先日に続きまして『ザ・フェミニズム』をマトモに読む第3回目。前回と同じく
【東京密室対談 他のフェミニストたちにはとても聞かせられないこと】(2001年の対談のほう)より。
今回は、1980年代に芽生えた
「官主導のフェミニズム」の担い手へと「学識経験者」として駆り出された上野千鶴子さんと小倉千加子さん の話を中心に、フェミニズムが当時の専業主婦たちに与えた影響や、お二人の当時の悩みなどを中心にまとめてみました。
最初に要点をまとめますと、当時、対処の仕方こそ違えども、お二人とも
「自分達が発したメッセージが受容されたからといって、受容側の生活が変化するわけではないことへのジレンマ」(「」内は遥洋子さんの解説にあった言葉。非常に的確な表現だと思ったのでそのまま使用。)に悩んでおられたわけであります。
というのも、フェミニズムというのは、当時の専業主婦たちにとっては
「とてもキツイ思想」(p138、小倉さんの発言)だったそうで、小倉さんや上野さんのような学識経験者から直接習っても、思想と現実が乖離してしまい、結果として
「3年たってフェミニズムを封印した人」や「逃げた人」(小倉さんの発言)のほうが多数だった、そして小倉さんは
「結局、自分の言ってることが無力だった」(p70)ことを実感し、その無力感が
「社会的引きこもりになる原因の1つ」(p70)となった、とのこと。
お二人のスタンスの違いをまとめますと、小倉さんは、
「なぜこれからいくらでも選択肢のある若い世代にフェミニズムが届かず、年齢的にも経済的にも今から学んだって人生変えようがない専業主婦のほうにフェミニズムが学ばれるのか」という点に関して、苦悩し絶望に近い感情を抱く。
一方、上野さんは
「理念とはしょせんそんなものだ」「たまたま人が変化することがあっても、それはその人の自力であって、自分が変えたわけではない」と
「冷静に客観的にフェミニズムの限界を語る」。(以上、「」内の言葉は本書に収録されている遥洋子さんの解説からの引用、p310-311。ちなみに遥洋子さんは「小倉氏のたどった苦悩のほうにいたく共感・共鳴ができる」とのことです。)
以下、細かい部分を引用し、まとめ。
まず、上野さんは、官主導フェミニズムの限界も理解しつつ、講師をしていたそうで、
上野:(略)30代のペエペエの駆け出しの大学講師にとっちゃ、ありがたい額ですよ。ましてや非常勤しなかった多くの女たちにとっては、ありがたいアルバイトの口でしたよ。たくさんの人がそうだった。
駆り出されただけではなくて、自ら、そういう講師の口を喜んで求めていた人たちもいます。自分を講師リストに登録して、売りこんでらした。(中略)世の中には非常勤で食うてはる人、職のない人がいっぱいいますから、そういう人は自分を一生懸命売り込んではりました。新しい職業機会ですから。行政の社会教育はええ商売になりました。
小倉:うん。わかります。
上野:そのことを見落とすわけにはいきませんよ。あなたも私も共犯でしたから。(p131-132)
とのこと。確かに、博士課程に在籍していたり大学講師をしている人というのは、
現代でも経済的に困っているケースは多いらしいですから、80年代でもそういう傾向はあったのでしょうし、「共犯」というか、当時、上野さんが講師をしていたとしても何の罪は無いのは?、と思ったりもしました。ちなみに、現在(この対談の開催年度は2001年なのでその時点)において、お二人とも各自治体から要請される「人材登録」は原則として断っているとのこと。
一方、小倉さんと上野さんのスタンスの違いは以下参照。
上野:官主導のフェミニズムからお座敷がかかったときに、小倉さんは期待をもってはったんですか?
