しっきーのブログ

今年の目標はゲームをつくることです!

アイドルという宗教が必要な時代



 女の子と「普通」に接するって、かなり難しい。適切な距離の取り方は、恵まれた環境にいなければなかなか身につかない。

 純粋に「落とす」ことだけを考えるなら機械みたいなものだと思ったほうがうまくいく。相手の価値を認めずに徹底的に戦略にもとづいて接すればいい。一方で、女の子の価値をものすごく大きく自分の中で設定する、という関わり方をすることもできる。女の子は自分ごときが気楽に話しかけてはいけないものであり、一挙一動にあたふたしたり考え込んだりしなければならない。この方法を取れば、女の子の価値のみならず、彼女から得られる自分自身の快楽も最大化できる代わりに、目的の子と仲良くなるのは難しい。女性は往々にして男のそういう試みを嫌う。

 そのような快楽の構造をうまく掴んでいるのが「To LOVEる」という漫画。主人公のリトは女の子が近づいてきただけで頭がショートする体質なのに、女の子側が勝手に近づいてきてくれる。最大化された快楽を享受できる仕組みだ。もっとも、これは過激なことができないという少年誌の制約から生まれてきたものだが。


f:id:skky17:20150215233141j:plain


 女性の価値を認めないほうが相手を手に入れやすく、女性に価値を求めると相手から拒絶されやすい。その真ん中でいるのが難しい。積極的になるにはどこかで相手の価値を否定しなければならず、相手の価値が高いほど自分はもじもじしてしまう。これは男が陥りやすい両極であり、ジレンマだ。

 近年のアイドルという仕組みは、そのジレンマをある意味では克服している。

 女性の価値を最大化しながらも、自分が彼女のために最大限の行動をとれる。女の子の価値を認めた上で、それゆえに全力で応援できるという、女性との関わり方に整合性のとれた回路が開かれる。その過程で、アイドル達の価値はほとんど宗教的なレベルに達する。



 AKB48は、みんながテレビの前に集まる時代の「美人」とか「芸能人」とは、仕組みそのものが違うのだろう。

 誰もが納得する「美人」を持ってくるのではなく、もともと人間が持っている、自分の中で相手の価値を大きくしてしまうという仕組みを利用している。直接「見える」、直接「会える」という形で、その作用を発動させる。AKBのトップになるような女の子が特別に美人なわけではない。しかし、だからこそ、彼女の価値は宗教的なまでに最大化されるようになる。



 濱野智史の「前田敦子はキリストを超えた」という本を知っているだろうか。

 僕は発売してすぐ本書を読んだとき、「こいつ聖書引用するみたいにしてAKBメンバーのセリフ引いてるwwwくそわろたwwwww」くらいの感想しか持てなかった記憶があるが、久々に読み返すと、何か「わかる」ような気がした。

 それはおそらく、僕自身が大学を卒業する時期に来て、自分の限界を知って、色々なものを諦めてしまったからだ。今ならAKBにハマる人達、ハマらなければならない人達の気持ちがよくわかる。


前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)

前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)


 わりと評判の悪い本だけど、著者はAKBにのめり込んだ上で、外側にもその仕組みがわかるように説明している。もっと時間が経って読み返されればそれなりに評価されるのではないかと思う。「馬鹿」な本なんだけど、本書で説明されているように、馬鹿になることにはそれなりの必然性があるし、馬鹿をやったリスクは著者自身が十分すぎるほど支払った。


 本書によると、AKBのミソは、「見る・会う」ことにある。


 実際AKBの「現場」を訪れた者は、ほとんど誰しもが、なんらかの衝撃的な経験を受けて帰ることになる。そしてそのことを周囲の誰かに興奮して語らずにはいられない。ほかならぬ私もそうであった。まさか、ここまでとは。AKBにハマる者は、劇場や握手会などの現場に行くことで、そのあまりの超越的なかわいさに転んでしまうのだ。ただひたすらに近い距離で見る・会うということが、テレビや雑誌といったメディアを介して見るのとあまりにも違うということに、衝撃を受けるのである。


