桐壷(きりつぼ)

 「いづれの御時にか・・・」で始まる源氏物語の時代は、十世紀はじめのころに設定されている。

 桐壷帝は最愛のきさき桐壷更衣の産んだ皇子を皇太子にしたかったが、母更衣の身分が低いので、仕方なく臣下にし、源氏の姓を与えた。彼は聡明で輝くように美しく、光源氏と呼ばれる。

 桐壷更衣は、皇太子の母弘徽殿の女御に憎まれ、それを苦に病づき若死した。

 悲嘆にくれる帝は、政治も手につかぬ有様なので、心配した廷臣たちが、亡き更衣に生き写しの藤壷宮を後宮に迎えた。先帝の内親王で、若く美しく帝はいたく満足された。帝はよく光源氏を伴っては藤壷宮の部屋を訪れ、二人を並べ、この人を母とも思え、子とも慈しんでくれと言われた。弘徽殿女御は、寵愛並びなき二人を、今度もまたはげしく憎んだ。

 十二歳で元服した光源氏は、政界の第一人者左大臣の婿に迎えられ、その姫葵の上と結婚する。しかし、その胸中には、すでに義母藤壷宮への思慕の火が燃えていた。

 帚木(ははきぎ)

 光源氏十七歳の夏の物語。父帝の愛と信頼を一身に受け、輝かしい栄華の前途が開けている。宮廷の才女たちや、名門の姫君の間でも彼の噂でもちきり、ほんの一言でも恋文を頂きたいと思っている。

 五月雨(梅雨)の一夜、宮中の宿直する源氏の部屋には、若い廷臣たちが集まって女性論に花を咲かせた。「雨夜の品定め」といわれる一段である。そこで、光源氏ははじめて、中流の女性の魅力について教えられた。

 翌日、左大臣の方角が悪いというので、源氏は急にお出入りの紀伊守別邸で一晩を過ごすこととなった。中川の水を取り入れたその家には、紀伊守の継母で、父伊予介の後妻の空蝉(うつせみ)が避暑に来ている。中流の女性の魅力を吹きこまれたばかりの源氏は、強引にこの女と一夜を過ごした。空蝉は、はじめははげしく源氏を拒んだので、そんなめに会った事ない源氏は、新鮮な魅カを感じた。彼女の弟を手なずけて、それからも女のもとを訪うが、空蝉は二度と源氏を近づけなかった。

空蝉(うつせみ)

 夏の宵、無理算段のあげく、継娘 軒端荻(のきばのおぎ)と碁を打つ空蝉の姿を垣間見た源氏は、空蝉の嗜み深い物腰に一層心惹かれる。その夜、継娘と二人で寝る部屋に忍び入った源氏の気配に、空蝉は着物を脱ぎすべらして逃れ出た。源氏が暗闇の中で人違いと気づいた時はすでに遅かった。夜明け、源氏は蝉の脱け殻のような空蝉の着物を抱いて帰った。

夕顔(ゆうがお)

 五条辺の、タ顔の花の咲く小家に隠れ住む女と、ふとした機会に知った源氏は、やがて素性を隠したまま、この女のもとに通うようになった。女は素直で人を疑うことを知らず、源氏に頼り切っている。源氏は、そのころ通っていた六条御息所(前皇太子妃)や正妻葵の上を重荷に感じていたので、この人といるとたいそう心が安らいだ。女はじつは、すこし前に頭中将が心ならずも見失った人である。八月十五夜、源氏は女を六条辺の廃院に連れ出し、二人きりの時を愉しんだが、女は物の怪に襲われて急死した。

若紫(わかむらさき)

 その翌年の春、源氏は病気治療お加持を受けようと北山の聖(修行僧)のもとに行った。その山中のとある僧坊に、女の姿を認めて、好奇心に駆られ、垣根のもと佇んで垣間見た。尼君がお経を読み、かわいい少女が雀を追って走り出て来た。その面ざしは、片時も忘れることのない藤壷の宮そのままである。少女は、藤壷の宮の姪であった。源氏はすぐ求婚したが、尼君は本気に取り上げない。夏、藤壷の宮が病気養生のため、自邸に退出されたのを幸いと、源氏は無理な算段をして宮に近づいた。やがて藤壷の宮ご懐妊。源氏も帝の父になるという夢を見る。冬、源氏は少女を自邸に引き取って、娘のように大切に育てる。これが後の紫の上である。源氏は十八歳。

未摘花(すえつむはな)

 同じ年のこと。常陸の宮の姫君(未摘花)は、父宮亡きあと、荒れ果てた宮廷にひっそりと暮らしている。その人に亡き夕顔の面影を求めて、源氏は言い寄っているが、頭中将も一方ならぬ関心を寄せていると知って、競争心から急いで姫君と深い仲になった。しかし、姫君は意外にも、女らしいたおやかさもなく、とりわけ高く長い鼻の先が紅花(未摘花)のように赤いのには、がっかりさせられるのであった。

