現代日本を代表する洋画家…妻に先立たれてから十数年東京・練馬のアトリエで独り暮らしを続けています。
「よくもごっそりこの世から消えてしまったものだ。
これじゃ独り残された男が愚痴っているような…いつの間にこういうことになったのだろう。
一緒に歩いているうちに足音消えて気がつけばあたりにいない。
そりゃないだろう。
…この先どうなるのか。
ぼく自身が考えるより体が指示してくれるだろう…」。
2011年6月東北の被災地を訪れた野見山さん。
がれきの中を歩き回りスケッチを続けました。
あれからおよそ3年。
今も毎日のようにキャンバスに向かいます。
現在の心境を「行き暮れているようだ」と語る野見山さん。
その思いとはどのようなものか。
そして今描かずにはいられない世界とは何か。
創作の日々を追います。
今野見山さんが描いているのは一体何なのでしょうか。
テーマはあるのかタイトルはどうなるのか。
色彩と線がせめぎ合う混とんとした画面は具象とも抽象ともつかぬ謎めいた世界です。
私はいつでも描いてる時どうなるのかなと思ってる。
いや私もなんかね説明したいんだけどもどう説明したらいいのかなというのは…。
それで私これ最初からこの線引いてこれだけ大事にしてるんですね。
この線だけ。
これで向こうとこっちとに2つに画面を分けてしまいたいんだけども。
何にもなくて毎日毎日同じ画面をやれるかというとそれはやれないんで。
いやほんとね僕の中にこういうものを描きたいというのがあってそれがこうやってやってみるとそれはいやこうじゃないよこうじゃないよという…。
しかしこうやって描いてるとね…広いアトリエの一角に不思議な階段と扉があります。
中に入るとそこは書庫兼書斎。
野見山さんのもう一つの仕事場です。
書物は全て野見山さんの著作。
画家野見山さんのもう一つの顔はエッセイストであり文人です。
生い立ちの記戦争体験画家や絵画との出会い芸術論など深い思索に基づく作品は実に多彩です。
日々の出来事や制作のエピソード人々との交友をつづった「アトリエ日記」は4冊。
今年1月に出版された最新版のタイトルは「やっぱりアトリエ日記」です。
現在も雑誌の連載が月2本。
執筆の依頼は引きも切らず。
締め切りに追われる毎日です。
1978年に出版された「四百字のデッサン」はエッセイスト・クラブ賞を受賞。
名文家野見山暁治の名を一気に高めました。
その中の一節が戦争体験です。
1943年東京美術学校を繰り上げ卒業したあと22歳で入隊。
旧満州に派遣された野見山さんは死の病に侵されました。
「私は死ぬことに決められていた。
病状の悪化に従って病室を少しずつ移動させられてゆき遂に屍室の手前の部屋まで来た。
すでに『臨終』という電報が海を越えた故国の親のところにまで届いている。
夜明けをひそかに博多湾から出航した私たち若い兵隊は釜山から汽車に乗せられて三日間ソ連の国境に近い荒涼とした冬の原野のなかに送りつけられた。
戦いになればおそらく全員そこで死ぬだろう。
そんな風に聞かされて1カ月もたたないうちに私は肋膜に水がたまり病院に入れられてしまった。
狭い病室にもうひとつベッドが置かれてわりに威勢のいい患者が入ってきた。
この兵隊は私の顔を見るなり他の病室へ自分を替えてくれと衛生兵に頼んだりした。
私の顔に生きているものの血は通っていなかったようだ。
勢いのいい隣のベッドはやたらとはしゃいでいるうちにあっけなく死んだ」。
死と隣り合わせのまま日本に送還され傷痍軍人福岡療養所で終戦を迎える事になりました。
うつろな目でこちらを見つめる26歳の自画像。
敗戦のショックと虚脱感暗く鬱屈した心の内がのぞいています。
空爆で家族の住む福岡の街が燃え上がるのを目撃した野見山さんは廃虚と化した街の姿を描きました。
がれき焼けただれた地面建物の残骸。
