4年前のあの日牙をむいた三陸の海は穏やかな表情を見せています。
その海を見下ろす庭園があります。
そこに立つ白い電話ボックス。
ダイヤル式の黒い電話が置かれています。
電話線はつながっていませんが傍らにはあるメッセージが…。
「風の電話は心で話します静かに目を閉じ耳を澄ましてください。
風の音が浪の音が小鳥のさえずりが聞こえたならあなたの想いを伝えて下さい想いはきっとその人に届くでしょう」。
去年の秋おばあさんと2人の孫が電話ボックスにやって来ました。
話す相手は震災で亡くなったおじいさんです。
しょうがないよね。
じゃあ今度ばあちゃんからいいかね。
肌身離さずいつも持って歩いてます。
つい最近のやつ。
大町出身の…製鉄会社を定年退職後は孫の成長が生きがい。
ソフトボールなどで体を動かし健康に気を配っていました。
お酒は大好きでね。
でもね孫がかわいいから1日でも多く生きなきゃねってそのころは酒ももう…。
うん…。
あの日東一郎さんは働きに出ていた妻幸子さんの帰りを自宅で待っていました。
そこに津波が襲います。
家は流されなかったもののずぶぬれになりその夜亡くなりました。
「じいちゃんに会いたい。
じいちゃんに会いたい」。
孫の手を引き幸子さんが電話ボックスを訪れたのは震災後間もなくの事でした。
(聞き手)おじいちゃん何か言ってた?聞こえた?
(2人)聞こえたよ。
(幸子)何て言った?じいちゃん。
「よかったね」だって。
(幸子)そう。
(聞き手)何回目ぐらいですか?こちらにいらっしゃるのは。
何回って言われても…。
1回2回3回4回5回6回!聞こえてもいないんだけどさ「うんうんうん分かったまず元気にしてろよ」というような…。
また一人電話ボックスを訪れる人がいました。
佐々木一義さん。
陸前高田から車で2時間かけてやって来ました。
ダイヤルするのは震災で亡くした妻の携帯電話です。
なあ。
そんな事伝えました。
震災のあった2011年の正月。
家族みんなで撮った最後の写真です。
ようやく子育ても終わり夫婦二人で楽しく過ごそうとしていたやさき妻美和子さんを津波に奪われました。
おととしの秋初めて電話ボックスに入った途端伝えたい事が次から次にあふれてきました。
通じはしませんでしたけどもあれからの思いいっぱいいっぱい話しさせてもらって…。
でも電話の向こうにいるんだよね。
何にも…何にもしゃべんないけどもいるんだね。
聞いてるんだね。
それはね…それ感じんだよね。
ほんとに感じんの。
不思議なんだけどな感じんだっけなぁ〜。
大切な人への思い。
電話機の傍らには帰らぬ家族や友達への気持ちをつづったノートが置かれています。
ノートの最初のページにはある家族の悲痛な思いが記されていました。
「あの日から2ヵ月たったけど母さんどこにいるの?親孝行できずにごめんね。
あいたいよ。
絶対みつけてお家につれてくるからネ!」。
最初にメッセージを書いたのは隣の山田町で工務店を営む港さん夫婦です。
(聞き手)失礼します。
こんにちは。
(聞き手)あのノートのなんと1枚目は…。
ですってね。
びっくりしましたね。
素直な気持ちを書いただけで…。
裕子さんの母チヨさんです。
15人の孫13人のひ孫に恵まれた元気なおばあちゃん。
1人暮らしでしたがしょっちゅう家族と行き来をしひ孫をお風呂に入れるなど子育ても手伝ってきました。
あの日海に面したチヨさんの家は津波の直撃を受けました。
今も行方不明のままです。
みんなでね捜したんだもんねあっちこっちね。
絶対絶対捜しておうちに連れてくっからねって言ってね。
急にだからね…。
心の整理のしようがねえでねえの。
「見つけられずにごめんね」。
重苦しい毎日でした。
そんな時電話ボックスの話を聞いた2人。
自然と足が向いていました。
受話器を取ったのは裕子さんです。
(裕子)最初はてれくさいんですよ。
で線がつながってないから…。
でもやっぱし持ってると…。
ごめんね。
何でもない事なんだけど…そんな生活の一部の事も全然聞けなくて…。
突然聞けなくなって…。
「母さんあっいないんだった」みたいなそんな感じで…。
でまあそこにいけば母さんと話ができる。
で見ててくれる。
今も行方不明のままの母。
