大航海時代の幕開け
15世紀末から16世紀初めにかけて、スペイン、ポルトガルを中心とする西欧諸国が大西洋やインド洋に進出していった時代を「大航海時代」といいます。
当時のスペインとポルトガルは、まだ新しくできたばかりの血気あふれる国で、強い領土拡大意欲にみちていました。両国があるイベリア半島は、8世紀以後ずっとイスラム勢力の支配下だったところでした。それを、フランスとの国境地帯に住むキリスト教徒の領主たちがイスラム勢力と戦い、領土を少しずつ少しずつ切り取って成立したのがスペインとポルトガルです。
イベリア半島最後のイスラム教国グラナダ王国がスペインによって滅ぼされたのが1492年、同じ年にコロンブスがスペインの援助で新大陸に到達していますから、イスラム教徒と戦争しながら大航海を援助していたのです。
彼らを「大航海」に駆り立てたのは、イスラム教徒との戦っているうちに培われた、キリスト教拡大の宗教的な熱意、そして東方貿易による旨みを吸収して王室の財源を充実させたいという経済的な動機でした。マルコ=ポーロが書いた『世界の記述』(『東方見聞録』)も、アジアへの夢を大きく誘いました。また、羅針盤の発明や航海技術の発達、そして「地球球体説」に基く地図の発達も彼らの熱意を後押ししました。
当時、東方貿易でいちばん儲かるのが”香辛料”貿易でした。なかでも胡椒(こしょう)は同じ重さの銀と交換されたほどの超高級品で、しかもこのころのヨーロッパ人の食生活にはなくてはならなくなっていました。冷蔵庫がない時代ですから、肉の多くは塩漬けにして保存しました。しかし、それにも限界があり、腐りかけた肉もがまんして食べていました。ところが胡椒はその臭みをみごとに消してくれます。一度、胡椒の味を知ると、これなしではすまなくなってきます。
その胡椒の生産地がインド西海岸のマラバール海岸、ジャワ、スマトラ、マライ半島辺りだったのです。また、クローヴ(ちょうじ)、ナツメグはインドネシアのモルッカ諸島周辺でしか栽培されていませんでした。
これらの香辛料はインド、アラビア、そしてイタリアと多くの国の仲買人を経て運ばれてきますから、ヨーロッパでの販売価格はべらぼうに高くなりました。そこで、スペイン、ポルトガルはインドとの直接取引のルートを探していたのです。
大航海時代の先駆けを果たした人物は、ポルトガルのエンリケ王子です。ヨーロッパ中から腕利きの船乗りや造船技術・航海術の専門家を集めてアフリカ沿岸の探検航海を指揮した人で、「航海王子」というあだ名で呼ばれています。しかし、この時代は、まだ船で直接インドに行けるとは考えられていませんでした。このころ通用していたプトレマイオス世界地図では、何とインド洋は完全に陸に囲まれた海として描かれているのです。
しかもこの探検航海の計画は、なかなか進展しませんでした。船乗りたちが、赤道付近に近づくと海が煮え立ってしまうと恐れていたからです。それをなだめたりすかしたりしながら進めるのに、たいへん時間を要したのです。また、当時の航海法は陸地を見ながら進むものでしたから、座礁などの危険もつきまといました。だからといって、なかなか沖合には出られない、そんな時代だったのです。
やがて遠海航法が確立され、エンリケ王子が死んだ後もポルトガルはアフリカ沿岸探検を続けます。そして、アラビア半島など陸上ルートからの探索で、インド洋は閉じた海でなく大西洋とつながっているらしいと分かってきました。しかし、インド航路を実現させるには、アフリカの最南端を確認しなければなりません。そこで、最南端をつきとめるのが航海者たちの最大の目標になりました。
そのアフリカ最南端に最初に到達したのがバルトロメウ=ディアスです。ディアスはアフリカ沿岸を南下していて嵐に巻き込まれ、気がつかないうちに最南端を通過していました。13日間漂流して嵐が収まると、東に見えるはずの海岸が西に見えていたのです。
ディアスはこのままインドに到達したかったのですが、船員たちの猛反対にあいます。わけも分からないところに行くのは真っ平ごめんというわけです。仕方なく多数決を取ったら、ディアス以外の全員が帰還を希望したのでやむなく引き返すことになりました。そして、帰りの航海で、初めててアフリカ最南端を確認します。最初、「嵐の岬」と名づけられていたこの岬は、後にポルトガル王によって「喜望峰」と改名されました。
それから10年後にポルトガルは実際にインドに到達します。1498年、インド航路を開拓したのがヴァスコ=ダ=ガマです。ガマの4隻の船が苦労して苦労してようやく到達したのがインドの西海岸にあるカリカットという港町でした。思ったとおり街には香辛料があふれています。これを買いつけてヨーロッパにもって帰れば大もうけ間違いなしです。
