広島市の住宅地を巡回して走る乗合タクシーです。
運転手の…池田さんは去年一度この仕事を続けられなくなった事がありました。
巡回コースから見える丘での出来事がきっかけでした。
8月20日未明広島市を襲った大規模土砂災害。
1時間に100ミリを超える猛烈な雨が降り107か所で土石流が発生しました。
山裾に広がる住宅地で74人の命が奪われました。
発生から20日後私たちはこの丘で池田さんと出会います。
池田さんは妻と自宅を奪われました。
毎朝ここへ通ってきては妻の遺品を探していました。
家が土石流に襲われた時1階にいた恵津子さんだけが命を奪われました。
何で早くもうちょっとね早く逃げなかったか。
せめて2階へ上げなかったか。
もう答えは出ないんですわ。
あれからず〜っと考えても。
池田さんは妻と暮らしていたこの場所にもう一度家を建て戻ってきたいと考えていました。
災害発生から5か月。
23人の遺族から寄せられたアンケート。
多くの人が家族を救えなかった悔いを抱き続けていました。
「あの時私が玄関まで行って外を見ていればきっと引き止めていたと思う」。
「土砂を受けた瞬間母はどんな事を考えたのだろうか。
助けてと叫んでいたのだろうか」。
自責の念を抱きながら家族の死と向き合おうとする遺族たち。
広島土砂災害から半年。
その日々を見つめます。
土砂災害で妻を亡くした池田敏則さんです。
被災地から車で20分。
民間企業が無償で提供してくれたアパートで1人暮らしをしています。
夫を支え3人の子どもを育てました。
よく気が付くしっかり者の女性でした。
(鈴の音)去年子どもたち全員が独立。
恵津子さんの死はこれから2人で楽しい時間を過ごそうと話していたやさきの事でした。
結婚以来初めて1人で迎える新年です。
池田さんは毎朝7時広島市内のタクシー会社に出勤します。
新年明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願い致します。
よろしくお願いします。
池田さんがこの仕事に就いたのは2年前。
それまで職を転々としていました。
広島や大阪の造船会社をはじめ溶接工やトラックの運転手なども勤めました。
職場になじめなかったり景気悪化の影響を受けるなどして転職を余儀なくされてきたのです。
じゃあ本日も無理がないようにまた一日よろしくお願い致します。
お客様には感謝の心と親切を。
お客様には感謝の心と親切を。
お年寄り子ども様には奉仕の心と思いやりを。
お年寄り子ども様には奉仕の心と思いやりを。
ここで働き始めた時池田さんは妻の恵津子さんにある約束をしました。
この仕事だけは体の続く限り続けるという誓いです。
土砂災害があった丘。
川の対岸にある住宅地が池田さんの巡回コースです。
バスが入れない路地や坂道など一周10キロのコースを回っています。
停留所がない場所でも道端で待つ人を見つけては車を止めます。
ありがとうございました。
気を付けて。
一緒だった。
ごめんなさい。
また一緒になったね。
また一緒になったね。
乗客には体が不自由な人や1人暮らしの人が大勢います。
皆さん池田さんを頼りにしています。
あっ本当。
頼りにされる事をこれほど実感できた仕事は初めてです。
千代田さんありがとう。
夫の仕事の様子を知った恵津子さんはとても喜んで長く続けてほしいと伝えました。
それが池田さんがこの仕事は続けると誓った理由です。
ところが去年池田さんはこの約束を果たせなくなるかもしれない事態に直面しました。
それが広島市の土砂災害でした。
去年8月20日。
土石流は山裾に広がる住宅地を襲いました。
土砂が流れ下った谷筋。
池田さんの自宅があった場所です。
家の形は跡形もなくなっていました。
その自宅の跡地で池田さんは妻の遺品を探し続けていました。
分からんな〜。
あの日の夜池田さんは激しくなる雨音を気にしていました。
午前3時過ぎ一度は避難を考え1階で寝ていた恵津子さんを起こそうと寝室の扉に手をかけます。
でもパートで朝が早い妻を気遣い声をかける事はしませんでした。
2階に上がった直後土石流が家をなぎ倒し恵津子さんが下敷きになりました。
遺体が見つかったのは2日後の事でした。
もう一回あの19日の夜戻れるんならねあるいはもう3時38分で時計が止まっとったんですけど3時30分に戻れれば違う行動を起こしてたと思うんだ。
やっぱり自分の判断で何で早くもうちょっとね早く逃げなかったか。
せめて2階へ上げなかったか。
もう答えは出ないんですわ。
あれからず〜っと考えても。
避難所となっていた小学校です。
一人また一人と被災者が新しい生活に踏み出していく中池田さんはここを離れられずにいました。
仕事にも行かず毎日自宅の跡地に通い続けていたのです。