画面には焦げた臭いが漂います。
このころ野見山さんは何点かの骸骨を描いています。
九州大学医学部の友人から借り出した頭蓋骨を手に後ろめたい恐怖に襲われたといいます。
自分は何を描くべきなのかという焦りと不安。
野見山さんは福岡県穂波村現在の飯塚市で炭鉱主の長男として生まれました。
描くべきモチーフを模索していた時筑豊の炭鉱地帯のボタ山がよみがえります。
少年時代登って遊んだボタ山。
「壮大な廃棄物であるボタ山が揺るぎない自然として浮かび上がった」と野見山さんは書いています。
若き日の代表作。
暗く沈んだ色彩立体的な画面構成が目を引きます。
画家野見山暁治の心を捉えたボタ山はそこにあるものではなくあるべき形として描かれています。
新たな造形を目指す挑戦でした。
1952年末野見山さんはヨーロッパへと旅立ちます。
フランス政府私費留学生として念願のパリ留学を実現させたのです。
フランスの客船ラ・マルセイエーズ号の船上で32歳の誕生日を祝いました。
パリでの留学生活はその後順調に進みサロン・ドートンヌに出品するなど画家としての生活を始めます。
1955年日本に残してきた妻の陽子さんをパリに呼び寄せ2人は共に暮らし始めました。
幸せいっぱいの日々。
そんな中陽子さんががんに倒れます。
パリ到着の1年後29歳の若さでした。
異国の地での闘病生活パリの病院で死をみとるまでの悲痛な記録をつづった一冊の本。
陽子さんの死のたった一人の目撃者として両親や知人に報告の義務を果たすため書き始めた病床のメモ。
野見山さんがペンを執った初めての文章でした。
「『マルマル…痛い痛い…』彼女が遠くで叫んでいるようだ。
それからいくらも経たず夜が明けたとき私は彼女の片腕が膨れ上がっているのを発見した。
マルというたったひとつの異国語で苦痛の大小や性質の微妙さを表現しなければならないエトランゼの状況が悔やまれる。
今もなお異国のベッドに陽子を寝かせ続けていることを私は後悔した。
『オニイちゃん』陽子が夜半にぽつりと呼んだ。
『ヨーコもしかしたら死ぬようなことはないでしょうね』。
はっきりした語調だった。
暗い時刻の中で声は小さいおさげの少女のようだった。
女学生の陽子が私の妹のところへ遊びに来ていた幼い折妹にならって彼女も私をオニイちゃんと呼んでいた。
夜が明けるまで幾度かオニイちゃんと彼女は私を呼んだ。
ふいと私は目を開けた。
陽子は大きく息を吸い込んでは喘ぐように吐き出していた。
いまわの命だ」。
「やがて吐息は間隔をおき荒野を吹きわたる風のように舞いあがりいずこかへ吹きつけると見えてふっと停止した。
医者は看護婦にカンフル注射を整えに医療室へ走らせた。
再び風がなり陽子は大きく目をあけさも二十八年の生涯に退屈したように深々と息を吐き出した」。
再版された「パリ・キュリイ病院」の表紙は陽子さんが描いたパリのスケッチで飾られています。
セーヌ川に架かる橋。
明るくかわいらしい陽子さんのパリです。
夏のバカンスにね南仏の方に行ったんですよね。
これあのヴァンスという…。
有名なマティスが壁画を描いた教会がありますよ。
それを見に行こうよと言ってそのヴァンスという地中海の丘の上の町に行って…。
まあそこでのスケッチですね。
随分こういうの彼女描いてました。
あれは思い出すというよりはつい昨日の事のように思うもんだから…。
早く思い出になっちまえば別のもんなんですけどね僕から遠ざかっていかないですね。
困ったもんだと思いますが。
1958年フランス滞在中に描き第2回安井賞を受賞した作品「岩上の人」。
陽子さんの死の翌年野見山さんはパリ郊外のライ・レ・ローズに移り住みました。
「岩上の人」はその地で制作された作品です。
画家仲間の尽力で野見山さんの個展が日本で開かれ注目された結果でした。
ライ・レ・ローズのアトリエの窓からの風景。