しかし、カリカットの国王に貿易の許可をもらったところまではよかったのですが、ガマが持ってきた商品は現地では珍しくも何ともない品ばかりで散々に買い叩かれ、けっきょくわすかな量の香辛料しか手に入りませんでした。イスラム商人との対立もあり、貿易拠点をきずけないまま翌年に帰還しました。それでもポルトガルに帰ると60倍の値段で売れて大もうけできたのです。
ガマの帰国後、ただちにカブラルがインドに派遣され、カリカットにポルトガルの商館を開設しました。ところが、カリカットに配置されたカブラルの部下たちが虐殺される事件が起き、その報復のためガマが1502年にカリカットに派遣されました。15隻もの大船団でカリカットに到着したガマは、軍事力で住民を鎮圧、国王から強引に和平の約束をとりつけました。そして翌年、ガマは香辛料を今度は満載してポルトガルに帰還しました。
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コロンブスの新大陸発見
かの有名なイタリア生まれの航海士コロンブス(1451〜1506年)。しかし、「新大陸(アメリカ大陸)を最初に発見したのはコロンブス」などと世界史に刻まれると、もとからそこに住んでいた人々は怒りますよね。「ヨーロッパ人で最初にアメリカに到達した人」というならまだ許されるでしょうが、実はその事実もちょっと怪しいようです。
といいますのは、西暦1000年ころにグリーンランドを出発したバイキングが北大西洋の海岸にたどり着いたという記録が残っているらしく、中国人がコロンブスより先にアメリカ大陸に行っていたとの説もあります。もっと前の古代フェニキア人も行っていたかもしれないとする考古学者もいます。
いずれにしても一番乗りでないのだけは確かなようですが、そうであっても、彼の航海がその後のヨーロッパ各国による南北アメリカ大陸進出のきっかけとなったのは間違いない事実であり、その意味での業績は大いに評価できるわけです。
フィレンツェの天文・地理学者トスカネリが唱えた地球球体説と、大西洋を西航するほうがインドへ近いとの説は、コロンブスにたいへん大きな影響を与えました。当時の世界地図にはもちろん新大陸は描かれていませんから、ジパングの位置は今のメキシコあたりと考えられていました。そこでコロンブスは、ポルトガル王ジョアン2世に西回りインド行きの航海への援助を要請します。しかし、ポルトガルはすでにアフリカ航路の開拓を進めていたため、彼の要請は却下されてしまいました。
スペインに移ったコロンブスは、次にカスティリャの女王イサベル1世とその夫フェルナンド5世に援助を願い出ました。はじめ、イスラム勢力が支配していたグラナダを攻撃しようとしていた両王はコロンブスの計画に無関心でしたが、グラナダが陥落すると即座に援助に同意しました。両王とコロンブスの間に結ばれた協定では、コロンブスに、彼が発見するすべての土地の総督職就任と、発見した土地内で得られる利益の10分の1を受け取ることが約束されたといいます。
1492年8月3日、コロンブスほか約90人の乗組員が3隻の大型船に乗り込み、パロス港を出航しました。そして10月初めにバハマ諸島のグアナハニに到着します。集まってきた島民に対し、この島はスペイン領になったと宣言、サン・サルバドル島と名づけます。さらに航海を続け、現在のキューバ、イスパニオラ島などに上陸しましたが、このときコロンブスは、これらの島をアジアの一部だと信じて疑いませんでした。
そして12月に、3隻の船のうち1隻が座礁して沈没したため、急きょ居留区を設営し、残留を希望した40人弱を残して帰国の途につきました。この航海は大成功し、現地の住民との物々交換で手に入れた金などによって、航海に要した費用をカバーするほど大きな収益があがりました。翌年3月にパロス港に入港したコロンブスは女王夫妻から熱烈な歓迎を受け、協定で約束された特権に加えて、数々の栄誉をあたえられました。
ところで、島に残った40人弱の男たちは大変なことになっていました。島民の従順さに乗じたのか、島の女たちを奪って好き放題にし、また女の取り合いで殺し合いになり、散り散りになった男たちは島のあちこちで乱暴したあげく殺されたり病死したりしました。残った男たちも金の産地シバオに遠征したものの、そこの王の逆襲にあい、これまた全員が殺されてしまったのです。
そんなことを知らないコロンブスは、1493年9月、17隻の船と約1500人の乗組員を率いて、意気揚揚と2回目の航海に出発します。探検家だけでなく官吏、農民、職人らもおり、植民の目的が明確に打ち出されていました。ドミニカ島、ガドループ島、アンティーグア島、プエルトリコなどに上陸したあと、居留区に到着してみると、居留区は破壊され、残った者たちはみな殺されていました。コロンブスはこの地を放棄し、現在のドミニカ共和国ケープ・イサベルの近くに植民地を築きました。新大陸におけるヨーロッパ人はじめての植民地です。
