BS1スペシャル「憎しみとゆるし〜マニラ市街戦 その後〜」 2015.02.08


太平洋戦争の前に撮られた一枚の写真。
日本の着物を身にまとう若いフィリピン人夫婦。
この2人を戦争が引き裂きました。
(爆撃音)1945年2月。
フィリピンの首都マニラは日本とアメリカの激戦の場となりました。
マニラ市街戦。
戦闘に巻き込まれ逃げ惑う市民。
およそ10万人の市民が命を奪われたといわれています。
その一人が…3人の子どもと共に殺されたのです。
残された夫エルピディオ・キリノ。
3年後フィリピン共和国大統領となりました。
終戦後残虐行為などの疑いのある日本兵は戦犯として裁かれました。
キリノはその死刑執行のサインをする立場となったのです。
しかし終戦から8年キリノは全ての日本人戦犯に恩赦を与えます。
なぜ妻と子を殺されたキリノはゆるしを決断したのか。
そこにはどんな思いが込められていたのか。
憎しみとゆるしその間で葛藤した大統領。
そしてフィリピンの人々。
新たに発見された資料と証言からマニラ市街戦のその後を描きます。
人口166万のマニラ。
経済成長の活気がみなぎるフィリピンの首都です。
マニラの人々には今でも決して忘れ去る事のできない記憶があります。
毎年2月市街戦の体験者や遺族たちによって追悼式が行われています。
(拍手)かつて東洋の真珠といわれたマニラ。
69年前ここは焼け野原となりました。
(爆撃音)1942年から3年間日本が占領していたフィリピンにアメリカは19万の大軍で上陸。
首都マニラを目指します。
迎え撃つ日本軍は2万4,000人。
市民が暮らす家や建物に立て籠もり激しい抵抗を続けます。
当初アメリカ軍は市民の巻き添えを恐れていました。
しかし作戦を変更します。
アメリカ軍は市街地に向けしれつな砲撃を始めます。
市民たちは逃げ場を失いました。
戦場となったこのマニラで妻と3人の子どもを亡くした一人の市民がいました。
後に大統領となるエルピディオ・キリノです。
生前キリノがほとんど語る事のなかった市街戦での体験。
5年前その悲惨な様子を記した日記が親族によって発見されました。
日記はキリノの義理の妹アレリが記したものです。
日記にはキリノが決して忘れる事のなかったあの日が克明につづられていました。
キリノが暮らしていた地区はアメリカ軍の激しい砲撃にさらされます。
危険を感じたキリノは妻と子どもたちに防空壕のある親戚の家へ避難するよう命じます。
「赤ん坊のフエを抱き妻アリシアと子どもたちは家を出た。
道を渡っている時に日本兵が何か叫んだという。
何を言っているのか分からず皆先を急いだ。
すると日本兵の銃弾に妻アリシアと娘のノーマが倒れた。
赤ん坊のフエは母の腕の中で泣き続けていた。
もう2人を殺したあとで何も感じなくなっていたのだろう。
日本兵はフエの泣き声がやむまで銃剣で刺した」。
当時この通りに暮らしていた女性がその時の様子を目撃していました。
「家に残っていたキリノは数回銃声を聞いた。
恐怖が湧き上がった。
表通りを避け裏手から回った。
塀から通りをのぞいた時目にしたのは妻アリシアがフエを腕に抱えたまま息絶えその傍らで娘のノーマが死んでいる姿だった」。
廃虚と化した街には女性や子どものおびただしい数の遺体。
そして日本軍が最後まで立て籠もった要塞からは後ろ手に縛られた男性の遺体が発見されました。
そこで押収された日本軍の命令書。
「フィリピン人を殺すのは極力1か所にまとめ弾薬と労力を省くごとく処分せよ」。
少年だったロチャさんは地獄となったマニラで立ち尽くしました。
9月フィリピンの日本軍はアメリカに投降。
フィリピン戦が終了します。
捕虜となった日本兵のうち残虐行為などの疑いでおよそ200人が戦犯としてアメリカ軍に捕らわれます。
アメリカが行っていた戦犯裁判を引き継ぎフィリピン人自らが裁きを下す事になりました。
