国の支配の下東京の戦後復興が始まりました。
首都東京を拠点にマッカーサーは絶大な権力を振るって日本の非軍事化と民主化を目指します。
一方昭和天皇は人間宣言を行い神格化された戦前の権威を打ち消しました。
敗戦直後のフィルムには人々の価値観の急速な変化も刻まれています。
(「東京の花売り娘」)・「青い芽をふく柳の辻に」・「花を召しませ召しませ花を」・「どこか淋しい愁いをふくむ」・「瞳いじらしあのえくぼ」・「あゝ東京の花売り娘」人々の心境の変化を物語るもう一つの映像が見つかりました。
終戦の翌年1946年正月の皇居前広場です。
玉音放送に涙した日から4か月余り。
人々は晴れ着に身を包み新たな年を迎えていました。
この年の11月同じ皇居前広場に10万人の大群衆が集まり戦後の新たな出発を祝いました。
日本国憲法の公布を記念する式典です。
(一同)万歳!
(一同)万歳!
(吉田)万歳!
(一同)万歳!新憲法には戦前にはなかった国民主権や戦争放棄などの原則が盛り込まれました。
戦争指導者の責任を問う裁判も進んでいました。
極東国際軍事裁判東京裁判です。
起訴されたA級戦犯28人のうち死刑となったのは7人。
その陰でもう一つの戦犯裁判も進められていました。
かつてあれほど尊敬を集めた広瀬中佐像は忌まわしい過去の象徴として葬り去られました。
なぜ日本は戦争に突き進んでしまったのか。
その責任を一部に押しつける風潮に厳しい目を向ける人もいました。
映画監督伊丹万作の言葉です。
1951年数々の占領政策を断行したマッカーサーが日本を去ります。
この年日本はアメリカとの安全保障条約に調印。
かつての敵と同盟関係を結びます。
占領期の7年間で180度転換した価値観。
それは関東大震災から復興までの7年そこから日中戦争に至る7年と重なり東京の変化の目まぐるしさを物語っていました。
戦後の日本は経済復興を最優先に突き進んでいきます。
そのシンボルとなったのが当時世界で最も高い東京タワーの建設でした。
1957年戦後のベビーブームで東京の人口は850万人を突破。
世界最大の都市となります。
戦争で奪われた夢を取り戻そうと東京はオリンピックの招致に再び動き始めていました。
地方から東京へ一極集中も進みました。
上野駅に降り立つ中学を卒業したばかりの若者たち。
金の卵と呼ばれた彼らが経済発展の担い手となっていきます。
戦時中出征する若者たちを各地の部隊へ送り出したのも上野駅でした。
それから15年。
上野は若者たちを労働力として迎え入れる駅に変わっていました。
焼け野原となった銀座にも華やかさが戻ってきます。
戦前のモダンガールさながらに女性たちが着飾ってウインドーショッピングを楽しんでいました。
戦後誰もが目指す目標となった経済的な豊かさ。
一方その裏側でアメリカへの依存が高まる事へ反発する動きも出てきます。
1960年の安保闘争。
「安全保障条約はアメリカの戦争に日本を巻き込むだけだ」。
反対する若者と警察との衝突は流血の事態へと発展しました。
(ラジオ)「目の前で警官隊が警棒を振るっております。
『コノヤローバカヤロー』と言っております」。
豊かさへの憧れと政治への不信。
(拍手)そんな東京の若者たちの引き裂かれたアイデンティティーは当時のアメリカのテレビ番組でも大きく取り上げられていました。
番組では作家の三島由紀夫が戦後世代の代弁者として選ばれ取材に応えていました。
揺れる時代の中で再び人々を一つに結び付けたのがオリンピックの招致決定でした。
悲願だった東京オリンピック。
その成功に向けて東京の大改造が始まりました。
中心となったのが首都高速道路の建設。
工期は僅か5年。
突貫工事が進められます。
用地買収の手間を省くため設置場所に選ばれたのが川や水路の上。
この時大きく姿を変える事になったのが日本橋でした。
古い赤煉瓦の建物が生き残り大正時代の面影をとどめていた日本橋。
しかし風景を一変させる道路建設に異議を唱える人は当時ほとんどいませんでした。
かつての日本橋です。
過去にとらわれず常に新しいものを受け入れ変わっていく東京の姿がここにもありました。
1964年10月10日。
快晴の下で東京オリンピックの開会式が行われました。
会場となった神宮外苑の競技場は戦時中出陣学徒壮行会が開かれた場所でもありました。
学徒出陣と東京オリンピック。
その両方をスタンドから見ていた作家の杉本苑子さんの言葉です。
(実況)聖火の入場であります。
オレンジの炎…。
明治時代東京の威信を懸けて造られた日本橋。
石造りの橋にはこの100年の間に目まぐるしく通り過ぎた東京の歴史が刻まれています。
そしてオリンピックから半世紀。
映像がカラーで記録される時代になっても東京の波乱に満ちた歩みと人々の喜怒哀楽は不思議な運命の糸でつながりながら繰り返されてきました。
来るべき2020年の東京オリンピックパラリンピック。
そして更にその先の未来へ。
東京に何を創り何を残すのか。
カラーでよみがえった100年の歩みが問いかけています。
2015/02/11(水) 09:05〜10:20
NHK総合1・神戸
NHKスペシャル「カラーでよみがえる東京〜不死鳥都市の100年〜」[字][再]
東京を撮影した白黒の記録映像を世界中から収集し、色彩を復元!初公開のフルカラー映像で描く東京100年の物語。激動の歩みを追体験するタイムトラベルへようこそ。
詳細情報
番組内容
2020年のオリンピック・パラリンピック開催で世界の注目が集まる東京。それは、100年の間に震災と戦争によって2度も焼け野原となりながら、不死鳥のようによみがえった巨大都市だ。NHKは今回、東京を撮影した白黒の記録映像を世界中から収集し、現実にできるだけ近くなるよう色彩の復元に挑んだ。初公開のフルカラー映像で描く東京の100年。激動の歩みを追体験する映像のタイムトラベルへようこそ。
出演者
【語り】松平定知,【朗読】八千草薫,糸博,中村秀利,宗矢樹頼,樫井笙人,七緒はるひ
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
ニュース/報道 – 報道特番
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