しかし、このイサベル植民地での入植者たちの生活はたいへん悲惨なものでした。食糧が不足し、原因不明の病気で次々と人が死んでいきました。新しい土地の細菌や微生物に対し免疫がなかったからです。たとえば性病の梅毒はそれまでヨーロッパには存在しない病気でしたが、第1回目の航海に参加し島の女性と交わって病気を移された船員たちから、あっという間に世界中に広がったのです。
コロンブスがキューバ沿岸やジャマイカ島の調査航海からイサベル植民地に戻ってくると、不満に耐え切れなくなった入植者たちの多くが、女王に苦情を訴えるためすでにスペインに出立した後でした。さらに、最初は友好的だった島民もヨーロッパ人の残虐行為に怒り、敵対するようになってきました。何とか島民を屈伏させたコロンブスは、多くの島民を奴隷としてスペインに送りますが、イサベル女王はこれを喜びません、島民を送り返してきたうえ入植者たちによる苦情の訴えを聞き入れ、イサベル植民地に調査員を派遣してきたのです。コロンブスは女王に釈明するため、いったん帰途につきました。両王に謁見したコロンブスはあれこれ説明を行い、重罪に問われるのだけは何とか免れます。
その2年後に3回目の航海に出たコロンブスは、今度はイスパニオラ島で住民の反乱に遭います。入植者の不満もくすぶり続け、ついに本国の王室はコロンブスに不正行為があったとして彼を逮捕し、鎖につないでスペインに連れ戻しました。両王はコロンブスを許しますが、地位回復は認めず、別の人間を新総督に任命しました。
それでもコロンブスは諦めず、4度目の航海に挑戦します。しかし、オンボロの小型船4隻しかあたえてもらえず、また、イスパニオラ島への寄港は禁じられました。最後にはジャマイカ島沖で難破、イスパニオラ島に使者を送って助けを求め、ほうほうの体でスペインに戻ってきました。
晩年は病気に苦しめられましたが、かなりの財を蓄えていたため生活に困りはしませんでした。しかし、求めつづけていた特権の回復はついに認められず、1506年5月20日に死去しました。けっきょく最後までコロンブスは、自分が航海した地域は東アジアの島々だと信じていたといいます。だからこの地域に住む人々をインディオと呼ぶようになったのです。
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ベルサイユ宮殿
フランス絶対王政最盛期の王様といえば、ルイ14世(在位1643〜1715)。「太陽王」ともよばれた彼の治世の特徴は、国内統治機構の整備、長期にわたる対外戦争、唯一の宗教をめざした宗教政策、そして、ベルサイユ宮殿での豪華な生活に見られます。
ベルサイユ宮殿は、パリから南西約20キロ離れたところに20年以上もかけて建設されました。1661年にルイ14世が親政を開始すると同時に父の狩場だったベルサイユに新宮殿の建設を命じ、建建築、造園、室内装飾などに、当時のフランスの最高の専門家を結集しました。
完成した宮殿には王のほか、貴族、官僚など5000人が住み、宮殿の周囲の付属の建物には兵士や召使いなど1万5000人ほどが住んでいたといいます。政府の機能もここに移していましたから、宮殿というより、新しい都市を建設したといった方がよいほどでした。ベルサイユでは連日、宴会、コンサート、演劇などが開催されましたが、これらは単なる娯楽である以上に、芸術の様式などを全国的に統一するためという意味をもっていたようです。
これほどの宮殿を造営したルイ14世の威光は高まるばかりで、ヨーロッパ中の君主の畏敬の的となりました。後に、ベルサイユ宮殿に倣った宮殿が世界中で続々と造られました。ウィーン郊外のシェーンブルン宮殿やサンクト・ペテルブルグ郊外のペテルゴーフ宮殿、そして今は迎賓館になっている日本の赤坂離宮もベルサイユ宮殿をまねたものです。
ルイ14世も、自らスーパースターとしてふるまいます。朝起きてから晩まで、着替え、食事、散歩と、王の日常生活のすべてが儀式化されていて、選ばれた貴族たちがその儀式に参加できたのです。コップを王に渡す役、ハンカチを王に渡す役というふうに、いろいろな役割が貴族たちに割り振られていました。
食事がすんだら朝の散歩ですが、そのお供も王の指名によります。散歩の前に宮殿の広間に詰めかけた貴族たちを、王がぐるりと見渡してその日のお供を指名します。指名された貴族たちは、それこそ天にも昇る気持ちで散歩について行くわけです。しかし、王のウンコのときでさえそれに参列するのが名誉だったとか、さらには王妃に時刻を尋ねられた臣下が、「王妃のお望みのままの時刻です」と答えたという話となると、もう理解の限度を超えます。
