今日の「知恵泉」は満を持してあの人を取り上げます。
謎だ。
確かに肉や魚は配送は頼んだ。
エンジンは頼んでない。
謎だ。
それにこの送り主の川本さん?これ誰なんだろう?いや〜どうも。
ああ大木さん。
こんばんは。
こんばんは。
どうしました?何かねどえらいもんが届いちゃったんですよこれ。
エンジン届いてますね!ちょっと川本さん!エンジン届いてますよ。
川本さん?川本さんです。
こんばんは。
川本さんでいらっしゃいますか?川本です。
送り主に「川本さん」ってあったんですが。
はい。
あのね大木さんがこのエンジンを是非見たいとおっしゃるものですから今日ここでお会いする事になったのでそれで送らせて頂いたんですよ。
そうですよ。
だったら大木さんの家に送って下さいよこれ。
結構場所取りますよ。
場所は取りますけどね結構話題になりますからねそうおっしゃらずに受けて下さい。
店長聞いて下さいよ。
こちらの川本さんあの自動車メーカー「Honda」で社長だった川本さんですよ。
えっ!あっそうなんですか。
何かもうひょこっとしたおじさんだと思ってるでしょ?いやいやちょっと若干権威に弱いものでね。
社長を務められたお方ですよ。
それはお見それいたしました。
その方がエンジンをわざわざ。
これは1988年にフォーミュラ1で世界制覇したというかチャンピオンを取った。
あのエンジン!?それを何ですか?「よく分からないエンジンだな。
大木ん家に送りゃいいじゃないか」。
見られるだけ幸せと思って下さい店長このエンジン!世界一のエンジンですよ。
すごいんですよ。
どういう?大きく言いますと6気筒の1,500ccエンジン。
ここにターボチャージャーといって排気のエネルギーを使ってパワーを増すシステムがついてます。
大体今乗用車の1,500ccに比べて大体10倍かな。
乗用車10台分の馬力が?すごいでしょう?これはねずっと置いておきたい!調子いいんだからほんと店長も。
そうなると店長ね今日のお薦めやっぱり「本田宗一郎」。
それでお願いしたいんですよ。
是非とも。
他ならぬ大木さんの頼みですよ。
いいですか?ええ。
今日は本田宗一郎の知恵見てまいりたいと思います。
ありがとうございます。
この人の人生は常に夢とチャレンジに満ちあふれていました。
戦後小さな町工場からスタートし世界屈指の自動車メーカーを育て上げた人物です。
宗一郎の挑戦はいつも桁外れ。
創業間もない頃からみかん箱の上に乗って「世界一になる」と社員たちにげきを飛ばしていました。
最初の大きなチャレンジは1959年。
イギリス・マン島で開催される世界最高峰のオートバイレースへの参加でした。
宗一郎の会社はまだ無名も無名。
「無謀な挑戦」と笑われながら宗一郎たちは猛然とエンジン開発に取り組みます。
そして挑戦2年目でなんと優勝。
世界一の称号を手にしその名をとどろかせたのです。
バイクの次は自動車の生産に挑みます。
開発に着手するや僅か2年でカーレースの最高峰F1で優勝。
世界の自動車メーカーに衝撃を与えました。
天才技術者・宗一郎。
しかし輝かしい業績は一人で残せたのではありません。
仲間や後輩たちとの「チーム」で成し遂げたものばかりでした。
その現場は何日も徹夜が続き怒号が飛び交う厳しいもの。
そんな苦難を乗り越えチームは世界一の称号を次々と手にしていきます。
宗一郎はどのようにして最強のチームを作り上げたのでしょうか。
その知恵を教えてくれるのは…1990年から8年間Hondaの社長を務めました。
川本さんが入社したのは東京オリンピックの前年1963年。
大学で精密工学を学んだ川本さんは研究所に配属され宗一郎のもと数々の自動車エンジンの設計に携わりました。
技術に一切の妥協をしない宗一郎にどなられる事は日常茶飯事。
宗一郎からものづくりに懸ける情熱や哲学まで直接薫陶を受けました。
入社4年目にはF1レース用エンジンの設計プロジェクトに参加。
16戦中15勝という大記録を打ち立てたのは川本さんが総責任者の時でした。
社長に就任すると二足歩行で世間をあっと言わせたロボットの研究に着手。
今年試験飛行に成功した小型ジェット機の開発も川本さんが主導して始めたものでした。