紅葉賀(もみじのが)

 帝は、上皇御所で行われる紅葉賀(上皇の長寿のお祝)の盛儀を懐妊中の藤壷に見せたいと、宮中で試楽を催された。美しい源氏の舞姿は、人々の賞賛の的で、藤壷の宮も眼をとめずにはいられない。翌年二月、藤壷、皇子出産。何もご存知ない帝は、たいそうお喜びで、この若宮を皇太子にと考え、秋には藤壷を中宮(皇后)にされた。宮も源氏も罪の深さをいよいよ感じる。

花の宴(はなのえん)

 源氏二十歳の春二月(今の三月)未。南殿の桜の宴が催された。宴果てて、後宮の弘徽殿のあたりをさまよう源氏は、ふと開いた戸口から忍び入り、「朧月夜に似るものぞなき」と歌いつつ来る女君と一夜を共にした。三月未、右大臣(弘徽殿の女御の父)家の藤の花の宴に招かれた源氏は、前夜の女君が、間もなく東宮妃に上がる右大臣の姫君だと知るのであった。

(あおい)

 花の宴の巻から二年後のこと。源氏二十二歳。桐壷帝は退位された。六条御息所は、源氏の冷たい態度に、娘の斎宮について伊勢に下ることを決心する。その年の賀茂祭に、見物に出かけた御息所は、車の場所争いのことで、源氏の正夫人葵の上一行から侮辱される。これを深く恨んだ御息所の魂は身を抜け出して、産褥の葵の上を苦しめた。若君を産んだあと、葵の上はついに亡くなった。源氏は御息所を一層うとましく思う。葵の上四十九日の法要を済ませたあと、源氏は紫の上と新枕を交した。

賢木(さかき)

 六条御息所の伊勢下向も近い秋の一夜、源氏は、嵯峨野の野宮に籠る御息所を訪れ、別れを惜しんだ。冬、桐壷帝が亡くなり、庇護者を失った源氏や藤壷の宮に、弘徽殿大后の圧迫は強まる。朧月夜の君は宮廷に上り、帝の寵愛はあついが、なおひそかに源氏を通わせている。藤壷は東宮の将来を危ぶみ、源氏との関係を絶つため尼になった。翌年夏、源氏は朧月夜と密会しているところを、女君の父右大臣に見付けられ、弘徽殿大后は、これを口実に源氏を陥れようと計った。、源氏二十三歳から二十五歳にかけての物語である。

花散里(はなちるさと)

 源氏二十五歳の夏の一夜、源氏は花散里の君を訪れた。昔、桐壷帝の御代、その後宮にいた麗景殿の女御の妹君である。桐壷帝亡きのち、女御は花散里とひっそり暮している。源氏には桐壷帝ゆかりの人はすべて懐しく、しんみりと昔をしのんだ。

須磨(すま)

 源氏は流罪になるよりも前に、野心のないことを示すため、みずから須磨に引退することにした。出発までの間、女君たちを訪れ、それぞれに別れを惜しんだが、紫の上を残してゆくのが一番心残りである。須磨では、質素な仏道精進一筋の日々の中にも、詩歌や音楽を愉しむ風雅な生活が送られている。

 隣の須磨の前国守明石の入道は、源氏が近くに来たので、娘との結婚の機会が近づいたと喜んでいる。

 翌年春、源氏が海辺に出て禊(みそぎ)をすると、にわかに大暴風雨となり高潮が襲った。源氏は住吉の神に大願を立てて祈った。

明石(あかし)

 嵐は止まず、源氏の夢に父桐壷帝が現われ、須磨を去るように諭す。明石の入道にも夢に住吉の神のお告げがあって、源氏を迎えに行くように云う。

 こうして源氏は明石の浦に移り、入道の世話を受け、やがてその娘明石の君と結ばれる。都では帝の夢にも桐壷帝が現われ、源氏を無実の罪で苦しめていることを叱責されたことから、間もなく帰京の勅命が下った。折から明石の君は懐妊中だったので、源氏は再会を約して、二年数月ぶりで帰京した。

澪標(みおつくし)

 源氏二十八歳から二十九歳までの物語。須磨、明石から帰京後の源氏が栄華の道を辿る第一歩を描く。源氏は、まず、父桐壷帝追善の法要を行った。翌年、秘密の子冷泉帝は無争即位し、源氏は大臣になる。母藤壷の宮は上皇に準じる待過を受けた。また、明石は、女の子が産まれ、将来は皇后になるという予言があった。秋、源氏は住吉神社にお礼参りに行くとたまたま明石の君も姫君とともに海路参詣していたが、再会は叶わなかった。