マニラ中心地にある学校の敷地に仮設の法廷が造られました。
フィリピン国軍による戦犯裁判が始まります。
アメリカ軍から持ち越された被告数は151人。
植民地から独立した新生国家による唯一の対日戦犯裁判でした。
裁判が始まって8か月後ロハス大統領が急死。
副大統領だったキリノが大統領に昇格します。
亡き妻に代わり生き残った娘のビクトリアが父親に寄り添います。
妻子を奪われたキリノは大統領として戦犯裁判に向き合う事になったのです。
まだ日本人に強い憎しみを抱いていました。
戦犯の死刑の執行には大統領のサインが不可欠です。
就任から3か月後キリノは保留になっていた死刑執行を認めます。
更に2人の死刑が執行されました。
大統領としての激務の合間にキリノが通っていた場所があります。
フィリピンは国民の9割がキリスト教を信仰しています。
キリノも毎週礼拝を欠かす事はありませんでした。
その後しばらくキリノは死刑の執行にサインをしませんでした。
戦犯とされた日本人たちはマニラ近郊にあるモンテンルパの刑務所に身柄を移送されます。
刑務所内の扱いは比較的よく菜園作りやスポーツもゆるされていました。
しかし1951年1月のある夜。
14人の死刑囚が突然刑務局長の面会との理由で呼び出されます。
死刑囚の一人だった宮本さんは彼らと同室でした。
しかし夜更けになっても誰も戻っては来ませんでした。
当時刑務所内のこの敷地にあった絞首台。
十三階段を上っていった彼らの最期は明け方になって伝えられました。
ルソン島南部で起きた抗日ゲリラの事件で起訴された宮本さん。
身に覚えはなく無実を訴えましたが死刑を宣告されていました。
2年以上署名してこなかった死刑執行のサインをなぜこの時キリノは行ったのか。
終戦から5年後フィリピンを取り巻く環境は大きく変化します。
東西冷戦の波は急速にアジアに広がっていきました。
冷戦はフィリピンの戦後復興に大きな影を落とします。
キリノは国土の荒廃と膨大な犠牲に対して日本政府に謝罪と賠償金を要求します。
アメリカは当初その要求を支持していました。
しかし朝鮮戦争勃発から半年後その政策を大きく転換します。
アメリカは戦略上朝鮮半島に近い日本を重視するようになっていました。
経済軍事の面でフィリピンよりも潜在力があると日本に価値を見いだしたのです。
キリノはこの方針転換に深い憤りを感じます。
日本に対し怒りと憎しみを抱くフィリピンの国民感情をキリノは気にかけていたと言います。
日本で帰りを待ちわびる戦犯の家族は突然の死刑執行の知らせに衝撃を受けます。
夫をモンテンルパに収容されていた森下フクさん。
新婚の頃召集された常夫さんとは10年間会えないままでした。
14人の一斉処刑は日本に大きな波紋を呼びます。
そして戦犯の家族たちは助命運動を全国へ広げていきます。
このころフィリピンから来日した議員がいました。
戦犯の家族たちは面会する機会を得ます。
その時家族の一人が日本軍の行為をわび尋ねました。
「私たちはフィリピンに対して何をすればいいのでしょう?」。
ベラノ議員は言い放ちます。
この言葉を聞き家族たちは心を動かされました。
戦犯の妻たちが中心となり貧しい暮らしの中布や材料を買い人形を作り始めたのです。
更にキリノ大統領へ手紙を送ります。
「キリノ大統領様まだ見ぬお父さんを礼子ちゃんに返して下さい」。
父親の出征中に生まれた礼子さんは級友たちと作文を書きます。
私たちができる事は大統領に手紙を書いて「早く返して下さい」って言う事とそして毎日祈る事しかないですものね。
行ける訳でもないし会えないし。
やがて人形制作の運動は日本人を動かし7万体の人形がフィリピンへ贈られました。
日本からの嘆願書や手紙は全てキリノのもとに届けられていました。
戦犯家族の思いを知ったベラノ議員は死刑囚の減刑をキリノに持ち掛けます。
このころ減刑の嘆願に来た日本人に対してキリノはこう言いました。
「あなたの気持ちはよく分かる。
