団塊スタイル「“神田川”にこめた青春〜南こうせつ〜」 2015.02.06


(「神田川」)南こうせつ率いる「かぐや姫」の「神田川」が流れた昭和48年あなたはどこでどんな青春を送っていたのでしょうか?神田川は東京都三鷹市の井の頭池から東へ流れ隅田川と合流する一級河川。
でも大都会の学生向けの下宿や安アパートが建ち並んでいたその下をひっそりと流れる風景がどこか切ないそれぞれの青春と重なっていたのです。
南こうせつにとってもミュージシャンとしての地位を決定づけた青春を象徴する一曲でした。
それはあれほど激しかった学生運動が終わったあとの青春あるいは青春の終わりを告げる歌だったのかもしれません。
「神田川」ヒットの2年後南こうせつは人気絶頂だった「かぐや姫」を解散。
なぜかその後十数年もの間「神田川」を自ら進んで歌おうとはしませんでした。
やがてフォークの時代が終わりコンサートから目に見えて客が減っていったつらい時代。
心を癒やしてくれた田舎暮らし。
そこではどんな時間が流れていたのでしょうか?皆さん元気ですか?そして今コンサートに詰めかける団塊の世代の聴衆。
そして待ち望んでいた「神田川」。
南こうせつと涙を流して聴く人たちとの間にはどんな思いが響き合っているのでしょうか?今日は南こうせつさんの人生とその魅力に迫る「D’sスタイル」オンステージ。
若かったあの頃は何も怖くなかった。
怖くなかったってホントにね。
よく歌いましたね。
「神田川」って聞くともうすぐあのメロディーが流れてきますもんね自然に。
いろんな場面が思い出されますね。
そうなんですよ。
自分の思い出も一緒になってね。
何か切なくて優しくて痛くて。
団塊世代にとっての青春の一曲。
そうなんですよね。
その南こうせつさんに来て頂いております。
よろしくお願いします。
どうもよろしくお願い致します。
もう40年以上たちました。
そうですかね。
そんなにたちました?ですねたちました。
その40年は長かったですか?歌からこれまで。
う〜ん両方ですね。
短い…あっという間に来たというのと何か自分の自身の生活をこう振り返ってみるとああそういえば子供が大きくなってみんなおうち出ていったとかいうと随分時たったんだなと思いますよね。
やっぱり老いた感じが全然しませんね。
いやいやいや。
全然ないですね。
いやいやいや同級生。
そうなんですよね。
私は昭和24年の2月7日で南さん2月13日。
私がちょっと先輩なんですよ。
1週間先輩なんです。
何だ南。
今日はねテレビを見ている我々同世代の人たちと一緒にですねこの南さんの青春時代を振り返りながら我々の青春時代も一緒に振り返って頂きたいと思います。
南さんのふるさとは大分市竹中地区。
のどかな美しい自然に囲まれて少年時代を過ごしました。
南さんの実家は「勝光寺」という鎌倉時代から代々続く禅宗のお寺です。
南さんは昭和24年父大道さんと母チヱさんの間に4人兄弟の末っ子として生まれました。
音楽に目覚めたのは小学6年の時。
ラジオから流れてきたのはエルヴィス・プレスリーの歌声でした。
念願のギターを手に入れた高校時代フォークグループを結成します。
名前は…メンバーには高校の後輩で後に「かぐや姫」の一員になる伊勢正三さんもいました。
1968年南さんは大学進学とともに憧れの東京での生活をスタートさせます。
夢は日本の新しい音楽を作る事。
大学当局は一体何をしたのか?その頃全国の大学では学生の自治やベトナム反戦を求めて学生運動が激しく燃え上がっていました。
フォークソングもメッセージ性の強いアングラ・フォークが若者たちから支持されていました。
しかし南さんは学生運動にのめり込む事はありませんでした。
アルバイトに明け暮れる毎日を過ごしながらも音楽活動を続けていました。
学生運動を。
学生運動見てましたよ。
いつもデモが通るのをビルの上から「あ〜やってるやってる」って見てましたよ。
大学ほとんど授業がなかったりしてましたからね。
デモには参加された事はないですか?ありますね。
渋谷で機動隊に殴られましたね。
そうですか。
もう眼鏡吹っ飛びました。
え〜。
ヘルメットはかぶってなかった?なかったですね。
じゃあ国井さんは?ヘルメットかぶった事ありますよ。
あらあらら。
大学行けばみんな議論ばっかしてましたね。
そうですよ。