しかしここに来て受話器を握ると震災前の日常が心の中によみがえり落ち着くといいます。
ほらカモ…。
お〜いトップ!電話ボックスの持ち主佐々木格さん69歳です。
15年前釜石市の製鉄会社を早期退職。
その後海の見えるこの土地にひかれ自分だけの快適な田舎暮らしをしようと一人で庭づくりを始めました。
父親を早く亡くした佐々木さん。
17の時から働き一家の大黒柱として家族を養いました。
庭づくりはそんな自分へのご褒美でもあります。
花に囲まれた母屋。
その隣には図書館を建てました。
絵本を集め訪れる子供たちのために妻の祐子さんが読み聞かせをする事もあります。
おしゃれなカフェから趣味の小屋まで楽園づくりは続きました。
知り合いから電話ボックスを購入したのもそもそもは自分たちのため。
親しくしていたいとこが亡くなり心で話ができる場所が欲しいという理由でした。
そこへ東日本大震災が襲いました。
やばい!やばい!車ある車ある!まだ動いてる!やばい!やばい!やばい!やばい!佐々木さんは高台にある庭からただぼう然と見つめていました。
津波のねあの〜…衝撃的な状況を見た時にねやっぱり自分は自分の力で生きてきたと思ってたんですけどもそうじゃないなと。
自分は何か見えない力で生かされたと思ったんですね。
自分のためにつくった庭。
佐々木さんはその庭を開放し真ん中に電話ボックスを据えました。
そして「風の電話」と名付けました。
それ以来大町の内外から1万を超える人々がこの庭を訪れています。
この日初めて「風の電話」にやって来たという人に出会いました。
美容師の…お店やってたんですけど美容院やってたんですけどそこも流されてしまいました。
はい。
(聞き手)え〜と妹さんですか?めいっこです。
どこ行っても仮設なのでたまにはこういうとこ違う所来たいみたいな…。
一緒に来ためいが携帯電話で撮ったという写真を見せてくれました。
電話ボックスに入った斉藤さんはある人の事を思いただただ泣いていたといいます。
斉藤さんは大の隣町山田町の出身。
美容師の腕を買われ店を任されていた時震災に見舞われました。
自宅を店を津波で失った斉藤さん。
仮設ながらも美容室を再開しましたがあるお客さんの事がずっと心に引っ掛かっています。
津波の前の日に「今から行っていい?」って電話くれた子がいたんですけど毎月来る子で…。
なんかすごい…。
でもなんか「今夕方までお客さん入ってるから今日はちょっと無理だよ」って言って「じゃあまた後から電話するね」と言って「じゃあね」って。
そしたら次の日亡くなっちゃった。
高校生のころから10年以上通ってくれました。
明るくて元気いっぱい。
年下なのに頼りがいがありいつしか仕事の事プライベートの事何でも話し合える友達になっていました。
その大切な彼女と「風の電話」の中で震災以来初めて向き合う事ができた。
そんな気がしたのです。
斉藤さんの暮らす仮設住宅。
初めは2年間の予定でした。
津波で浸水した土地のかさ上げに時間がかかり自宅も店舗もまだ再建の見通しが立ちません。
六畳二間の1人暮らし。
やっぱり1年目の時は多分みんなそうだと思うんですけど自分が頑張ればどうにか変わっていくんじゃないかとかそういう希望を持ってる方っていっぱいいたと思うんですけどこれが2年目を迎えるころになるとなんか1年目の時とまたちょっと違ってきて「頑張ってんのに」っていう…。
だから一番気持ちが沈んだのが2年目ですかね…。
あの時ねあの…なんか…あの時に流されてればよかったという方も今出てきてる。
つらい事苦しい事がたくさんありますが店ではお客さんの聞き役。
自分から弱音を吐く事はありません。
私がね震災の後次の日だもんね。
いやぁごめんね…。
そんな時「風の電話」で押し殺していた気持ちがあふれました。
「ごめんねごめんね」。
ああいうとこって必要なんだろうなって思いますね。
私が美容院やってて来るお客さんたちがいろんな事を話していくんですけどそういうとこってやっぱり必要なんだと思うんですよね。
だってこういうとこじゃね泣けないですもんね。
いっぱい家族何人かでいて泣きたくなる日もあると思うんですけどやっぱり声出して泣く事できませんもんね。
だからああいうとこいいんだと思います。
岩手県陸前高田市です。
