不思議な模様は指の跡。
しかも大きく傾いています。
ゴツゴツした岩のような肌に大きなひび割れ。
作者は…。
銀行の頭取でありながら近代陶芸の父と呼ばれた人物です。
残した作品は3万とも5万とも。
しかしアマチュアである事にこだわり生涯一点も売りませんでした。
忙しい仕事を終えてから家でじっくりろくろに向かう。
陶芸はあくまで趣味。
そこから生まれた器は自由奔放。
ひび割れさえも見どころにしてしまいます。
そういう人だと思うな。
まるで土の塊。
最晩年には茶碗という概念さえ飛び越えてしまいました。
困った人だなぁとつくづく思わざるをえないですね。
究極の趣味人偉大なる素人と呼ばれた川喜田半泥子の世界。
「日曜美術館」です。
今日は趣味で陶芸を始めながらも後の近代陶芸に大きな功績を残した川喜田半泥子です。
自由ですよね。
奔放な作りたいものを作ってるって感じですよね。
作品自体が面白いし力を持ってるじゃないですか。
こういったものを作る人がどんな人物なのか今日は知りたいなと。
その半泥子は銀行の頭取を務めながらつまり働きながら40代の後半になって本格的に陶芸を始めました。
さあまずは半泥子の世界ご覧下さい。
川喜田半泥子の地元三重県津市にある石水博物館。
今半泥子の名品を集めた回顧展が開かれています。
川面にたゆたうモミジの葉。
半泥子は実際にモミジを貼り付けてこの模様を描きました。
大きくゆがんだ茶碗。
白い空間に垣根を描きその上に白い釉薬。
霧にかすむような風景です。
赤が映える「不動」。
戦争中火事に遭った茶碗を炎から立ち現れる不動明王になぞらえました。
自由な感性その極め付きの器があります。
代表作の一つ…一見失敗作かと思うほど潰れたようにゆがみ大きなひび割れまで。
ゴツゴツとした荒々しい風合いは窯の中で焼くうちに小石などがついて出来たもの。
縦に走るひびは漆で埋められ金で波のような文様が描かれています。
大胆かつ繊細。
破格の造形です。
明治11年15代続く名家の跡取りとして生まれ三重の銀行の頭取を務めた実業家でした。
何にでも没頭して泥にまみれながら一方で冷静に己を見つめよと禅の僧侶からもらった名前です。
家族が撮影した映像が残されています。
毎朝夜明け前に起きて冷水浴。
ラジオ体操。
朝食を済ませると自宅の敷地に作ったろくろ場へ。
ひとしきり土と戯れると身支度を整え銀行へと向かいます。
夕方仕事から戻ると再びろくろ場へ。
仕事以外は焼き物三昧の日々でした。
そんな半泥子に大きな影響を与えた焼き物があります。
その名も「破袋」。
桃山時代に作られた茶室で使う水指です。
焼く時にできた大きなひびが圧倒的な存在感を放ちます。
常識破りの美意識でこの名品を見いだしたのは古田織部。
天下一の茶人と謳われた人物です。
織部はこれ以上のものは出ないと手紙に記し知人への贈り物にしました。
およそ400年前の桃山時代戦国武将たちが戦に明け暮れる中茶の湯が大流行します。
激動の時代新しい美が求められる機運の中日本各地で個性豊かな焼き物が生まれました。
その象徴とされるのが織部の「破袋」。
半泥子は魅了されました。
桃山の名作である「破袋」をある時期必死になって一生懸命見てるんですね。
所蔵者のところに何回も通っては見せてくれ見せてくれと言ってじっと見ていたと。
そういう意味では…という事なんじゃないかなと私は思ってます。
昭和初期桃山の焼き物はまだあまり評価されていませんでした。
しかし半泥子は自らの手で桃山の美をよみがえらせようとします。
それが半泥子の「慾袋」。
織部の「破袋」にそっくりの風合いを出しています。
しかしひびを見ると…。
黒い漆で埋めた上に金で「青海波」というおめでたい文様を描いています。
半泥子は桃山の美意識だけでなく常に革新を求めるその精神まで学び取ろうとしたのです。
(榎本)その部分では桃山的なるものの中にオリジナリティーの強さというか…半泥子が愛したもう一つの桃山。
それが朝鮮半島で作られた茶碗です。
朝鮮半島から伝わった井戸茶碗の名品。
飾り気のない素朴な風合いが桃山の武将や茶人たちに珍重されました。
自らこの茶碗を手に入れた半泥子。
その美の探求にのめり込んでいきます。
熱の入れようは自宅の敷地に朝鮮風の窯を手作りするほど。
何度も窯たきをして試行錯誤を重ねました。
それでも満足できず朝鮮に渡ります。