行動力と豊富なアイデアで「最も宗一郎に似ている社長」と評される川本さん。
長年宗一郎と身近に接したからこそ読み解ける知恵を知られざるエピソードと共に大いに語ってもらいます。
さあ今日は本田宗一郎の知恵を見てまいります。
そしてテーマはこちらとさせて頂きました。
いや〜興味のあるお話ですよこれは。
川本さんは間近に本田宗一郎という人を見続けてこられたわけですけどどんな人だったと?最初はね社内に入って新入社員でねあちこちでどなりまくるオヤジでねいや〜恐ろしい所へ来ちゃったなと思いましたね。
エネルギーのかたまりみたいな人だったんですかね。
とにかく理想が高くてアイデアとエネルギーというのがすごいんですよ。
今「オヤジ」って呼ばれませんでした?そうですね。
「オヤジ」って呼んでるんですか?結局ね社長らしくないんですよ。
アロハシャツ着て会社に来るわけでしょう。
それで会社に来れば作業衣我々と同じ作業衣でしょう。
それでべらんめえ言葉でどなり散らすでしょう。
それで例えば社員食堂で同じ飯を食うでしょう。
それは確かに仕事の点では社長なんだけどもあとはどう考えたってね「社長」って言いにくいですよね。
いかに愛されてるかという事ですよ。
あっいらっしゃいませ。
こんばんは。
どうも。
いいタイミングでいらっしゃいました。
経営学がご専門で本田宗一郎の本もたくさん書いていらっしゃいます伊丹先生ですが伊丹さんお知り合いですか?昔からお世話になっております。
宗一郎といえばその強烈な個性というのに注目が集まりますがどうでしょう?チームという存在宗一郎にとっては重要だったんでしょうか?いろんな意味でものすごく重要だったんじゃないでしょうか。
一人では何にもできませんもの。
人の集団をまとめてそれをちゃんと引っ張っていくという事にこちらでも天才的だったんじゃないでしょうかね。
まさにそのチームの一人が川本さんだったわけですがそのころの話をちょっと伺う前に本田宗一郎はそもそもどのようにして世界的なメーカーを目指すようになったのかその若かりし日々の話から解きほぐしていきたいと思います。
明治39年かつて光明村と呼ばれていた場所に本田宗一郎は鍛冶屋の息子として生まれました。
幼い頃からやんちゃだった宗一郎。
そんな彼を夢中にさせたものがあります。
それは自動車。
村に自動車が来ると宗一郎は後をついて走り地面に落ちた油のにおいを嗅いだほど。
いつの日か自分も自動車を作りたいと夢みるようになります。
16歳で高等小学校を卒業した宗一郎は…そこで6年間修業。
優秀な修理工として認められます。
そして22歳で独り立ち。
ふるさと・浜松に自らの修理工場を開業しました。
当時の日本は輸入車ばかり。
全ての交換部品が手元にあるわけではありません。
宗一郎は自分の腕とアイデアで部品自体を作り出さなければなりませんでした。
後に宗一郎の部下はこう語っています。
宗一郎の技術力の高さを物語るエピソードが残っています。
当時人気の歌手・藤山一郎の愛車ルノーが浜松で故障してしまいます。
藤山は何軒も修理工場を回りますが「手に負えない」と断られました。
そして最後にやって来たのが宗一郎の工場でした。
宗一郎は故障の原因がカーボンブラシの芯の摩耗にある事を見抜きます。
カーボンブラシはエンジンの点火装置でカーボン炭素で出来ていました。
しかし代わりの部品はありません。
その時目に飛び込んできたのが鉛筆でした。
鉛筆にはカーボンが含まれている。
宗一郎は鉛筆の芯を削り出しバーナーで焼いて代用品を作り出してしまいます。
藤山は浜松で出会った修理工の腕に驚がく。
2人の交流は終生続きました。
昭和16年太平洋戦争が勃発。
空襲で宗一郎の工場も焼け落ちてしまいます。
終戦後宗一郎は焼け跡に小さな会社を立ち上げました。
修理ではなく何かを新しく作り出したいと考えていました。
そんな時友人の家で偶然目にしたのが旧陸軍の発電用小型エンジンでした。
これを自転車につければ買い出しも楽になるんじゃないか。
物資が不足していた当時人々は遠くの町まで買い出しに行かねばなりませんでした。
宗一郎はエンジンを持ち帰り自転車につけられるように改良。
作り出したのが通称「バタバタ」でした。
人々は便利な乗り物に驚き注文が殺到します。