王の歓心をひくために、貴族たちはいつもゴージャスな身なりをしている必要がありました。王も何かとそういう貴族を指名する傾向がありましたから、貴族たちは借金をしてでもドレスアップしなければならなかったのです。フランスにファッションが栄えた理由はこうした事情があったようです。ただし、貴族たちの経済的な負担は大変でした。
このころの最新のファッションといえば、ルイ14世の肖像画に見られるように、短いズボンに、足にぴったりのタイツです。私たちが今はいているような長ズボンは、むしろ下層民の服装でした。また、異様に髪の毛の多いヘアスタイルはカツラです。これが、やがてヨーロッパ中に広がり、その後の正装となりました。ベートーベンやモーツアルトの肖像画もカツラをつけたものです。なぜ、カツラをするようになったかというと、先代のルイ13世に原因があります。ルイ13世は若ハゲでした。それで、カツラをつけだしたのですが、王様一人がカツラではハゲを隠しているのがバレバレなので、取り巻きの貴族たちも同じようにカツラをするようになったのです。
ベルサイユは、その後も多くの歴史的事件の舞台となりました。1789年には宮殿のテニスコートで第三身分の議員たちが誓いをたて、フランス革命の始まりを告げました。プロイセン・フランス戦争の間にはドイツ軍司令部となり、ウィルヘルム1世は1871年1月18日、宮殿の「鏡の間」で新生ドイツ帝国の皇帝に即位しました。1870年に始まった第3共和政のもと、79年までフランス国民議会の所在地でした。第1次世界大戦後の1919年には、ベルサイユ条約が同じく「鏡の間」で調印されました。
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愛人が82人いた女帝
ロシアにエカチェリナ2世(在位1762〜96年)という女帝がいました。彼女はもともとドイツの小さな公家の娘で、のちのビョードル3世のもとに嫁いだ人です。その彼女が、何と夫のビョードル3世を追放し女帝に即位、専制政治を強化して領土を拡大、ロシアの国力を高めたモーレツ・ウーマンでした。日本との関係では、日本人漂流民を送還、通商を求めてラクスマンを派遣してきた人です。彼女がモーレツだったのは政治力だけではなく男関係もえらく盛んで、生涯に82人もの愛人をもったといいますから驚きます。よく「英雄、色を好む」と言われますが、決して男性に限った話ではないようです。
実は、彼女の愛人がこんなにも大勢になったのには訳がありました。それは4番目の愛人だったポチョムキンという男が原因でした。あるときポチョムキンは、女帝の自分に対する愛情が冷めつつあるのを感じ取ります。そこで、彼女に見捨てられるのを恐れたポチョムキンは、自らが新しい愛人を斡旋することで彼女の気持ちをつなぎとめようとします。そうして数々の美男子を連れてきては彼女のもとに送りつづけたのでした。彼女が一人の男だけに夢中にならないように、次から次へと取っかえる必要もあったようです。
国政に忙しい彼女もこれは有り難かったようで、喜んで男たちを寝室に迎え入れました。そうした事情から、こんなにも愛人の数が増えてしまったわけです。ポチョムキンは国政にも活躍した人でしたが、何よりその苦労の甲斐があって、女帝に終生見捨てられることはありませんでした。
ところで、ポチョムキンはいったいどのようにして彼女の気に入る男たちをそんなに数多く見つけてきたのでしょうか。幸い、彼はそれまで愛人の立場にあったわけですから、彼女の男の好みは誰より熟知していました。それでもって各地から美男子を集め、厳しいオーディションによって、これはという男を選び抜いていったのです。
候補者たちはまず念入りな身体検査をされ、次には侍女による面接試験を受けます。そこで品格や教養などをチェックされ、さらには肝心のセックスの能力を試されます。これは侍女を相手に実戦におよびました。そうして難関を勝ち抜いてきた何人かの候補者たちだけが女帝の面前に通され、最後に直接指名を受けた者だけが晴れてベッドインできるというものでした。いやはや、何とも・・・・・・。
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地動説の歴史
天文学においては「天動説」と「地動説」は古くから対立してきましたが、地動説は、実は紀元前3世紀の古代ギリシアの時代にすでに唱えられていました。ギリシアの天文学者アリスタルコスは、天に見られる運動は地球が自分の軸の周りを24時間かけて1回転し、ほかの惑星は太陽の周囲をまわっていると考えれば説明できるとしました。ところが、この説明はギリシアのほとんどの哲学者には受け入れられませんでした。多くの人々は、地球は大きく重く静止した球であり、その周りを天体が回転していると考えていたのです。