被災前の池田さんの自宅です。
30年前購入を希望したのは恵津子さんでした。
見晴らしがよく小さな庭がついた中古住宅でした。
お気に入りの家庭菜園には恵津子さんが季節ごとに花や野菜を植え育てていました。
池田さんは恵津子さんのために日曜大工でフェンスや鳥よけネットを作ります。
ここで過ごす穏やかな時間を2人はとても大切にしていました。
自宅の跡地から恵津子さんの遺品はほとんど見つかりませんでした。
ただ恵津子さんの帽子が泥の中から見つかりました。
よくかぶってた帽子でどこ行くにもこれかぶって。
私もこれ気に入ってたんです。
これかぶってる姿がね。
本人には言ってないです。
今から思えば自分にとっては太陽じゃったな思ってね本当に。
一緒におる時は分からんもんですよね本当に。
亡くなってみて初めて分かったですわ。
一緒におる時は当たり前に思ってたからね。
池田さんは妻と過ごしたこの場所に家を再建する事を決めていました。
そばにいる事が供養になると信じていたのです。
土砂災害から3週間。
被災地では土砂やがれきの撤去が進んでいました。
応急復旧計画の内容について…。
この日広島市が住民への説明会を行いました。
いつ元の場所に戻れるのか。
池田さんは答えを期待していました。
でも市の説明は復旧工事の予定に終始。
戻れるか戻れないかについては何の説明もありませんでした。
今の思いをぶつけるしかありませんでした。
やっぱり人生の半分ぐらいをここで過ごして妻とその思い出というんですかねこれはどこへ行っても代えようがないですからここの…この場所へ戻りたいですね。
ここで一生を終えたいですね。
池田さんが巡回タクシーの仕事に復帰したのは災害発生から2か月後の事でした。
積極的に復帰を望んでいた訳ではありません。
きっかけとなったのは乗客から届いた一通の手紙でした。
そこには池田さんの帰りを待ち望む思いが記されていました。
「一日も早くおもいやりタクシーに復帰され私どもを援助して下さる事をお待ちしています」。
タクシーの巡回を再開すると真っ先に声をかけてくれたのが常連の千代田さんです。
千代田さんはほかの乗客たちと相談し池田さんにかける言葉を探していました。
仕事から帰ると池田さんは必ず職場であった事を恵津子さんに報告していました。
この仕事を長く続けてほしいと言った恵津子さん。
池田さんは約束をなんとか守り続けていました。
乗客に必要とされている実感が池田さんを支えていました。
よっしゃ。
まあまあだな。
土砂災害から5か月。
遺族たちはどんな思いで日々を過ごしているのか。
私たちの問いかけに対し23人から回答が寄せられました。
「今にも夕方宏美が自転車に乗ってくるような気がします。
エグレた山を見ては思い出しの毎日の繰り返しです」。
「いまでも夜中に目が覚めるとその時の状況を思い出し眠れなくなる」。
「『子どもの分まで頑張って』と励ましの言葉をかけてもらうが『頑張りようがない。
どう頑張っていいのか分からない』」。
多くの人がいまだに家族を救えなかった後悔を抱き続けていました。
今の悩みは何かという質問に対し3人に1人が災害時の記憶が蘇り苦しいと答えました。
遺族たちはあの日の記憶とどう向き合おうとしているのか。
「夜中に目が覚め眠れなくなる」とアンケートで答えた…今も自宅の跡地に通い続けています。
母のスミ子さん開田さん夫婦そして2人の孫と一緒に暮らしていましたが一人だけ1階にいて土砂にのみ込まれ亡くなりました。
まあこういう形で別れるってのが一番つらいですよね。
まあ私たちだけが助かって…というのもあるのかもしれないですね。
30年一緒に暮らしてきた母。
亡くなる直前のつらい記憶だけが蘇り開田さんを苦しめていました。
1月下旬開田さんの目に留まったものがありました。
泥の中から掘り起こした16本のホームビデオのテープです。
砂や湿気を帯び傷んでいたため見る事を諦めていました。
開田さんはこのビデオを見る事で災害に遭う前の母の姿を思い出そうと考えました。
見終わったあとはつらいかもしれませんけど…。
会えるとしたらもうビデオの中の…母しかいないんで。
この日。
業者に復元してもらった映像が届きました。
開田さんはホームビデオの映像に母の姿を探します。
ようやく見つけた母の姿は14年前の映像の中にありました。
動物園の映像です。
動物が苦手だった母が孫を喜ばせたい一心で張り切っていた姿を思い出しました。
家族で開いたクリスマス会の映像も出てきました。
家族そろって食卓を囲む時間を母は何より楽しみにしていた事に改めて気付きました。
まあこうやって一緒に同居してこうやって孫とも一緒に生活できたっていうのはまあ自分の思い込みかもしれませんけど幸せだったんじゃないんかなと思いますね。