ここでも新しい町をつくるためのかさ上げ事業が進んでいます。
3,000mの巨大ベルトコンベヤーが周辺の山を削った土砂を町に運びます。
「風の電話」に通う…仮設住宅で1人暮らしを続けています。
お母さんも空の上から見守ってけらいよ。
毎日仕事の行き帰りに妻美和子さんに語りかけます。
胸張ってお母さんと会うべしな。
2人は小中学校時代からの幼なじみ。
何度もプロポーズをして断られた末ようやく思いがかなった恋女房です。
4人の子供も独立。
一時はスーパーの経営に失敗しましたが夫婦共働きで何とか再建のめどが立った時震災が起きました。
妻の美和子さんはそば屋の出前の仕事から帰る途中車ごと津波にさらわれました。
来る日も来る日も一義さんはガレキの町を捜し回りました。
美和子さんが見つかったのは1か月後でした。
(聞き手)ここで毎日こう手を合わせられるというのと「風の電話」に行く。
それはどう違うんですか?こっちは一方的に語りかける。
でも「風の電話」では電話の向こうにはいるっていうのは感じるもんねえ。
「風の電話」に通い始めて1年余り。
6度目のこの日は美和子さんの誕生日でした。
(一義)もしも〜し。
この庭の主佐々木格さんは一義さんにないしょであるものを用意していました。
お誕生日おめでとうございます。
格さんの妻祐子さんの手作りケーキです。
これは54の時のあれですよ。
最愛の妻美和子さん。
61回目の誕生日を祝う事ができました。
美和さん?はい美和子ね。
(一同)・「ハッピーバースデートゥーユーハッピーバースデートゥーユー」・「ハッピーバースデーディア美和子ハッピーバースデートゥーユー」地元でスナックを経営していた伊藤陽子さん。
この庭が好きで震災後何度も訪れています。
いいね白菜と花と大根と…。
大根が首出してますよ。
趣味は撮影する事。
でもカメラは選びません。
小型カメラでも携帯電話でも。
お気に入りのアングルを探しますがあえて電話ボックスには入りません。
見ない。
入らない私。
自分の生き方っていうかな…。
自分の考えに沿って生きてるから私。
みんな誰しもそうだけどもね。
だからこれで癒やされる人はそれはそれでいいと思う。
それにとやかく言う筋合いではないし。
おはようございますどうも。
ご苦労さんです。
お世話になります。
それでもこの庭を訪れる度に主の佐々木さんとはよく話をします。
いいですね。
あたたかいですね。
伊藤さんの兄さんはまだ見つかってないの?見つかりました。
2人とも見つかりました。
みんなねそれぞれ内に秘めてるものはそれぞれでね…。
何にもないっていうその「何もない」がみんなそれぞれ違いますからね。
かつて1万人ほどが暮らしていた大町の中心部。
そこに伊藤さんの家とスナックがありました。
私の家はねこの土の角。
母親と私の大きい方の兄貴。
3人。
ここだね我が家は。
伊藤さんには2人の兄がいます。
上の兄と母の3人で暮らしていました。
その町を十数mの津波が襲います。
伊藤さん自身はあの日町を出ていて難を逃れましたが兄は2人とも行方不明になりました。
これは伊藤さんが震災直後に戻って撮った町の様子です。
信じられない光景の連続にぼう然としながらも撮影を続けました。
兄を捜す中目に飛び込んでくるのはガレキで埋め尽くされたふるさとの姿…。
やり場のない怒りが込み上げ夢中でシャッターを切り続けます。
写真撮りながらビデオ撮りながら…。
まあね人によっては不謹慎って思われる人もいるとは思うけども…。
撮ってますね。
こうして撮った写真が人の勧めで写真集になりました。
そして今では全国で写真展が開かれるまでになりました。
(伊藤)和尚さんが言うにはこの鐘をつくるのに1,200℃の温度でつくると。
そのような火力で燃え続けた結果この信号機なんだけどもそれが溶けてしまってるんですね。
右も左も火事でしたねここの地域も。
図らずも多忙な毎日を送る事になった伊藤さん。
しかし胸には兄の遺体が見つかった直後に母を亡くすという大きな悲しみを抱えていました。
この日伊藤さんは佐々木さんに初めて心の内を語りました。
そのころは私の母親っていうのが生きてたんですよ。
パーキンソンで入院してて気管切開しててボケてなくて地震は体全体で体感したと思うの半端でない地震はね。