そして、2世紀になって、同じくギリシアの天文学者プトレマイオスが地球中心の天動説を確立し、ローマ教会に正統な教義として公認されました。その後、教会の権威が絶対化していくにつれ、天動説を否定する者はだれもいなくなり、この理論には事実上約2000年間も手がつけられることがなかったのです。
しかし、ようやくルネサンス期になって天文学の分野が近代科学の夜明けを告げます。ポーランドのコペルニクス(1473〜1543年)が、アリスタルコスの地動説にヒントを得て『天体回転論』を著しました。ただ、コペルニクスは自説を証明する観測結果がなかなか得られなかったため、この本の出版をためらってしまいます。実際に刊行されたのは彼が死去した1543年でした。
コペルニクスの地動説をさらに進めたのが、イタリア生まれのガリレオ・ガリレイ(1564〜1642年)でした。オランダで望遠鏡が発明されたことを知ったガリレオは、自ら倍率32倍の精巧な望遠鏡を製作しました。そして人類で初めて天体観測に望遠鏡を使用したガリレオは、月の山やクレーターを見つけ、天の川が星の集団であることを確認しました。さらには木星の衛星を発見し、その動きの分析結果からコペルニクスの地動説を認め、天動説を否定しました。
これに対して、天動説をとるローマ教会は、「地動説は哲学的に不合理であり、神学的には異端である」との判断を下しました。しかし、ガリレオはなお研究を重ね、『天文対話』を出版して強硬に地動説を主張しました。ついに彼はローマの異端審問所に呼び出され、地動説を捨てるか火あぶりの刑を受けるかの選択を迫られます。けっきょく地動説を捨てることを誓わされ、終身禁固の判決を受けてしまいます。このとき「それでも地球は動く」と言ったとされるのは後世の創作です。
終身禁固の刑はまもなく自宅軟禁に減刑されましたが、ガリレオが死んだときも一族の墓に葬ることを許されず、葬式で弔辞を読むことも禁じられたといいます。
その後、ドイツのケプラーが、火星の観測をもとに「惑星の3法則(ケプラーの法則)」を発見し、これによってようやく教会も天動説をはっきりと否定しました。ただし、バチカン当局がガリレオに対する有罪判決が誤りであったのを正式に認めたのは、つい最近の1992年のことでした。
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フランス革命
革命前のフランスは、アンシャン=レジームと呼ばれる封建的な身分制の社会でした。第一身分は全人口の0.5%にも満たない聖職者で、全国の土地の1割を所有し、教会組織を維持するため民衆から十分の一税を徴収していました。また、彼らは免税の特権をもち、独自の行政機構と裁判所をもっていました。
第二身分は全人口の1〜1.5%の貴族です。貴族は全国の土地の約2割にあたる先祖伝来の領地をもち、領内の住民から貢租をとりたて、また領内を通過する商品からも税を徴収しました。事業をいとなむ豊かな貴族もあり、免税の特権を有し、聖職者とともにフランスを支配する特権的階層を構成していました。
そして、98%をしめる国民は第三身分とよばれ、なかには豊かな商工業者(ブルジョワ)もいましたが、全人口の4分の3以上が農民でした。広大な土地を所有する富農もいましたが、彼らは領主に貢租をおさめ、国王に税をはらい、多くは貧困にあえいでいました。税金の負担をすべて押しつけられ、国家の財政を支えていたのは第三身分でしたが、その社会的地位はたいへん低いものでした。
18世紀になると、啓蒙思想やアメリカ独立に影響を受けたブルジョワ層は、身分制や重税を批判しはじめ、そうした考えは都市の民衆や農民にも広まっていきます。貴族は貴族で、王権が強化されるなか権限が縮小するばかりで、小貴族のなかには経済発展にも取り残され、豊かになったブルジョワをうらやむ者もでてきました。
革命のきっかけは、国家財政の危機の深刻さと財政再建の失敗でした。ルイ16世が即位したころの財政は、大幅な支出超過という危機的状況にあり、しかも支出の大半は膨大な累積債務の利息支払に当てられていました。それほどに借金が増えてしまったのは、七年戦争やアメリカ独立戦争などの度重なる戦争と宮廷の浪費が原因でした。妃のマリー=アントワネットの贅沢は有名ですが、戦争費用にくらべれば大したものではありません。
国王のルイ16世は、ブルジョワ出身の有能な財務長官チュルゴーやネッケルの意見を入れ、税制改革によって特権身分の免税特権を縮小しようとします。これに貴族が猛反対したため、国王は1世紀半ぶりの全国三部会の召集を決意します。三部会は、国王が国民の支持を取りつけるために開かれる身分制議会で、第一、第二、第三の三つの身分の代表から構成されるためこう呼ばれました。しかし、絶対王政の時代には国王は国民の支持など関係なく権力をふるっていたので、1614年以降は開かれていませんでした。