窯場を訪れどんな土を使いどんな窯で焼かれていたのかを調査。
更に使われなくなった古い窯を修理して作品を作るというとんでもない試みも行いました。
三女の松平紫子さん。
朝鮮から帰ってきた時の事をよく覚えているといいます。
旅行から帰りますとどんなお土産が出てくるかと思ってカバン楽しみにしてる。
すると焼き物の割れたかけらだったり…。
参考品なんですね自分には。
見てるといいものが出てこないからがっかりでしょ。
半泥子は陶片だけでなく土も持って帰ったといいます。
その土で焼いたのが…「渚」という銘のとおり浜辺に波が打ち寄せるかのような景色。
波に見立てた鮮やかな水色の釉薬。
土とうまくなじまなかったのか垂れて落ちてきそうです。
内側はまるで砂糖菓子のよう。
実はこの「渚」所蔵していた井戸茶碗と大きさが同じ。
半泥子が井戸茶碗を写しながら学ぼうとしていた事が分かります。
井戸茶碗の大きな見どころは高台の部分の釉薬が縮れた「かいらぎ」という模様。
半泥子の「渚」も高台にかいらぎが表れています。
徹底的に探求を重ねた桃山の美。
しかしそこにあるのは紛れもない半泥子の世界です。
今日のゲストは茶道武者小路千家若宗匠の千宗屋さんです。
どうぞよろしくお願いします。
よろしくお願いします。
千さんは半泥子の大ファンだそうですね。
はい。
非常にひと言で言うとお茶を頂いておいしく楽しい茶碗なんですね。
かつ半泥子という方はあれだけ自由な伸びやかな茶碗を作りながら非常にお茶そのものにも堪能でお茶は表千家を学ばれてそのお茶の師匠が表千家の久田宗也無適斎という方でこの無適斎の弟がですね私の曽祖父にあたります12代目の武者小路千家の愈好斎という家元でして。
実は無適斎と愈好斎が一緒に半泥子の所に遊びに行くんです。
その時に頂戴した茶碗が手前どもに今も残ってましてちょうど白い柔らかい筒茶碗でしてちょうど今ぐらいの2月ぐらいの季節になるといつもお稽古場にそれが出てきてそれでよくお茶を頂いたり。
小さい時からそういう意味で半泥子がすぐ身近にいてとても親しみを持って接している方でもあります。
半泥子の作品僕見ているとまず形にとらわれず自由に作る力とあとはものをしっかり見る力の両方を兼ね備えた人なんだなってそこが魅力だなって感じてるんですけど。
半泥子に関してですが一つ大きく言える事はこの時代いわゆる大正から昭和の初期非常に日本の伝統文化の復興といいますか見直しというものが盛んで特に茶の湯という文化が当時男性の間で非常に社交の手段文化的なものを趣味として楽しむという手段として非常にもてはやされていわゆる「数寄者」といわれる男性のいわゆる実業界に身を置いてお茶を楽しむ美術を愛でるという人たちがたくさんいた。
当時の紳士のたしなみだったわけですね。
半泥子もやはり数寄者といえますねそういう意味では。
ところが半泥子は集める見るという事以上に作るという事に自分の芸術観の発露というものを見いだしていったわけですね。
そこが半泥子の一番大きな特徴で。
ですから半泥子はそういう意味でひと言で半泥子という人を言うならば「作る数寄者」という事が半泥子をひと言で語るなら言えるのではないかなという気がいたしますけれども。
桃山時代に魅了されてその時代の名品さまざまなものを写してきてるんですけどもこれは「慾袋」ですよね。
これは織部の「破袋」を写してたものだっていう事ですけど僕はこの青海波が目に入った瞬間に驚き…ドキッとしました。
ここにこんなものを…施していくんだって。
ただ写してるわけではなく例えばこれ口がすごく小さいですよね。
実際これ私使う時にひしゃくが中に入るのかなってちょっと心配しながら実は。
そこまで小さいんですね。
結構水指の口としては相当小さいと思いますね。
それでいてこの下の袋の部分が非常に大きく膨れて破れている。
「破袋」の方は窯の中で偶然に破れた。
へたって負荷がかかって割れてしまったと。
ところが織部はそれが面白いとして取り上げた。
で半泥子は恐らく口の小ささに対しての下の大きさ膨らみの豊かさ。
その対比の面白さというところに非常に注目した。
だからそこをより強調しようとしたのじゃないかなと。
そしてこの銘の「慾袋」。
これがやっぱりこの作品の魅力をより引き立てていて。
「慾袋」ですもんね。
はい。
面白い銘ですよね。
恐らくでも私はこれ半泥子自身の欲つまり「破袋」というものに憧れてそれを何とか自分のものにして写そうという自分自身の欲ですよね。