DNAで分かった兄っていうのは半身不随なのね。
次の日母親が亡くなったの。
その時症状がひどくてあんまりにも見かねてね「頑張んなくていいよ」って一声かけたらねもう終わってしまったんだけどね。
ボケていないだけにかわいそうだったんだけどさすがに遺体で見つかったよとか津波で家がなくなったよとかそんなの教えれなかった。
あれはいくら何でも教えれないね。
(格)じゃあ親と兄貴と3人亡くしたわけだ。
一回に。
そうだ。
やばい涙が出てきた。
そうなのよ実はね。
(格)確かに伊藤さん見てれば元気そうだし元気に活躍しているし多くの方がまず悲しみとか苦しみとか抱えてるというふうには見えないんだけども…。
「ふうには」見えないでしょ?抱えてない抱えてない。
(格)抱えてない?大丈夫だ?大丈夫大丈夫大丈夫。
震災から4年。
悲しみを振り払うかのように今日も伊藤さんはシャッターを切り続けます。
今年1月思わぬ事が起きました。
電話ボックスが根元からなぎ倒され無残な姿となってしまったのです。
最大瞬間風速26.9mの強風が大を襲いました。
もうぼう然としましたね。
「こんな事あるの?」という感じでしたね。
(聞き手)これからどうされるとかっていうのは…。
(格)いや全然まだ当てはないですね。
見てみると分かりますけどこれはもう使えないと思います。
その翌日途方に暮れる佐々木さんのもとに駆けつけた人がいました。
隣町で工務店を営む港郁男さんです。
「お母さんどこにいるの?あいたいよ」。
ノートの最初のページに母への思いをつづったご夫婦です。
港さんは電話ボックスを見て修復できると判断。
早速ボランティアの人たちの協力を得て修理に取りかかりました。
(郁男)ボックスが倒れたって聞いたり新聞で見た時佐々木さんあれ一人で頑張ってやったのにがっかりしたべなあと思ってね「ちょっとその壊れたの見せて」って言ってもうシートもブルーシート掛けてちゃんと確保はされてあったからめくってのぞいたれば「おっこれ直せるよ!」って。
「月命日の11日までには何とか間に合わせたい」。
港さんは修復を急ぎます。
そして1月11日「風の電話」は再び庭に立ちました。
なぎ倒されて僅か3日で元の姿を取り戻しました。
これから皆さんに使ってほしいです。
会えなくなった人とか…。
(郁男)まだまだ使う人はいっぱいいると思うよ。
たとえ復興が終わっても両親とか親戚きょうだいを亡くした人たちは多分1年に1回の命日にはあがっていくと思うよ。
「風の電話」に勇気をもらったという人もいます。
大に住む釜石望鈴さんは高校3年生。
震災で身内を亡くしてはいませんが母とここを訪れて以来大好きな場所になったといいます。
もう10回以上は来てるかなって思います。
(聞き手)何でそんなに何度も来る事に…?やっぱり…う〜ん…ここに初めて来た時からすごい大好きな場所になって…。
ここに来て全然違う空間っていうか…。
すごいすてきなお庭だからなのかもしれないけどまた別世界だなって。
実は望鈴さんは中学校時代なかなか教室に行く事ができずいわゆる「保健室登校」を繰り返していました。
(釜石)あんまり人がいっぱいいるとことかあんまり人に会いたくないというのもあって…。
そんな中で起きた震災。
「風の電話」を訪れた望鈴さんの目に留まったのはノートに記された大切な人への言葉でした。
「あなたの死を悲しい事だけにしない様に」。
「今生きていることを大切に力の限りあなたの分までやっていきます」。
(聞き手)特に何か気になったのとか…。
この「お母さんに会えますように。
聞こえますように」ってとこが…。
一番見ててすごい響きました。
つらい現実と懸命に向き合う人々の言葉。
かたく閉ざしていた望鈴さんの心を次第に揺り動かしていきます。
望鈴さんは地元でNPOの活動に参加。
外国の人たちに「風の電話」の事を伝えたいと英語で案内するようになりました。
保健室登校をしていたかつての自分ではもうありません。
でも変わったけど今でもやっぱり何だろう…結構落ち込んだりする事もある。
(聞き手)それは誰だってそうですよ。
でもそこから落ち込んでもまた上がる…起き上がるっていうかそういう力はついたかなって。