できるだけの事はしよう」。
キリノの生まれ故郷フィリピン北部の街…妻アリシアと新婚時代を過ごした家があります。
ここに生前キリノが身近に置いていた品々が保管されています。
棚の中にあの人形を見つけました。
戦犯の家族たちが手作りした人形。
なぜキリノは憎むべき日本からの贈り物を大切に残していたのでしょうか。
その秘密を解く鍵が遺品の中にありました。
キリノの孫ルビーさんが見つけた一枚の写真。
それは日本の着物に身を包み楽しそうにほほ笑む若き日のキリノとアリシアでした。
もう一つキリノと日本を結び付けていた事がありました。
戦争中キリノはゲリラ活動に参加していると疑われサンチャゴ要塞に投獄されます。
ここは太平洋戦争中日本憲兵隊本部でした。
憲兵による厳しい取り調べと拷問で知られフィリピンの人々から死のろう獄と恐れられていました。
要塞に捕らわれていたキリノのもとに出産間近の妻アリシアが危険な状態だという知らせが入ります。
この時戦前から交流があった日本人憲兵が釈放を掛け合ってくれたのです。
日本人全てが憎い訳ではない。
そんな思いを抱きながらも深刻な戦災を負った国の大統領としてキリノには果たすべき責務がありました。
日本はサンフランシスコ講和条約に調印国際社会に復帰を果たします。
フィリピンも調印。
翌年賠償額を交渉するために日本から外交団がやって来ました。
この時フィリピンは80億ドルの賠償を要求。
しかし日本は経済破綻を招く巨額な賠償には応じられないと拒否します。
荒廃した国土を復興するためにも80億ドルの賠償を受け取る事はフィリピンにとって譲れないものでした。
そして戦争の賠償は怒りと痛みが消える事のない国民の願いでもありました。
日本からの死刑減刑の嘆願に対してフィリピン政府は方針を発表します。
モンテンルパにはこの時56人の死刑囚が収監されていました。
このころフィリピン人と日本人戦犯の間に不思議な交流が始まります。
キリスト教の洗礼を受ける日本人死刑囚。
当時洗礼を母親と共に手伝っていたビタ・ハマンドレさんです。
洗礼を受けた死刑囚代田銀太郎さんに寄り添うマリアリさんと娘のビタさん。
マリアリさんは戦中抗日活動のスパイ容疑で憲兵隊に逮捕されました。
そしてあのサンチャゴ要塞で厳しい取り調べを受けたのです。
憲兵だった代田さんはサンチャゴ要塞の尋問担当官の一人でした。
モンテンルパでマリアリさんと再会した代田さんは驚きを隠しませんでした。
「古き我は既に死んだ」。
「新しく生まれ変わった気分が湧いてくる」。
「マリアリ夫人より用紙を1リング受け取る。
感謝極まりなし」。
読んだり書いたりする事が慰めになっている戦犯たちにマリアリさんは本やノート紙などを頻繁に届けます。
マリアリさんたちが送ったペンと紙で一つの歌が作られました。
代田さんが作詞しほかの死刑囚が曲をつけたこの歌には戦犯たちの思いが込められていました。
キリノは交渉に当たる日本人たちとの面談に応じます。
マラカニアン宮殿を訪れたのは外務省の金山参事官と加賀尾教誨師。
2人はキリノへオルゴールを贈ります。

(オルゴール)それは戦犯たちが作ったあの曲でした。
キリノはつぶやきます。
「モンテンルパの死刑囚が作詞作曲しました。
家族が待っております」。
アルバムを閉じキリノはこう言います。
14人の死刑執行のあとキリノの心は揺れていました。
1953年キリノは11月の大統領選挙を控えていました。
対立候補は腹心であり息子のように目をかけていたマグサイサイ。
アメリカの支援を受け突如立候補してきたのです。
アメリカは意のままに動かなくなったキリノの退陣をねらっていたといわれています。
キリノは追い詰められていきます。
賠償問題アメリカとの確執いずれもが出口の見えない状況にありました。
そして重くのしかかる日本人戦犯への処遇。
恩赦を与えるべきか。
ゆるさざるべきか。