宗一郎は毎日のようにみかん箱の上に乗りげきを飛ばしていました。
今にうちは世界一の二輪メーカーになる!従業員34人。
それが現実のものになるとはこの時誰も思っていませんでした。
そしてこちらにはバタバタでございます。
大木さんすごいですね。
はぁ〜すごい!これか〜。
これは?湯たんぽ?湯たんぽですね。
ここはガソリンタンクなんですけどねガソリンタンクを金属でこういうふうに作るためには設備がかなり要るわけです。
そういう時代じゃなかった。
創業したばっかりですから。
とりあえず手に入るやつでタンクというと湯たんぽだった。
どういうふうにエンジンをかけていくもの?これはかけるというのは普通の自転車の走るやり方ですよね。
こうやって軽いでしょう。
これでこうやって乗るわけです。
こいでこいでこれをポンとやるとエンジンがつながるんですね。
はぁ〜。
ただねこれ成功したから困ったんですよ。
陸軍の要らなくなったエンジンを改造したわけです。
陸軍もうないんだからエンジンはじゃ誰が…。
どんどん売れていくのに供給してくれるんだと。
自分で作り始めるわけです。
これがHondaのエンジンの第1号開発。
あ〜なるほどなるほど。
そういう意義もあったんですね。
それがさっきのあのF1につながるわけです。
F1の原点はこれ用のエンジン。
そっか。
じゃあ夢の第一歩がこれでこれがこの世界をつかむ夢の結晶になると。
いや〜いかがですか?大木さん。
これが1か所に集まりましたよ。
もうねやっぱり生きてればアイルトン・セナにもこれ見てほしかったですね。
ここからあなたのエンジンが!
(笑い)しかしまあこの発想力というか技術力というか。
今「発想」っておっしゃったけどこの陸軍のエンジンこんなの戦後見た人はたくさんいたわけですよ。
こういうふうにしようと思ったのは本田宗一郎さんだけだから。
単なるものづくりじゃなくてそれを要求するマーケットとか人とか使い具合とかそういう事まで広く理解ができたというんでしょうかね。
非常にその辺世の中を見る目の感性が鋭かったという事じゃないでしょうか。
本田宗一郎は世界一というのにこだわってたんですか?大本には戦前の自動車の修理屋をやってましたでしょう。
その時の日本の自動車技術と輸入の自動車技術の差が圧倒的に違うんです。
それがねいよいよ戦争になってみたらB29がそれこそこっちの飛行機が届かない高さに飛んでくると。
それから浜松地区は艦砲射撃で相当やられましたしね。
それでねやはり日本じゃ駄目なんだと。
体験から骨身にしみたんじゃないかと思いますね。
だから日本一になったって大した事ないんですよ。
世界一にならなきゃ駄目だと。
これはほんとに大きな人物だなという感じがしますがそこにはやはりチームの力というのが非常に大きかったわけですね。
どうやって本田宗一郎は最強のチームを作り上げたのか。
その知恵をご覧頂きたいと思います。
バタバタを大ヒットさせた宗一郎。
補助エンジンだけでは飽き足らず車体も自社生産したオートバイドリーム号D型を販売。
これも大ヒットになります。
こうした業績は宗一郎だけで達成できたのではありません。
優秀な同僚や部下の存在がありました。
豊かな発想力を持つ宗一郎も複雑な計算や知識が必要な設計図を描く事は苦手。
しかし緻密な設計図がなければエンジンは作れません。
それを担ったのが…後に会社の2代目社長となる人物です。
河島は高等工業学校を出ていました。
宗一郎が次々と考え出すアイデアを設計図に起こしていきます。
宗一郎はアイデアがひらめくと場所など関係なく説明を始めます。
河島は工場の床に書かれたアイデアを見ながら製図板に向かう事もありました。
宗一郎にはもう一つ苦手なものがありました。
それは商売。
経理や営業が極端に不得意だったのです。
宗一郎の言葉です。
「数字に…」。
例えばバタバタを買いに来た人が「手持ちのお金がない」と言えば宗一郎は「後日でいい」と現物を渡してしまいます。
持ち逃げされる事も度々あり商品はさばけているのに経営は火の車という始末でした。
そんな時友人に紹介されたのが…営業の才にたけていた藤澤は優秀な技術者と組んで商売に携わりたいと考えていました。