何だか分からないんだけれどもあそこでみんながわあ〜って世の中を変えようとしてる何というかムードっていったのはすごい受けましたね。
影響受けましたね。
南さんどうですか例えば「あの時代は何をしてました?」って言われると何となくこう…。
そうですよね。
全て「私はこうしてました」っていうね言い切れないものがあるんですよね。
ありますね。
当時こうせつさんは何を思ってそう生きてらしたんでしょうね。
僕はだから音楽が大好きでフォークソングもその前は割合ラブソング「バラが咲いた」とかそういう歌多かったんですね。
きれいにハモってる。
途中からやっぱり先ほど出てました岡林信康さんの・「私たちの望むものは生きる苦しみではなく私たちの望むものは生きる喜びなのだ」。
お〜かっこいいかっこいい。
かっこいいんだ本当に。
そしたら今度は拓郎さんが・「わたしは今日まで生きてみました」もう今までの歌とは全然違う。
かっこいいなって。
いいんだって。
自分を歌って主張して。
それが歌なんだ。
これだよね。
歌はこれだよねっていう。
そういった事をすごいいろいろキャッチしてる時期でしたね。
だから自分で歌いながら同級生とか地域の学生たちを集めてコンサートを主催したりチケットを作ったりポスターを作ったりして豊島公会堂でコンサートをやったりとかしてましたね。
赤字になるとみんなでアルバイトして。
赤字になる訳だ。
大変でした。
みんな僕の4畳半の下宿に集まってきて土日になると誰かが仕送り届く訳ですね。
それにたかってみんなでおいしいもの食べてお酒飲んでそれで夢を語る訳ですよね。
次の日からもうお金がない訳ですからね。
そうなんだよなお金がない時。
ないからパチンコに誰か行かせて「絶対勝ってこい」と言ったら必ず勝つやつがいて。
いるんだよな。
一発一発が大事なんですよ。
今みたいに自動じゃないですから。
もう一発一発に命を懸けて。
そしたら景品でインスタントラーメンとかいっぱい取ってくるんですよね。
音楽の道へ行く事だけはしっかりこう…。
そうですね。
でも試してみたいというのはありましたね。
自分の実力がどれくらいあるんだろうというのを試してみたいってのはありましたね。
次は名曲「神田川」が生まれるまでを見ていきたいと思います。
1970年日本の繁栄を世界にアピールした大阪万博。
70年代を迎えると学生運動も急速に沈静化していきました。
そして1971年南さん22歳の時高校の後輩伊勢正三4歳年上のベーシスト山田パンダと「かぐや姫」を結成。
名曲「神田川」が生まれたのはそれから2年後の1973年。
テレビでは森昌子桜田淳子山口百恵の中三トリオが話題になり第一次オイルショックで日本列島が大混乱に陥った年でした。
この年南さんはラジオの深夜放送のパーソナリティーに起用されます。
「かぐや姫」は順調に人気を集め3枚目のアルバムを作る事になりました。
南さんは坂本九なら「上を向いて歩こう」加山雄三なら「君といつまでも」というような本当の意味での代表作を世に出したいと考えていたのです。
そんな思いの中でリリースされた3枚目のアルバム。
全部で11曲。
いずれもメンバーの誰かが作詞作曲を担当しました。
しかし「神田川」だけは作詞に喜多條忠の名前があります。
当時放送作家だった喜多條さんと南さんが初めて出会ったのはラジオ局の一室でした。
南さんは喜多條さんの才能を見込んで3枚目のアルバムのために1曲だけ作詞の依頼をしたのです。
若者たちが夢中だったラジオの深夜放送。
各局の番組には「神田川」へのリクエストが殺到します。
そして有線を始め全てのラジオ局の番組で1位を獲得するという前代未聞の事態が起こりました。
満を持して発表されたシングル盤は160万枚の大ヒット。
実はこの頃南さんは同じアパートに住んでいた後に妻となる女性と知り合い同棲生活を始めていました。
神田川とそれぞれの青春。
同じ時代を生きていた人たちはどんな思いで聞いていたのでしょうか?この歌を作詞した時喜多條さんは既に26歳。
結婚もしていました。
学生時代学園紛争が燃え盛っていた頃ある女性と同棲生活をしていた情景を書いたのでした。
幸せな彼女とのこの世界このままで終わっていいんだろうかというそこが怖かったんでね喜多條さんはね。
それでいいのかという。
でも電話で歌詞を聞いて書き取ってその場ですぐメロディーに。