 六条御息所は、斎宮交替に従って伊勢より帰京し、やがて病のため亡くなった。娘の斎宮のことを托された源氏は、斎宮を養女にして、冷泉帝の後宮に納れ、外戚の地位を確保する。

蓬生(よもぎう)

 源氏の庇護が唯一の頼りであった未摘花の君は、源氏失脚の間窮乏の生活を送らねばならなかった。邸は荒廃し、召使たちも次々と去ってゆく。姫君の叔母は、地方長官の妻として赴任するに当たり、姫君をわが娘の侍女にして連れてゆこうとするが、未摘花は光源氏を信じて応じない。源氏は帰京の翌年、やっとこの人のことを思い出し、荒れ果てた庭に繁る蓬を分けて未摘花を訪れた。

関屋(せきや)

 空蝉は、源氏が須磨、明石で失意の日々を送る間、心を痛めながらも、はるかな夫の任地、常陸の国で過ごしていた。源氏二十九歳の秋、折りから石山寺に参詣する源氏の行列と、常陸から帰京する空蝉一行が出会う。場所は逢坂の関。源氏は、昔二人の仲を取り持った空蝉の弟小君に託して歌を贈った。

 絵合(えあわせ)

 源氏三十一歳。六条御息所の忘れ形見斎宮は、源氏の後押しで、冷泉帝の後宮で時めいている。昔の源氏の盟友頭中将、今の権中納言も姫君を入内させ、ともに外戚として源氏とは政権を争う仲である。帝はとくに絵を好まれたので、源氏も権中納言もそれぞれ絵を献じて寵を競った。藤壷は源氏方を支持した。帝の御前の絵合でも源氏方が勝った。この行事は、太平の御代のしるしとして後代の模範とされた。

松風(まつかぜ)

 同じ年のこと、源氏は、明石の姫君の将来を思うと、いつまでも田舎に置いておくわけにはゆかないので上京を促していたが、明石の君は、あまりの身分違いを恥じてためらっている。明石の入道は、大堰川のほとりにある先祖伝来の別荘を修理して、ここに住まわせることにした。明石の君は、幼い姫君と母の尼君を伴って、父入道とは永遠の別れを覚悟して上京した。源氏は大堰を訪れ、三歳になった姫君とはじめて父子の対面をした。紫の上は、子まで生した明石の君に嫉妬するが、源氏は、やがて姫君を引き取って、紫の上の養女として育てようと、相談するのであった。

薄雲(うすぐも)

 源氏三十一歳の冬のこと。明石の姫君は大堰の山荘から京の本邸に引き取られ、悲しい親子の別れがあった。紫の上は、まだ三歳の幼い姫君の愛らしさに、明石の君への嫉妬も薄らぐ思いで、大切に養育する。

 年改まって、源氏三十二歳。凶兆を示す異変が続き、三月には藤壷の宮が亡くなった。三十七歳の女の厄年であった。

 やがて、冷泉帝は護持の憎の密奏によって、源氏が実の父であること、数々の天変は帝が父として扱わぬため天の諭しであることを知らされる。驚いた帝は位を譲ろうとされるが、源氏は帝を諌め秘密は守り通される。

 秋、源氏は斎宮の女御と語り、女御が秋を好むこと、紫の上が春を愛するところから、源氏の六条の院四季の庭の構想がわいた。

朝顔(あさがお)

 同じ年の秋から冬にかけてのこと。源氏のいとこに当たる朝顔の斎院(賀茂神社に奉仕する皇女)は、父宮の喪のため斎院を辞職した。源氏は、まだ青年のころから斎院に思いを寄せていたので、このころはしきりに斎院のもとに訪れている。源氏の正夫人にふさわしい身分の方ゆえ、世間でも二人の結婚の噂は高く、紫の上の心配は一通りではなかった。

 冬の一夜、月明の雪を賞でながら、源氏は紫の上に、藤壷の宮や朝顔の斎院などの人柄を語ったところ、その夜の夢に藤壷の宮が現れ、深く恨まれた。源氏は藤壷の成仏を願う供養をした。

少女(おとめ)

 源氏三十三歳の年。長男夕霧(母は葵の上)は十二歳で元服した。源氏は思うところがあって彼を大学に入れ、学問に専心させた。この年、斎宮の女御が立后。皇后(中宮)は藤原氏からという不文律を破る出来事で、かつての盟友内大臣(頭の中将)は、娘の女御が藤原氏でありながら立后できなかったことを遺恨に思った。夕霧は内大臣の娘雲居の雁と相愛の仲であるが、内大臣は二人の結婚を長く許さなかった。

 源氏三十五歳の秋、広大な六条の院が完成し、四季の庭を配するそれぞれの御殿に、紫の上をはじめ女君たちが移り住んだ。中宮となった斎宮の女御は、旧邸の位置に新造した秋の御殿に住み、紫の上と春秋の優劣について風雅な歌を交わした。