すぐに意気投合した2人。
宗一郎は苦手な営業宣伝資金調達など全て藤澤に任せてしまいます。
こうしてエンジンの開発に専念できるようになった宗一郎。
河島と共により馬力をアップさせるエンジンの開発に没頭します。
そしてその2年後昭和26年に完成させたのがドリーム号E型でした。
宗一郎は河島と藤澤にこう言います。
「性能を確かめるため箱根の山越えに挑戦しよう」。
急勾配でカーブが続く箱根の坂。
当時一気に上りきる国産のオートバイはありませんでした。
オーバーヒートを起こすため途中で何度か休ませなければならなかったのです。
ライダーはエンジンを設計した河島。
本田と藤澤は車で追いかけました。
予想を超えてグングン走るオートバイ。
ついにこの日箱根の山を制覇する国産バイクが誕生したのです。
その時の喜びを語った宗一郎の言葉が残されています。
いつまでたってもいないわけですよ。
だから僕と藤澤とね「おい事故してどこか谷へ落っこったんじゃないか」。
もう心配してこう両側見ながらしのつく雨を上ってみたら彼は一番…下へ芦ノ湖の見えるところで木の下へ入ってこう待ってるじゃないの。
これは私の一生涯の何というか感激だ。
今考えても言う言葉がないぐらいのこう。
ただボロボロボロボロ涙が出てね3人抱き合っただけの歴史だった。
ドリーム号E型は藤澤の整備した販売網にのって大ヒット商品になりました。
宗一郎は苦手な分野を彼らに任せる事で大きな成功を手にしたのです。
設計が苦手だったら河島に任せろ。
商売が苦手だったら藤澤に任せろ。
自分の苦手な事はチームに任せた。
河島さんのお話をまずすると単なる助手ではないわけですよね。
ですからそれはオヤジさんの発想を踏まえて具現化する人ですよね。
全部図面を書いて計算してそして作らなきゃいけない。
全て自分で開発して自分で生産するとなると次のステップの人たちがいると。
そのトップの人が河島さんだったという事ですね。
藤澤というのはどういう人物だったと…。
営業とお金の事の全部を見てくれた人で彼がいなかったら本田技研工業は何回か倒産してたんじゃないかと。
実際には倒産は1回しかできませんが。
つまり倒産の危機が何度もあってそれを全部くぐり抜けて。
「見た事ない」って言うんですもん本人が。
それはやっぱり大したもんですよねそこまでの信頼関係っていうのは。
具体的にはどういうような営業戦略をしていったのですか?例えば例で言いますとバタバタの後継の後継ぐらいのにカブというF型エンジンというやっぱり自転車につけるエンジン開発した時に今でいうダイレクトメール作戦をとった。
全国に3万軒ぐらいあった自転車屋さんそれに全部手紙を送って自転車にちゃんとつけるエンジンが我が社で出来たと。
買ってお客さんに売りませんかと。
1万9,000円の卸値で卸してあげる。
興味があったら是非ご入金をって。
いきなり商品渡す前に金入れろという手紙出しちゃうんです。
5,000件も入金があったそうですよ。
それ全部Hondaの商品を扱う代理店みたいになっちゃうわけですその瞬間から。
小売り網をこんな方法で作った人ってあんまり聞いた事ないですよ。
いい…すごい知恵ですね。
2人の関係というのをね間近というか見た川本さんどういうような関係だったんですか?大変違うキャラクターの人なんですよね。
タイプは全く違う。
宗一郎の方は年中車だしバイクだしエンジンだしでそれこそ1万回転で24時間ぶん回ってるようなそんな人なんですよ。
藤澤武夫という人はゆったりしてて大柄で和服なんかが好きで例えば…美術品が大好き。
全く別の趣味なんですね。
だからその人たちが得意技の業務のところだけピシャッと仕事をしてる。
自分一人の欠点を補う事をするよりか自分の欠点を猛烈に優れた人が加わって協力してもらえたら成果はものすごく大きくなると。
これは非常にいいやり方だと思いますね。
そこに同質な人を集めちゃ駄目なんですか?同質だとね「あ〜いいじゃないかいいじゃない」ってこっち行っちゃうんですよ。
中で異質だと喧々諤々やるんです。
そうすると最後ねやっぱり半日どなり合ってもやっぱこれしかないなと。
それがそのチームの持ってる最高の結論なんですね。
自分の理解できる人間とだけ握手するなという事ですね。