 優れたフリーミアムモデルとしてのAKBには、以前の記事でもたびたび言及してきた。コンテンツそのものを売ることが難しくなって、コミュニケーションやライブの価値が上がっている。AKBはそれを主体にして成り立っているアイドルグループだ。


 濱野智史は熱量を込めていろいろ書いているけど、ざっくり言うと、会場で目が合った(気がした)とか、自分の目で直接その女の子のいいところを発見したとか、会場や握手会に通っていると女の子に自分を覚えてもらえたとか、それがアイドルを押すようになるキッカケで、AKBという厳しいシステムの中にいる彼女と一緒に傷ついたり、CDを買って一生懸命応援することで、ある種の超越的なものに触れている感覚を味わうという。


 大切なのは、ほんの些細な仕草や言葉遣いとか、ちょっと自分のことを意識してもたえたとか、そういうことなのだ。我々しょうもない男達は、そういうことでいちいち悩んだり喜んだりしているのである。

 ただ、AKBメンバーの女の子の実態にそれだけの価値があるというわけではなく、システムによって作られた、それぞれが頭に思い描いている概念的な価値にすぎない。仮にAKBを全員抱いたとしても、他人の信仰を踏みにじる下衆な喜びか、他者の欲望を自分のものにした概念的な快楽があるだけで、たいしたものではない。(知らないけど、たぶん)


f:id:skky17:20150215233307j:plain


 女の子の価値を最大化、極限化するというのは、自分の内で価値を膨らませているのであり、ある意味では人間性の否定でもある。ヤリ捨てするのも、崇め奉るのも、女の子の人間性をないがしろにしているという意味で、やっていることはかわらない。



 情報が奔流する現代社会で、歴史から切り離され、神の存在を信じられるわけでもなく、経済成長とか社会革命みたいなわかりやすい目的もない中で、個人が無根拠に漂っている。人間はそんなに強いものではない。二次元の紙切れに価値を感じるのと同様に、特別美人でもないそこらへんにいるような女の子を信じなければならないことだってあるだろう。

 一時期流行ったセカイ系云々という話も、身近な女の子との関係性の中に、超越的なもの、世界があるという話だった。



 AKBのメンバーであれ、橋本環奈であれ、どんな美少女も、実態はそれほどたいしたものではないだろう。ただの人間だ。だが、アイドルは、実態がありながら、二次元にもなっている。

 生身の人間から、実態と離れて「かわいい」や「美少女」という概念が抽出される。その抽象化されたものをヲタ達は消費しているのだろう。ニコニコ動画の有名実況者とかも同じで、二次元としての彼らが消費されているのだ。


 外側から見ればあまりに滑稽だろうし、馬鹿にしやすいんだけど、僕は自分のしょうもなさを自覚したときから、そのような試みを否定する気にはなれなくなった。  みんなが、信じたいものを信じる。それはある種の必要悪だろう。


 海外では、アイドルグループの恋愛禁止が人権違反とか、セクシュアリティがどうのこうのとか言われてるみたいだけど、まったく内情が理解されていない。

 アイドルになりたいと思う女の子がたくさんいるのは、よくわかる。彼女たちにとっては、漠然とした憧れの感覚なのかもしれないが、それは人間の身でありながら二次元になろうとする試みなのだ。(アイドルはちょっと無理だから声優、という女の子も多いだろう)


 自分の価値を最大化するというのは、自分という複雑な実態から抽象的なものを抜き出して、それを享受できる形で大勢に差し出すことだ。

 その最大化が、幸せなものなのかどうかはわからない。ただ、たくさんの女の子がそういうものになりたがるし、それを信じなければならない人がそれ以上に大勢いる。それがアイドルという宗教だ。そういうものが必要とされるというのは、なかなかしんどい時代ってことなのかもしれませんね。




前:プロは素人に勝つことができない


次:


「ゲームとかコンテンツの話」一覧

スポンサーリンク