それは本当の話ですね。
僕も電話で書き取る訳ですから。
僕もなぜかスーパーの後ろに書き留めてましたね。
チラシの裏。
電話で言う訳でしょ「貴方はもう忘れたかしら」って。
僕は「貴方はもう忘れたかしら」。
でも共有できたからすぐメロディーにもなったという事ですよね。
だと思いますね。
喜多條さんの詞をそのまんまふっと自分がその世界に入れた訳ですね。
鳥肌ですね。
ホントにこの音楽曲が出来上がる状況というのが。
そうですよねその運命の流れってすごいですよね。
初めて会った人に対してね失礼な。
「詞を書いて下さい」って言っちゃう訳ですから。
何らまだ1個も詞を書いた実績のない人に対して詞を書いてくれって。
奇跡的ですね。
…としか思えないですよね。
2人で近くの喫茶店に行って「何か今本当に時代の変わり目だよね。
こんな時に何か希望の持てるでかい事を僕らできたらいいよね」って何のビジョンもなしにそういった心意気はその時に話したような気が致しますね。
ところでもう少し私生活的な事を伺いたいと思うんですけども当時喜多條さんもそうですが同棲。
はい経験しましたね。
実はですね奥様の南育代さんから当時南さんのどこにほれたのか手紙を頂いてます。
頂いてます。
いいですか。
怖いな。
…ですって。
あ〜そっか。
良かった。
南さんの方が誘いに?出会いはアパートのゴミの収集場があるんです。
そこで立ち話からそういう事になったんですけど。
それで同棲生活が始まるんですか。
そうですね。
しばらくしたらやっぱり妹さんから「もう両親に言いつける」とかいう話になってそれでまあ…。
「こうせつさんいい加減にしなさい。
うちのお姉ちゃんをどうするつもりなの?」ってね。
それで2人で逃げていくんですよね。
そのアパートから違う所に引っ越してそこへ引っ越しの荷物を入れてやれやれ。
そこへうちの奥さんのお父さんから電話があって何か叱られてるみたいなんですよ。
「代わってって言ってるから」って言って。
で初めて「南こうせつです」って。
すごい冷静で。
「うちの娘を返してくれ」と。
「いや返してくれって私は拉致した訳じゃない」と。
「お互い話し合いの末でここへ至ったんだ」と。
「責任は50%50%あります」と。
ただお父様が「今日は返してくれ」って言うから「分かりました」って置いて「悪いんだけどお父さんと約束した今日は帰ってくれ」って。
で前のアパートに帰って。
しばらくしたらまた一緒になるんですけれども。
そのあとおばあちゃんが…私の妻のおばあちゃんが高齢で「花嫁姿を見たい」。
ずっと結婚式とかやらないというのを「見たい」ってひと言でじゃあそのおばあちゃんが住んでる実家で結婚式を挙げようって。
良かったですねそれで。
いろいろとありましたね。
そんな南さんと「かぐや姫」に大きな転機が訪れます。
「神田川」を皮切りに南こうせつと喜多條忠のコンビが繰り出した曲は次々とヒットを重ねました。
しかし一方で社会的メッセージのないその極めて小さな叙情的な世界観がフォークを堕落させたと痛烈な批判を浴びました。
それでも「かぐや姫」は時代の寵児となっていきました。
ところが自分たちの知らない所で映画化が決まり新曲の売り方まで決められてしまう。
いつの間にか「かぐや姫」が自分たちの手を離れてしまった事に気付いた南さんは悩んだ末「神田川」から2年後の1975年人気絶頂の「かぐや姫」の解散を決めたのです。
そして「かぐや姫」最後のコンサート。
・「貴方は…」・「貴方が書いた私の似顔絵」この時南さん26歳。
ソロミュージシャンとしての新たな旅立ちでした。
1980年代に入ると若者の好む音楽も変わってきます。
耳に心地よいニューミュージックや…。
テクノミュージック。
ディスコではビートの利いたダンスミュージック。
フォークソングはすっかり影を潜めてしまいます。
南さんも逆境の波にのみ込まれました。
コンサートから目に見えて客が減っていったのです。
それでもあの代表曲「神田川」を決して自ら進んで歌おうとはしませんでした。
その気持ちをこう語っています。
何とか自分の歌を時代にフィットさせようとロックを取り入れてみたり…。
コンピューターを使ったテクノ調のアレンジや…。
レゲエも。
試行錯誤を重ねたもののかつてのようなヒット曲にはつながりませんでした。
しょうやんがそんな事言ってた。
ありがとう。