玉鬘(たまかずら)

 夕顔の遺児玉鬘を発見する巻。夕顔と内大臣の間に生まれた女の子は、三歳で母と死別し、乳母に伴われて九州の太宰府に赴いたが、そこで美しく成人し、土地の豪族から求婚されるようになった。乳母は、実の父に対面させたく困難を排して上京し、開運を祈るため大和の初瀬の観音に詣でる。そこで、もと夕顔に仕え、今は源氏のもとに仕える女房の右近と再会した。夕顔のことを忘れがたく思う源氏は、内大臣には知らせず、玉鬘を引き取り、花散里に預けて養女分として大切に世話をする。

初音(はつね)

 この巻から行幸の巻まで、光源氏三十六歳の一年が、六条の院の栄華を誇る四季の行事を背景に語られる。その中心に新しく迎えられた美しい玉鬘がいて、彼女を取り巻く求婚者や道ならぬ中年の恋に悩む光源氏の姿が織りなされている。

 初音の巻は六条の院の新年から始まる。春の御殿では、季節の花々がほころび、源氏の愛情を一人占めにする紫の上が明石の姫君と共に源氏の寿ぎを受けた。元日の夕べ、源氏は女君たちの御殿を次々に訪れ、年未源氏から贈られた美しい晴着を着た婦人たちに年賀の挨拶をした。年始に訪れた貴公子たちは、玉鬘への恋心から、気もそぞろであった。

胡蝶(こちょう)

 その年の晩春三月、六条の院の春の御殿の花盛りに、折から秋好中宮が里下がり中で、源氏は船遊びの宴を催した。続いて中宮の催された法会に、紫の上は鳥や胡蝶の舞の舞人を献じ、去年の秋好中宮から挑まれた春秋優劣の争いを忘れず、春を賞でる歌を贈った。玉鬘は源氏の養育のもと、美しく洗練され、貴公子の恋文も多くなる。源氏の弟宮蛍兵部卿宮、鬚黒大将のほかに、事情を知らぬ柏木(内大臣の子息)もいる。源氏も次第に玉鬘への思い抑えかね、ついにある初夏の夕ベ、意中を打ち明けた。

(ほたる)

 玉鬘の苦悩と不満は大きい。源氏は蛍兵部卿宮の女の扱いぶりにいたく興味を持ち、わざと玉鬘に宮との交際を勧める。五月四日、源氏は宮の来訪を計り、自分は玉鬘の側にいて、簾越しの宮の求愛の言葉を愉しむうち、蛍を放って光に浮かぶ玉鬘の容姿を宮に見せた。五月五日、花散里の夏の御殿で、五月の節会にちなむ騎射が行われた。晴れの行事の夜、源氏は花散里方に泊まったが、二人は静かに別々に眠る仲であった。五月雨(梅雨)のころ、六条の院の女君たちは絵物語につれづれを慰め、源氏は玉鬘と物語論を交わした。一方、内大臣は夕顔の遺児を忘れかね、夢占いなどをして捜させた。

常夏(とこなつ)

 炎暑の一日、源氏は息子の夕霧や内大臣の子息たちと納涼の時を過ごした。話題は内大臣が最近見つけ出したご落胤の近江の君のこと。あまり出来のよくない娘だったので、夕霧と雲居の雁の結婚を許さぬ内大臣に含むところのある源氏は、近江の君のことを揶揄した。夕方、源氏は公達を引き連れて玉鬘のもとに赴く。庭に常夏(撫子)が咲き、人々は御簾の中の玉鬘によそえて思いを焦がした。

篝火(かがりび)

 残暑の初秋。七月はじめの夕月夜のころ、源氏は玉鬘の御殿にゆき琴を教える。庭前に篝火を焚かせ、その明りの仄めく室内で、二人は琴を枕に添寝をしたが、源氏は玉鬘の将来を思って、それ以上無体な振る舞いはしなかった。玉鬘はそんな源氏をいつしか慕わしく思っていた。

野分(のわき)

 野分(台風)の吹き荒れた翌朝、考心深い夕霧は、祖母大宮邸から父の住む六条の院に見舞いに行き、風の紛れに紫の上を垣間見て、その美しさを樺桜のようだと、のちのちまで忘れがたく思った。そのあと、秋好中宮、明石の君、花散里と次々に風の見舞いをしてゆく源氏の供をして、女君たちの御殿を回ってゆく。野分に荒らされた六条の院の四季の庭と女君たちのそれぞれの気配が夕霧の眼を通して描かれる。とりわけ、玉鬘にたわむれかかる父の姿を垣間見て、夕霧はふと不審を抱くのだった。

行幸(みゆき)

