イスラム主義と左派――シャルリ・エブド襲撃事件に記して


帝国主義および近代化への抵抗――イスラム過激派が「左派」と称される所以

 

左派の中には、イスラム過激派が西洋の帝国主義の産物というより、帝国主義への対抗形式のひとつだと考える者もいる。この立場は、イスラム過激派がどのような人々を魅了しているにせよ、過激派は根本的に虐げられている人々のイデオロギー、すなわち左派政治の変わり種のひとつだとみなすものである。アメリカのイラク侵攻に抵抗するスンニ派やシーア派民兵の行為が「レジスタンス」だという左派の著述家の中には、意図的にナチスに抵抗するフランスのレジスタンスを連想させようとする者もいる。

 

しかし、アメリカに抵抗して戦うといった事実以外に、イスラムの民兵と左派との間に共通項は何ひとつない。こうした傾向は、中東国際政治の専門家フレッド・ホリデーが2007年に『ディーセント』誌に寄稿した「愚か者のジハーディズム」で指摘していた事実である。しかし、翌年にはスラヴォイ・ジジェクがした主張、つまりイスラム急進主義は「資本主義グローバリゼーションの被害者の怒り」だとして、こうした指摘もかき消されてしまった。ここでジジェクは、イスラム教とその他の宗教に対し「敬意を表するがゆえに容赦ない批判」したのだから、少なくとも彼はイスラムフォビア呼ばわりされるのを恐れなかったと認めざるを得ない。しかし、イスラム主義者と彼自身の怒りが同じものだと考えている限り、彼の批判は決して正しく理解されることはない。

 

思想家ジュディス・バトラーも同様の誤りを犯している。彼女は「ハマスとヒズボラは革新的な社会運動であり、左派に属する、グローバルな左派の一部として理解することはとても重要である」という。2006年にこう主張した彼女は、2012年になって、無視できない修正を加えて、同じ主張を繰り返した。すなわち、ハマスとヒズボラは反帝国主義であるゆえグローバルな左派に属している、しかし自分はいかなるグローバルな左派を支持せず、これら組織の暴力は特に支持しない、としたのである。二番目の修正は嬉しく思うが、左派の定義は2006年の時と同じく、誤ったままだ。それは、意味ある間違いだったかもしれない。なぜなら、なぜ多くの左派がハマスやヒズボラを支持、あるいは積極的に批判しないのかを説明するからだ。これらの組織を「左派」たらしめている条件は唯一、イスラエルと戦っていること、つまりは帝国アメリカと戦っていることのみである。

 

反帝国主義者のみならず、ポスト近代主義者も、イスラム過激派に手こずっている。ミシェル・フーコーのイラン革命の暴力性への釈明を思い出そう。彼は、イランは「我々と同じ誠実さの体制を持ち合わせていない」と言ってのけた。この種の文化相対主義はもはや定型句のようになっている。イスラム国家における文化的な逆転を見事に描いた『テヘランでロリータを読む』の著者アーザル・ナフィースィーは、移住先アメリカはボストンでのインタビューで次のように答えている。「西洋に来てから、きっと良い意味で、あるいは進歩的な観点のつもりだからなのか『彼らの文化ですから』と言われることにとても腹が立ちました(略)それはまるでマサチューセッツでは魔女を火あぶりにする文化があるというのと同じです(略)それが、たとえ文化であったとしても真に非難されるべき一面はあるのであって、それが受け入れられてはならないと思う」。このように、良い意味で進歩的なことを言いたがる人々は、おそらくラディカルな多文化主義の支持者だろう。そして彼らは、マサチューセッツで行われない限りにおいて、魔女の火あぶりまでも認めかねないのだ。

 

ポスト・モダニストによるイスラム急進主義への最大の擁護はマイケル・ハートとアントニオ・ネグリによるものだろう。彼らは、イスラム主義そのものがポストモダンのプロジェクトだと主張する。「原理主義のポストモダン性は欧米のヘゲモニーの武器としての近代化に抵抗するものとして第一義的には認識されなければならない。そしてイスラム原理主義はその典型的な事象なのである」。そして、「イラン革命とは世界市場を強く拒絶するものであり、それゆえ初のポストモダン革命である」 とさえする。とはいうものの、現在、イランが世界市場への復帰をどれだけ望んでいるかを指摘することは、意地悪いことだろうか。