小倉:期待も何も白紙ですよ。警戒することも知らなかった。
(中略)
上野:(略)「官はしょせんこんなもんや」と思ってました。そこはあなたと違うかもしれません。そんな大きな期待も持たないかわりに、大きな失望もしない。
小倉:官そのものに失望したわけじゃないんだって。そこで深入りしてしまったんですよね、受講生というか、専業主婦問題に。
上野:どんなふうに?
小倉:やっぱり聞きに来る専業主婦の人は問題意識があって来るんだけれども、そこでフェミニズムを勉強して、自分の思想に合わせて生活を変えられるかというと、変えられない。で、思想と生活の間に矛盾を抱えて生きていくのは3年間が限界ですよね。耐えられるのは3年間。
上野:経験的にね。(p134-136)
そして、上野さんや小倉さんの講座に来て、離婚したり別居したり
「生き方を変えていった人」(小倉さんの発言内の言葉)も存在していたのですが、そういった人たちは精神的に自由になったものの生活苦に苦しむ人が多く、小倉さんは
「フェミニズムというのは、専業主婦を離婚させて生活苦にあえがせる思想なんだろうか、という自問自答を私はずっとしたよね。」(p137)とのこと。
次に、「生き方を変えていった人たち」がいた一方、フェミニズム思想を
「捨てた人たち」も存在しており、そういう人たちが、一体どこへ行ったかというと、
小倉:(略)他の多数派の専業主婦の人が、その3年の間の思想と生活のねじれに対して出した答えというのが、フェミニズムを捨てるということです。で、反原発にいったりね、エコロジーにいったりしてた。仮想敵は、夫から原発に変えるほうがずっと楽なんですよ。
上野:それを見てあなたはがっかりしたの?
小倉:がっかり・・・・、一言では言えませんね。(p137)
また、オウムに行った人もいたとのこと。(以下参照)
上野:(略)でも、それ言うたらね、与那原恵さんってノンフィクションライターの人がオウムの女信者さんにインタビューなさった時に、「上野千鶴子を読んだけど、小倉千加子を読んだけど、救われなかったからオウムに行った」という答えもあったそうですけど。(p83)
上記引用箇所に出てきた、与那原恵さんの本は、これかも。
以下、アマゾンの上記リンク先(↑)より引用。
出版社 / 著者からの内容紹介
「自分探し」「自己実現」「心の時代」――。「生きること」は、いつからこんな言葉をなぞることにすり変わったのか。耳障りのよい「情報」を鵜呑みにして生きる私たちは、もしかしたら癒しがたい<情報依存症>に侵されているのではないのか。
(中略)荒木経惟氏のモデルとして写真家とともに過ごした濃密なひと時を描く「モデルの時間」、岡崎京子氏の代表作『Pink』を引用しながら、メディアの語る <幸福のカタチ>におびえオウム真理教へと傾斜していった女性信者たちを描く「フェミニズムは何も答えてくれなかった」など、鋭いが偏りのない感性のひらめく文章は読みごたえ十分。まずは手にとって、読み始めてほしいと思います。読めば必ずこの本のよさがわかるはずです。
ああ、ここにもメディアが登場。。というか、確かに、問題解決に当たらずに、世間的な基準からして、そういう思想を持ったり、そういった行動を取るのは「良いことである」とされている
「反原発」や「エコロジー」などへと矛先を向ける、または「救われたい」という思いで
「宗教」や「カルト」や「自己啓発セミナー」へと流れていく、というのは、ある種の思考様式を持った人たちにありがちなパターンですし、人間の弱さ、特に、
自己欺瞞が最もよく起動されるパターンである、とは言えるかと思います。
ちなみに、“擬似”経営学に「ほとんどの人は問題解決なんて本当は望んでいない、単に悩むのが好きなだけ」っていう説がありますが、ほとんどの人は問題解決を望んでいないというのではなくて、日本人だと特に「問題を解決してはいけない」「問題は何も無いとして、振舞うのが良い」「問題を発見したり解決したりすると、逆に"和”を乱す問題児だと思われるので損」というようなネジれた
「刷り込み」があるようにも感じます。
もちろん、この刷り込みの濃度や深度は年齢層によって異なるでしょうけれども、比較的高齢の方には、常に抑圧されている人が多いというか、
黙って言われたことをこなすのが「美徳」と考えている人が、まだまだたくさん存在しているというか。(経済思想の観点からすると、石田梅岩の影響なのかな、と思ったりも。。)