 冬十二月、大原野の行幸があり、沿道はその行列を見物する人々で埋まった。玉鬘も行幸に供奉する父内大臣の姿を一目見ようと出かけていく。帝はかねてから玉鬘を尚侍(内侍所の長官。女官の最高位)として出仕するよう勧めておられたので、光源氏に生き写しのお顔を拝して、王鬘の心は動いた。源氏は玉鬘の将来を思って、尚侍として入内させる前に裳着の儀式(女子の成人式)をあげようと、大宮邸で内大臣と対面し、真相を打ち明けた。

 年明けて源氏三十七歳の二月、玉鬘の裳の着儀がおこなわれ、内大臣は裳の腰結役として、ここにはじめて父娘の対面が行われた。

藤袴(ふじばかま)

 源氏三十七歳の秋のこと。大宮が亡くなり、父方、母方それぞれにつけて孫である夕霧、玉鬘らは喪に服している。夕霧は事情が判明したので今は憚りなく、父の使いとして玉鬘のもとに赴いたとき、藤袴(秋の七草の一つ)を御簾の中に差し入れて、意中を仄めかす歌を詠みかけた。

 玉鬘の宮仕えが近づくにつれ、求婚者たちの焦慮はまし、鬚黒大将は、直属の部下である柏木(玉鬘の実の兄弟)を通じて熱心に働きかけ、父内大臣の心も動いている。玉鬘は兵部卿の宮の手紙にはやはり心を惹かれている。

真木柱(まきばしら)

 玉鬘が尚侍として出仕するはずの十月も近い頃、鬚黒大将は心利きの女房の手引きで、玉鬘と契りを結んだ。源氏は落胆し、帝もご不興であったが、父内大臣は喜んだ。

 十一月、玉鬘は鬚黒夫人として、六条の院で尚侍としての職務を執り行った。鬚黒の北の方は式部卿の宮(紫の上の父)の長女だが、長年物の怪に悩み病いがちである。ある雪の夜、玉鬘のもとに行こうとする鬚黒に対して、北の方は不意に乱心して、香炉の灰を投げつけた。以後鬚黒は北の方のもとに寄りつかなくなったので、怒った式部卿の宮は、北の方や姫君、若君たちを自邸に引き取った。姫君は父を慕って去りがたい思いを歌に詠み、その詠草を真木の柱の破れめにさし込んで去って行った。年明けて正月、玉鬘は鬚黒邸に迎えられ、十一月には男子を出産した。

梅枝(うめがえ)

 源氏三十九歳の春。明石の姫宮が入内する日が近づき、源氏はその用意に善美を尽す。立派な調度品や中国渡来の錦などのほかに、薫香調合を貴紳の家々に依頼し、源氏自身や紫の上も秘法を競って調合した。紅梅の盛りの一日、蛍兵部卿の宮を判者に、その薫物合せ行われた。明石の姫君の裳着の儀式には秋好中宮が裳の腰を持って祝われた。源氏はまた名筆の草子を整えるべく、自身も筆を取った。

藤裏葉(ふじのうらば)

 同じく源氏三十九歳の春から秋までのこと。大宮の三回忌にさすがの内大臣も析れて、夕霧と雲居の雁を許す旨を伝えた。四月、藤の花盛りに婚儀があった。同じ四月、明石の姫君入内。紫の上が付き添ったが、やがて姫君の後見役を生母の明石の君に譲った。長い忍耐のあと、ようやく実の母娘は再会した。来年、光源氏四十の賀(長寿を祝う儀式)を行うに際し、冷泉帝は源氏を准太上天皇に進められた。桐壷の巻の「帝王でもなければ臣下でもない」という、光源氏の身の上に関する予言の答えがここに示されている。冬十月、冷泉帝の六条の院行幸があり、源氏の栄華は極まって、めでたずくめで物語は終る。

若菜(わかな)上

 源氏四十歳から、四十一歳の春までのこと。  正月、玉鬘がまず源氏の四十の賀を祝い、若莱を献じる。朱雀院上皇は出家に当り、女三の宮の将来を案じて、源氏に託された。この方も藤壷の宮の姪だった。二月、女三の宮のお輿入れ。まだ十三歳ほどであった。紫の上の傷心は深いが、悲しみを抑えてよく夫の婚儀に尽した。女三の宮は、ただ若々しいというだけの方なので源氏は失望した。十月、紫の上が源氏の四十の賀宴を催し、続いて秋好中宮、冷泉帝の意を受けた夕霧が賀の儀式を行った。翌年三月、明石の女御(姫君)は皇子出産。これを聞いた明石の入道は、ふしざな夢のお告げを書いた遺書を送ってきた。同じ春、六条の院の蹴鞠の折、女三の宮を垣間見た柏木(内大臣の長男)は、かねての思慕の情を一層燃やした。