キリノは思い悩みます。
やがてその体はむしばまれていきました。
キリノは連日激しいおう吐と高熱に苦しめられるようになります。
胃の上部に潰瘍が見つかり6月には寝たきりとなります。
キリノを支えた家族たちも戦犯の恩赦に反対していました。
フィリピンと日本の関係をどうしていくべきなのか。
キリノは個人としてではなく大統領としてフィリピンの未来を見据えていました。
その思いを語る肉声が残されています。
しかし戦争が終わってから僅か8年。
フィリピンの人々の傷はまだ癒えていませんでした。
キリノ大統領は潰瘍の手術を受けるためアメリカへ飛び立ちます。
実はこの日マニラを離れる直前最高会議を開き重大な決定を下していました。
議会や国民の強い反対がある中での大統領の決断。
日本人戦犯に対し議会の承認を必要とする大赦ではなく大統領の権限で行える特赦を与える事にしたのです。
日本の刑務所で服役させる。
そして手術の2日前病室でラジオの録音に臨みフィリピンと日本の国民に向けて声明を発表します。
戦犯たちは思いがけない恩赦の知らせに驚きました。
108人を乗せた白山丸は7月22日横浜港大桟橋に到着。
終身有期刑だった人々は念願の我が家へ。
しかし56人の死刑囚たちは巣鴨プリズンへ移送されます。
死刑囚にまで帰国をゆるしたキリノの決断はフィリピンで強い反発を招きました。
アメリカから帰国したキリノは選挙戦の末マグサイサイに大敗。
残された大統領の任期は1か月余り。
キリノの決断への非難は続いていました。
キリノは政権内の反対を押し切り巣鴨に…「キリノ大統領の任期が切れる12月30日…」。
終戦から8年全ての戦犯が自由の身となりました。
申し訳ありませんいうぐらいですな。
頭地面につけておじぎしちゃう。
それから2年後エルピディオ・キリノは65年の生涯を閉じました。
市街戦で13人の家族と親族を殺されたロチャさん。
憎しみから解放される日など来ないと信じていました。
しかしずっと憎しみ続けていいのか。
ある時その葛藤が始まりました。
アメリカに留学するため日本に立ち寄った時の事です。
それはまだ空襲の跡が残る焼け野原の光景でした。
父親と兄を日本兵に殺されたピネダさん。
60歳になるまで結婚する事はできませんでした。
家族を再び失う事が怖かったのです。
苦しみの果てに今ようやくゆるしにたどりついたといいます。
日本とアメリカの戦争によって街を破壊され愛しい者を奪われたフィリピンの人々。
憎しみの連鎖を断ち切りたい。
ゆるす事ができなければ前には進めない。
マニラ市街戦から69年の歳月がたちました。
2015/02/08(日) 00:50〜01:40
NHK総合1・神戸
BS1スペシャル「憎しみとゆるし〜マニラ市街戦 その後〜」[字]

太平洋戦争で日米両軍が戦い、多数の市民が犠牲となったマニラ市街戦。戦後、憎しみの感情がフィリピン全土を覆う中、どのようにしてキリノ大統領は戦犯に恩赦を与えたのか

詳細情報
番組内容
1945年、廃虚と化したマニラの街で娘の遺体を抱きしめ立ち尽くす男がいた。のちにフィリピン大統領となるキリノ。日米両軍が戦ったマニラ市街戦で妻と3人の子を失い、日本軍を激しく憎む。しかし8年後、キリノは大きな決断をする。憎しみからゆるしへ。反対を押し切って、日本人BC級戦犯全員に恩赦を与える。なぜ大統領は決断したのか?遺族やマニラ市街戦の生存者の貴重な証言を積み重ねて、その真相を描く。
出演者
【語り】萩原聖人

ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 歴史・紀行
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ニュース/報道 – 特集・ドキュメント

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