真っ赤な夕日が空を染めて向こうの丘に沈んでいきます。
陽子さん亡きあと目の前に広がる丘と空の移ろう景色を毎日のように描いていたといいます。
43歳の野見山さんは12年間のヨーロッパ滞在にピリオドを打ち帰国。
その後50歳で練馬の石神井川の近くに自宅兼アトリエを構えました。
そこが石神井川なんですけどね両サイドの土手に桜並木になっててとても風情のあるいい川でしたよ。
まあ40年前でも今から見たらちょっと迷うぐらいに変わりました。
それは有楽町線がここに来るようになってそれから駅が出来たもんだからここいらが変わったね。
野見山さんは「ここに箱みたいな四方の壁と天井だけの家を置けばいい。
仕切りや間取りは要らない。
スタジオという広い一室だけの住みかを造りたい」と望みました。
玄関を入ると急な階段。
ここに100m^2ほどのアトリエが広がっています。
建築家篠原一男設計の通称「練馬の家」にもう40年以上住み続けています。
この家を建てた1971年野見山さんは福岡の有名なクラブのママ武富京子さんと再婚します。
別居結婚でした。
福岡県糸島市。
風光明美な唐津湾沿いの岬に1976年もう一つの住宅兼アトリエを造ります。
夏の間自然の中で絵を描き週末は京子さんと共に過ごすための場所でした。
海を見下ろす丘その斜面に建つコンクリートの家。
練馬の家と同じ篠原一男の設計です。
東京を離れ糸島のアトリエでの制作は野見山さんに新たな造形をもたらしました。
「ここ数年暑い季節を水中に潜って過ごしているが地上の重力の約束をはなれた海底の景色を覗くと構成とか形態とか小うるさいことはどうでも良くなってくる。
揺らぐもの流れるもの溢れるもの消えていく姿。
しかしそれらが水鳥のように飛び立っていったあとの空白そんなものではいけないだろうか」。
水の中で目にした光景。
青い画面にはシュノーケルをつけ海に潜った人間の形が描かれています。
正面に浮かぶ姫島を眺め太古から変わらぬ大自然と向き合う糸島での日々。
バルコニーから見た風景です。
太陽が海の向こうに落ちていく一瞬を描きました。
空も光の輪も一体になった光景に野見山さんは強い印象を受けたと言います。
ここで私はね自然を見る目がかなり変わったのね。
それはねここ毎年ね恐ろしい台風がやって来るんです。
ここにねうちのかみさんが買ってきた南方のつぼがあった。
雨水がね縄状になってね甕を取り巻いてグアーッと回り始めたの。
どうなるのかね命懸けで見てたんだ。
そしたらね一瞬にしてパーッとなくなったんですよ。
木っ端みじんになってねこういうのにぶち当たったんですねみんな。
そしてフワーッと破片になって降りてきた。
その時の体験から生まれた大作…甕が砕け散る一瞬の出来事が衝撃的です。
強い色彩とダイナミックな線。
自然の本質を見極めたいという気迫が伝わります。
「ある証言」は野見山さんが一つの時代を画した代表作となりました。
こういう風景を見た時今まで美しく見えてたものが実は恐ろしい形相で迫ってくるんだよという…。
そうするとこの中にああいう魔性のやつがいてそいつがこの自然をつかさどって美しく呼びかけていながら息を潜めてるんだという…。
そういう感情を僕は持ったんですね。
うん。
それから何て言うかな…。
ものじゃないんだなというそういう気持ちになったんですけどね。
現れそしてすぐに消えてしまう景色。
一日の中で移ろってゆく時間が深い色彩で象徴的に描かれています。
不気味な黒い塊とくっきりとした赤の直線がせめぎ合う画面。
「生き物だと思った人がいる。
そういう事にしておこう」。
野見山さんの言葉です。
朝居間のカーテンを開けると姫島が見えます。
この島の風景から野見山さんはもう一つの物語を紡ぎました。
週末だけかみさん帰ってくるからほとんど独りなんですね。