宗一郎は苦手な分野をカバーし合う事でチームを強くしたんですけれども実は他にもこんな知恵があったんですね。
宗一郎が現場でよく口にしていた言葉があります。
そしてもう一つ。
考えるよりまず行動だった宗一郎。
この姿勢は会社の業績が著しく悪化した時にも変わりませんでした。
日本が朝鮮戦争の特需に沸いていた昭和27年。
宗一郎は新しい製品を作り出すため4億5,000万円をかけて欧米から最新の工作機械を買い入れます。
ところが朝鮮特需が終わり時代は不況に突入。
好調だったオートバイの売れ行きが止まります。
巨額の設備投資も裏目に出て会社は一気に倒産の危機に追い込まれました。
もはやこれまで。
多くの社員が諦めかけた時宗一郎は驚くべき計画を口にします。
「宣言今まさに好機到る!明年こそはT・Tレースに出場せん」。
TTレースとはイギリスのマン島で開催される世界最高峰のオートバイレースです。
ここで優勝すれば世界一として認められるためヨーロッパの名だたるメーカーが総力を結集ししのぎを削っていました。
倒産目前の日本の小さな会社が挑戦するだけでも無謀。
しかし宗一郎は「優勝する」とまで宣言したのです。
宗一郎の無理難題には慣れていた設計の河島もこれにはあきれたといいます。
すごい馬力性能を持ってるオートバイが外国にあるんだっていう事は大体分かってますからそんな事言って宣言しちゃって何て言いますか…大丈夫なんだろうかと思ったのが本音ですね。
しかしここで諦めないのが宗一郎。
世界との実力の差を前に考え込む開発メンバーに「やってみもせんで何がわかる」と奮起。
1万回転18馬力という目標を掲げます。
当時日本のどこのメーカーでも15馬力が限界でした。
宗一郎は馬力をアップさせるためにエンジンに取り込むガソリンの量を増やそうと考えます。
そこでガソリンを吸い込んだり排出したりするバルブを従来の2つから倍の4つにします。
しかし4つのバルブを寸分の狂いもなく動かすのは至難の業。
僅かなずれが馬力の低下やオーバーヒートを起こします。
工場では徹夜の連続。
何度も試作が繰り返されました。
そして宣言から7年後の昭和36年宗一郎たちはついに目標を上回る14,000回転23馬力のエンジンを搭載したオートバイを作り上げます。
レース当日宗一郎たちのバイクは奇跡を起こします。
なんと125cc250ccの2つのクラスで1〜5位までを独占したのです。
この快挙により宗一郎の名前は世界に広く知られるようになります。
「やってみもせんで何がわかる」。
誰もが無謀だと思う事でもまずは挑戦してみる。
宗一郎の果敢な姿勢がチームを世界一に押し上げたのでした。
宗一郎宣言の中で「好機到る!」というふうに言ってましたが会社が傾いている中でどうして好機と思えたのでしょうか?実際にはねレースやっぱり出れないんですよ。
金もない技術もないわけだから。
だから出始めたのは4〜5年あとです。
「好機到る!」というあの宣言を作ったのはむしろ自分と社員と両方を一生懸命頑張ろうっていう鼓舞するためじゃないでしょうかね。
私もそう思いますね。
非常に厳しい状態に追い込まれてね会社が。
やれる事っていうと自分も含めた従業員の120%パワーを出してやるしかないわけですよね。
やっぱりほんとに絶望的な時に何が一番大事かっていうと希望だと思うんですね。
だから自分への鼓舞も含めて希望をみんなに大丈夫だと。
これをやればいけるぞと。
これは相当何ていうか勇気が要る話ですけどね。
偉人の話聞いてて言っちゃってから考えるという方いますもんね。
ありますね。
自分も要するに退路を断っちゃうんですね。
後ろに下がれないように。
しかしほんとにやってみなくては分からない。
逆にやらないと怒るという人なんですね。
そうですね。
例えば設計してうまく動いた。
動けたら「あ〜よかったな」で済んじゃうんです。
「もっとやったのか?」「いやぁうまく動きましたから」と。
「やってみろ」「いやそれは壊れます」と。
「壊れたのか?」「いや壊れてはおりません」と。
「じゃやってみろ」。
どんどん…壊れるまでやる。
壊れたら「壊れました」。
「そうか。
このちょっと近くが一番いいんだぞ」。
壊れる直前が。