たとえば、日本の企業といってもいろいろありますが、そのなかでも特に
企業文化がいまだに古めかしい企業だと、
「問題解決」って本当に嫌われますよね。。
「触らぬ神に祟りなし」の精神なのか、
「問題発見」でさえも嫌われるところもあるみたいだし。。(そういうところは、潰れないとわからないんだろうし、というよりも、そのままいけば潰れるしか道はないんですけど、社員の人たちのためには、可能ならば「赤い竜」か「白い竜」か原油の国の「黒い竜」にTOBしてもらうしかないのかも、と思ったりも。。)
あと、この箇所。
小倉:他の人にはそういうことよく言われましたよ。でもなんていうのかなあ、私の言いたいのは・・・。
(中略)
なぜ、結婚する前の、就職する前の大学生、あるいは高校生の、今このイデオロギーを知っておいたらこれから一番役に立つ、そのまさに該当する年齢の人たちがフェミニズムに耳を貸さず、そして年取った40代、50代の有閑専業主婦で、今から学んだって人生変えようもない人が学び(笑)ね。(p84)
個人的には、なにもフェミニズムではなくとも、他の分野、たとえば、思考力一般をつけるという意味では論理学を含む
「哲学」をバリバリやるのが一番良いのでしょうし、マルチ商法やカルト宗教にハマり込まないためには
「論理的思考力」を身に着けるのが一番良いので、そのへんがオススメかな、と思ったりしました。
そのほかでは、心理学系でもいいですし、生物学系でもいいですし、経営系だとリーダーシップ論とかモチベーション論とかネゴシエーション・スキルとかであっても、
「人間関係の悩みや軋轢には役に立つのでは?」と思ったりします。
けれど、小倉千加子さんが教えていたのは、なにせ
専業主婦に「一番キツイ思想」である「フェミニズム」であり、だからこそ、小倉さん自身も小倉さんに習った専業主婦の皆さんも悩み苦しんだのですから、教えていた側が「年取った40代、50代の有閑専業主婦で、今から学んだって人生変えようもない人が学び(笑)ね。」と思ってしまうのも無理はないとも思います。また、小倉さんは、当時を振り返って、切実にこう述べておられます。
小倉:講演をしてまわるのは、ほんとうにもう嫌になったんです。(中略)結局、私がその人たちが主婦としての家事活動を活性化するためのガス抜きをしているということがわかるわけですよ。ああ、これはこういうことをずっとやっちゃいかんな、と思いましたよね。
もう、何から何まで嫌になった。ガス抜きにされるのも、生活変えた主婦が生活苦にあえぐのも、私の話の前に、知事の話に代読されるのも。(p134~138)
上野さんは、
「自分のメッセージが商品であることの自覚が、あなたよりあったと思う。」(p141)と述べつつ、小倉さんの気持ちには理解と共感をしていている。
上野:(略)小倉さんの気持ちは、たいへんよくわかります。女性行政がだんだん確立してくると、予算があるから消化しましょう、みたいなルーティンが出てくる。その頃までには、私はマーケットで、ある程度のブランド商品になっていたから、「消費される」という気持ちがすごく強くなった。
小倉:ああ、ありますね。それはすごく。
上野:それで、ものすごく嫌になった。消費されるんなら、芸者と同じやん。(中略)消費しているのは、もちろん行政の担当者であると同時に、あなたがさっきおっしゃったようなガス抜きに来るお客さんたちです。(p140)
また、
小倉:私は有閑主婦の知的愛玩物にはなりたくなかったんです。
上野:それはとてもよくわかる。それはほんとに日本の女性政策のひずみのそのまんまの表れです。(中略)昼間の社会教育事業として出発した女性政策は、一番特権的な無業の主婦層に、もっとも手厚い行政サービスを提供する、という結果になり、特権的な有閑主婦層の知的愛玩物になってしまいました。自分が消費財になっているという気持ちを私が味わったのもそのせいです。(p152)
以上より、お二人は、当時、それぞれ
「有閑主婦の知的愛玩物」(小倉さんの発言)にされ、
「自分が消費財になっているという気持ち」(上野さんの発言より)を共有していたことが読み取れる。
また、講演会ではなく
「運動」に関するお二人の見解は以下。
小倉:そうすると運動体についても同じ印象を持ってる?