聖職者と貴族の代表それぞれ約300名ずつ、第三身分の代表約600名、合計1200名が召集されて三部会は開かれましたが、冒頭から議決の方法をめぐって対立しました。特権身分の代表たちは旧来どおり身分別に採決するつもりでしたが、第三身分の代表は身分制そのものを否定していたので、全員が一堂に会し一人1票で議決する方式を主張しました。こうして、特権身分と第三身分の対立が続き、国王も明確な決断を下すことができません。そこで第三身分の議員たちは、国民議会と名のり、憲法が制定されるまでは解散しないと誓い合います(テニスコートの誓い)。その第三身分の集会に聖職者の多くと貴族の一部が参加したため、国王はやむをえず残りの貴族にも合流をうながします。けっきょく三部会は空洞化してしまい、議員たちは憲法制定国民議会と名のり、憲法制定の作業を開始しました。
フランス革命が始まったのは、1789年7月14日とされています。国王が国民議会に圧力をかけるために軍隊を動員したことや、改革を主張する国務長官のネッケルを罷免したことが引き金となって、パリの民衆が行動を起こしたのです。市民軍を結成したパリの民衆は、しかし武器を持っていません。そこで廃兵院という軍事施設を襲い、ここを占拠して武器を手に入れました。次は火薬です。火薬の保管場所がバスティーユ要塞でしたのでそこに押しかけ、保管されている火薬の引き渡しを求めますが、話がこじれて衝突が起こり、要塞司令官を殺害し要塞を占拠してしまいました。ここはルイ14世時代から政治犯を収容していたので、専制政治の象徴でもあった場所でした。
この日、ルイ16世は、ヴェルサイユ近郊の森に狩猟に出かけていました。宮殿に戻って仮眠していた国王に、侍従がパリのバスティーユ要塞の事件を伝えました。それを聞いたルイ16世は、「暴動だな?」と言いましたが、侍従は「いいえ、陛下、革命です」と答えたと伝えられています。国王はえらくのんきだったのです。もっとも、市民たちがこのとき革命のシンボルとして掲げたパリの旗には、赤と青の二色にフランス王家ブルボン家のシンボル色だった白色も加えています。これは国王も大事にしようという意図の表れで、悪いのは側近の貴族やマリー=アントワネットだという感情が一般的だったようです。これ以後、三色旗が革命の旗となり、現在のフランスの国旗にもなったのです。
同じころ、農村では暴動が起きていました。貴族の軍が攻めてくるというデマが流れ、パニックにおちいった農民が貴族の城館を襲ったのです。国民議会は2つの宣言を出して事態収拾をはかります。それは、1789年8月4日の貴族のもっている特権廃止の決議と、同26日の「人間は、生まれながらにして自由であり、権利において平等である。社会的な差別は、共同の利益に基づく場合にしか設けることができない」とする「人権宣言」でした。
ところが、国王は「人権宣言」の承認を拒否します。国王が再び軍隊を呼び寄せたので、パリの民衆も再度、行動を起こしました。とくに食糧の値段が高くなったことに怒った主婦中心によるデモ隊がベルサイユの宮殿におしかけ、国王一家を馬車に乗せてパリに連行しました。このとき宮殿に乱入した主婦たちが「パンをよこせ!」と叫んでいるのを聞いて、マリー=アントワネットが「パンがないなら、ケーキを食べればいいのに」と言った話は有名です。そして、パリに連れてこられた国王は一連の法令を承認し、国王とその家族はパリの中心にあるチュイルリ宮殿に入り、パリ市民に監視されて暮らすようになりました。議会もいっしょにパリに移動しました。
議会はチュイルリ宮殿内にあった馬の練習場におかれ、新しい国家の骨格となる憲法や他の法律の制定作業を行いました。そして、フランスは憲法にもとづく三権分立の国家と決められました。選挙で選ばれた議員たちの議会が立法を担当し、行政は王のもとにおかれ、司法は選挙で選ばれる司法官が担当するとされました。しかし、貴族たちは、伝統の秩序が乱れ、自分たちの身が危うくなるのをおそれました。国外に亡命する貴族が増加し、彼らはオーストリアやプロイセンなどの外国君主の援助で部隊を結成します。また、一般の農民や都市の貧困階層も、革命が特段の利益をもたらさないので、しだいに議会に対して不満をもつようになりました。