 

 

「西洋」の価値、引いては「左派」への挑戦

 

イスラム過激派に対する左派の一連の反応――同一化、支持、同情、謝罪、寛容、そして忌避――は、左派の本来のイデオロギーを考えれば、とても奇妙なことである。「西洋」に対するジハーディストの抵抗は、いかなる反応よりも先に、まず左派に深刻な不安をもたらさなければならないはずだ。ボコ・ハラムは「西洋式」の学校の襲撃から始めたし、他のイスラム組織も特に女学校への同様の襲撃を行っている。過激派は、「西洋」のものとして弾劾する価値である個人の自由、民主主義、男女の平等、そして宗教的多様性などを攻撃の対象としているのである。もちろん西洋の人々がこれらの価値に常に添って生活しているわけでは決してない。その価値を擁護しなければならない時にこそ、できないでいることも多々ある。しかしこれらは、それがいかに偽善であっても、主義や信念があるふりをしてでも敬意を示すべき価値であり、西洋の人々の一部は少なくとも維持しようと努めている価値であることを忘れてはならない。

 

近年では、ロシアや中国が西洋の帝国主義や西洋の価値観の両方に異を唱えることもあるが、両国ともに帝国主義の敵対者というより、西洋と競う帝国主義勢力にみえる。これらの国のリーダーは時たま価値についての議論(孔子の教えである「調和」を中国の政治家が言及するように)を持ち出すが、自らが提唱する価値に強く傾倒しているようにもみえない。しかし、イスラム主義者は間違いなく価値に傾倒している。彼らには彼ら自身の壮大な野望があり、この限りない理想主義的な野望には物質的欲求が入り込む余地はない。彼らの過激主義は、神学的に動機付けられた価値的な過激主義であり、それゆえ「西洋」の価値への本来的な意味での挑戦者なのである。

 

もっとも、個人の自由、民主主義、男女平等、そして宗教の多様性は本来、西洋だけの価値ではない。それらは、まず西欧とアメリカで最初に最も強力かつ近代的な形で現れたにすぎない、普遍的な価値なのである。これらは左派を定義する価値でもあり、それが西欧とアメリカで強力かつ近代的な形で現れたにすぎない。左派とは、18世紀の発明、それも世俗的な啓蒙主義に基づく発明である。もちろん主たる宗教的伝統の中には、潜在的な意味で左派的な主張をする者もいた。平和主義者、コミュニタリアン、原始的な環境主義者、貧困層の代弁者、あるいは平等を信じる人々、さらに神の前では全ての者が平等であると信じる者などだ(男性の信者の間において、というべきかもしれないが)。

 

しかし、ヒンズー教やユダヤ教、仏教、イスラム教、あるいはキリスト教にですら、古典的な意味での左派が生まれることはなかった。左派の価値とは、重視されてきた「西洋」の価値である。従って、これらの価値への抵抗は本来左派が対決しなければならないものなのだ。そして、今現在では、その最大の抵抗者はイスラム原理主義なのである。そして、これこそがイスラム原理主義に対して左派が対決することを躊躇していることの理由になっているのだ。

 

それでは圧政や貧困に対する純粋な左派の運動とはどのようなものだろうか。第一は、虐げられている者の運動であり、それまで受身で、硬直的で、脅えていた人々が、自らの言葉で自らを語り、権利を守ろうと男女問わず立ち上がる運動のことである。第二に、その運動の目的が自由を実現すること、もっといって、これらの人々の自己の開放が実現されるものであることだ。こうした運動の原動力は、部分的には文化の固有性に影響されるものの、より自由でより平等な社会を作ろうとする男女問わない人々のビジョンであり、その政府がそれに呼応し説明責任を負うものであるはずだ。これらは、一般的に左派の志として定義できるものだ。それだけに、イスラム主義集団が、グローバルであるか否かを問わず、左派に属すると考える人がいることは、奇妙に思えてならない。