小倉:持ってます。
上野:まあ運動そのものがガス抜きってところもありますからね。だけど、思想と現実の落差を生きるのが人間ですから、落差が生じるのがけしからんと言うても始まらん、と思うけど。
小倉:今はそう思えるようになったんですね。でも、当時は・・・・・。
上野:もっとピュアだったんだ(笑)。
小倉:うーん、そうやね。
上野:運動がガス抜きだと言ったらしまいですが、たしかに日本のフェミニズムを主婦フェミニズムというときには、官主導の講座に専業主婦しか来れない、ということだけじゃなくて、運動の担い手にも既婚の女性が多いからですよね。(p148)
ということは、
80年代の「日本のフェミニズム業界」というのは、教わる側も既婚女性であり、その多くは専業主婦であり、教える側や運動の担い手も既婚女性であった、と。要するに、ほとんどすべてが「既婚の女性たち」によって担われており、そういう人たちの「ガス抜き」として「フェミニズム」が作用していた可能性がある、と。
ついでに、「フェミニズムは一人一派」をとりあえず正しいとすると、
「小倉千加子さん」のフェミニズム思想を簡潔に表現している箇所は、ここかも。
小倉:介護をやったりパートをしたりして、ほとんど自分の時間がないような主婦にこそ、フェミニズムは手が届かなければならない。なのに、そういう人は来なくて、来なくてもいい人が来るんですよ。
上野:要するにあなたは、有閑専業主婦層というのはフェミニズムと相容れないと思っているのね。
小倉:私のフェミニズムとは相容れないと思っています。(p153-154)
なお、ここで、
小倉さんが「フェミニズムと相容れないといっている専業主婦」とは、
「官主導の講座に出てくる保守的な主婦層」(p153、上野さんの発言より)と
「プラス、自ら民間の女性団体ーーフェミニズム系のーーを運営していて、企画を立てている人」(p153、小倉さんの発言)のことであり、一言で言えば
「有閑専業主婦層」(p152、両者の発言)のことを指している。また、そういう人たちに対する小倉さんの認識は「本人たちはフェミニストと名乗っているかもしれないけれど、そうじゃないということ?」(p153、上野さんの発言)「そう思いますよね」(p152、小倉さんの発言)とのこと。
また、本書を読んで、確かに、小倉さんの発言にあったように、フェミニズムというのは「介護をやったりパートをしたりして、ほとんど自分の時間がないような主婦にこそ」必要な思想なのかもしれないな、と私も思いました。
それに、たまに思うんですけど、もちろん私自身に必要なもので、なおかつ、まだ私のもとには届いていない何かも存在しているわけですが、本や映画でもそうですし、世間一般で「スキル」と呼ばれている知的体系でもそうなんですけど、本来はその人ではなくて違う人にこそ必要なそれ、が必要な人に届いていないことってよくあるな、と。
なお、「上野千鶴子さん」のフェミニズム思想は、今回の箇所にはあまり現れていませんが、ある点において独特な面がある、というか
上野千鶴子さんの「こだわり」が出ている論点がありまして、それは後々まとめる予定。
(続く・・・・・)