1791年6月、国王一家がパリを脱走する事件が起きました。ルイ16世は、表向きには国民議会による改革を理解しているようにふるまいましたが、実際には快く思わず、国外の反革命勢力とひそかに通じ、オーストリアへの逃亡をはかったのでした。しかしフランス東部の国境付近で一家の馬車は発見され、パリに連れ戻されました。民衆の国王への信頼は一挙に崩れ、立憲王政を維持したい政府とはげしく対立します。それでも、憲法制定の作業は終了し、9月に1791年の憲法が制定されました。その特色は、立憲君主制と選挙権は直接税をある程度以上払っている人に限られるという制限選挙が定められたことでした。
そして、新たに立法議会が召集されました。立法議会選挙では再選が禁止されていたので、議員全員が新人でした。また、ブルジョワ層が増え、貴族は消えていました。議会では、立憲王政を支持し91年憲法に満足する者が議場の右側を占め、政治の主導権をにぎりました(フイヤン派)。議場の左側の議員には、貧困な階層の要求に同情的な議員が座りました(ジャコバン派)。翌年の春になると、絶対王政に戻そうとする王党派の反乱が各地で起き、また、王妃マリー・アントワネットの母国オーストリアはフランスの革命を憂慮し、亡命貴族たちを支援しだしました。そのため、4月に政府はオーストリアに宣戦しました。
ところが、この戦争でフランス軍は敗北を重ねてしまいます。将校は全員が貴族で、その半数は亡命していたため、軍の統制が取れなかったからです。残っている将校も革命政府に協力的ではなく、ほとんどやる気がありません。ルイ16世も、自分に同情的な将校に対して負けるように指示していたらしく、マリー=アントワネットは敵方にフランス軍の作戦秘密を漏らしていたともいいます。勝てるはずがなかったのです。とうとう外国軍と亡命貴族の部隊がフランス国境に到達しました。政府は非常事態宣言を出し、ナショナリズムが高まっていた民衆はこれに応えて国民衛兵を組織してパリに結集しました。このときにマルセイユからやってきた部隊の進軍の歌が、「ラ・マルセイエーズ」として有名になり、後に国歌になります。
そんなとき、オーストリア・プロイセン連合軍による「王家に危害を加えればパリを完全に破壊する」との宣言がパリに伝えられました。パリの民衆は憤慨し、チュイルリ宮殿を襲撃、王の一家を監禁しました。フランスの本当の敵は王に違いないと考えたのです。さらに、これまでの議会に代えて全国民の代表による公会を設置し、あらためて憲法を作成することが決められました。そして、史上はじめて、成人男子全員が参加する普通選挙が行われ、1792年9月21日に開催された国民公会はただちに王政の廃止と共和政樹立を宣言しました。
国民公会の構成員の主流は依然としてブルジョワジーでしたが、すでに立憲王政派は存在せず、議員はかつてのジャコバン派とその同調者でした。しかし、ジャコバン派はジロンド派と山岳派に分裂します。国民公会の主導権をにぎり、政府を構成したのはジロンド派でしたが、最初の対立は国王の処置をめぐって起きました。山岳派は、民衆が要求する国王の裁判と処刑を迫りましたが、ジロンド派政権は消極的で、国王の処刑によって国の内外に反発が強まるのを恐れました。しかし、国王の裁判は始まり、王宮の隠し戸棚から、王が外国の使節と秘密にやりとりしていた文書がたくさん発見され、王が政府と国民を裏切っていた証拠がたくさん出てきました。けっきょく議員の投票で有罪が決定し、ルイ16世は、1793年1月21日、革命広場でギロチンにかけられました。
戦争のほうは、1792年9月にフランス東部のバルミーで、これまで負け続けていたフランス軍がプロイセン・オーストリア軍に初めて勝利しました。このとき、プロイセン王に付き添っていたゲーテが、「この日、この場所から、新しい世界史が始まる」と言ったのは有名です。プロイセン・オーストリア軍は武器も優れ訓練の行き届いた軍隊でしたが封建的であり、革命を守るという戦争目的が軍の末端まで浸透していたフランス軍の士気が優ったということでしょうか。
国民公会がルイ16世を処刑したニュースは、諸外国にショックを与えました。これをきっかけに、反フランス、反革命の軍事同盟がつくられました。これを第一回対仏大同盟といい、参加国は、イギリス、ロシア、オーストリア、プロイセン、スペイン、オランダなどヨーロッパの主要国でした。どこの国の王家も、王を殺すという行為を見過ごせなかったのです。対仏大同盟の結成を呼びかけたのはイギリスでした。それによって、フランスは周辺諸国との戦争にまきこまれてしまいます。また、食糧不足や物価騰貴に対する民衆の暴動が続き、フランス西部で王党派による反革命暴動が発生します。
これらの危機にジロンド派政権は対処できなくなり、1793年6月、ついに山岳派がジロンド派を国民公会から追放しました。以後1年間が、山岳派の独裁時代と呼ばれ、革命の絶頂期を迎えます。