若菜(わかな)下

 それから七年の歳月が流れ、その間、冷泉帝退位、新帝即位、明石の女御腹の皇子の立太子、源氏の住吉神社へのお札参りがある。

 源氏四十七歳の春、朱雀院五十の賀宴に若菜を献じようと、源氏は女三の宮に琴を教え、その試みのため、女楽を催したが、直後から紫の上が発病し、看病にかまける源氏の留守に、柏木が女三の宮に近づいた。女三の宮は懐妊する。事はたちまち源氏に知れ、源氏から、皮肉まじりにたしなめられた柏木は、怖れのあまり重病の床に臥すようになった。

柏木(かしわぎ)

 新年、源氏四十八歳。女三の宮は男子(薫)を出産。それを聞いたあと、柏木は重態に陥リ、後事を夕霧に託して死んだ。女三の宮も産後が回復せず、病気にことつけて出家した。夕霧は柏木夫人の女二の宮を見舞ううち、次第にこの人を好ましく思うようになった。

横笛(よこぶえ)

 源氏四十九歳の年のこと。柏木の一周忌に源氏はひそかに薫の分として、過分の志を加えて弔った。秋、柏木からその夫人、女二の宮(落葉の宮)のことを託された夕霧は、宮邸を訪れ、その母御息所から柏木遺愛の横笛を贈られる。しかし、その夜の夢に柏木が現れ、笛を贈るべき人は別人であると言う。夕霧は源氏を訪れ、笛の由緒を追求したが、源氏はついに言葉を濁して答えなかった。

鈴虫(すずむし)

 源氏五十歳の夏から秋までの話。

夏、蓮の花盛りに、尼宮女三の宮の持仏開眼の供養が行われ、仏具一切の用意は、源氏が行い、紫の上がこれを助けた。秋、源氏は、女三の官の御殿の庭に鈴虫を放ち、折から訪れた蛍兵部卿の宮や夕霧らと鈴虫の宴を張った。そこへ冷泉院からお召しがあり、源氏は一同を引き連れて院の御所に参上した。秋好中宮は、源氏に、死霊となって苦しむ母六条御息所の霊を慰めるため、出家の希望を打ち明けたが、源氏は強く諌めた。

夕霧(ゆうぎり)

 源氏五十歳の秋から冬にかけてのこと。夕霧は柏木との約束を果たすべく、落葉の宮をたびたび見舞ううちに、次第にその静かな人柄に惹かれていった。宮の母御息所が病み、比叡の麓、小野の山荘に移ったのを見舞に訪れた夕霧は、祈から、軒端に迫る夕霧に包まれた山荘の風情にも心を動かされ、落葉の宮の部屋に忍びこんで意中を明かすが宮は聞き入れなかった。しかし、二人の仲は、御息所の病気加持の僧によって事ありげに、御息所に告げられ、苦慮した御息所は夕霧に手紙を送った。ところが、その手紙は夕霧の夫人雲居の雁に奪われ、ついに返事のないのを心痛した御息所は病を重らせ亡くなった。母の死を夕霧ゆえと嘆く落葉の宮は、いつまでも許さなかったが、夕霧は強引に結婚を成立させた。雲居の雁は怒って、子供を連れて父大臣の邸に帰り夕霧の迎えにも応じなかった。夕霧は、藤典侍の腹にも子女があり、子福者で、その六の君は女二の宮が母代わりとして養育し、一家は将来皇室の外戚として繁栄する。

御法(みのり)

 源氏五十一歳の年のこと。紫の上は数年前の大病のあと病がちで、出家を願うが、源氏は許さない。三月、紫の上発願の法華経千部の供養が二条の院で行われ、花散里、明石の君も招かれた。紫の上としては、これが今生最後の営みのつもりである。夏、紫の上の病状は重く、見舞のため、秋好中宮は宮中から二条の院に退出してきた。秋、祈からの、秋風に散る庭前の萩を前に、紫の上は、源氏、明石中宮と歌を唱和した直後、絶命した。悲しみのあまリ茫然としている源氏は、夕霧が紫の上の死顔を覗きこむのを制止することも忘れていた。葬送は八月十五日に行われた。秋好中宮の弔問の手紙に、ありし日のはなやかな春秋の争いを思い起こして、源氏の悲しみは一層深まった。

(まばろし)

 紫の上なき翌年の、光源氏哀傷の生活を正月から十二月まで、月々に四季の風物を配しながら描く。源氏五十二歳。年未、年明ければ出家することが予告され、光源氏の物語の終わりを告げる巻である。

雲隠(くもがくれ)

 古来、巻名のみあって、本文のない巻。五十四帖のなかには数えない。巻名は光源氏の死を暗示する

(出家後、二、三年を嵯峨の院で送ったのち死去したことが、のちの「宿木」の巻にみえる)。

匂兵部卿(におうひょうぶきょう)