尊敬に値する。
でもねやっぱり1回わ〜ってどこ行ってもいっぱいになってくれるお客さんが目の前で少なくなってくるんですね。
半分くらいになってう〜ん…。
そうすると闘志が沸くんです。
来年はいっぱいにしてやる。
来年見ておれ。
来年行くんです次の年にね。
そうすると絶対いっぱいだろうと思うとまた半分になって更に。
それを繰り返してどんどんどんどん減ってくるんですね。
嫌なもんですよね。
本当に主催者から「今日はチケット売れてない」というと主催者の人が赤字になった事に対して申し訳ないという気持ちとステージの真ん中に僕が出ていくんですけどもそれは自分が一身に受けないといけないんですね。
ギターを持って。
マネージャーも代役できないし。
分かった事は「かぐや姫」がまだこれからという時ステージにポッと立ちましたら20人ぐらいの客だったんですけどもあれ?と思って。
「皆さんこんばんは。
かぐや姫です」って最初にメンバーを「メンバー紹介します」って我々メンバーを紹介したんですよ。
「皆さんもちょっとそちらから住所と名前だけお願いします」と。
したら一番端の「何とか町から来た何とか」「隣の方」なんて。
それはね本当に楽しかった。
なるほど。
すてき。
参加型の。
すごいみんな立ち上がって一緒に歌ってくれて。
めげてはいけない。
どんな事でもめげてはいけない。
独立されてからもだんだん減ってもめげはしなかった?めげてはいけない。
もう嫌ですけど胃が痛いけど。
でもそこでそれはそれなりに楽しむ。
何人でも楽しむ。
だって歌が大好きなんだから。
歌える事が喜びなんだから。
なかなかヒット曲が出ない時期の南さんを取材した貴重な映像がNHKに残っております。
ご覧下さい。
大分県北東部にある国東半島。
1982年33歳の時南さんはこの自然豊かな土地に家族とともに移り住みました。
南さん35歳の時の映像。
みかん畑だった土地を自らの手で開墾しました。
ヒットが出なくなって客が減っても曲を作りコンサート活動を続けた南さんがここで過ごすのは月のうち10日ほど。
それでもここには心地よい時間が流れていました。
それから30年の時を経て去年9月に行われたコンサート。
皆さん元気ですか〜?南こうせつで〜す。
サマーピクニック始まりま〜す!歌い続けてきた南さんの元に2万3,000人の聴衆が駆けつけました。
そのほとんどが団塊の世代の人たちです。
・「あの日の空よあの日の夢よ」このステージには南さんの呼びかけで名だたるミュージシャンが集まりました。
・「今春が来て君はきれいになった」・「戦争が終わって僕らは生まれた」そして…。
元気ですか?「神田川」。
さだまさしさんとの共演です。
「かぐや姫」解散から十数年間自分から進んで歌おうとしなかった「神田川」を再び歌うようになったのは40歳を過ぎてから。
それ以来南さんはこの歌を同世代の人たちに向けて思いを込めて歌っていると言います。
その思いをストレートに表現した新曲「緑の旅人」。
「僕達は向かい風に立つ緑の旅人」。
この言葉には自然の大切さと同世代の人たちを鼓舞する熱い思いが込められています。
そうだこれからは緑の旅人。
あの向かい風に立たないとダメなんだ。
向かい風というのは常に挑戦者…であるという事はある種の夢をいつも抱いて生きるという事ですね。
同世代に向けた歌ですよね。
そうですね。
その「向かい風に」というのはある意味では我々ずっとそういうようなところで。
そう生まれた時からね。
何か向かい風でしたよね。
人数が多くて。
なおかつもう65を超えても向かい風に立って進めって。
年を取ってもこの年は体験したのは初めてな訳ですから。
そうですよね全員がね。
これからですよね。
何が起こるのか。
いやそうじゃなくて立ち向かおうですよね。
死ぬ時は死ぬから何も心配しなくていい。
その先はほら星の原野夕日の原野というのもいいよね。
星の荒野でね荒野を目指していく。
その荒野一歩ポンと跳んだら向こうに行ける。
危ない。
それくらい強い。
それでいい。
それでいいのいいの。
全部受け入れて強く。
星の荒野をポンと越えて。
わあすてき。
「神田川」を封印から解いて積極的に歌おうと思うようになったのはどういう?神様が僕に与えてくれたこんなすてきな歌を大勢の人がその歌でこんなにいい思い出があってそして生きようとしてる。