直前まで例えば設計を合理化していく。
どんどん高性能にしていくかさもなけりゃどんどん耐久性を増していってそしてここまですればこの技術の限界が分かるだろうと。
その中で一番いいやつを選んでお客さんに売るんだよと。
失敗というのはどういうふうに捉えてたんですか?失敗した全ての知識というのは自分の経験の中に。
経験というのは全部自分の宝物になるんだと。
でも完全にもう駄目だとなればそれは今度は駄目なる分野に入れられるじゃないかと。
そしたらノーの分野が分かったらイエスの分野はこっちなんだよという事が自分で分かるじゃないか。
だからとにかくやるなら真摯にとことんやれと。
とことんやった時にミスっても怒らなかったですね。
「お〜そうか」と。
川本さんもロボットですとか航空機さまざまな分野に進出しようとおっしゃいましたけれども部下に石橋をたたかずに渡るんだやれというふうにこうやるうまい方法っていうのは?自分でできもせんのに部下に「お前やれ」って言う上司いるでしょう。
そんなの駄目ですよね。
駄目ですよ。
オヤジさんはそれとにかくいろいろやってきてますから「俺ができたのになぜお前はできないんだ」と言われたらもうそれまででしょう。
「何でやらないんだよ」というのはちょっと勇気もらいますよね。
確かに。
一番説得力ありますよね。
チームをまとめたこの宗一郎のやってやろうっていうスピリットですけれども更に最も大切にしていた考え方っていうのが次の知恵なんですね。
ご覧頂きましょう。
背広より作業着が好き。
常に現場に立ち続けた宗一郎。
「技術の前には社長も従業員もない」と言い部下と同じ立場でアイデアを出し合っていました。
そして昼休みともなれば食堂で従業員と一緒にカレーやラーメンを食べる。
宗一郎はチーム内に権威を作る事を極端に嫌っていました。
その姿勢は生涯続きます。
1990年既に社長を引退していた宗一郎が栃木工場を訪れた時の事。
そこではスーパーカーNSXの生産が開始されていました。
NSXは軽量化に成功したスポーツカー。
優秀な若手を集め開発に6年かけて作り出された車でした。
工場に入った宗一郎。
一枚の写真を見て激怒します。
写真には「選ばれし者が作ったNSX」と書かれ開発に携わった数人が誇らしげに写っていました。
「他の従業員の写真は!食堂のおじさんトイレ掃除のおばちゃんの写真はどこにある!その人たちの力なしで車は作れたのか」。
宗一郎にとってはどんな仕事も平等であり一部のエリートだけを称賛するような行為は許し難いものだったのです。
宗一郎晩年の秘書住川忠行さんもそうした姿勢を間近で見ました。
社長引退後に宗一郎が使っていた執務室。
今も当時のまま残されています。
住川さんがこの部屋に入るのは十数年ぶりだそうです。
(住川)時々「お〜い」と呼ばれましてね。
私たちちょうどドアの向こうにオフィスがありまして呼ばれて「はい」と入ってくると「一局どうだ」と言われまして。
とにかく本田さんの将棋は攻める一方の将棋でそういう性格がよく出た将棋です。
大変将棋は強くて10回やって私は1回勝てばいい方でそんな事でよくお相手をさせて頂いたこれが将棋盤でございます。
住川さんは1989年宗一郎に同行してアメリカ・オハイオ州の工場を訪ねた時の事が忘れられないといいます。
宗一郎は工場で働く人々誰にでも話しかけ握手したのです。
企業の創業者という権威はみじんも感じさせませんでした。
日本語で言うから相手は分からないけど「あんたいいもん食べてるんだね〜」とかそうやってジョークでやるわけですよ。
おばちゃんもニコニコですよ。
宗一郎の言葉です。
一般的にアメリカの工場では役員と労働者は食堂やトイレが別でした。
しかしこの工場では誰もが同じ施設を利用できるようにしました。
最初は驚いていた社員たちもやがてその方針を理解していきます。
アメリカでの生産を軌道に乗せた宗一郎。
チームの中に権威を作らず平等に仕事ができる環境を整える。
それが結束力のあるチームを生み出したのでした。
チームの中に権威は作らず。
チームは皆平等。
先ほどのNSXの選ばれし者の話お亡くなりになる前の年なんですよ。
終生ああいう態度だったという事ですよ。
もはや本田宗一郎といえば…。