それをちょっと皮肉って自虐的にこういう銘をつけて何かちょっとてれ笑いをしてるようなそういう半泥子の人柄おちゃめな人柄がこの作品を通してうかがえるんじゃないかなと思いますね。
大正から昭和にかけて銀行の経営は困難の連続でした。
世界恐慌のあおりを受け取り付け騒ぎが相次ぎます。
半泥子は現金をかき集めて窓口に積み上げ「金はある」とアピール。
何とか騒ぎを乗り切ります。
そんな苦労も半泥子は作品に変えてみせました。
半泥子ならではの哲学が込められた作品です。
淡い青から白桃色へと移り変わる釉薬。
朝焼けに染まっていく雪原のように見える事から「雪の曙」と名付けられました。
奇妙な模様は指の跡。
それが面白いとあえて残しているのです。
雪原に残された足跡のようにも見えてきます。
それにしても不思議です。
技術の面でも名手といわれていた半泥子ですが大きく傾いています。
縁の部分はとても薄く作っているため裂け目ができています。
普通なら失敗となるものをそのまま生かした茶碗です。
半泥子の教えを今に伝える人がいます。
地元三重県で窯を営む藤村州二さん。
半泥子の弟子に陶芸を教わった孫弟子です。
「雪の曙」の不思議な形は半泥子が使った土に秘密があると考えています。
「雪の曙」で使われたとされる土を用意してもらいました。
半泥子の自宅の近くで採れた土です。
(藤村)粘りが少ないっていうんですかね。
ろくろにするにはちょっとひきづらい土だったんじゃないかなと思うんですけどね。
陶芸には向かない土。
普通なら他の土を混ぜて使いやすくするところを半泥子はそのまま使いました。
要するに…そんな土でろくろをひく事を半泥子は楽しんでいたといいます。
(藤村)作りにくいから余計面白いものができるという事だと思います。
作りやすい土で上手にひけたって面白くなかったんだと思いますね。
更に半泥子は一度ひいた形を後で直さないのを信条としました。
その欠点を前面に出してそれをいいところにするとかそこら天才的じゃなかったでしょうかね。
裂けた部分はろくろで土を一気にひきあげたその勢いを伝えています。
決して思うようにはならない土。
でもそれは人生と同じ。
だからこそ面白い。
この茶碗には半泥子のそんな哲学が詰まっています。
半泥子は仕事の合間を見つけては各地の窯場を訪ね研究を重ねました。
その中から焼き物の常識にとらわれない傑作が生まれます。
志野とは桃山時代美濃現在の岐阜県で作られた白い釉薬が特徴の焼き物です。
ひびは金と漆で継がれ稲妻のような景色。
人も焼き物もきずがある方が面白いという遊び心です。
そして何より大きな魅力になっているのは「赤不動」の銘の由来となった赤みです。
実はこの赤みには志野焼ではなく備前焼の技法が使われているのです。
千年以上の歴史を持つ備前焼の里です。
昭和11年半泥子はこの地を訪れ備前焼ならではの技法に出会います。
現代の備前焼を代表する陶芸家…ちょっと持ってきて。
見せてくれたのは赤が印象的な備前焼の作品。
半泥子が「赤不動」で使ったのはこれと同じ技法です。
備前焼は釉薬をかけず土の味わいをそのまま生かすのが他にはない特徴。
鮮やかな赤は「緋襷」という独特の技法で焼かれたものです。
(金重)緋襷というのは室町時代ぐらいからあったと思うんだけどすり鉢を何枚も重ねて焼く時に間にこうわらを挟んで焼いたんですよね。
そのわらの跡が赤く筋のように襷のようになるんで緋襷って言うんでしょうけど。
緋襷でわらを使う作業を見せてもらいました。
できるだけこうなんていうのふんわりとつけたいと思って…。
こうして窯で焼くとわらの成分と備前の土の鉄分が反応して赤い模様が浮かび上がります。
この技法を半泥子は備前で知ったのです。
半泥子が「赤不動」に緋襷を使ったのは焼く前からひびが入っていたためわらで巻いてひびが広がるのを防ぐためでした。
しかし緋襷は備前の土だからこそできる技法。
志野焼の白い釉薬の上からだとどんな色になるのか全く予想できませんでした。
焼き上がって窯から取り出すと…。
白い肌の上に程よい赤みが。
異なる産地の技法を融合させるという焼き物の常識を超えた名品です。
この半泥子って人のねものにとらわれないいいんだよこれでっていうようなそういう自由な物事の発想のしかたっていうのがよく表れてると思いますね。