山岳派は、貧困な農民の要求をいれて、亡命貴族から没収した土地を分割して売却することや農民の共有地を平等に分割することを決め、さらに、国民公会で新しい憲法を採択しました。そこでは、貧困者に労働の機会をあたえることや失業者の生活保障、万民への教育の保障などが盛り込まれ、人民は蜂起する権利を持つと記されました。しかし、富裕階層の活動を規制する姿勢を示したため、それに反発する動きが全国に広がり、かつての議員や公会を追われたロンド派議員などが中心になって反政府運動が組織され、暴動が起きました。
これに対し、国民公会は一連の措置をとります。公安委員会のメンバーを更迭し、民衆の意思にそって革命を徹底させようとしていたロベスピエールが中心になりました。食料の隠匿を摘発する部隊がつくられ、買い占めでもうけようとする商人は場合によっては死刑にされ、生活必需品の価格を統制しました。いっぽうでは全国民を革命の防衛にかりだす国民総動員令が出され、また、反革命容疑者に関する法律が制定され、不審な言動をする者はただちに逮捕されました。そして、平和が到来するまでは非常事態におくとして、全政府機関を公安委員会の監視下におき、公安委員会の独裁が成立しました。
王妃マリー・アントワネットやかつてのジロンド派議員なども処刑され、「恐怖政治」が進行し、革命裁判所が設立されてからの処刑者は、全国で1万6000人以上にのぼりました。無実の罪で処刑された者も多かったようで、最後のころは考え方の違いが出てきた山岳派の政治家たちも処刑するようになりました。また、キリスト教は目の敵にされ、西暦が廃止され、共和暦が制定されました。
このように、フランス革命は、ブルジョワ層が主導権をにぎった段階で終わったイギリス革命にくらべ、貧しい階層までもが革命の表舞台に出て活躍したので、かなり過激なものとなりました。山岳派による「恐怖政治」はその最たるものでしたが、当初は、外国軍の侵攻、内乱や経済危機があり、この危機を乗り切るためには独裁政治しかない、という意識が国民にありました。しかし、1794年に入ると、戦況は好転、物価も安定して、危機は山場を越えていきます。そして、これらの中心人物だったロベスピエールは、「やり過ぎ」との批判を浴びるようになり孤立し、最後には逮捕され処刑されました。
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ダーウィンの進化論
1831年、ケンブリッジ大学を卒業した22歳のダーウィンは、イギリスの測量船ビーグル号に乗りこみ、無給の博物学者として科学の探検航海に旅立ちました。ビーグル号に乗船したダーウィンは、航路上のおもに南半球の大陸や多くの島で、さまざまな地質や変化にとんだ化石や生物を観察する機会を得ました。
当時の多くの地質学者の考えは、地球上では動植物の創造が続いており、これらの創造物は地表の激変などの突然の天変地異によって滅びるという、いわゆる「天変地異説」をとっていました。この説によると、最後の天変地異はノアの洪水で、このときノアの箱舟にのった生物以外はすべて絶滅し化石になったというものでした。天変地異説の支持者は、生物は個々の種ごとに創造され、不変であると考えていたのです。
ところが、イギリスの地質学者チャールズ・ライエルは、種は個々に創造されたとする部分をのぞく天変地異説に異をとなえていました。地球の表面は、自然の力が長い期間にわたって均一に作用する結果、つねに一定の変化が起きていると主張しました。
ダーウィンはビーグル号の船上で、自分の観察したものの多くがライエルの説に合致していることに気がつきます。しかし一方で、化石や現生の動植物を観察して、ライエルが否定していない、種は個々に創造されたとする説に疑いをいだくようになりました。
たとえば、絶滅種の化石が、同じ地域で見られる現生種とよく似ている点に注目します。また、南米エクアドルの沖合に位置するガラパゴス諸島では、ゾウガメ、マネシツグミ、フィンチなどの種がそれぞれの島ごとに異なっているのを発見しました。
そうしてダーウィンは、1859年、『種の起源』を出版し「進化論」をとなえました。すべての生物は自然選択の作用によって時間をかけて進化するとの新しい考え方であり、世界を震撼させたと評されるこの本は出版当日に完売し、のちに6版を重ねました。
ただちに各方面から反論の声が上がりましたが、もっとも激しい反発は、科学者によるものではなく、意外にも宗教界からのものでした。サルからヒトが進化したというこの学説は、人類の創造を否定し、人類を動物と同じ水準におくことにつながり、正統派神学に真っ向から対立するものだったからです。
また、環境に適したもののみが他の生物より有利になり、敗者は滅びるという「適者生存」の原理は、その後の社会理論にも大きな影響をあたえました。すなわち、白人の国による植民地政策や人種差別を擁護する理論にも利用されていったのです。