大変な人だった時にトイレのおばちゃんって言うわけですから。
人間の尊厳を大切になさってた方だという気がします。
一人一人の自立心それから一人一人の平等な条件というのも非常に重く見た。
従って閥は作らんと。
閥というのは派閥とか学閥とか。
結局その閥というのは不平等じゃないですか。
人は本来チャンス平等であるはずだと。
閥はそれを他の理由で平等でなくするものだと。
ですから会社でいえば一番大きいのは自分の息子をはじめ役員は息子は社内に入れないと。
それから例えば上司に仲人を頼んでもそれは受け付けないと。
という事を非常に徹底してやりましたですね。
だから「うちはあるとすれば小学閥だ」って言ってましたよ。
小学校の閥。
全部小学校出てるんですから。
なるほど。
全員がそうなんだと。
結局自分が自分であるように全力で生きるしかないでしょう。
だからそのためにみんなが同じように生きてくれたらいいんじゃないか。
会社の中では「自分のために働け」って言うんですよ。
「会社のために働いてくれ」っては言ってないんです。
この組織の中であるいは目的を達成する中で自分の居場所を見つけて最大限に膨らんでっていうか能力を発揮していきなさいと。
それは自分のために働くという事だしそれが働きから得られる喜びも一番多いはずだと。
さあ川本さんに最後お伺いしたいんですけど川本さん流の最強のチームを作る極意というのは?異質なスペシャリストをいっぱい集める。
それぞれ違う。
キャラクターも違えば分野も違う。
その個をいかに生かすのか。
それを違う個をいかに束ねるのか。
これがチームの基本ですね。
やはりそれを地位とか条件とかなんかでなるべくその邪魔をしない。
その人のほんとに持ってる個性これを見極める。
そうですね出させると。
出してもらうためには極めて自由闊達な雰囲気が要る。
そのうえで相当けんかすると。
仲良しクラブでね「あ〜これだこれだ」なんて言ってるとその場で思いついたその成果にしかならない。
ギリギリのとこでせめぎあうとそれじゃこれでもか。
それではこれでもかと言ってみんな知恵出しますから。
そこでやっぱり高みに上っていくんですね。
チーム内での衝突を恐れるなと。
恐れるなと。
ありがとうございます。
来週も本田宗一郎の知恵見てまいりますけれど川本さんまた来て頂けますでしょうか?よろしくお願いします。
今週はお忘れにならないようにエンジンを持って帰って…。
あれ?持っていくんですかこれ。
それはそうですよ。
だって結構場所取ってますよ。
あのね他のお客さんにはこう言って下さい。
今日はちょっと取り込んでて1つ席が少ないんですが。
そのひと言が言えないかな?店長は。
本当に邪魔で嫌だったら井上さん背中に担いでお持ち帰り下さい。
見たい人いっぱいいるんですからこのエンジン。
これが売り物になるかも…。
そういう事なんですよ。
来週まで置かせて頂きますので。
本当にありがとうございました。
2015/02/10(火) 05:30〜06:15
NHKEテレ1大阪
先人たちの底力 知恵泉(ちえいず)最強のチームを作るには▽本田宗一郎・前編[解][字][再]
小さな町工場から世界屈指の自動車メーカーを育て上げた本田宗一郎が登場!型破りな宗一郎を、直接薫陶を受けた4代目社長が語る。テーマは「最強のチームを作るには?」
詳細情報
番組内容
本田宗一郎が登場!戦後日本を代表する経営者であり、型破りな天才技術者。小さな町工場から世界屈指の自動車メーカーを育て上げた。創業当初から、みかん箱に上がって「世界一になる!」とゲキを飛ばしていた宗一郎。その言葉は、やがてF1を制することで現実のものに。今日のテーマは「最強のチームを作るには?」ゲストは、直接薫陶を受けた4代目社長の川本信彦さん。「石橋はたたかず渡れ!」など宗一郎哲学をたっぷり紹介。
出演者
【出演】本田技研工業株式会社元社長…川本信彦,東京理科大学教授…伊丹敬之,ビビる大木,【司会】井上二郎
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
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