これは歌わないといけない。
それで40から本当にずっと今日に至るまで必ず「神田川」を歌うようにしてます。
10年ちょっと前だったかな。
1コーラス終わってふっと客席の方見たらちょうど突き当たりの通路側の所に4人同世代の男性が男ばっかりスーツ着て見に来てて。
間奏のとこぱっと見たら1人が眼鏡取ってハンカチでこうやってるの見てあ〜もらい泣きしそうと思ってわっと目を離したら隣の人がまた泣いて。
男性が4人「神田川」で泣いてるの見た時にいやぐっときましたね。
うれしいですよね。
優しい歌で良かったと思います。
やっぱり優しい歌というのは逆に言うとすごく強いんですね。
しなるからポキンと折れない。
今回取材に協力頂きました作詞家の喜多條忠さん。
そして元「かぐや姫」のメンバーの伊勢正三さんに南さんにメッセージをもらってます。
頼んでおりまして是非ご覧下さい。
ドキドキする。
いや〜しょうやんのひと言は説得力ありますね。
しょうやんがああ言うとああなっちゃうんですいつも。
という事は?しょうやんすごい言霊の力持ってるから「また2人でやってみよう」って。
「どっちが作詞どっちが作曲じゃなしに」という。
いや〜説得力ありますね。
それから喜多條さんもね。
何か喜多條さん僕が死んだ時の悼辞みたいな感じの…悼辞じゃない何て言うんだっけ。
ありがとう。
うれしいですね。
僕も喜多條さんあなたのあの詞をスーパーのチラシの裏に「神田川」を書かなかったら今はなかったからね。
ありがとう。
もう一つ。
何だろう。
…って分かりますよね?このメッセージ奥様からの。
あそうなの?…うれしい。
音楽を続けて下さい。
そっか。
ありがとうございます。
それではね皆さんにお待たせしました南さんの「神田川」を歌って頂きましょう。

(拍手)今日は何のお茶ですか?今日のお茶は陳年老茶です。
台湾の良質のウーロン茶を10年以上にわたって寝かせて熟成させたものなんですが。
「老茶」って言うんだ。
このお茶実は1979年に製茶されたものなんです。
何と35歳の…。
え〜。
老茶さんなんですね。
いや〜香りはいいですね。
いい香りしますよね。
もう甘くて。
まろやかなんでしょうかね。
そうですね。
長い時間熟成されたというかそういう感じがしますね。
後味も何かこう苦さが甘みに変わってね。
風吹さん今日は南こうせつさんをお呼びして。
あのこうせつさんってずっと先端を行ってらしてた方なんだなってある意味ね。
今やっぱりみんな自然に帰ろうとしてるじゃないですか。
でもそれを30歳頃からもう実行していらっしゃる訳でしょう。
お手本ですね。
すばらしい。
国井さんは?そうですね。
今日驚いたのは「そろそろいいかな」っていうようなねそういうように後ろ向きではなくてこれからが大事な時期なんだなという事を…。
いや〜いいお話でしたよね。
まだ「神田川」が耳に残ってるな。
う〜んそうなんですよね。
2015/02/06(金) 11:00〜11:45
NHKEテレ1大阪
団塊スタイル「“神田川”にこめた青春〜南こうせつ〜」[解][字][再]

今回は南こうせつ。団塊世代にとって青春の1曲「神田川」。南にとっても、この歌を巡って、栄光と挫折、様々な人生の曲折が重なる。この歌に込められた想いと人生に迫る。

詳細情報
番組内容
今回は南こうせつに迫る。「神田川」が大ヒットしたのは昭和48年。団塊世代にとって青春の1曲であり、南にとっても決定的な歌だった。しかしこの歌のヒットがきっかけで、「かぐや姫」の解散にも繋がった。フォークの時代が去ると客も激減。「神田川」も十数年間、歌おうとはしなかった。しかし今、南のコンサートに団塊世代の聴衆が詰め掛け、南は必ず「神田川」を歌う。この歌に込められた想い、その人生、素顔の魅力に迫る。
出演者
【ゲスト】南こうせつ,【VTR出演】伊勢正三,喜多條忠,【司会】風吹ジュン,国井雅比古,【語り】秀島史香

ジャンル :
情報/ワイドショー – 暮らし・住まい

映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
日本語
サンプリングレート : 48kHz
2/0モード(ステレオ)
日本語(解説)
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