陸前高田から佐々木一義さんがやって来ました。
「風の電話」が強風で倒れたというニュースを聞いてとても心配していました。
ほんと壊れてなくなっていろんな人の力でこうやって作ってもらって…。
ありがたいほんとに。
家族の日常を妻に伝えます。
「風の電話は心で話します静かに目を閉じ耳を澄ましてください風の音が浪の音が小鳥のさえずりが聞こえたならあなたの想いを伝えて下さい想いはきっとその人に届くでしょう」。
建物の復旧が進んで町の復興整備が進むにつれて被災した方々からよく聞くようになった言葉が「心の復興なくして真の復興なし」という言葉なんです。
さまざまな思いを胸に心の整理がまだつかないという方も大勢いらっしゃいます。
「風の電話」はそうした方々のほんとに心の支えになってるんだなというふうに思いました。
東日本大震災から間もなく4年になります。
「明日へー支えあおうー」のホームページで紹介している「現地発明日へブログ」には被災された方の日常がつづられています。
先月新たな門出を迎えた方がいます。
岩手県釜石市の山崎祐香さん。
震災当時高校1年生でした。
2年前に高校を卒業し地元のスーパーに就職しました。
その祐香さんも今年二十歳です。
着付けを終えた祐香さんが母親と真っ先に向かったのは祖母の家です。
祐香さんの家は高台で無事だったんですがおばあさんの家は津波で流されました。
今も仮設住宅に暮らしています。
おはよう。
孫の晴れの日に祖母のヨリ子さんはお赤飯を炊いて待っていました。
祖父の七郎さんは仮設住宅を出る事なく去年9月に病気で亡くなりました。
この日の振り袖を一緒に選んでくれたのもおじいさんでした。
(ヨリ子)見せたかったけどねじいちゃんが何で急いでいってしまったもんだかね。
祐香さんは1人暮らしになったヨリ子さんを気にかけて仕事帰りに毎日のように立ち寄ります。
隣に間もなく完成する復興住宅にヨリ子さんも入居予定です。
祐香さんもちょっと安心です。
そして成人式。
300人ほどが集まりました。
震災後釜石を離れた友達も戻ってきました。
「明日へブログ」には被災した地域の今を伝える生の声がつづられているんです。
是非ご覧になって下さい。
では被災された方々の今の思いです。
ここは仮設店舗のパン屋さんです。
震災の年の11月にオープンしました。
一時期よりはお客さんは減ってますが新しい製品を作ったり毎日模索の連続です。
私は釜石の唐丹町で農業をしております。
おかげさまでこのとおり田んぼが復旧し農業を再開する事ができました。
釜石の鵜住居で親子の絆を深めるキッズベビーダンスをしています。
震災後は落ち込む事もありましたが子供の笑顔に救われました。
子供と…。
(一同)笑顔で〜!2015/02/08(日) 10:05〜10:53
NHK総合1・神戸
明日へ−支えあおう−「大切なあなたへ〜こころで話す“風の電話”〜」[字]
東日本大震災から4年。被災地の人々がいま、亡くなった大切な人に話しかけたいこととは何なのか。岩手・大槌町にある「風の電話」を利用する人たちの思いに触れてゆく。
詳細情報
番組内容
東日本大震災で多くの命が奪われた岩手県大槌町。三陸の海を見下ろす丘の上に白い電話ボックスがある。ダイヤル式の黒い電話機が置かれているが電話線は繋がってはいない。亡くなった大切な人と“心で話す”ためにできた場所だ。震災から次第に月日がたつ中で、今も、町内外から人々がそれぞれの思いを胸にここを訪れる。被災地の人々が今、亡くなった大切な人に話しかけたいこととは何なのか。被災地に生きる人々の思いをつづる。
出演者
【キャスター】畠山智之,【語り】中井貴恵
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
情報/ワイドショー – その他
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
サンプリングレート : 48kHz
OriginalNetworkID:32080(0x7D50)
TransportStreamID:32080(0x7D50)
ServiceID:43008(0xA800)
EventID:32578(0x7F42)