 時は流れ、光源氏の子や孫の時代になっている。光源氏亡きあと、その一族は、明石中宮を柱に一層の 繁栄を誇っている。中宮腹の三の宮(匂の宮)は、美貌で色好みな点、光源氏の面影がある。薫は出生の秘密を感ずき悩んでいるが、生まれつき身体に芳香があり、匂の宮はそれと張り合って薫香に凝っているので、二人は「匂や薫や」と世間でもてはやされている。

紅梅(こうばい)

 柏木亡きあとの致仕太政大臣(もとの頭中将)一家の物語。当主按察使大納言は、長女大君を東宮妃に納れ、次女中の君を匂の宮に配したいと願っているが、匂の宮は、大納言の後添いの夫人真木柱の連れ子、宮の御方(父は故蛍兵部卿宮)に心を寄せ、大納言は気をもんで、子息の若君を使者に、紅梅に付けた手紙などことづけて、しきりに匂の宮の気を引くことが書かれている。

竹河(たけかわ)

 鬚黒太政大臣一家の後日譚。鬚黒亡きあと、北の方の玉鬘は、姫君たちの縁談に一人で苦労している。姉の大君には、夕霧の子息蔵人少将が熱心に求婚しているが、結局冷泉院上皇の妃になり、中の君は玉鬘の尚侍の職を譲られて、宮中に上ることになった。薫は、玉鬘の子息と友人で、よくこの邸を訪れ、静かな落ち着いた人柄が人々から好感を持たれている。薫十四歳から二十三歳までの十年間の物語である。

橋姫(はしひめ)

 いわゆる宇治十帖の第一巻。薫二十歳から二十二歳までの物語。昔、弘徽殿大后にかつがれて光源氏と争った八の宮(桐壷院の皇子)が、今は零落して北の方も産褥で亡くなったあと、宇治川のほとりの山荘に、在俗ながら、仏道修行専一の暮らしをしつつ、、姫君たちを育てている。薫は八の宮の生き方に惹かれ、しばしば宇治を訪れるうちに、姫君たちの姿を垣間見して、大君に恋をする。ここにはかつて柏木に仕えた老女弁の君がいて柏木の遺品を薫に伝えた。薫は匂の宮に宇治の姫君たちのことを伝え、匂の宮はいたく心をそそられる。

椎本(しいがもと)

 薫二十一二歳から二十四歳夏までの物語。春、匂の宮は初瀬詣での帰途、宇治に立ち寄り、八の宮方に文を送り、中の君が返歌をした。秋、八の宮は姫君たちの将来を薫に託して亡くなった。薫は、中の君と匂の宮の結婚をすすめ、自分の思いを大君に打ち明けるが、大君は聞き入れない。翌年夏、薫はふたたび山荘で姫君たちを垣間見して、いよいよ大君への思慕の情をつのらせた。

総角(あげまき)

 薫二十四歳の秋、冬の物語。八の宮の一周忌近く、薫は宇治の邸に姫君たちを弔い、大君に意中を打ち明けたが、無理に思いを遂げなかった。大君は妹の中の君と薫の結婚を望んでいる。秋も終わりがた、薫は宇治を訪れ、大君の部屋に忍び入ったところ、気配を察した大君はすばやく中の君一人を残して逃れた。しかし、薫は中の君とは何事もなく一夜を明かした。薫はついに、中の君と匂の宮の結婚を画策し、匂の宮は困難をおかして宇治に通うものの訪れは途絶えがちで、姫君たちの嘆きは深い。冬、匂の宮の宇治の紅葉狩りに、目の前を素通りする匂の宮一行を見て、大君の傷心は深くやがて病づく。冬、大君は薫の手厚い看護もむなしく、薫に手を取られながら亡くなった。

早蕨(さわらび)

 翌年春、姉君の喪も明けたころ、中の君は匂の宮の二条の院に引き取られていった。老女弁の君は残って尼になった。薫は後見のない中の君のために尽くすが、匂の宮がともすれば二人の仲を疑われるので、中の君は苦慮する。

宿木(やどりぎ)

 同年、薫二十五歳の秋。今上帝は、母を亡くされた女二の宮をいとしまれ、薫に降嫁を仄めかされた。翌年秋、匂の宮と夕霧右大臣の姫六の宮の婚儀が盛大に取り行われた。祈しも中の君は懐妊中で、不安と悲しみに沈んでいる。薫は、中の君を慰めるうちに、しだいに恋心を募らせるが、困った中の君は、大君生き写しの異母妹浮舟のことを知らせるのであった。薫は宇冶を訪れ、弁の尼から浮舟の身の上を聞き出し、常陸介の繼娘であることを知る。翌年二月、中の君は男子を出産して、ようやく匂の宮王子の母としての身分が安定した。同じころ薫と女二の宮の婚儀が行われた。夏のはじめ、宇冶を訪れた薫は、たまたま初瀬詣の帰途、宇治の邸に泊まり合わせた浮舟を垣間見て、あまりにも大君によく似ているので、いたく心を動かされた。