 

 

左派として、いま――イデオロギーの戦い

 

思うに、批判的に対応することが必要だとして、それでは左派はイスラム主義集団に対してどう対応すべきなのか。ここで軍事的対応を議論するつもりはない。イラクとシリア両国で国際的テロ組織としてのイスラム過激派が活動しているが、だからといって左派の戦闘員を募るのはできないのだから、彼らの派遣先を検討するのは無意味だ。少なくとも左派は、特に異教徒やの異端者の大量虐殺を止めるための軍事行為を支持すべきだろう(支持しない者も多いだろうが)。その後に、イスラム主義殲滅のための戦争(もしくは連続的な戦争)ではなく、いかにそれを封じ込めるかの政策を深く考えたいと、私は思う。それは、自らの身を焦がす熱となるかもしれない。大きな問題も生じるだろう。多くの人はその熱で火傷を負うが、左派は道徳的危険を冒してまでも、それを無視しなければならない。イスラム過激派の的となった者をいかに救出できるのかについて、私たちは何度も何度も、問い続けなければならないだろう。そのためには、私たちはまずイデオロギー闘争から始めなければならない。

 

この戦いにおいては、私たちはまずイスラム過激派とイスラム教とを明確に区別することから始めなければならない。そうする資格を私たちが備えているかどうかは疑わしい。評論家のポール・バーマンやメレディス・タックスは、イスラム主義を非難する際に細心の注意を払って両者を区別しようとしている。いずれにしても、ムスリム同胞団のハサン・アル=バンナーや原理主義者のサイイド・クトゥブ、インドのイスラム哲学者マウラーナー・マウドゥーディーなどのイスラム過激派と、イスラム教史上の合理主義哲学者や近現代の自由主義改革者との違いを特に主張していくべきである。十字軍の伝道者の説教とスコラ哲学を区別するのと全く同じ態度で臨まなければならない。

 

さらに、イスラム教徒やその周辺の教徒、そして過激派の反対勢力と関わり合いを持ち、彼らが求める支援に応えていかなければならない。過激派の反対勢力は数多く存在し、その中には活動家アヤーン・ヒルシ=アリのように左派の側から活動をスタートさせたものの、同志が少ないこともあって、右派へと移った者もいる。ポール・バーマンは著名なリベラル左派の有識者がヒルシ=アリにとった冷たい態度を酷評した。コラムニストのキャサ・ポリットは『ネーション』誌に寄せて、「我々左派やフェミニストは、アメリカン・エンタープライズ公共政策研究所(ネオコンのシンクタンク)が女性の権利を推進する大胆で複雑な活動家に対していかに勝利を収めたのか、多少なりとも自己批判的に考える必要がある」と、控えめかつ勇敢に述べている。

 

もちろん、イスラム主義だけでなくイスラム教に対するヒルシ=アリ固有の過激な怒りを我々が共有する必要はない。しかし、イスラムフォビアとみなされることに対する左派の恐怖心が、彼女の軌跡に大きな影響を与えたことを学んでおくのは意味がるあることだ。左派は、例えばキリスト教世界からの無神論者に対するのと異なり、イスラム教世界からの無神論者に対しては、奇妙なまでに無関心なのだ。

 

次に、科学と世俗主義の勝利は確実なものであるとする学術上の理論(それが左派の理論でもある)が、もはや正しいものではないということを認めなければならない。少なくとも、そのタイムスパンは正しくなかった。左派は今の「ポスト世俗時代」において、いかに世俗的国家を擁護できるのか、そして、ヒエラルキーと神権政治を是とする宗教から平等と民主主義をいかに擁護できるのか、その方途を考えなければならなくなっている。宗教の教義と実践の魅力は今日明らかになっており、人々に宗教過激派が全く魅力のないものだと納得してもらうには、その事実を認めることから始めなければならない。

 