何か久々の…何か気が軽くなったというかそういうのを味わわせてもらいました。
遺族たちの多くが蘇るつらい記憶と向き合いながら前へ歩きだす手がかりを探しています。
帰りを待ち望む乗客の声に応え職場に復帰した池田さん。
自宅の跡地に通う回数は減りましたが家を再建する決意は変わらないままでした。
この日広島市が今後の街づくりについての住民説明会を開きました。
いつどうしたら戻れるか明確な方針が示されると期待し池田さんも出席しました。
でも行政が示したのは砂防ダムや避難路の建設などインフラの計画ばかりでした。
通常の雨でチョロチョロとこの辺にこの黄色い部分にですね土砂がたまってきます。
戻れるか戻れないか具体的な説明は今回もありませんでした。
皆様のお住まいの近くなるべく通らないようにっていう思いで計画をしております。
池田さんが途中で席を立ちます。
(取材者)期待と違いました?やっぱり。
いつになったらあの場所に戻れるのか。
答えのない日々に池田さんはいらだちを募らせていました。
2週間後。
池田さんは受け入れ難い事実を知る事になりました。
広島県が土砂災害警戒区域を示した地図です。
池田さんの自宅は危険性が著しく高いとされるレッドゾーンに入っていました。
レッドゾーンに指定されると住宅には土砂災害が再び起こった時それに耐えられる強度が必要となります。
家の周りにコンクリートの壁を造るか家自体をコンクリート建てにするといった厳しい要件が課されます。
完全にレッドゾーンですからしょうがないねえ。
池田さんにはこうした住宅を建築する費用がありませんでした。
そうねえ恵津子が亡くなったとこでねずっとそばへ…亡くなった場所で生活してやりたかったいうのは当初からずっと思ってたし今もできればそうしたかったんですけどね現実は…ちょっと難しい面が出てきたです。
本当に。
まあショックというか残念な気持ちが強いねえ。
災害後池田さんは恵津子さんと過ごした場所に戻る事だけを支えにしてきました。
でも諦めざるをえない状況に置かれたのです。
2週間後。
池田さんは常連のお客さんたちに妻といた場所に戻るのが難しくなった事を打ち明けました。
千代田さんが背中を押します。
気が付けばお客さんたちは悩みを受け止めてくれる存在になっていたのです。
一人きりになったのはもう後戻りできんしね本当未来を見つめてね歩んでいかなしょうがない。
もうそういう意味の事を教えられたよね。
「この仕事は長く続けてほしい」。
恵津子さんの深い思いを池田さんは感じていました。
あらかじめ分かっとったんか…そっちの方へ向けてね本当に…。
助けてくれたようなそんな感じですはい。
もうとことん何か見守られながらどこまで行っても何か支えられてるようなそんな感じですねはい。
池田さんは恵津子さんとの結婚記念日に自宅の跡地を訪ねました。
恵津子さんにある報告をするためです。
30年の年月の中で一緒に子どもを育て上げ老後を暮らしていこうと語り合ったこの場所。
離れる事を決めたのです。
ありがとよ。
無理にここに戻って暮らすのだけが供養ではないのが少しずつ気付かされましたはい。
まあ多分…私が残りの人生一生懸命生きていく事が供養になるんであろうな思うてね最近でははい。
そう思ってます。
池田さんはここを離れ隣町でこれからの日々を過ごしていくつもりです。
池田さんの巡回タクシーが今日も住宅地を回ります。
広島土砂災害から半年。
遺族たちは周囲の支えの中に歩みだす手がかりを探し一日一日を生きています。
(佳苗)協議の場で自分の事を話して2015/02/10(火) 00:40〜01:25
NHK総合1・神戸
地方発 ドキュメンタリー「約束の巡回タクシー〜広島土砂災害 遺族たちの日々〜」[字]
去年8月、広島で起きた土砂災害。亡くなった妻との約束を守り、乗り合いタクシーの運転手に復帰した遺族が常連客の励ましで新たな一歩を踏み出そうとする姿を見つめる。
詳細情報
番組内容
広島市の住宅街を走る乗り合いタクシー。運転手の池田敏則さん(65)は、去年8月の土砂災害で妻を失った。助けられなかった自分を責め、仕事を休んで自宅跡に通い続けていたが、常連客から届いた励ましの手紙に背中を押され2か月後に復帰する。この仕事につくまで職を転々としていた池田さん。この仕事は「体がもつ限り続ける」と妻に約束した仕事だった。失意のどん底から地域の支えを受けて歩み出す遺族の姿を見つめる。
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
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