独りだとね朝起きてカーテン開けて島を見るのがなんか今日の「おはよう」って感じだった。
そしたらね何となくね島が…すぐ開けたらすぐそばに来てる時とどうしてそんな遠くに行ったの?という時とねいろいろあるんですよ。
ここに独りで住んでるっていうんじゃなくてこの島全体に誰もいないような。
人とは一日会わないから。
そうするとね「あいつ寂しがってどっか行っちまったら困るな」とかね。
僕が人懐っこかったのかな。
なんかね…毎日毎日島との対話で生きてましたね。
30年連れ添った京子さんは2001年世を去ります。
生前京子さんと交わした約束どおりこのアトリエの下に広がる糸島の海に散骨しました。
独り暮らしの野見山さんの日課はパリ時代と変わらぬパンとカフェオレの朝食です。
「どうしてきみは文章のような絵を描かないのか相手のことを考えたらもう少しわかりやすい絵になるだろうに惜しいよ。
誰かが私に言った。
全くその通りだ。
相手へのサービスをほんのちょっとでも絵の中で心がけさえすれば何でもないのだ。
あえて私は意地張っているわけではない。
あえて判りにくい絵を描こうとしているわけでもない。
ただ私が描きたいように描けばこうなる。
言ってみれば男はじっと我慢みたいな
塊り
が私にとっての絵の仕事であって自分としては我慢のために歯を食いしばっているけれど本当は愚痴タラタラがいっぱいあってそこを誰かに聞いてもらわないと歯をくいしばれないんだというのが正直なところかもしれない。
理屈抜きで見れば私の絵に難解も糞もない。
いずれにしても絵と文はまるっきり違うからこそ私は平気でやっていられるのだ」。
画家野見山暁治をクールに見つめる文人野見山暁治の目。
絵とは何か文章とは何かについての鋭い洞察。
文人の筆が冴えます。
2011年6月野見山さんは東北の被災地を訪れました。
自らの目で被災の現実を見たい。
それぞれの場所の空気を体で感じたいという思いが90歳を過ぎた野見山さんを駆り立てました。
「朝北上駅前でNHKの人たちと落ち合い太平洋岸へ向かって走る。
6月半ばだがなんとなく肌寒い。
海の近くになるとあたりの集落無惨な様相に変わる。
一挙に変わる。
罹災からちょうど3カ月それまで連日現地の惨状をテレビや新聞で知らされているうちに突如恐ろしく唐突に僕はその中に立ちたいと思った。
人間の築き上げたありったけのものが一瞬に消えたのをこの目で見たいと思った」。
今年1月の末から始まった野見山暁治展の会場です。
若き日の作品から最新作まで36点が並びました。
近年野見山さんは空港や駅などの壁面を飾るステンドグラスの制作を手がけてきました。
空港ロビーのための「そらの港」。
華やかな色彩とフォルムが魅力的です。
東京の地下鉄明治神宮駅構内のステンドグラスの原画…若者たちが楽しく見てくれたらと願って描きました。
2011年野見山さんが東北の被災地を歩いたあと描かれた大作…天空を引き裂くせん光のような強烈な黄色。
赤緑白色彩の不協和音が響く画面。
おぼろで混とんとしたイメージが交錯し溶け合っています。
描かれているのは一体何なのでしょうか。
この世が壊れていくような言いしれぬ不安や恐れ。
…と同時にどこか鎮魂の思いも感じられます。
見に来た人があのあとだからこれはどういう意味だって他の絵と違うっていうような意味を持たすんだけど僕の中ではそんな事はないんです。
見てきたっていう事は事実だしそれはショックになってるけどもそれがすぐ絵になって現れるという事はまずないですね。
天と地とが海というのは別々でなくてみんな一緒くたにこうなった…。
あとで帰ってきてねこうなってたなというようなね。
だからどんなだったって聞かれて説明のしようがなかったですよ。
「みんなでんぐり返ったみたいだったよ」というような。
つまり悲しいとか何とかというものとなんか違いますね。