第三に、過激派の力を認め、その政治的伸張についても認識しなければならない。過激派が私たちの敵であると明言し、それに抵抗できるだけの理知的な運動を展開すること、つまり、自由と民主主義、平等、多様性を守っていくことが必要だ。これは名高い「文明の衝突」に左派が加担すべきだ、という意味ではない。偉大な宗教的文明は全て等しく、暴力的に熱狂した信者を生むこと、平和を愛する聖人を生むこと、あるいはその中間に位置するもの全てを生むこともできるだろう。つまりは、イスラム主義を文明的な観点からではなく、イデオロギー的な観点から捉えるべきなのだ。「西洋」と左派の普遍的価値を支持する敬虔なイスラム教徒は少なくない。ヒンズー教やユダヤ教、キリスト教の経典の中にこれらの価値を支持する一節を探す宗教的左派と同じように、彼らもまたイスラム教の中にあるはずの一節を探しているのだ。

 

多くのイスラム教徒が住む国々で活動するWLUML(『イスラム法下の女性たち』)ネットワークは、特に男女平等に着目して、こうした調査を続けている。こうした女性たちは私たちの友人であり、敵対的な環境のなかで称賛されるべき力を発揮している。今日における支援以上の支援を左派から受ける資格がある。WLUMLのポルト・アレゲレで開催された世界社会フォーラム(WSF)での2005年の声明文には、こうある。

 

 

原理主義テロは貧者の富者に対する、第三世界の西洋に対する、人々の資本主義に立ち向かう道具では決してない。世界の進歩派に支持されるような正当な反応でもない。テロの主たるターゲットは、宗教の名において社会のあらゆる側面を支配しようとする神権政治の試みに抵抗しようとする、内部の民主主義的な抵抗勢力である。原理主義者が権力を手にした時、彼らは人々の口を封じた。異議を唱える者を物理的に排除し、女性を「本来の場所」に閉じ込め、そして、我々が経験上知るところによれば、囚人服を着せるところにまで行きつくのである。

 

 

この声明文はホリデーの「愚か者のジハーディズム」に対抗するアピールのようにも見える。そして世界社会フォーラムでは、WLUMLがイスラムフォビアだとした愚かな人々もいたことだろう。世俗主義的な左派は、ある種の宗教的な極端に対して適切な敵意を見せることもあるが、イスラム過激派への反応は鈍いままだ。

 

なぜここまで反応が鈍いのかを、最後にもう一度考えてみよう。

 

イスラムフォビアとされることに対する尋常でない恐怖心があるのというのが第一の理由だった。しかし、それに加えて関連する理由として、イスラム教徒は西洋に反抗する者たちだから、というのもあった。そして、私たちはあちらでの彼らのやり方(何をやるにしても)、それを尊重しなければならないというのもあった。おそらく、他にも理由はある。左派にこのように問いかけることは、どこの世界であろうとも重大な関心が寄せられるべきものだが、それに値するだけの関心は持たれていない。アメリカとイギリスの多くの世俗主義フェミニストは、イスラム女性に対する宗教的差別だけでなく、非合理な女性差別に反対する運動も始めている。「世俗主義センター」のウェブサイトをみればよい。イタリアの左派雑誌とウェブサイト「リセット」も、イスラム世界を論じる上で、極めて知的かつ有用な情報を提供しているだけでなく、イスラムに批判的でもある。ここには、残る左派が耳を傾け、賛同すべき声がある。

 

先に述べたように、左派の戦闘員が国際旅団を形成して戦場に赴くことなど期待できない。私の知人や隣人は入隊しようとしないだろうし、彼らの多くはイスラム過激派のもたらす危険も認識してないようだ。しかし、危険は現実のもので、世俗主義な左派は擁護者をも求めている。そこで、私の出番である。戦闘員ではなく、一人の著述家として、イデオロギー戦争に参戦することで役に立つことができる。多くの国で賛同者を得ることになるだろうが、それでも決して十分ではない。左派の知識人による国際旅団が待たれている所以である。

 

■本記事は「Islamism and the Left」(『DISSENT』)からの転載です。

 

サムネイル:“Cologne rally in support of the victims of the 2015 Charlie Hebdo shooting 2015-01-07-(2319)” di Elya – Opera propria. Con licenza CC BY-SA 4.0 tramite Wikimedia Commons - 

 

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