そういうところはなかなか特にプロの人僕なんかでも多分そういう自由な発想は難しいと思いますね。
プロにはできない大胆な試みをさらりとやってのける。
偉大なる素人半泥子の真骨頂です。
伝統的な技術を使いながら作られたものですけれども半泥子の作るものは古さみたいなものを全く感じないですよね。
中でもやっぱり「雪の曙」こちらですよね。
まず名前がすてきだなってまず感じますしほんとにその景色が思い浮かぶというそういうお茶碗だなと思うんですけども千さんはこの「雪の曙」どのようにご覧になってますか?大変好きな茶碗ですね。
何か朝焼けの朝日を受けたちょっと雪解けの始まったまさに曙というかなんていいますか初春のですねちょうど雪が解けてきて春の兆しも感じさせるような茶碗なんじゃないかなと。
まさに今の時期ですね。
そうですね。
それでいてこの茶碗のもう一つの特徴は何といっても形の豊かさ。
胴の少し張りのある丸み。
そして伸びていくろくろ。
どこまでも伸びていくろくろなんですね。
私ろくろの茶碗のやはり優れた魅力のある茶碗というのはその器が形が終わってもろくろが伸び続けている。
これがやはりろくろの茶碗の特徴なんじゃないかなと。
よくあるいわば凡庸な茶碗というのはろくろの形が止まってしまったらそこで何か止まってしまうんです。
その形が終わってしまう。
ところが半泥子の茶碗はたまたま土がここで切れてしまったから形がここで終わってますがこのままろくろがどこまでもずっと上に伸びていくそういう何かスピード感といいますか。
一つの形に収まらない伸びやかさというものを連想させる。
指跡にしても感覚がいいですよね。
全て非常に何か巧まざるしてできたバランス感覚。
これは天性のものでもあると思いますしまた恐らくこういう事というのは一点二点じゃできない。
半泥子というのは先ほどのVTRにもありましたように相当数。
3万から5万と言われている。
たくさん作ってきたからこそ出来上がってきた茶碗。
まあほんとに百年に一度百碗に一度千碗に一度の茶碗なんじゃないかなと思いますね。
今日は特別に千さんに半泥子の茶碗をこのスタジオに持ってきて頂きました。
こちらですね。
これは井戸手の茶碗で「さみだれ」という銘があります。
これは実は半泥子から後に総理大臣になられる佐藤栄作さんに贈られたという事も分かっていて実は「雪の曙」と並ぶ代表的な作品とも言われているお茶碗です。
ちょうどこの茶碗の釉薬のなだれですね。
美しいですね。
この白い上に青白くまるで新緑の緑を映した雨のようなまさしくここの景色はさみだれ。
で全体から受ける印象も非常に爽やかというか力強くありながら非常に清新な爽やかな印象。
これはまさに「さみだれ」という銘にふさわしいんじゃないかなと思いますけれども。
井浦さんよろしければ少しお手に取って。
はい。
よろしいですか?ご覧頂ければ。
ずっしり…ずっしりしてますね。
しっかりした重さがありますね。
「さみだれ」の銘のとおり見た目の艶やかさと同じようにしっとりと手にひたっと張りつくように作られてますね。
半泥子の手の跡をなぞってるわけですよね。
つまり手の間から隙間からできてくる形ですからまさに半泥子と今いわば握手をしてる。
握手をしてる。
ああ…。
うわぁ〜。
半泥子は高台はしっかり作れと。
しかもグダグダ作るのではなく削りは一気呵成にいけと。
2回3回とやってしまうとやはり勢いもなくなってきますし形がやはりだんだん緩くなってしまう。
だから削る時は一気にいってしまわなきゃいけない。
これもひとへらだけです。
それでいてこの高台は非常に力強くやっぱりしっかりと受けて立つ部分ですからここがいわば扇の要だと。
造形のポイントであると。
大きかろうが小さかろうが高台というものはしっかりと作らなきゃいけないという事をまず言ってます。
それがこの茶碗にもよく表れてます。
半泥子の一つの技術的な完成された姿がここにあるのではないかなというふうに思いますね。
第二次大戦後自宅をアメリカ軍に接収された半泥子は山の麓に建てた小さな庵に移り住みました。
窯は今も孫弟子の藤村さんたちによって守られています。
すぐそばに客人を招くためのお堂があります。
半泥子が書いた…ご機嫌いかが?またおいで。
これは半泥子先生の自分の像で床に伏せがちだった時期なもんで自分がいないとちょっと失礼にあたるんで自分の代わりにお客様をお迎えしたと。