東屋(あずまや)

 

 同じ年、薫二十七歳の秋のこと。浮舟の母は、高貴な血筋ながら田舎受領の継娘でいる浮舟を憐み、身分の高い男性との縁組を望んでいる。常陸介は長い東国生活のうちに財を蓄え、娘たちに求婚者は多い。母はそのなかから浮舟のために左近少将を選んだ。しかし、婚札の間際になって、少将は破約し、常陸介の実の娘との結婚に変更した。母は、浮舟を同じ邸に置くに忍びず、中の君に頼んで、浮舟をしばらく二条の院に預かってもらうことにした。二条の院に逗留して、匂の宮や薫の姿を眼のあたりにする母の心には、いつしか娘を薫にという思いになるが、ある夕ぺ、匂の宮が浮舟を垣間見し、強引に近づいたことから、母は浮舟を引き取り、三条の小家に隠した。弁の尼からこのことを聞いた薫は、弁の尼を仲立ちに三条の小家を訪れ、浮舟を宇治に連れ出し、住まわせるのであった。

浮舟(うきふね)

  薫二十八歳の年のこと。匂の宮は思いを遂げぬまま取り逃した浮舟のことが忘れられなかった。新年、浮舟から中の君に手紙が届けられ、それを見て事情を察した匂の宮は、さらに、家臣を通じて、昨秋から薫が浮舟を宇治にかくまっていることを知った。匂の宮はさっそく宇治に赴き、薫の風を装って浮舟に逢い契りを結んだ。浮舟は一途な匂の宮に惹かれた。二月半ば、匂の宮は再び宇治に急ぎ、対岸の小家に浮舟を伴い、惑溺の日々を過した。薫はやがて浮舟を京に迎えようと準備をし、匂の宮も対抗して浮舟を京に連れ出す算段をする。三月、薫と匂の宮の使者が宇治の邸で鉢合わせをしたことから、事情を知った薫は、浮舟を詰る歌を送り、邸の警備も厳重にした。浮舟は苦悩のあまり、宇治川に身を投げることを決意した。

蜻蛉(かげろう)

 浮舟が失跡した翌日の宇治の邸では、女房たちが慌てふためいている。京の母のもとからも匂の宮からも心配して使いが来る。浮舟側近の女房はうすうす入水と察したが、世評を憚り、亡骸もないまま葬儀をすませた。やがて薫も宇治を訪れ、入水のことを聞いて母の悲しみを思いやり、浮舟四十九日の法要を盛大に営んだ。夏、明石中宮主催の法要に参列した薫は、たまたま女一の宮を垣間見し、その高貴な美しさに惹かれた。それ以来、薫はしばしば用事を設けて中宮方に出入りするようになった。

手習(てならい)

 同じ年の三月未、横川の僧都の母尼と妹の一行は、初瀬詣の帰り、母尼の急病のため、宇治川に中宿りした。横川の僧都も叡山かち下りて、母のために加持祈祷をするが、ちょうどその宿の庭の大木の下に、人事不省で倒れる浮舟を発見する。娘を亡くし悲嘆に沈んでいた妹尼は、娘の身代わりと喜び、浮舟を手厚く介抱して、洛北小野の山荘に連れ帰った。

 夏になっても浮舟は回復せず、横川の僧都が再度下山、加持をしてようやく快方に向かうものの、妹尼たちにも自分の素姓を明かさず、手習いに思いをやるばかりである。秋、妹尼の亡き娘の婿が訪れ、浮舟を垣間見して熱心に求婚する。浮舟はもはや男女の仲がうとましく、折りから、明石の中宮の要請で下山する途中立ち寄った横川の僧都に懇願して出家した。横川の僧都は明石中宮に浮舟のことを語ったため、中宮は女房を通じて、薫に浮舟生存のこと知らせた。

夢浮橋(ゆめのうきはし)

 薫は横川に登り、僧都から直接詳しい事情を聞き出した。薫は僧都の案内で浮舟に再会しようとするが、僧都は断り、供に従っていた浮舟の弟、小君に、還俗を勧める手紙を託した。翌日、小君は浮舟のもとに使者に立ったが、浮舟は頑なに対面を拒み、薫の手紙にも返事をしなかった。浮舟は妹尼に、過去のことは一切夢かと思われると答えるのみであった。

 待ちかねていた薫はむなしく帰って来た小君の話を聞いて、誰かが浮舟を隠しているのではないかと、かっての自分の経験から疑ってみるのであった。

おわり

 「源氏物語」はここで突然のように終っている薫君と浮舟の関係には新しい展開が予想されるような書き方である。それゆえ「源氏物語」は未完結であるという説も提示されてきた。

 

表紙

案内

トップ