つまりね…福島第一原発からおよそ30km。
静まり返る浪江町の北部。
どこから見てものどかな日常のたたずまいの中を歩いて野見山さんは強い恐怖を感じたといいます。
当時計画的避難区域だった一角は全く人の気配がない無人の場所と化していました。
そして僕が描くものはやっぱりそういうお化けでないと何もこんなようなものを描いたってそれは再現しているだけだっていうそういう気がしますね。
僕らの世代の人間だからじゃないかな。
なんか破壊されてるものをずっと青年時代に見てきた。
そうするとね僕はやがてねほんとに今度は破壊されてしまう時が来るんじゃないかというようなねある恐怖感みたいなのがありますね。
人はやっぱり殺し合うものだとかあるものは焼き打ち…滅ぼされていくもんだというようななんかそういうなんか自分の経験からね。
私はだからいくら何とかかんとか原発反対とか賛成だとかいろいろ声はあるけどもどんな事したって結局人間が作ったものは人間が作ってそしてみんなぶち壊してしまうんだろうなという気がするんですよ。
それに対してお手上げだけで方法がないのかという。
ぼんやりしてると日が暮れる。
その成り行きをぼんやり眺めてるようなそういう自分の身の処し方ですね。
そういうのを僕としてはどうなんだと言われたらやっぱり…93歳の自画像を描く野見山さん。
これ以上描いても何も出てこないんじゃないかというようなね。
前はね何にもないと何もないから描いてれば何か出てくるんじゃないかとそう思った。
ところがなんか最近ね何にもないでこんなに画面に向かえるという事はありえないんじゃないかと。
何かこっちに描きたいものがあってそれを描いてみるとそれじゃないからこれじゃないよなというのでまた翌日。
毎日毎日これじゃないよなという。
だからよっぽどねなんかよっぽど確固としたものがあるけどそれが分からないからそれを出そうとしてるんじゃないかと思うんですね。
ほんとはねある完成というのが自分の中にあれば半年先…後になってそれを見てもああ昔はこの人とはこうだったというようなもんだけどまたぞろつかみかかっていくというのはやっぱりどこかでこう…。
だから完成というのはないんですね。
飽く事なくキャンバスに向かい続ける野見山さん。
人は尋ねます。
「何を描いているのか?なぜ描き続けるのか?」。
野見山さんの答え。
これも芸のうちか。
ハハ…。
鬼は外福は内。
「2月3日。
節分。
鬼の面をかむって鬼は外なんて叫びながら豆を撒くのはおかしいな。
それでうす暗くなった庭に出て鬼はそと〜。
この行事ぼくは好きだ。
福は内。
明快でいい。
古来から伝わる鬼がいい。
どこか淋しい真っ赤な顔」。
2015/02/08(日) 20:00〜20:45
NHKEテレ1大阪
日曜美術館「行き暮れてひとり〜画家・野見山暁治のアトリエ日記〜」[字][再]
画家・野見山暁治さん、93歳(昨年3月放送時)。東日本大震災後、被災地を訪れ、今もキャンバスと格闘する日々をドキュメント。文化勲章受賞を受け特別アンコール。
詳細情報
番組内容
海外でも高く評価されている、現代の日本を代表する画家・野見山暁治さん。93歳(昨年3月放送時)の今も、精力的に制作を続けている。東日本大震災の後、被災地を訪れ、スケッチを重ねた。戦争や妻の死、数々の別れを経験し、今どんな思いでキャンバスと向き合っているのか。文筆家としても知られる野見山さんの日記を朗読しながら、ひとりアトリエで創作を続ける姿をドキュメント。文化勲章受賞を受け特別アンコール。
出演者
【出演】画家…野見山暁治,【語り】伊東敏恵
ジャンル :
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
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