で面白いのがこの胴体と首頭の部分が別々に作ってあるんですね。
でまあいろいろなお客様が見えたらしくてその中に自分のちょっとあんまり…嫌いって言ったらあれですけどそういうお客様にはちょっとあの首がね外れるんですわ。
で反対向けて置いてあったという事でね。
そういう話が残っています。
終戦の年67歳で銀行の頭取職も退き何ものにもとらわれない日々。
茶室も造り老いてますます陶芸に没頭します。
昭和24年71歳の作品です。
荒い土ゆえの無数のひび。
半泥子が指で釉薬をかき取った跡が明け方まで空に残る月を思わせます。
晩年にたどりついたまさに「大侘び」の境地。
ここに至るにはきっかけとなる一つの出来事がありました。
77歳最晩年の作品…その姿はまるで土の塊。
裏返すと土そのもの。
溶岩を噴き出す火山のようです。
伸びやかな白い化粧土が半泥子の心のありようを物語っています。
(金重)ただひたすら楽しがってるそういう人だと思うな。
うん。
でもなかなかできないし…。
う〜ん…。
でも心根がやっぱりものすごく純真な心持ちしてるんだろうね。
子供心を全く失ってない人。
なんかそんな感じしますねやっぱり。
本当に幸せな人だったと思います。
自分のしたい放題の事してね。
本当に満足して。
やっぱり他からの目とか評価とか人間死ぬまでそんな事を考えてるんだろうな。
ところが突き抜けちゃうとここまで突き抜けられた人がいるっていう事自身やっぱり不思議でしかたがない。
そういう面で困った人だなぁとつくづく思わざるをえないですね。
本当に困った人ですよ。
いやぁ…。
これはこれは。
フフフフッ。
まさにそのもの。
一説にはこれを差し出された人が思わず「これはこれは」と言った。
それを面白がってそのまま銘にしたというふうにも言われてます。
あと半泥子は「芸術とは本来遊びである」という言葉を残されてますよね。
この言葉は…こういやぁしみるな…と。
できませんよまずやっぱりそこまで言い切れないし。
徹底した人だと思いますね。
徹底的に遊んだんじゃないでしょうか。
遊びという言葉も表面的な解釈だと浮ついた言葉になりますが徹底して遊ぶっていうのはそれはなんて言いましょうかある種…。
遊ぶという言葉は本来神のなす事だという言葉もありますけどまさにそういう境地に至った。
半泥子にとってはそういうスタンスでいくと人生そのものが一つの遊びだったのかなと。
偉大なるアマチュアといいますか生きる事そのものもアマチュアの精神を忘れなかった。
常に遊ぶといいますかまさに「半泥」ですよね。
「半ば泥みて半ば泥まず」。
でもそれも徹底した上でそこでどこか冷めた自分というものがいたというところで何か半泥子の生きざまみたいなものが生涯にわたってですね作品の中できちっと表れてきているという。
だから単なるものじゃなくてものを通して人が見えてくる半泥子その人に触れられる。
今でもその作品に触れると半泥子その人に会ってるような気持ちになるっていうところ。
これが他の茶碗と半泥子の一番の違い魅力なんじゃないかなというふうに思いますね。
今日は本当にありがとうございました。
ありがとうございました。
2015/02/08(日) 09:00〜09:45
NHKEテレ1大阪
日曜美術館「銀行頭取 陶芸を革新せり〜川喜田半泥子(かわきたはんでいし)〜」[字]
本業は銀行の頭取。アマチュアでありながら、近代陶芸の父とも呼ばれる川喜田半泥子。「芸術とは本来遊びである」という独自の哲学から生まれた傑作の数々と、生涯に迫る。
詳細情報
番組内容
あの北大路魯山人と並び称され、近代陶芸の父とも呼ばれる川喜田半泥子(かわきた・はんでいし/1878−1963)。三重の銀行の頭取を務めながら陶芸にのめりこみ、プロをもりょうがする名品の数々を残した。「芸術とは本来遊びである」という哲学から生まれた茶碗は、まさに自由奔放。指の跡が、雪原についた足跡のように見える模様や、まるで土の塊のような造形など。“偉大なる素人”の傑作を紹介し、創作の秘密をひも解く
出演者
【出演】茶道(武者小路千家若宗匠)…千宗屋,【司会】井浦新,伊東敏恵
ジャンル :
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
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