無邪気とは「邪気が無い」ということであり、「邪まな気持ちがない」ということです。「子供は無邪気」でありますが、同時に「善悪の区別がつかない」ということでもあります。だからもし悪いことをしてしまっても、何が悪いかわからないのでまた同じことをしてしまいます。
よく「悪気がないから許してあげなさい」という話がありますが、「悪気なくやってしまったことに対して罪悪感を抱いている」のであれば許すべき案件であると思います。しかし、「何が悪いかわからずふてくされている」のであれば決して許してはいけないと思います。また同じミスを繰り返すだけです。
そんなわけで「悪気がないこと」自体は罪ではありません。しかし、「悪気がないこと」を自分から言い始めてしまうと全てが自己擁護にしかなりません。場合によっては自己擁護のために誰かを貶める発言を繰り返し、「アタシ悪くないもん!」を連発します。
無知であることも同様で、無知であること自体は罪ではありません。知らないことがあるのは仕方のないことだし、全知全能の人なんで存在しません。しかし、知らなかったことに対して「知らなかったんだもん!」と言い訳を始めれば「アタシ悪くないもん!」と同じ穴のムジナになっていきます。
よく「知らないことを知らないと言って何が悪い」という言論を見かけます。確かに知らないことは仕方ありません。しかし、「知らない」と言うことで誰かが得をするのでしょうか。これが問題提起になったり「知るためにはどうすればよいか」という改善策の模索であれば適切な言論であります。そこのさじ加減を間違えるとただの開き直りになり、「アタシ悪くないもん!」のループに陥っていきます。
誰だって自分のことが一番大事だし、自分が間違っているなんて思いたくないし、自分の知らないことは存在していないのも一緒なんです。でも、一歩外へ出ればそんなことを言っている場合ではありません。相手の立場になって考えたり行動をしなくてはいけません。もし取り返しのつかない事態になっても「知らなかった」では済まされません。
知らないことに関してはまず自身で調べると言うのが大事です。特に特定の人のうわさを鵜のみにすることが一番危険です。自分で調べて、納得のいく答えを出して、それから情報発信になります。一部では情報を一部分だけ見せて受け手を煽るようなことを平気でしていますが、その煽りをまともに受けて勝手に憤るのもネットに生きるものとしては未熟ですし、それこそ「無邪気」なのだろうと思います。
知らないことを「知らない」と発言してしまうことは罪ではありません。しかし、少し調べればわかることを「知らない」と言ってしまうのは「私は理解する気がない」と言っていることとイコールなのだと思います。知る気がないのであれば未来永劫触れなければよいのです。更に「私は理解する気がないけどこんな事象があるらしい」という紹介は危険です。とても危険です。一歩でもカテゴリを間違えば妖怪がやってきて君のTwitterにはてブをべたべたべたとつけていくかもしれないぞ。
そんなことをとしぞうさんの記事を読んで思いました。「らしい」「らしい」で知らなきゃ書かなきゃいいのに。おわり。
「ブログ村」と「はてな村」とで感じたこと - いつか朝日が昇るまで